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第30話:ミルと「親ガチャ」

夏の日差しが眩しく輝く午後、王立学院の生徒会室は不思議な静けさに包まれていた。廊下からは誰の足音も聞こえず、普段は活気にあふれるこの場所も夏休みのせいで閑散としている。


そんな中、俺が生徒会室のドアを開けると、意外な人物の姿があった。


「ミル?」


俺が驚いた声を上げると、小柄な少女が分厚い本から顔を上げた。栗色のボブカットが肩で優雅に揺れ、青灰色の大きな瞳が書物から離れる。日差しを受けて彼女の髪が琥珀色に輝いていた。


「あれ、実家に帰ってるんじゃないの?」


俺が尋ねると、ミルは本を丁寧に閉じて椅子に座り直した。小柄な体を起こし、制服のスカートの皺を伸ばしながら、少し疲れたような表情で答える。


「帰ったんだけど、ちょっと息苦しくて…」


「肺の病気? だいじょぶ?」


俺が心配そうに近づくと、ミルは小さく首を振った。その仕草は小鳥のように軽やかで、栗色の髪が頬をかすめた。


「そういう意味じゃなくて、家族との関係がね」


ミルはそれ以上は語らず、テーブルに置かれた本に視線を落とした。彼女の小さな指先が本の表紙を無意識になぞっている。


俺は彼女の前に座り、少し考えてから口を開いた。


「そういえば、ミルのお父さんは何をしている人なの?」


「学者だよ。割と有名な」


ミルは少し表情を明るくして答えた。彼女の青灰色の瞳には誇らしさが浮かぶ。


「納得だね。ミルが賢いのはお父さんの遺伝なんだね」


その言葉を聞いた瞬間、ミルの表情が一変した。栗色の前髪が風に揺れるように動き、その下からのぞく瞳に鋭い光が宿る。


「遺伝じゃない。努力だよ。小さいころからたくさん勉強してきたから」


ミルの声には珍しい怒りの色が混じっていた。テーブルに置かれた小さな手が握られ、指先が白くなるほど力が入っている。


「悪かった」


俺は慌てて謝り、話題を変えることにした。


「ミルは子ども時代、どんな子だったの?」


ミルは不思議そうな顔で首を傾げた。


「子ども時代って何?」


その質問に俺はあっけにとられた。彼女の真剣な表情に、冗談を言っているわけではないことが伝わってくる。


「3歳から外国語を始めて、今日まで、ずっと一日中勉強してる。子ども時代なんてないよ」


ミルはさらりと言い切った。その表情に緩みはなく、まるで当然のことを述べているかのようだった。


「それはお気の毒…ミルは親ガチャ、当たりかと思ったけど、そうでもないんだね」


俺がつぶやくと、ミルは首を傾げた。その仕草には愛らしさがあり、栗色の髪が光を受けて柔らかく揺れた。


「なに、親ガチャって」


「俺の国で流行っている言葉で、ガチャはくじって意味。つまり、子供は親を選べない。くじを引くように、良い親に当たることもあれば残念な親のときもある」


ミルは考え込むと、小さな指で栗色の前髪を耳にかけた。唇を少し噛みながら、何かを言うか迷っているようだった。


「そういう意味では、私は間違いなく当たりだよ。父親には最高の教育を授けてもらった」


彼女の声には、どこかためらいも混じっている気がした。


「そう思っているならよかった。さっき、息苦しいって言ってたから」


俺の言葉にミルは少しうつむいた。小さな肩が落ち、その姿は急に子供らしく見えた。制服のボタンを無意識に触っている。


「確かに感謝はしてるんだけど、少し父が怖いというか…勉強しているか監視されているように感じて。あと、知らないうちにまた妹が生まれてたし…」


彼女の声が小さくなる。


「ミルはさあ、そういう時、どういうふうに気分転換しているの?」


「気分転換、って何?」


「遊んだり、楽しいことをして、気持ちを明るくするってこと」


ミルは真剣な顔で答えた。


「わからない。遊んだことないから」


その表情には少しの困惑が混じり、青灰色の瞳が少し大きく見開かれた。


俺は思わず息をのんだ。理性の国でも、さすがにこれは極端すぎる。俺はある決意をして立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が静かな部屋に響いた。


「それはちょっとダメじゃない。人間、楽しいこともしないと」


「そんなこと言われても、どうしていいかわからない」


ミルの表情は本当に困ったようだった。制服の襟元をきちんと整えながら、彼女は自分の無知を恥じているかのように頬を赤らめた。


「とりあえず、外行こうよ、甘いものでも食べよう」


俺はそう言って、ミルの手を取った。小さくて温かい手が、驚きながらも俺の手に収まる。彼女の手は想像以上に柔らかい。まるで本とペンしか持ったことがないような感じだ。


「でも勉強が…」


「今日だけだから」


ミルは少し迷ったが、俺の誘いに応じた。彼女は小さく頷くと、本を丁寧にカバンにしまう。二人は生徒会室を出て、前にミルがケーキを買った店へと向かった。


お菓子職人ピケティ氏の店は、夏休みにもかかわらず、多くの客で賑わっていた。甘い香りが漂う店内で、俺はミルに好きな席を選ばせた。窓際の小さなテーブルに座ると、俺はメニューを手に取った。窓から差し込む陽光がミルの栗色の髪を照らし、彼女の横顔を優しく彩っていた。


「おごるよ。好きなものを選んで」


ミルはメニューを真剣な顔で読み込んでいた。彼女の表情は学術書を読むときと変わらない集中力で、メニューの一つ一つを丁寧に吟味している。やがて彼女は小さな指でアップルパイを指した。


注文したパイが運ばれてきたとき、俺は思わず笑ってしまった。パイがびっくりするほど複雑な形で切られていたからだ。断面から覗くリンゴの赤と金色のパイ生地が美しいコントラストを描いていた。


「このお店の職人さんって、パイの切り方にこだわりがあるみたいだね」


ミルは少し顔を明るくして、パイを一口食べた。彼女の小さな唇が甘いパイを噛む様子は、普段の知的な彼女からは想像できないほど可愛らしかった。


「おいしいね」


シンプルな感想だったが、彼女の口元にはかすかな笑みが浮かび、頬が薔薇色に染まっていた。


「気分転換の話。例えば、物語を読むとか。ミル、本は好きでしょ」


「哲学や数学の本を読むけど、物語は読んだことがないな。テルはどんな物語を読んでるの?」


窓から差し込む日差しがテーブルの上のパイを照らし、金色の光を放っていた。俺は少し考えてから答えた。


「いやあ、最近は『最強魔道士の俺がゴブリ』…ある少年が、トラック…いや馬車に轢かれて、別の世界に生まれ変わるんだ。そこで、最強魔導士として魔物と戦う」


ミルは真面目な表情で考え込んだ。彼女の小さな眉が寄り、青灰色の瞳に思索の色が浮かぶ。俺は少し身構える。何しろ理性の国だ。また軽蔑されるのではないかと。


「その物語、生まれ変わる必要ある?」


予想外の質問に、俺は一瞬言葉に詰まった。彼女の表情には純粋な疑問が浮かび、批判の色はなかった。


ミルが続ける。


「『あるところに魔導師がいました』から始めちゃダメなの?」


俺はしばらく考えたあと、説明を始めた。


「転生する必要はある。理由は3つ」


ミルはパイを食べながら、興味深そうに聞き入っていた。彼女の青灰色の瞳には知的好奇心が宿り、小さな体が僅かに前のめりになった。


「まず、感情移入のしやすさ。ミルは、別の時代の別の国の魔道士に、いきなり感情移入できる?」


「できないね」


「でも、自分の時代、自分の国の、自分に境遇が近い人間が転生したとすれば、これは感情移入が簡単だ」


「…なるほど。一理ある」


ミルは小さく頷いた。青灰色の瞳に理解の色が浮かんだ。


「二つ目は、能力の問題。転生ものでは、現代の知識や技術を持ったまま、300年ぐらい前に転生することが多い。こういう妄想…いや、仮説に基づいて物語を組み立てると、なかなか面白い」


「そうかな」


「例えば、ミルが今の知識を持ったまま、300年前の世界に転生したとして、何をしたい?」


ミルは少し考え込んだ。


「そうだな、あらゆる知識を本にして出版するだろうね。そうすることで、進んだ科学の知識を300年早く人類に普及できる」


俺は思わず微笑んだ。ミルらしい答えだった。自分で知識を独占して無双しないところが志が高い。


「なるほど。でも、そう想像することは、なんとなく楽しいだろ」


「そうかも」


ミルの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「3つめは、こういう物語では、転生するときに、特別な能力を与えられることが多い。多くの人は、現実の世界では特別な才能を持っていないんだよ。だから、何か素晴らしい能力が与えられて、それを活かせると考えることはとても楽しいことなんだ」


「その考えはおかしいよ。特別な能力が無いなら、転生するんじゃなくて、今生きている世界で身につければいいじゃない」


ミルは論理的に反論した。


「ミルにはわからないかもしれないけど、努力できるということも特別な才能なんだよ」


「そんなものかな」


ミルが考え込む。


「まあ、とにかく俺が言いたいのは、たまには、何か楽しいことを考えたり、楽しいことをしたりして、息抜きをすることは、心のバランスを保つ上で大切だってこと」


「分かった。覚えておくよ」


ミルはパイの最後の一口を口に運びながら答えた。


帰り道、夕陽に照らされた二人の影が石畳の上に長く伸びていた。ミルの小さな姿と、俺の影。彼女のスカートが膝のあたりで風に揺れる。


「テル」


突然、ミルが足を止めて振り返った。夕日に照らされた彼女の栗色の髪は、まるで炎のように輝き、青灰色の瞳に夕陽の光が反射して、不思議な色彩を帯びていた。


「何?」


「今日は…楽しかった」


ミルの頬は夕陽のせいだけではない紅色に染まっていた。青灰色の瞳には照れくささと、純粋な喜びが混じっている。胸元のクローバーのブローチが小さく揺れ、小さな宝石のように輝いていた。


「また…気分転換、してもいい?」


その言葉に、俺は優しく微笑んだ。


「もちろん。いつでも」


ミルの表情が明るくなり、小さな唇が笑みの形を作る。それは、俺が初めて見る、彼女の子供らしい笑顔だった。夕陽の光に照らされた彼女の姿、その笑顔には純粋な喜びが溢れていた。



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