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第13話:小ジャンヌと「実存」

その日の午後、俺はいつものように学院の敷地を巡回していた。空は澄み渡る青さで、木々の間を通り抜ける風が心地よく頬を撫でる。緑豊かな中庭を歩いていると、この前と同じベンチに小ジャンヌが一人座っている姿が目に入った。


制服姿の彼女は、まるで絵画の中の人物のように静かに佇んでいた。細い指先が本のページをめくる仕草は繊細で、時折風に揺れる黒髪が彼女の白い頬を優しく撫でている。先日の「嘔吐おうと」の件が気になり、俺は少し離れた場所から彼女を見守ることにした。


石畳の小道に立ち、木々の間から彼女の様子をうかがう。風が吹くたびに、彼女の黒い髪がなびき、陽光を浴びて美しく輝いていた。


すると、ジャンヌが細いブラックフレームの眼鏡の奥から、突然俺の方に視線を向けた。薄茶色の瞳と俺の視線が絡む。そして次の瞬間、彼女が前かがみになり、嘔吐したように見えた。


「大丈夫か!」


俺は慌てて走り寄った。心配で駆け出す足音が石畳に響き、小鳥たちが驚いて木々から飛び立つ。ジャンヌのそばに着くと、彼女はレースの縁取りがある白いハンカチで口元を覆い、うつむいた状態でかすかに呟いた。


「ええ、ちょっと気分が...」


不思議なことに、先日と違って顔色が特別悪いようには見えなかった。むしろ、頬には薄紅が差し、長いまつげの下から覗く瞳には生気が宿っているようにも見える。


「ちょっと歩けなさそう...医務室に連れて行ってくださるかしら」


ジャンヌは震える声でそう言った。その声には弱々しさの中にも、どこか甘美な響きが混じっている気がした。目の前で具合が悪そうにしている生徒を放っておくわけにはいかない。彼女の細い体、儚げな佇まい、震える白い指先を見ていると、まえのように抱き上げるしかないと悟った。


「じゃあ、失礼します」


俺は一旦深呼吸して、ジャンヌを抱き上げた。やはり、彼女の体は驚くほど軽かった。シルクのようにさらさらした黒髪が俺の腕に触れ、かすかなユリの香りが鼻をくすぐる。彼女の細い腕が俺の首に回され、その温もりに少し動揺する。


周囲にいた生徒たちの視線が痛い。驚きの声、そして羨ましそうなため息が聞こえてくる。制服姿の少女たちが指をさして囁き合い、中には頬を赤らめて目を逸らす子もいた。


医務室に到着し、ドアを足で押し開けると、ベル先生が書類を整理していた。豊かな金髪が肩で弾むように揺れ、白衣の下から覗く胸元に目がいかないよう、俺は必死に視線をコントロールする。俺を見た瞬間、彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。唇の端が少し上がる。


「まぁ、お姫様のご到着かしら?」


彼女の声には茶目っ気が含まれていた。緑色の瞳が楽し気に輝く。俺は少し恥ずかしさを感じながら、ベッドにジャンヌを寝かせる。白いシーツの上に横たわる彼女の黒髪が、鮮やかなコントラストを作り出していた。


「それじゃ、僕はこれで...」


立ち去ろうとした瞬間、ジャンヌの細い指が俺の手首を掴んだ。その白い指先には意外な力が込められていて、まるで蔦が絡みつくように離れない。その指の力は弱々しいのに、なぜか逃れられない強さを感じる。


「不安なので...そばに居て欲しいです」


彼女の声は震えていた。薄茶色の瞳は涙で潤み、長いまつげに水滴が宿っている。頼りなさげに俺を見上げる彼女の表情には、どこか計算されたような魅力があった。そんな目で見られたら、断る理由が見つからない。彼女はそっと俺の手を引き、ベッドの方に近づけた。


俺が腰掛けると、彼女は身を起こして、不意に俺の耳元に唇を寄せた。柔らかな吐息が耳を撫で、ユリの香りに動揺する。その仕草には意外な大胆さがあった。


「あなたの『実存じつぞん』が見たいの」


ジャンヌの囁きに、思わず体が硬直する。「実存」という言葉の意味がわからないのに、なぜか心臓の鼓動が早くなった。まるで魔法の言葉を囁かれたかのような感覚だ。


俺は慌てて立ち上がり、少し距離を取る。窓際まで後ずさりして、背中を向けた。外の景色に目を向けることで、なんとか心を落ち着けようとする。


そのとき、突然、医務室のドアが勢いよく開いた。振り向くと、息を切らせたルーシーがそこに立っていた。彼女の長い黒髪は少し乱れ、普段は完璧に整えられている前髪が行き場を失っている。ブルーのリボンが彼女の呼吸に合わせて揺れる。いつもの冷静な表情が崩れ、頬は薄紅に染まり、息は荒く、紺碧の瞳には焦りの色が見える。


「中庭…いいえ...本学院の庭園に...」


ルーシーは一瞬言葉に詰まり、自分の言い方を厳しく吟味するように眉を寄せた。細い指で額の前を払い、整えようとするが、うまくいかない。


「本学院の中央校庭領域において、約5分前に、推定身長180センチメートル程度、筋肉質の上半身を持つ成人男性が、長さ約1メートルの片刃剣を右手に所持した状態で侵入し、現在も滞在中であることを報告します」


ルーシーは一息つくと、蒼白になった顔でさらに続けた。額に浮かぶ汗が彼女の緊張を物語っている。


「侵入した男の精神状態は、観察される身体的兆候、具体的には歩行の不安定性、発声の粗雑さ、顔面の紅潮から推測するに、アルコールの影響下にある可能性が高いです。周囲の生徒たち30名弱は、恐怖により逃避行動を取っており、このままでは...」


彼女は自分の言葉が長くなりすぎていることに気づいたように、急に言葉を切った。


「すなわち、危険です。非常に危険な状況です」


「わかった、今行く!」


俺は即座に返事をして、腰のエミールの剣を確かめる。ルーシーはまだ何か言いたそうに口を開きかけたが、言葉の正確さと簡潔さの間で葛藤している様子で、最終的にはただ頷くだけだった。彼女の表情には強い不安が浮かんでいた。


俺は医務室を飛び出し、廊下を駆け抜ける。石畳の上を走る足音が心臓の鼓動のように響く。制服姿の生徒たちが廊下の壁際に身を寄せ、恐怖と期待の入り混じった表情で俺を見送る。剣を持った男と対峙できる自信は何一つないが、「衛兵」という役割が俺の体を中庭に向かって走らせていた。


実存じつぞん:キルケゴール(1813-1855)やサルトル(1905-1980)、ハイデガー(1889-1976)らが展開した哲学的立場で、抽象的な理論よりも具体的な「実存」(実際に存在すること)を重視します。特に「実存は本質に先立つ」というサルトルの言葉のように、人間はあらかじめ決められた本質を持たず、自分自身の選択と行動によって自分を形作っていくと考えます。

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こちらは「完全版」です。 「ライト版・挿絵入り」はこちら
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