第33話アンナと「理性だけではダメな理由」
夏休みも終わりに近づいた8月の昼下がり、王立学院の石畳の廊下を急ぎ足で歩いていた俺は、角を曲がったところで誰かとぶつかった。
「あっ!」
突然の衝撃に、相手は床に倒れ込む。俺もよろめいたが、なんとか踏みとどまった。
「大丈夫?」
手を差し伸べながら尋ねると、床に座り込んだ少女が顔を上げた。
金褐色のセミロングの髪が日差しを受けて輝き、澄んだ緑色の瞳が俺をまっすぐに見つめている。この世界の人にしては珍しく日に焼けた健康的な肌をしていた。明るい色の上着には、胸と肩に赤青の花の刺繍が施されている。スカートは落ち着いた茶色で、裾には同じ赤と青の花模様が控えめに配されていた。
「大丈夫、大丈夫。私が悪かったわ」
少女は俺の手を取って立ち上がると、服の埃を払いながら笑った。その笑顔は太陽のように明るく、周囲の空気まで一瞬で温かくなったように感じる。彼女の肩にかけられた革製のバッグからは、スケッチブックらしきものが覗いていた。
「あなた、あの衛兵だよね、雷の剣の使い手!」
少女は俺を指さしながら言った。その口調はこの国では珍しい親しげな感じで、まるで古くからの友人に話しかけるような気さくさがあった。
「何で知ってるの?」
俺が驚いて尋ねると、少女は誇らしげに胸を張った。
「この学院を見学に来たときに、たまたま見たのよ。あなたの雷の剣、本当にすごかった!まるで神話の英雄みたい!」
少女の緑の瞳は好奇心と興奮で輝いていた。その素直な称賛に少し照れくさくなる。
「私はジョアンナ・フォン・ゲーテル。みんなアンナって呼んでるよ」
少女は自己紹介すると、自然な仕草で手を差し出してきた。気さくな態度に、俺は少し戸惑いながらも手を差し出した。
「俺はテル」
「よろしく、テル!あら、私もゲーテル、って名前だから、なんだか縁を感じるわ!」
アンナは力強く俺の手を握った。その手は温かく、安心感を与えてくれる。
「私、秋からここに入学するの。この学院のこと、いろいろ教えてくれない?」
アンナの声には期待と好奇心が溢れていた。
「いいけど、俺はただの衛兵だからあんまり詳しくないかも」
そう言いながらも、俺はアンナを連れて、学院内を案内することにした。校内を巡りながら、彼女は次々と質問を投げかけてきた。
「どうしてここでは、そんなに理性を重んじるの?感情を抑えるなんて、人間らしくないと思わない?」
「宗教戦争があったからだよ。感情や宗教の対立が戦争を招いたから、理性的な判断で世界を見ようという考え方が広まった…らしい」
俺が簡単に説明すると、彼女の表情には子供のような素直な反発が浮かんだ。
「理性だけでは足りないわ」
アンナは立ち止まり、窓の外を見つめながら言った。日差しが彼女の横顔を照らす。
「感情や情熱は、ただの邪魔者じゃないと思うわ。むしろ、本当の創造はそこから生まれるんだから。音楽も、絵画も、詩も、全ては魂の叫びから生まれるのよ」
アンナの言葉には熱がこもっていた。彼女の緑の瞳が燃えるように輝き、金褐色の髪が感情の高まりと共に揺れる。その姿は、この理性の国の生徒たちとは明らかに違っていた。
「君はどこから来たの?」
「シルバーマイン。ヘルメニカで一番大きな街よ。芸術の都って呼ばれてるの」
アンナは誇らしげに答えた。ヘルメニカ——南の国だ。確かにフィロソフィアとは気候も文化も違うはずだ。彼女の日焼けした肌や自由な服装は、そんな環境で育った証なのだろう。
「言葉は?どうして、こんなに流暢に話せるの?」
「フィロソフィア、エンポリア、ヘルメニカの言葉はだいたい同じなの。方言みたいなものよ。それに、私には言語の才能があるの」
彼女は軽く肩をすくめた。その仕草には、旅慣れた大人のような余裕があった。
学院の庭を通りながら、アンナは時折足を止めては、小さな革のスケッチブックを取り出して何かを描き留めていた。その手つきは魔法使いのように素早く、まるで浮かんだインスピレーションを逃すまいとするかのようだった。
「何を描いてるの?」
「残したいものは何でも」
アンナは微笑みながら答えた。その笑顔は花が咲くように自然で魅力的だ。
「美しさには形があるから。それを見つけて留めておくの。ほら、見て」
スケッチブックを開くと、学院の尖塔、庭園の噴水、そして日差しに照らされた石畳の美しい陰影が驚くほど鮮やかに描かれていた。絵からは不思議な生命力が感じられ、まるで描かれたものが今にも動き出しそうな錯覚すら覚える。
「すごい…これ、一瞬で描いたの?」
「瞬間を捉えるのが私の特技なの。美しいものは、ただそこにあるだけじゃなくて、輝く瞬間があるのよ」
彼女の説明には詩が宿っているようだった。ヘルメニカの人は皆、こんな風に話すのだろうか。
午後の時間はあっという間に過ぎ、夕暮れが校舎の窓を橙色に染め始めた頃、俺たちは校門の前に立っていた。
「それじゃあね」
「そうね」
別れの言葉を口にしたはずが、アンナは俺の横を歩き続けている。アンナはこの国の少女たちよりも身体距離が近い。ルーシーとはまた違うバラの香りがかすかに漂う。彼女の髪が夕日に照らされて、まるで炎のように輝いていた。
「あれ? どこに住んでるの?」
「学院の寮だよ。まだ荷物は少ないけど、今日から住むの」
アンナは当然のように答えた。声には新しい生活に対する期待が溢れている。
「寮は川の向こう側だけど」
「知ってるよ」
彼女は微笑んだが、それでも俺の横から離れようとしない。その笑顔には何か魔法のような魅力があり、思わず引き込まれる。
「???」
俺の混乱を見て取ったのか、アンナは突然言い出した。
「ねえ、一緒にご飯食べようよ!新しい街で一人で食べるのは寂しいもの」
わざわざ断る理由もない。
「いいよ。食堂なら1階にあるから」
仕方なく俺は彼女を部屋の1階にある食堂に案内した。いつものようなパンと紅茶、果物が出された質素な食事だったが、アンナは好奇心旺盛に食べていた。彼女の食べ方には優雅さと同時に、子供のような素直な喜びがあった。
「悪くないけど、私の国にはもっと美味しいものが山ほどあるよ」
彼女は一口パンをかじりながら言った。その緑の瞳には故郷を思う郷愁の色が浮かんでいた。
「ヘルメニカの料理はどんなの?」
「香辛料がたくさん使われているの。魚も美味しい!ここみたいに淡白じゃないわ。味も色も強くて情熱的!人生と同じように」
アンナの言葉には誇りが込められていた。彼女の手が感情的に踊るように動き、その仕草には豊かな表現力があった。話すたびに表情が変化する様子は見ていて飽きなかった。
食事を終え、俺は立ち上がった。
「じゃあ、また明日」
アンナも立ち上がったが、どこかに行く様子はなかった。まるで何かを期待しているように立ち尽くしていた。ランプの光が彼女の髪を柔らかく照らしている。
「テルの家は?」
アンナが俺を見る。その瞳には純粋な好奇心が輝いていた。
「この上だけど」
俺が答えると、彼女の顔が明るくなった。笑顔が花のように開く。
「見せて!どんな部屋に住んでるのか、すごく興味あるの!」
「いや、それはちょっと」
俺はとまどった。部屋はエマとの共有スペースだし、何より部屋に今日知り合ったばかりの女性を連れていくのは良くないだろう。
「なんでダメなの?」
アンナは首を傾げた。その仕草が妙に愛らしい。
「魔王でも住んでるの?」
その言葉に、俺は思わず反応してしまった。この理性の国で、「魔王」という言葉は普通使われないはずだ。アンナは俺の反応を見て、小さな微笑みを浮かべた。
「魔王って...そういう概念、君の国では許されるの?ここでは空想上の存在は否定されてるんだけど」
「許されるも何も。人が想像するのは自由でしょ?」
アンナは声に力を込めた。
「ヘルメニカでは、物語は魂の糧なの。病気の息子を魔王から守ろうとする父の物語とか、魔法使いの弟子が洪水を起こす話とか…想像力は人間の最も貴重な宝よ」
アンナの話を聞いていると、どこか懐かしさを覚えた。まるで、俺の元の世界の話を聞いているような不思議な感覚だった。
その後、俺とアンナは魔王や魔法について長い立ち話をした。アンナの想像力は豊かで、彼女の話す物語の世界には不思議な魅力があった。学者と悪魔が契約を結ぶ話、婚約者の居る女性に恋をした若者の悩み、商人の息子が劇団員になる話…。彼女の語る姿は、まるで物語の登場人物のようだった。
「それで、部屋、見せてくれるの?」
彼女の瞳が期待に満ちて輝いているのを見て、俺は心が揺らいだ。その目を見ていると、むげに拒めない気がした。
「まあ、ちょっと見るだけならいいか」
俺の前で階段を上る彼女の背中からは、自由と創造性の風が吹いているようだった。金褐色の髪が揺れるたび、この理性の国には存在しない、何か新しい力を感じさせる。そして、どこか元の世界を思い出させるような懐かしさがあった。
部屋の前に到着し、俺がドアを開けると——
そこにはエマの姿があった。夏休みの帰省から戻ったのだ。銀色の髪をきちんと整え、青い瞳が俺を見つめる。しかし、その瞳が俺の後ろのアンナに気づいた瞬間、表情が一変した。顔が引きつり、瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
「テル...?」
エマの声には、いつもの冷静さではなく、明らかな動揺が含まれていた。普段なら感情を抑える彼女の、珍しい表情に俺も少し驚いた。
一方、アンナはエマを見て首を傾げた。緑の瞳に好奇心の光が宿り、素直な疑問を口にした。
「誰?」
エマは一瞬言葉に詰まり、小さく息を呑んだ。銀色の髪がわずかに揺れる。
部屋の中には、なんとも言えない緊張感が流れていた。海で育った太陽のような少女と、星の光のような少女。二つの全く異なる世界が出会ったようだった。
「私はエマンエラ・カンテ。あなたは?」
エマの声は静かだったが、その瞳は何かを見抜こうとするように鋭くなっていた。銀色の髪が肩に流れる。
「アンナ!本当は、ジョアンナ・フォン・ゲーテルだけど、アンナって呼んで」
彼女は明るく自己紹介すると、エマに向かって手を差し出した。金褐色の髪が動きに合わせて揺れ、緑の瞳には飾り気のない友好の色が宿っていた。
エマは少しとまどったが、やがて小さく息をついて、アンナの手を取った。銀色と金褐色、青と緑。二人の少女の間で、俺はどうしていいか分からず立っていた。




