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第11話:ベルナデットと「悪の必要性」

午後の陽射しが石畳の廊下に斜めに差し込み、窓ガラスを通った光が幾何学模様の影を作り出していた。警備の巡回を終えた俺は、足が勝手に医務室へと向かっていることに気づいた。


「気になるな...」


小ジャンヌのことだ。あの蒼白い顔、薄茶色の瞳に宿る不思議な光、そして「存在」について語る彼女の言葉が、頭から離れなかった。


医務室のドアをノックすると、中から陽気な声が返ってきた。


「どうぞ」


ドアを開けると、ベル先生が窓際のデスクで何やら書類を整理していた。明るいブロンドのウェーブヘアが午後の陽光を受けて金色に輝き、白衣の下の豊かな曲線が思わず目に入る。慌てて視線をそらした。


「おや、衛兵くん。また会えて嬉しいわ」


ベル先生は微笑みながら立ち上がり、俺に向かって歩いてきた。その歩き方には独特の優雅さがあり、彼女の周りには甘い香水の香りが漂っていた。


「小ジャンヌが気になったの?」


その質問に、思わず頬が熱くなった。見透かされている気がする。


「いや、その...そうですね」


正直に答えると、ベル先生は嬉しそうに笑った。その笑顔には純粋な喜びが溢れていて、露出した鎖骨のラインが美しい。


「正直で良い子ね。彼女なら元気になって教室に戻ったわよ」


ベル先生は俺を椅子に座るよう手招きした。その指先の動きさえ優雅だ。医務室の窓からは、中庭で行き交う学生たちの姿が見える。皆、規律正しく、目的を持って動いている。


「しかし、この学院の生徒は少し心配。真面目すぎるのよ」


ベル先生は窓際に歩み寄り、緑色の瞳で外を見つめながら言った。午後の光が彼女の横顔を照らし、その表情に少し物憂げな影を作り出していた。


「確かに、俺もそう思います」


ベルは医務室の棚から小さな瓶を取り出し、それを光に透かして見た。瓶の中の液体が太陽の光を受けて、美しい琥珀色に輝いている。


「この学院では、みんな『理性』という名の下に、完璧に振る舞おうとしているの。だけど、人間って本当にそうあるべきなのかしら?」


その言葉に俺は思わず頷いた。彼女の細い指が瓶を回す様子には、何か魔術師のような神秘性があった。


「社会が『善』だけで成り立つと思う?」


突然の問いに、答えに詰まる。


「えっと...もちろん善いことの方がいいんじゃ...」


ベル先生は小さく笑った。その笑い方には、優しさと共に何か深い知恵が感じられた。笑う時に現れる頬のえくぼが可愛らしい。


「それは違うの。社会は『私悪しあく』があってこそ、機能するものなの」


「私悪?」


「そう。個人の小さな『悪』や『欲望』が、実は社会全体の繁栄につながることがたくさんあるのよ」


ベル先生は椅子に座り、クロスした脚を揺らしながら俺の目をまっすぐ見つめた。彼女の緑色の瞳には深い洞察が宿っていた。スリムな脚のラインが目に入る。


「例えば、虚栄心。自分をよく見せたいという欲望は、一見すると悪徳にも思えるでしょう?だけど、その虚栄心があるからこそ、人は美しい服を求めるし、職人はより良い品物を作り出し、商人は商売で繁盛する」


俺は黙って聞いていた。ベルの言葉には説得力があった。彼女が話すたびに、甘い香りが漂ってくる。


「贅沢も同じ。贅沢は無駄遣いのように思えるかもしれないけど、それが多くの人の雇用を生み出して、お金が循環して社会全体が豊かになるのよ」


ベル先生は立ち上がると、外を見つめながら続けた。白衣がふわりと揺れ、彼女の体のラインを優美に描き出している。


「人間の欲望や弱さが、社会を動かす原動力になっているのよ。だからこそ、完璧に『善』だけを求める社会は、実は脆いものなの」


「でも、だからといって悪いことをしていいわけじゃないですよね?」


「もちろん。でも、完璧を求めることも同じぐらい危険なのよ。この学院の生徒たちは、あまりにも『理性』という理想に縛られすぎている」


ベル先生はため息をついた。


「だから私は、ここに生徒が来るたびに、ちょっとした『悪』を注入することにしているの。彼らが自分の感情や欲望と向き合えるようにね」


彼女は俺に向き直った。赤みを帯びた唇が魅惑的に微笑む。


「あなたも私と悪いことをしてみない?」


その瞳は魅惑的だった。


「え?」


突然の誘いに、戸惑う。心臓の鼓動が速くなった。ベル先生が一歩近づくと、彼女の香水の甘い香りに包まれる。


「い、いや、俺は衛兵なので...」


ベル先生は明るく笑った。その笑い声は純粋で、さっきまでの何かを企む表情とは一変していた。彼女が笑うと、緑色の瞳がさらに輝きを増す。


「真面目ね。まずは、恥ずかしさを克服するところから始めましょう」


ベル先生は机に向かい、背を向けたまま言った。


「何か、恥ずかしいことをここでやってみるのよ」


「恥ずかしいこと...」


脳裏に浮かんだのは、あの発電ポーズ。「エレキテル」だ。思い出すだけで顔が熱くなる。


「どうしたの?思いついたことがあるみたいね」


彼女の洞察力は鋭かった。その緑色の瞳が俺の心を見通しているようだった。彼女は首を少し傾げ、ブロンドの髪が肩を滑り落ちる。


「いや、その...」


ためらう俺に、ベル先生は優しく微笑んだ。その笑顔には不思議な安心感があった。


「大丈夫よ。ここは医務室。誰も入ってこないわ。自分の恥ずかしさと向き合うのは大切なことなのよ」


俺は深呼吸して覚悟を決めた。スマホの充電のためとは言えないが、どこかでやらなければならないことだ。


「失礼します」


俺は立ち上がり、両手を胸の前にクロスさせた。手のひらを胸に向け、「エレキテル...エレキテル...」と小声で唱え始める。


ベル先生は真顔で俺を見つめていた。その視線に焼かれるようで、ますます恥ずかしくなる。


「もっと大きな声で」


彼女の命令に従い、声を上げる。


「エレキテル、エレキテル...」


数分が経過し、汗が背中を伝い落ちる。もう十分だろうと思い、止めようとすると...


「続けて」


ベル先生は冷たい表情で言い放った。その目は何かを観察しているかのように鋭く、研究者が実験対象を見るような眼差しだった。その厳しさの中にも、どこか艶めかしさが潜んでいる。


何かのプレイなのか?と思いながら、俺は指示に従った。「エレキテル」の詠唱は15分ほど続き、腕が痛くなり始めた頃、ようやくベル先生は満足げな表情を見せた。


「そろそろいいわよ」


俺はへとへとになって椅子に崩れ落ちた。シャツが汗で少し濡れている。


「どう? まだ恥ずかしい?」


彼女の問いかけに、自分の感情を探る。確かに、最初ほどの恥ずかしさはなくなっていた。


「いえ、慣れた気がします。少なくとも、先生の前では」


ベル先生は嬉しそうに笑った。その笑顔には太陽のような明るさがあった。彼女の笑い声は医務室中に響き渡り、不思議と心地よい音色に感じられた。


「それが大切。恥ずかしさは繰り返すことで薄れていく。人間の感情とはそういうものなの」


ベル先生は立ち上がり、窓際まで歩いた。陽光で彼女の輪郭が神々しく輝き、ブロンドの髪が金色の光の中で溶けるように見えた。


「理性も大切だけど、感情や欲望と向き合うことも同じくらい重要よ。完璧を求めすぎることで、自分自身を見失わないようにね」


彼女の言葉には深い知恵が感じられた。ただの校医ではなく、この学院で独自の哲学を持って生徒たちと接している人なのだと分かる。


「ありがとうございます。勉強になりました」


医務室を後にする際、俺はポケットからスマホを取り出し、左手で持ってみた。5%だったバッテリーが20%まで回復していく。あの恥ずかしい行為が実を結んだのだ。ただ、やはり1分1%は渋い。


廊下に出て、静かに呟いた。


「これからは、ここでやるか、エレキテル」


夕暮れの光が廊下に差し込み、俺の影を長く伸ばしていた。恥ずかしさを乗り越えることの大切さと、完璧ではないながらも前に進む勇気を、俺は医務室で学んだのかもしれない。


王立学院の時計塔から鐘の音が響き、一日の終わりを告げていた。明日はどんな出会いが待っているのだろう。異世界での衛兵生活は、まだ始まったばかりだった。


私悪しあく:マンデヴィル(1670-1733)が『蜂の寓話』(1714年)で提唱した概念で、個人の利己的行動や悪徳が思いがけず社会全体の利益につながるという逆説的な考え方です。例えば、贅沢品への欲求が経済を活性化させたり、競争心が技術革新を促したりするように、個人の「悪い」欲望が社会にとっては良い結果をもたらすことがあるという洞察は、現代の経済学にも影響を与えています。

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