第26話:テルと「恥ずかしさの限界」
その日から王立学院は3週間の夏休みに入った。フィロソフィアは緯度が高いのか、夏と言っても俺にはそれほど熱くは感じられない。なにより、湿度が低い。確かに日差しは強いが、木陰に入ると心地よい。
エマは地方都市の実家へと帰ることになった。深い青の瞳で「テルも一緒に行かない?」と誘われた時は、ちょっと動揺した。俺は断腸の思いで誘いを断った。マキャベリアとの合同訓練が3週間後に控えている以上、クロイツベルクに居残るしかなかった。
「分かりました。では、これが置き土産です」
エマは部屋を出る前に、彼女がいつも持ち歩いてる金色の枠を持つ小さな懐中時計を差し出した。磨き上げられた表面が朝の光を受けて煌めいている。
「テルは時間にいい加減ですから。私だと思って...」
彼女の声は小さく、頬には薄い紅が差していた。時計を受け取ると、予想以上の重みがあった。いつも彼女がスケジュールを確認するたびに、この時計を取り出していた光景が思い浮かぶ。
「エマ...これ、君の大事な時計じゃないか。困るだろう?」
「いいえ。私の体には時間の感覚がしみこんでいます。時計は、ただそれを確認しているだけですから」
彼女はそう言いながら、俺のポケットを指さした。
「その代わりに、あなたのその..スマホ?を貸してくださいませんか?」
予想外の申し出に驚く。エマは少しうつむきながら続けた。
「自分の故郷の写真を撮りたいんです。あの街と自然、星空…言葉では伝えられない風景を」
彼女の目には故郷の風景が浮かんでいるようだった。スマホ無しの生活は正直不安ではあるけど、ここで断るような男にはなりたくなかった。
「いいよ。ただ、カメラの使い方を教えておかないと...」
俺はカメラアプリの起動方法や基本的な撮影方法を説明し始めた。エマは真剣な表情で画面を見つめ、時折感嘆の声を漏らす。
「あと、バッテリーが切れたら充電できないから、使わないときは電源を切って」
「大丈夫です。厳選して、必要な写真だけ撮ります」
エマは静かに頷くと、スマホを大切そうに手に取った。彼女の指先が俺の手に触れ、一瞬だけ温かさが伝わってきた。
「帰ってきたら、私の故郷をテルに見せますね」
彼女の瞳は星のように輝いていた。その柔らかな表情に、胸の奥が切なくなる。この時計の重みが、これから始まる孤独な日々の支えになるだろう。
彼女が旅立った後、俺はいつものように王立学院に向かった。学院は昨日までと打って変わって静まり返っていた。廊下を歩く自分の足音だけが響き、普段は生徒たちの声で賑わう中庭も静寂に包まれている。
ふらりと医務室を覗いてみた。扉を開けると、そこにはベル先生の姿があった。明るいブロンドのウェーブヘアが朝日に照らされて輝き、白衣が眩しい。彼女は窓際で何やら植物に水をやっていた。
「テル、夏休みなのに勤勉ね」
振り返ったベル先生の緑色の瞳には、いつもの茶目っ気が宿っていた。その唇には秘密めいた微笑みが浮かんでいる。
「ベル先生は休まないんですか?」
「私は特に帰る場所もないしね。まあ、ここが居心地が良いから」
そう言って彼女は軽く肩をすくめた。
「それより、マキャベリアとの合同訓練、フィロソフィアを代表して戦うんだって?」
そうだ、俺は小ジャンヌとの会話を思い出した。
「そうですけど、それ、小ジャンヌに言ったでしょう。どうするんですか、話が広まったら」
「これでも私は人を見て話しているのよ」
ベル先生は艶やかな髪を揺らしながら笑った。その仕草には不思議な魅力がある。
「小ジャンヌから噂が広まることはないわ。それに、彼女にはたまにそういう秘密が必要なのよ」
確かにその通りだが、何か釈然としない。
ベル先生は医務室の窓を閉め、カーテンを引くと、意味ありげな笑みを浮かべた。彼女の指先が窓枠を滑るように撫で、その動きには何か妖しい優雅さがあった。
「さて、あれをやりましょう」
その表情に、嫌な予感が脳裏をよぎる。
「あれって…」
「エレキテルよ。分かってるくせに」
そう言うベル先生の目は好奇心に満ちていた。瞳に浮かぶ光が、まるで小悪魔のようだ。恥ずかしさから俺が渋ると、彼女は一歩近づいてきた。白衣が揺れ、甘い香りが漂う。
「雷の剣、源泉はエレキテルでしょ?マキャベリアの相手の強さが分からない以上、エレキテルは最大限貯めておく必要があるんじゃないの」
確かにそうだ。これまで、最高でも15分ぐらいしかやったことが無い。というか、それ以上は精神的に無理だった。
「私が付き合ってあげるから、この際、限界に挑戦してみましょう」
ベル先生の提案には、純粋な研究者の好奇心と、何か別の意図が混ざっているように思えた。彼女は髪を耳にかけながら、じっと俺を見つめている。
しかし、マキャベリアとの訓練を考えれば、彼女の言う通りだ。より多くの「電力」を蓄えておくべきだろう。
覚悟を決めて、両手を胸の前でクロスさせる。いつもの恥ずかしさが込み上げてくるが、ここは我慢だ。「エレキテル、エレキテル…」と唱え始める。
それから1時間、医務室にはエレキテルの声が響き渡った。壁の時計の針がゆっくりと進む中、ベル先生はトレーナーさながらに「いいわよ」「もっと大きな声で」と俺を励まし続けた。彼女の目には研究者特有の好奇心と、何か別の熱が宿っていた。時折、白衣の襟元を整える仕草に、妙な色気を感じる。
1時間のエレキテルという苦行を終え、俺はへとへとになって椅子に崩れ落ちた。シャツが汗で濡れ、息も絶え絶えだ。
「どう?何か、体に変化は感じる?」
興味深そうにベル先生が近づいてきた。彼女の白衣からは甘い香水の香りがする。
「いや、疲れた、精神的に、というぐらいです」
俺がそう答えると、ベル先生が手招きをした。
「ちょっとこっちに」
彼女に導かれるまま、俺は医務室の前の廊下にある小さな扉へと案内された。開けてみると、そこには狭い階段があり、どうやら地下室へと続いているようだ。
「学院内にこんな場所があったんですか?」
「古い建物には秘密がつきものよ」
そう言って、ベル先生は俺を地下室へと導いた。暗く狭い空間に足を踏み入れると、古い薬品の匂いと、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。彼女の白衣が闇の中でかすかに揺れる音だけが聞こえる。
扉が閉まり、周囲は完全な闇に包まれる。俺はベル先生の気配を感じながら、暗闇に目を凝らした。空気中に緊張と期待が混ざり合い、心臓の鼓動が早くなる。
「思った通り」
息づかいが聞こえるほどの近さで、ベル先生が呟いた。甘い香りと温かな吐息が頬をかすめる。
「何がですか?」
「君は自分では分かっていないと思うけど..」
ベルが耳元で囁く。指先が俺の腕を滑るように撫で、その感触に背筋が震える。
「あなたの体、とても美しいわ」
この人は何を言っているのだ。俺は心拍数が上がるのを感じる。
「両手をみて」
ベル先生が囁く。
言われるままに両手を見ると、暗闇の中で青白く浮かび上がっていた。全身を見回すと、体全体が微かに発光している。その光が闇の中で神秘的な美しさを醸し出している。
「これが…エレキテルの効果?」
「そうよ。君の体内にエレキテルが蓄積されて、こうして発光しているのね。素晴らしい発見よ」
ベルの声には純粋な科学的興奮と、何か別の感情が混ざっているように思われた。
そして突然、彼女は俺の体に寄り添った。俺の体からの光をうけて、彼女の緑色の瞳が暗闇の中で猫のように輝いている。柔らかな唇が湿り気を帯び、その表情には抑えきれない欲望が浮かんでいた。
「テル、私とやりましょう」
その言葉に戸惑う間もなく、ベルが俺に抱きついた。柔らかな感触と甘い香りに包まれたその瞬間、背筋から足先まで稲妻が走ったような感覚に襲われた。意識が遠のきかける。
青白い閃光が地下室を照らし、二人は別々の方向に弾き飛ばされた。地下室は再び完全な闇に包まれ、かすかな焦げた匂いが漂っていた。静電気の残滓が肌を這うような不思議な感覚がある。
「ベル先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
恐る恐る手を伸ばすが、彼女がどこに居るか分からない。かすかに白衣が擦れる音だけが、彼女の存在を告げている。
俺は命からがら、手探りで地下室から這い出す。階段を上がり、廊下に這い出ると、ベル先生もそれに続いた。彼女の髪は乱れ、白衣は埃で汚れているが、怪我はなさそうだ。
そしてもう一人、俺の前に立っている人が居る。見上げると、大ジャンヌだ。彼女の目は驚きと呆れが入り混じった複雑な色を湛えていた。
大ジャンヌは無言だったが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。彼女の唇がわずかに曲がり、何かを言いかけては止めたような表情だ。
「いや、これは、何も..」
俺の言葉がむなしく響く。汗だくの俺と髪の毛や着衣が乱れたベル。説明のしようがない状況に、言葉が詰まる。
「私は何も見ていないからね」
大ジャンヌはそのまま立ち去ろうとしたが、ふと床に目をやった。視線の先には、懐中時計が落ちている。俺がエマから預かったものだ。
大ジャンヌはそれを拾うと興味深そうに見つめた。
「これ、エマが持っていたものだね。ただ、止まっているよ」
俺は血の気が引くのを感じた。大切なエマの時計を、エレキテルの暴発で壊してしまったのかもしれない。言葉を発しようとするが、出てこない。
「大丈夫。私が修理しておくから。来週、校長室まで取りにおいで」
大ジャンヌはそう言うと、エマの時計を持って去って行った。彼女の歩く姿には堂々とした威厳があり、その足音が廊下に響いていく。
「修理するってそんな簡単に…」
俺がようやく声を絞り出すと、ベル先生が笑った。
「あなたは知らないの?大ジャンヌはクロイツベルクでも有名な時計職人の娘さんなのよ」
そんな俺得なことがあるのか、と思った。事実は小説より奇なりだ。
ベル先生とともに医務室に戻った俺は、なんとも言えない雰囲気に戸惑っていた。対照的に、ベルは活き活きとしていた。彼女は軽やかに白衣を整え、乱れた髪をひとつにまとめ上げた。
「本当に興味深いわね。1時間の『エレキテル』で、これほどの力が蓄積されるなんて」
彼女は真剣な表情で、ノートに何かを書き始めた。まるで何事もなかったかのように。
「あの…さっきの『しましょう』って…」
思わず口にした言葉に、ベルは顔を上げ、意地悪く微笑んだ。
「実験を、よ。君の体に蓄積された電気が、人間への接触でどう放出されるか確かめたかっただけ」
ベル先生が俺を見つめて言う。
「でも、これで分かったでしょう。マキャベリアとの訓練の前に、長時間の『エレキテル』は避けた方がいいわ。そう、たぶん45分が限界ね。意図しないかたちで放出される危険性があるから」
確かに、それは有用な知見だった。戦いを前に、不意に放電してしまっては意味が無い。俺の体はエレキテル45分ぐらいで満充電になる、ということだ。
夏の陽光が窓から差し込み、医務室を明るく照らしていた。少し痺れが残る指先を見つめながら、俺は思った。この3週間、できるだけの準備はして、マキャベリアとの合同訓練に備えようと。




