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第1話:エマと「人を助ける理由」

目を開いた。ぼんやりした意識の中、遠くから優しく澄んだ声が耳に届いた。


「目が覚めましたか?」


意識が徐々に戻ってくる。体は鉛のように重く、頭はまだ靄がかかったままだ。天井を見上げると、木造りの梁が目に入る。ベッドに横たわったまま、俺は周りを見回した。


質素だけど整然とした部屋。ランプの柔らかな光が壁に揺れる影を作っている。壁際の小さな机には、革張りの厚い本が何冊も積み重ねられていた。


「ここは…?」


声を絞り出すと、視界の端で人影が動いた。


「私の部屋です」


声の主に目をやると、凛とした佇まいの少女が立っていた。銀色がかった淡いブロンドの髪を三つ編みにまとめ、透明感のある青い瞳が俺をまっすぐ見つめている。16、7歳くらいに見える少女が、質素だけど上品な白いブラウスを着て、背筋をピンと伸ばしていた。


「俺は、どうしてここに?」


「街の広場で倒れていました。誰もあなたを助けようとしない。それは明らかに正しくないことだと思いました。だから私があなたをここまで連れてきました」


少女の話し方は少し硬く、言葉を選んで話しているようだった。


「えーと…君の名前は?」


「エマンエラ・カンテ、王立学院の生徒です。エマと呼んでください」


王立学院。間違いない。異世界だ。俺は即座に食いついた。


「王立学院って、魔法とか教わってるの?」


次の瞬間、エマの表情が凍りついた。青い瞳から温かみが消える。


「…魔法…ですか?」


小さな眉間にしわが寄る。


「いや、その…この世界がどういう世界か分からなくて。ほら、剣とか魔法とか、そういう世界かと思って…」


エマは深いため息をついた。まるで子供に諭すように、ゆっくりと語り始めた。


「当然、剣はあります。普遍的な武器ですから。でも、魔法って…」


エマは両手を膝の上で組み、姿勢を正して俺に話しかける。


「いいですか、魔法のような現象を信じることは、理性的ではありません。私たちは時間と空間の中で、自分が経験できることしか知ることはできません。知ることができないものを存在すると決めつけるのは、理性の使い方が間違っているからです」


エマは熱を帯びた声で語った。しかし、残念ながら俺にはその熱は理解できない。


「わかった、わかった。じゃあ、ゴブリンとかもいないんだね」


エマのまなざしに軽蔑の色が浮かぶ。その視線の鋭さに思わず身をすくめる。


「ここはクロイツベルク。フィロソフィアの王都です。理性の国であって、おとぎの国ではありません」


その言葉には自分の国に対する誇りが滲んでいた。


「そういうあなたは、どこから来た何をしている人なのですか?」


エマが俺の顔をのぞき込むように問う。


「東の方の国から来ました。学生です」


「学生?」


エマの氷の結晶のような青い瞳が俺を見据える。


「魔法、ゴブリンって一体、あなたは何を研究しているというのですか?」


「経営学とか、その…」


「経営学? そのような学問があるのですか」


エマは首を傾げた。困惑と好奇心が混ざった表情だ。


「まあいいです。とりあえず、後にしましょう。今はまず元気になることが優先です」


沈黙が支配する。何かを言わなければ。


「ありがとう…その、助けてくれて。俺なんか助けても、何の得にもならないのに」


その瞬間、少女の瞳が一瞬青く光った。俺は、彼女の中の何かの「スイッチ」を押してしまったのか。


「得にならないから人を助けない、というのは間違った考え方です」


少女は一歩前に出て、ベッドの脇の椅子に腰かけた。その動きには無駄がない。


「考えてみてください。もし世界中の全員が『得にならないから人を助けない』というルールに従ったら、どうなるでしょう?」


少女は静かに問いかけた。


「どうなるの?」


「道で倒れた人を誰も助けず、強盗に遭った人を誰も救わず、困っている子どもを誰も気にかけない...そんな冷酷な世界になります。人として、こんな社会に住みたいと思いますか?」


エマの表情が真剣さを増した。


「『自分の行動が、もし世界の全員がそうするルールになったとして、その世界に自分も住みたいと思えるか?』と常に自分に問いかけるべきです」


「全員が自分と同じルールで行動する世界...」


「そう。『得にならないから人を助けない』という行動を全員がとる世界は、誰も望まない世界です。だから、それは間違った行動なのです。これが『定言命法ていげんめいほう』という考え方です」


「そういう考え方があるんだな...」


「はい。互いを助け合ってこそ、社会は成り立つのです。これは可哀想だからという感情ではなく、理性に基づく原則です」


「なるほど…」


よくわからないけど、とにかく助けてくれたことには感謝しないと。俺は上体を起こそうとした。


「無理をしないでください。まだ体力が戻っていないでしょう」


少女は慌てて手を差し伸べ、俺の背中を支えてくれた。小さいながらも、しっかりとした力強さがこもった手のひらだ。


「大丈夫だよ…って、あれ?」


ふと気づくと、服が変わっている。下着は..履いていない!元の服じゃなく、麻のようなざらついた生地の簡素なシャツとズボンに着替えさせられていた。


「あの…服は…?」


「あなたの服はボロボロに破れていたので、処分させていただきました」


少女は何気なく言ったが、俺の顔は一気に赤くなった。


「一応聞くけど、その、誰が着替えさせたの…?」


「私です。でも、安心してください。正しい判断に従っただけです。余計な感情や欲望は、理性でコントロールできるものですから」


このさらっとした返事に、俺はますます赤面した。まるで俺を全裸にして着替えさせることが、板前が魚をさばくくらい普通のことみたいだ。


「まあ、その…ありがとう」


「人間として、当然のことですから、テルさん」


驚いた。俺はナオテルだから、友だちからはテルと呼ばれてた。でも、なぜ彼女がそれを知ってるんだ?魔法?


「なんで俺の名前を?」


エマは少し困惑したように首を傾げた。


「あなたは先ほど『テル…テル…』とうわごとのように繰り返していました。こうやって..」


少女は胸の前で両手をクロスさせて、「あの」ポーズをした。その仕草があまりにも正確で、思わず叫んでしまった。


「分かった!それはもう、大丈夫。やらなくても」


俺は慌ててベッドから立ち上がろうとしたが、頭がくらくらして座り込んでしまった。


「無理はしないでください。あなたはまだ十分に回復していません」


エマは静かに俺の肩に手を置いた。その手の温もりは優しかった。


「もう遅いですし、今夜はここにお泊りください。お腹は空いていませんか?」


「確かに…」


朝食を食べずに死んで転生してきたんだから、当然空腹だ。


「少し食べ物をもらってきます。待っていてください」


エマは立ち上がると、ドアに向かった。


「あの、エマ」


「はい?」


「ありがとう。本当に助かったよ」


少女は振り返り、わずかに頬を赤らめた。


「感謝は不要です。正しい行いは義務であり、感謝を求めてするものではありません」


そう言いながらも、エマの表情は少し柔らかくなった。


「ですが…あなたの感謝の気持ちは、お互いを尊重し合う気持ちの表れとして、受け取っておきます」


エマの瞳には、それまでにない温かさが宿っていた。彼女は、軽く会釈して部屋を出ていった。


俺は天井を見上げながら、この不思議な世界に思いを巡らせた。「フィロソフィア」という国、そしてなんだかちょっと理屈っぽい少女エマ。


ランプの暖かい光の中で、俺は異世界での生活に、ほんの少しだけ期待を抱き始めていた。

定言命法ていげんめいほう:カント(1724-1804)が提唱した道徳原理で、「自分の行動の指針が普遍的な法則となることを望むような方法で行動せよ」という考え方です。簡単に言えば、あなたの行動が全ての人に適用されても問題ないなら、その行動は道徳的に正しいとされます。例えば「もし全員が嘘をついたら」と考えてみると、信頼関係が成り立たなくなるので嘘をつくのは道徳的に間違っていることになります。

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