第15話:エマと「難問の解決方法」
夜の静けさが部屋を包む中、ベッドに横たわった俺はスマホの画面をぼんやりと眺めていた。バッテリーは18%。あの充電方法はやはり気が進まず、できるだけ節約している。窓から差し込む月明かりが、部屋に淡い青白い光を落としていた。
そんな時、エマが柔らかな足音でベッドに上がってきた。彼女の銀色の髪が月光を受けて幻想的に輝き、まるで天の川のように流れていく。白いナイトドレスを着た彼女が、いつもより近い距離で横になったことに、心臓の鼓動が早まるのを感じた。ラベンダーの優しい香りがする。
「ねえ、その機械についてもっと教えてくれない?この前のSNSの他に何ができるの?」
エマの澄んだ青い瞳には純粋な好奇心が宿っていた。知らないものへの探究心で輝いている。その表情には少女らしさが満ちていた。
「そうだな...写真が撮れるよ」
「写真?」
エマは首を傾げた。彼女の銀色の髪が肩を滑り、襟元に流れ落ちる様子に目を奪われた。
「ああ、そうか。この国には写真はないんだよね」
そう言いながら、俺は改めてこの世界ともとの世界の違いを実感する。
「写真は、瞬時に絵を描く機能、と言えばいいかな」
エマの瞳が見る見る輝きを増した。まつげの下から覗く青い瞳が、星のようにきらめいている。
「それは、この世界にあるものを、正確に写し取れるということ?しかも瞬時に?」
「そうだね、やってみようか」
俺はスマホのカメラを起動させた。画面にはベッドに並ぶ俺とエマの姿が映っている。エマは驚きのあまり、小さく息を呑んだ。彼女の細い指が口元に当てられ、青い瞳が大きく見開かれた。
「鏡? とても明るいわ」
「いや、このボタンを押すと、写し取れる」
シャッター音とともに、一瞬の光が部屋を照らした。エマは驚いて小さく「きゃっ」と声を上げ、思わず俺の腕をつかむ。彼女の指先の温もりが、薄い服の袖を通して伝わってきた。
「ほら」
俺がスマホをエマに渡すと、彼女は恐る恐る画面を見た。そこには並んだ二人の姿が写っている。エマの表情が徐々に驚きから変わっていく。彼女の頬が薔薇色に染まり、青い瞳が喜びで潤んでいた。
「この機械は凄いわ!これを使えば、世界中の動物や植物を全部記録して、百科事典が作れるわ」
エマの声は興奮で少し高くなっていた。彼女の頭の中で、既に様々な可能性が広がっているのが見て取れる。知的好奇心に満ちた彼女の姿は、とても魅力的だ。
「それは正しい使い方だね。俺の国では、ほとんどの人が食べ物か自分の写真しかとってないけど」
笑いながら言うと、エマは驚いた表情を浮かべた。普段は落ち着いたエマの、珍しい表情の一つ。それが不思議と愛らしい。
改めて、二人の写真を見つめる。エマの銀色の髪と青い瞳、俺の普通の顔。並んだ二人の姿に、何か不思議な感覚を覚える。恥ずかしくなるのと同時に、「ずっとこれでいいのか」という思いが突然湧いてきた。
「ごめん、ベッド狭いよね」
唐突に言葉が漏れた。エマは少し驚いたように俺を見つめた。その瞳に戸惑いが浮かんでいる。銀色の前髪が少し乱れ、彼女の表情を一瞬隠した。
「広くはないですけど...」
彼女の声は小さく、普段の自信に満ちた話し方とは違っていた。レースの裾を無意識に指でいじりながら、彼女は視線を少しそらした。ランプの温かい光に照らされた彼女の横顔は、あまりにも儚げで美しい。
「少し前から言おうと思っていたんだけど、俺、給料もらえるようになったし、自分で部屋を借りようと思うんだ」
言葉にした瞬間、エマの表情が変わるのが見えた。彼女の青い瞳が一瞬だけ曇り、薄紅色の唇が小さく震えた。ただ、それは一瞬のことで、すぐに彼女はいつもの冷静な表情に戻った。
「そうですか...」
エマは静かに言った。その声には何か言いたげな響きがあった。彼女は両手を胸の前で組み、少し考え込むような表情になる。白いナイトドレスの襟元のレースが、ランプの明かりで繊細な模様を浮かび上がらせていた。
「でも、今のままでも問題はないと思います。私は別に不自由を感じていませんし...」
「いや、でも悪いよ。女の子の部屋に居候し続けるなんて...」
「理性的存在同士なら問題ないと思いますが?」
エマは少し強い口調で言った。普段は冷静な彼女から、今は少し感情が溢れている。彼女の頬が紅潮し、青い瞳に強い意志の光が宿っていた。
「そりゃそうだけど...」
俺が言葉に詰まっていると、エマは突然、意を決したように姿勢を正した。
「では、こう考えたらどうでしょう。テルの部屋に私が居候をしている、と」
「…どういうこと?」
俺はエマの提案に首を傾げる。彼女は深呼吸をして胸を膨らませてから、真っ直ぐに俺を見つめた。その眼差しには、いつもの理性的な強さが戻っていた。
「答えてください。テルの部屋に私が居候をしているとしたら、あなたは私を追い出しますか?」
「いや、追い出さないけど...」
「それならば、そうすればいいのです。明日から、この部屋はあなたの部屋です。私はこの部屋の貸借権をあなたに譲渡します。そして、明日から、私はこの部屋に居候します」
驚きのあまり、言葉を失う。エマの論理は明快だが、あまりに突飛な発想だった。彼女は少し得意げに微笑んだ。その表情には珍しい茶目っ気が混じっていた。小さな鼻がかわいらしく動き、目尻が楽しげに細められる。
「いや、それはそうだけど、そんな考え方って...」
「これが『コペルニクス的転回』です」
エマは姿勢を正して、まるで教壇に立つ教師のように説明を始めた。
「昔の人々は、地球が宇宙の中心で、太陽や星が地球の周りを回っていると考えていました。でも実際には、地球が太陽の周りを回っていたのです」
彼女は手を優雅に動かして天体の動きを模しながら、説明を続ける。
「同じように、私たちの思考にも『転回』が必要なのです。今まであなたは『エマの部屋にテルが居候している』という見方をしていた。でも、それを『テルの部屋にエマが居候している』と視点を変えれば、問題は解決します」
彼女の瞳は真剣さで輝いていた。何かについて説明する時のエマの姿勢は、背筋がピンと伸び、肩のラインが美しい。
「問題の解決策が見つからない時、視点を変えることで新たな解決法が見えてくることがあります。これこそが『コペルニクス的転回』の本質です」
エマが説明する姿は誇らしげで、俺は思わず見入ってしまった。彼女の言葉には説得力があり、心の中のある種の重荷が取れていくのを感じた。
「私たちが世界を見るとき、実は自分の頭の中の枠組みを通して見ているんです。その枠組み自体を変えることで、同じ世界なのに、全く違って見えることがあるのです」
「なるほど...」
俺は少し考え込んだ。エマの提案は理に適っている。そして何より、俺の中に彼女と離れたくないという気持ちがあることに気づいた。
「それに...」
エマの声が少し小さくなり、頬が赤くなった。彼女は視線を少しそらし、細い指で銀色の髪を耳にかける仕草をした。ランプの明かりに照らされた彼女の横顔、長いまつげが下がり、頬にかすかな影を作っていた。
「私もあなたといると...安心します」
その言葉に、胸が温かくなった。この瞬間、俺たちの関係に何かが変わった気がした。
「わかった。じゃあ、明日からここは、俺の部屋だ」
エマの表情が明るくなり、彼女はほっとしたように微笑んだ。その笑顔には純粋な喜びが溢れていて、胸が締め付けられるような感覚になる。彼女の青い瞳がランプの光を反射して、まるで夜空の星のように輝いていた。
「これからもよろしくね、家主さん」
エマの声には珍しい冗談めいた調子があり、俺も笑顔で答えた。
「こちらこそ」
二人の笑い声が、オレンジ色のランプの明かりが広がる部屋の中に静かに満ちていく。スマホの画面に映る二人の写真が、この瞬間を永遠に留めていた。視点を変えることで、世界も変わる。コペルニクス的転回。エマは俺に、新しい見方を教えてくれた。
「良い夜ね」
エマが楽しげに窓を開けると夜風が流れ込み、エマの銀色の髪を優しく揺らした。その瞬間、彼女の姿は月の光そのものに見えた。
コペルニクス的転回:カント(1724-1804)が『純粋理性批判』で用いた比喩で、それまでの哲学が「私たちの知識は対象に合わせるべき」と考えていたのに対し、カントは「対象の方が私たちの認識の仕組みに従う」という発想の大転換を提唱しました。例えるなら、私たちは色眼鏡をかけて世界を見ているようなもので、その眼鏡を通さずに「物そのもの」を直接見ることはできないという考え方です。