第2話:続・エマと「人を助ける理由」
エマが食べ物を買うために、部屋を出て行く。扉が閉まると同時に、俺はベッドに倒れ込んだ。天井の木目を見つめながら、混乱した状況を整理していく。
「フィロソフィア…ここはどういう世界なんだ。とりあえず、魔法や魔物は禁句、と」
ふと枕元に目をやると、スマホが裏向きに置かれていた。手に取って画面を確認する。バッテリーは17%。電波は…入っている!女神サンデラが言ったことは本当だった。ネットはできそうだ。
まずは、充電だ。サンデラの教えてくれた方法を思い出す。恥ずかしいけれど、選択肢はこれしかない。
「エレキテル…エレキテル…」
顔が熱くなるのを感じながら例のポーズをしていると、突然ドアが開いた。
そこにはバスケットを持ったエマが立っていた。早すぎる。俺は動きを止め、そのまま凍りついた。
「何をしているのですか?」
彼女の澄んだ碧眼が俺の奇妙な姿勢を疑問と好奇心で見つめている。
「いや、その…忘れてくれ!頼む!」
俺の悲痛な叫びに、エマは少し困惑したように首を傾げた。銀色に輝く長い髪が、肩を滑るように揺れる。その表情には純粋な疑問が浮かんでいた。
「不思議な習慣ですね。あなたの出身地の踊りでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて…」
言い訳をしようとした時、左手に持ったスマホの画面が突然点灯した。バッテリーは18%、1%増えた。
「そうそう、それは何ですか?あなたのポケットに入っていました」
スマホを見たエマが興味深そうに近づいてきた。簡素だが清潔な白いブラウスと紺色のスカートが、彼女の凛とした雰囲気を引き立てている。
「これは…」
さあ、どう説明すればいいんだ?俺は頭を抱えた。
「それがあなたのいう『魔法』の道具ですか?」
怪訝そうな表情で、エマは質問を続けた。
「いや、魔法じゃないんだ」
エマは首を傾げ、スマホにさらに近づいた。その仕草は猫のように優雅で、好奇心に満ちていた。整った横顔がランプの明かりに照らされ、一瞬息を呑む。
「これは…どんな原理で動いているのですか?」
「科学だよ。理性的で合理的な技術の結晶さ」
この言葉を聞いた瞬間、エマの瞳が星のように輝いた。
「私の知らない国の新しい技術ですか?」
彼女の声には抑えきれない興奮が含まれていた。
「そうだね…これは…液晶画面と半導体が…」
そう言ったところで言葉が続かない。今は、ぼおっとした頭でスマホについて上手く説明できる自信が無い。下手をすれば異世界から来たとバレてしまう。俺は話題を変えた。
「それより…まずは食べ物の話をしよう。お腹が空いていてね」
エマは小さな編みバスケットを差し出した。中には黒パンと、クリーム色のチーズ、艶やかな赤いリンゴが入っていた。シンプルだが、どれも新鮮そうだ。
「質素ですが、栄養価は高いです」
俺はパンに手を伸ばした。かなり固いが、空腹には何でも美味しい。それを無造作に食べながら、窓の外を見る。暗い中にも見慣れない中世ヨーロッパ風の街並みが広がっていた。石畳の道路と石造りの建物。遠くには尖塔のある建物も見える。教会だろうか。それともエマの学院か。
「ねえ、エマ。この世界のことをもっと教えてくれない?」
エマは静かに木製の椅子に座った。背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上に揃える。その仕草には自然な優雅さがある。
「あなたは本当に何も知らないのですね。不思議な人です」
彼女の視線が真っ直ぐ俺を見る。
「まあ、ここに来るまで色々あってね…」
「わかりました。まず、フィロソフィア王国について説明しましょう。この国は理性を大切にする国です。王立学院はとても重要な場所で、そこで哲学を学んだ人たちが国を治めています」
彼女の唇から流れる言葉は、常に美しく整然としている。
「哲学者が政治家になるの?」
「そうです。物事の本質を考える人こそが国を導くべきです」
エマは熱心に語り始めた。その頬は話すうちに少し紅潮し、目は情熱で輝いていた。俺はパンを口に詰め込みながら、その話に聞き入った。
「ということは、エマも将来は政治家になるの?」
「いいえ、私は教師になるつもりです。人々に正しく考える方法を教えることが、私の使命だと感じています」
その眼差しには、確固たる決意が見て取れる。
「先生か。似合いそうだな」
「そう思いますか?」
珍しくエマが照れたように見えた。頬が僅かに赤く染まり、視線を逸らす。長いまつげが伏せられ、その仕草が妙に可愛らしく見える。
「あなたはどうするつもりですか?どこか行くあてはありますか?」
「実はないんだ」
「そうですか…」
エマは少し考え込んだ後、決心したように言った。
「当面は、私の部屋に滞在していただいても構いません」
その言葉に、俺は驚いた。
「その代わりに、といっては何ですが…その不思議な道具…」
彼女の細い指先がスマホを指さす。
「その道具について、教えていただきたいです」
「え、それだけでいいの?」
「知識は何よりも価値があるものですから」
エマの瞳は好奇心で輝いていた。その表情は、これまでの厳格な様子から一変し、年相応の少女らしさを感じさせた。
「わかった」
俺は頷いた。
「約束は守ってくださいね。嘘をつくことは、みんなが同じようにしたら社会が成り立たなくなるので、良くないことですよ」
彼女は人差し指を立てて、まるで教壇に立つ教師のように言った。
「定言命法だね」
「あら、もう覚えたのですね」
エマは少し嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、華やかで明るかった。微笑むと、彼女の表情はぐっと柔らかくなる。
俺はベッドに横になりながら天井を見上げた。女神サンデラの言った「自分を救ってください」という言葉が頭に浮かぶ。そもそも、この世界は何なんだ?そして、この少女に拾われたのは、必然なのか、偶然なのか。
疑問は山積みだったが、今は休息が必要だ。体中に疲れが押し寄せてくる。俺は伸びを一つした。
「ゆっくり休んでください。明日から、あなたのフィロソフィアでの生活が始まります」
エマの静かな声が耳に届いた。その声には不思議な安心感があった。彼女が窓辺に立つと、銀色の長い髪が月明かりに照らされて幻想的に輝いた。
「明日はあなたを王立学院にお連れします。そこにはたくさんの生徒がいます。きっと、あなたのこの国への疑問が少し解消されるのではないでしょうか」
「たくさんの生徒…」
俺はぼんやりと思った。果たして他の生徒たちはどんな人なのだろう。みんなエマのような感じだろうか。すると、コミュニケーションはちょっと大変そうだ。
「おやすみなさい、テル」
エマの銀色の髪が肩から流れ落ち、白いナイトドレスがふわりと浮かび上がる。
「おやすみ、エマ…ってどこで寝るの?」
ふと気づいて尋ねると、エマは当然のように答えた。
「ベッドが一つしかなければ、答えは自明ですよね」
「いや、自明って」
エマは小さく微笑んだ。その唇が月の光で柔らかく光る。
「『純粋理性』を持った者同士なら、何も問題ないでしょう」
そう言って、エマは小さなランプを消した。
「それに、夜は冷えるので。お互いの体温を共有するのは理にかなっています」
窓から差し込む月明かりの中、エマがベッドに腰掛ける。かすかなラベンダーの香りに、鼓動が速くなる。
「では、失礼します」
エマの体が俺に触れた瞬間、その温もりに全身がビクッとした。隣に横たわったエマの肩が触れる。たったそれだけなのに。
「純粋理性…」
何度もそう呟きながら、俺は異世界での最初の夜を迎えた。これはこれでなかなかしんどい状況だが、ゴブリンの餌になるよりもずっとましだと心から思った。
純粋理性:カントが『純粋理性批判』で展開した概念で、経験に依存せず、先天的に働く理性の能力を指します。例えば「2+2=4」や「すべての出来事には原因がある」といった知識は、実際に経験しなくても頭の中で分かりますよね。カントはこうした理性の働きを探究しました。