第17話:大ジャンヌと「宗教戦争」
夜の帳が学院の窓を黒く染める頃、生徒会室にはランプの明かりだけが温かく灯っていた。扉が開き、ルーシーに伴われて大ジャンヌが入室してくる。普段の無造作な服装とは打って変わって、きちんとした紺色の上着を羽織り、茶色の髪もきれいに整えられていた。
「お待たせしたね」
大ジャンヌの声には普段の軽さはなく、どこか重みを帯びていた。彼女の瞳は少し遠くを見つめているようで、何かを思い出しているかのようだった。
「ルーシーから話は聞いたよ。歴史に学ぶか...素晴らしいことじゃないか」
彼女は歩みを進め、テーブルの中央に用意された椅子に腰を下ろした。ジーナが立ち上がって彼女に一礼すると、他のメンバーも続いた。エマの銀髪がランプの光を受けて月明かりのように輝き、ミルの栗色の髪は柔らかな影を作り、ジーナの銀灰色の髪はまるで絹のように光を反射していた。
「今回のマキャベリアからの領土要求について考える時、過去の戦争から何を学べるか、ということだね」
大ジャンヌは静かに言った。その視線はテーブルの上に広げられた地図に落ちる。緑色で示されたフィロソフィアの国境線、そして問題となっているローレンティアの地域が赤く囲まれていた。その先にはマキャベリアの領土が広がり、フィロソフィアの北にはエンポリア国が、南にはヘルメニカ国がある。
「始めようか。まずは宗教戦争の背景から話そう」
ジーナが小さくうなずき、他のメンバーも静かに身を乗り出した。俺も思わず椅子の背もたれから身を離し、話に集中する。
「マキャベリアの先代の王はマルク4世といった。彼はヘリオス教徒でありながら、非常に開明的な人物だった」
大ジャンヌの声は落ち着いていて、まるで歴史書の一節を朗読するように流暢だった。
「マルク4世は、セレネ教を信奉するエンポリア・フィロソフィア・ヘルメニカ3国の国民が領内で商売をすることを認める勅令を出していた。当時としては画期的な決断だった」
「セレネ教とヘリオス教の違いは何なのですか?」
俺は思わず質問してしまった。大ジャンヌは頷くと、俺の方を向いた。
「ヘリオス教は太陽神を、セレネ教は月の女神を崇拝する宗教だ。教義の細かな違いはあるけれど、本質的には『他者を尊重せよ』『真実を求めよ』といった同じような教えを説いている」
大ジャンヌは少し皮肉めいた笑みを浮かべて答えた。彼女の声には、宗教的対立の不条理さを嘆くような響きがあった。
「それが、マルク4世の死後、息子のパルテ2世が王位を継ぐと状況は一変した」
彼女は続けた。窓の外では、雲が月を覆い、部屋の中のランプの光が明るさを増したように感じられる。
「パルテ2世の治世になると、マキャベリア領内の商人たちが宗教を理由にセレネ教徒の商人の排斥を開始した。そして、パルテ2世に勅令の遵守を直談判に行ったセレネ教徒の代表が、不敬罪で処刑されるという事件が起きた」
「不敬罪?自分たちの権利を確認しに行ったのに?」
エマが眉をひそめた。青い瞳に怒りの炎が灯り、普段の冷静な表情が一瞬崩れた。
「ああ。その処刑は明らかに不当なものだった。そして、これを機に宗教対立は決定的になった」
大ジャンヌは深いため息をついた。彼女の肩が少し落ち、過去の記憶の重さを感じているようだった。
「まもなく、エンポリアとヘルメニカの両国が、セレネ教徒の保護を大義名分として、マキャベリアに進軍した。それに対してパルテ2世が応戦したことで、いわゆる宗教戦争が始まった。これは約10年前のことだ」
「フィロソフィアはその戦争にどう関わったのですか?」
ジーナが冷静に質問した。瞳に知性の光を宿し、地図を読んでいる。
「我が国は当初、中立の立場だった。先代のロゴス王のもとで、仲裁の努力を続けていたんだ」
大ジャンヌの声には誇りが混じっていた。彼女は背筋を伸ばし、両手をテーブルの上で組んだ。
「しかし、その努力も実を結ばず…それどころかマキャベリアから侵攻を受けることになる。結局、フィロソフィアはエンポリア・ヘルメニカ側で参戦することになったんだ」
部屋に重い沈黙が流れた。窓の外では風が強くなり、木々のざわめきが聞こえ始めていた。
「戦争は3年間続いた」
大ジャンヌは続けた。ランプの光が彼女の顔に落ち、深い影を作っている。
「我が国のロゴス王は軍略の天才だった。ローレンティアの良質な鉱石から作られる硬度の高い鉄を使った軽量の大砲を開発し、騎兵部隊に配備することで、数の劣勢を跳ね返したんだ」
彼女は一瞬言葉を切り、窓の外を見つめた。彼女は遠い戦場を見ているかのようだった。
「フィロソフィア軍はマキャベリアの首都ヴィルトゥーサを陥落させる寸前まで迫った。しかし...」
ここで大ジャンヌの声が少し震えた。彼女は深呼吸をし、感情を抑えるように努めた。
「ロゴス王は前線で指揮を執るのを是としていた。『兵士を死地に送るならまず己が先頭に立て』という信念があったんだ。しかし、その勇猛さが仇となり、王はそこでマキャベリア軍の奇襲を受けて戦死したんだ」
エマが小さく息を呑む音が聞こえた。ミルは悲しげに目を伏せ、小さな体が僅かに震えた。ルーシーは唇を固く引き結びんでいる。
「その時...」
大ジャンヌの言葉が途切れる。彼女は少し顔を下げ、目を閉じた。胸の前で組んだ両手に力が入る。
「王を近衛兵として守護していたエミールも、戦死した」
俺は思わず腰に下げた剣に手を触れた。エミールの剣。彼の勇気と忠誠を宿した剣。そのことに気づいた大ジャンヌが、一瞬俺を見つめ、小さく微笑んだ。その笑顔には悲しみが混じっていた。
「生き延びた兵士を通じて、剣だけが戻ってきたんだ」
部屋に静寂が流れた。誰も言葉を発しない。ただランプの灯りだけが、静かに部屋を照らしていた。
大ジャンヌは再び話し始めた。
「ロゴス王の後を継いだのが、現在のテオリア女王だ。彼女は和平条約を結ぶことで、3年続いた宗教戦争を終結させた。今から7年前のことだ」
彼女の声には、過去の悲劇を乗り越えた強さが感じられた。
「この戦争で、フィロソフィアの成人男性の3割が戦死した。若年層に限れば、実に4分の3が死亡するという惨状だった」
ミルが小さく震える姿が見えた。その頭脳は、この数字が意味する悲劇の大きさを瞬時に理解したのだろう。
「我が国の人口の男女比は大きく崩れた。それは今日の学院の状況にも表れているね。成人男性の不足を補うために、多くの少年たちは十分な教育を受けることなく、早くから職に就いている」
大ジャンヌはそう言って、悲しそうに微笑んだ。確かに、王立学院の男子生徒の少なさは、この戦争の爪痕なのだ。
「その後、テオリア女王は、マキャベリアとの和平条約をベースに4カ国の平和の枠組みを提唱した。彼女は自ら率先して軍備を半減させ、各国に範を示したんだ」
「素晴らしい女王陛下ですね」
エマが感嘆の声を上げた。青い瞳に尊敬の光が宿り、普段の厳格な表情が柔らかくなった。
「エンポリアとヘルメニカはそれに従った。マキャベリアも当初は従っていた。しかし...」
大ジャンヌの表情が厳しくなった。
「マキャベリアは、3年前から公然と軍備の拡張を開始した。『自衛の権利』という大義名分を掲げてね。そして今回、ローレンティアの割譲要求に至ったんだ」
「彼らの目的は明白です」
ジーナが静かに言った。立ち上がった彼女は地図に近づき、細い指でローレンティアを指した。
「彼らの目的はローレンティアの併合によって、良質な鉄を手に入れること。それを使って軽量の大砲を製造し、さらに軍備を強化する計画でしょう」
「そうだね」
大ジャンヌは頷いた。
「パルテ2世は邪悪な人間なのですか?」
俺は質問した。戦争には常に理由があり、相手を単純に悪者にするだけでは問題の解決にならないと感じていたからだ。
大ジャンヌは少し驚いたように俺を見つめ、そして微笑んだ。
「良い質問だ。実は、パルテ2世自体は邪悪な人間ではないと聞いている」
彼女は少し声を落として続けた。まるで秘密を共有するような口調だ。
「しかし、彼は主体性に欠け、側近のヴァーグナー卿という男の影響下にあると考えられているんだ。今回の件も、おそらくヴァーグナー卿の入れ知恵ではないかと思っている」
「つまり、ヴァーグナー卿がマキャベリアの実権を握っていると?」
ミルが鋭く質問した。
「その可能性は高いね。彼は宮廷における影響力を着々と増していると聞いている」
大ジャンヌの説明が終わると、生徒会室に重い空気が流れた。窓の外では風がさらに強まり、木々が大きく揺れる音が聞こえた。まるで、これから訪れる嵐の予兆のように。
「私からのレクチャーは以上だ」
大ジャンヌは穏やかに言った。彼女の表情には、彼女の生徒たちの判断を信頼するような温かさが浮かんでいた。
「侵略を許すべきではありません」
エマが強い口調で言った。彼女の瞳に決意が宿り、その姿勢からは揺るぎない信念が伝わってきた。
「理性に基づいて行動する国として、武力による領土の奪取など認められません。私たちは毅然とした態度で対応すべきです」
「でも、戦争になれば、再び多くの人命が失われます」
ミルが心配そうに言った。計算に長けた彼女は、戦争の代償を数字で理解している。
「マキャベリア王との直接対話の場を設けるべきです」
ルーシーが口を開いた。彼女の紺碧の瞳は冷静さを失わず、言葉を選ぶように慎重に話した。
「言葉による解決の可能性を探るべきです。明確な言語を使用し、誤解なく意思疎通することが重要です」
ジーナはしばらく黙って全員の意見を聞いていた。彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓から見える夜空の星が彼女の横顔を照らし、静かな決意が感じられた。
「我々は対立する意見を超えて、より高次の解決策を見つけるべきだ」
ジーナは静かに言った。
「単純な平和主義でも、単純な主戦論でもない。相反する意見を融合させて、より良い答えを見つけるんだ」
彼女は振り返り、大ジャンヌと目を合わせた。
「大ジャンヌ、あなたはどう思われますか?」
大ジャンヌは微笑みながら立ち上がった。彼女の表情には、若い彼らの成長を見守る喜びが浮かんでいた。
「君たちはよく考えているようで安心した。私の意見はこの際必要ない。私は、君たちが出した結論を女王陛下に伝えるつもりだ」
「私たちの?」
ジーナが驚いて言った。他のメンバーも驚きの表情を浮かべている。
「そうだ。女王陛下は若い世代の能力を重視されているんだ。君たちは、過去の戦争を直接経験していない。だからこそ、新しい視点で問題を見ることができる」
彼女は優しく微笑んだ。その表情には、教育者としての誇りが溢れていた。
「君たちの考えをまとめて、明日の正午までに私に報告してほしい。頼んだよ」
大ジャンヌはそう言い残すと、部屋を出て行った。ドアが閉まる音が、静かに響いた。
生徒会室に残された俺たちは、互いを見つめ合った。エマの決意に満ちた青い瞳、ミルの思慮深い青灰色の瞳、ルーシーの冷静な紺碧の瞳、そしてジーナの洞察に溢れた瞳。彼女たちの眼差しには、この危機を乗り越えようとする強い意志が宿っていた。
俺は腰のエミールの剣に手を触れた。かつての戦争で命を落とした騎士の剣。その重みが、今夜は特に重く感じられた。この剣は、これからも鞘に収まったままであってほしい。そう願いながら、俺はジーナの言葉に耳を傾けた。
「さあ、議論を始めましょう」
窓の外では、月が雲間から姿を現し、学院の庭を銀色に照らし出していた。