第10話:小ジャンヌと「存在の本質」
その日も俺は、朝から衛兵のルーチンをこなしていた。校門から校舎、中庭へと巡回する。
石畳の小道を歩いていると、中庭の一角にある古びたベンチに、一人の少女が座っているのが目に入った。風に舞うセミロングの黒髪、華奢な肩を持つ小柄な体に学院の制服。細いブラックフレームの眼鏡と対照的な白い肌、薄茶色の瞳は何かに悩んでいるようで、時折細い指で前髪をかき上げる仕草が印象的だ。
「大丈夫だろうか...」
声をかけようかどうか迷っていると、突然、彼女は前かがみになり、地面に向かって嘔吐した...ように見えた。驚いて駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。蒼白な頬に薄紅が浮かび、薄茶色の瞳は涙で潤んでいる。細い指で震えながらハンカチを握って口元を覆い、か細い声で答える。
「...大丈夫です、お恥ずかしいところをお見せしました」
立ち上がろうとするが、スカートの裾をつかむ指先に力が入らず、膝がガクガクと震えて立てない様子だ。これは放っておけない。
「医務室にお連れします。お名前は?」
「ジャンヌ・ルシエです」
その名前に一瞬驚いた。校長先生と同じジャンヌという名前。生徒たちの間で「小ジャンヌ」と呼ばれている子だろうか。
「じゃあ、失礼します」
彼女を抱き上げると、小ジャンヌは想像以上に軽かった。まるで抱き枕を持ち上げたような感覚。人生で初めてのお姫様抱っこに、俺自身が少し動揺する。柔らかな体温に心臓の鼓動が速くなった。小ジャンヌは頬を赤らめながらも大人しくしていた。その細い腕が恥ずかしそうに俺の首に回される。
周囲の学生たちから羨望と驚きの声が聞こえてくる中、俺はできるだけ堂々と医務室へと向かった。
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医務室に着いたが、どうやら誰もいないようだ。とりあえず、ベッドに彼女を横たえ、ベッドサイドの椅子に座った。
「ありがとうございました」
小ジャンヌは小さくそう言って、かすかに微笑んだ。薄紅色の唇が優しく弧を描き、顔色も少し良くなったようだ。
「気分はどうですか?何か悪いものでも食べましたか?」
「いえ...」
彼女は長いまつげを伏せ、窓の外を見つめながら言った。小さな手でシーツを握りしめる様子に、まだ不安が残っているようだ。
「中庭でマロニエの木の根を見つめていたら、突然、吐き気が...」
俺は首を傾げた。マロニエの木の根?どういう状況なのか理解できない。
「もしかして…植物アレルギーですか?」
小ジャンヌは首を横に振った。その動きに合わせて、黒髪が頬を撫でる。
「突然、その植物の『ありのままの姿』が見えてしまったんです。いつもなら『木の根』という言葉で包み隠されているものが、むき出しになって...」
彼女の言葉は謎めいていたが、震える唇と蒼白な指先には本物の恐怖が宿っていた。
「確かに、木の根ってよく見るとなかなかグロいですよね」
俺は共感を示そうとするが、いまいち成功していないのが分かって辛い。
「『木の根』という名前が消え去って……そこにあるだけの『何か』になってしまったんです...」
小ジャンヌは震える手で口元を押さえた。長い指が白い頬に影を落とし、薄茶色の瞳には言葉にできない恐怖が浮かんでいる。俺は思わず彼女の手を取り、少し力を込めて握った。彼女の指は冷たく、かすかに震えていた。
「大丈夫ですよ。ここは安全です」
「ありがとう...でも…」
彼女の薄茶色の瞳は、何かを見透かすように俺を見つめていた。その眼差しは深く、まるで魂の奥底まで覗き込まれているようだった。
「私たちは普段、言葉で現実を覆い隠して生きています。ものに名前を付けて安心している。でも、その覆いが剥がれると...ただ『そこにある』だけの不気味なものが見えてしまうんです...」
俺は何と答えていいか分からなかった。彼女の言葉は理屈っぽいが、どこか心に響くものがあった。まるで自分も感じたことがある不安であるかのように。
その時だった。ドアが勢いよく開き、会話が中断された。肩まであるブロンドヘア、キラキラと輝く緑色の瞳をしたベル先生が部屋に入ってきた。そして、白衣!豊満な胸元が強調される白衣姿に、思わず目が行ってしまう。
「ごめんなさいね。大ジャンヌに呼ばれて少し話をしていたの」
ベル先生は小ジャンヌに歩み寄ると、額に手を当て、熱がないことを確認する。その動作には慣れた優しさがあった。長い指先が小ジャンヌの髪を優しく梳かす様子は、まるで姉妹のようだ。
「また『嘔吐』?」
小ジャンヌはうなずいた。二人の間には、この状況に慣れた空気が流れていた。ベル先生は小ジャンヌに何か薬を飲ませながら、俺に説明し始めた。柔らかな声音が印象的だ。
「ジャンヌはね、時々『ものの本質』に対して敏感になりすぎるの。彼女は普通の人が気づかないことを感じ取ってしまう...そういう特別な感性の持ち主なのよ」
ベル先生は優しくジャンヌの髪を撫でた。艶やかな指先と真っ黒な髪のコントラストが美しい。
小ジャンヌは薬を飲み終え、少し落ち着いた様子で俺を見つめた。さっきより顔色がよくなり、瞳にも力が戻ってきている。
「テル...あなたは、自分がここにいる理由を知っていますか?」
小ジャンヌからの突然の質問に戸惑う。
「理由? 王立学院の衛兵として...」
「いいえ、この世界に生きている理由です」
彼女の問いかけに、心臓が一拍跳ねた。考えたこともなかった。自分がこの世界に存在する理由。サンデラが言った「自分を救ってください」という言葉の意味すら、全く分からないのに。
「まだ...分からない」
「私たちは皆、意味を求めて生きています。でも、本当は...」
ベル先生が小ジャンヌの言葉を遮った。その横顔は少し厳しさを含んでいる。
「もう十分よ、ジャンヌ。休息が必要なの。哲学の話はまた今度ね」
小ジャンヌは諦めたように目を閉じた。ベル先生は俺に向き直り、小声で言った。
「彼女は優秀な生徒だけど、時々こうして『生きることの重さ』に押しつぶされそうになるの。見つけてくれてありがとう、素敵な衛兵さん」
「いえ、衛兵としての務めです」
「それにしても、お姫様抱っこ...今頃、学院中の噂になってるわね。小ジャンヌのファンクラブの生徒たちに恨まれないように気をつけて」
ベル先生はくすりと笑った。その笑顔には優しさと知性が滲んでいた。
窓から差し込む光が、静かに眠るジャンヌの顔を照らしていた。長いまつげの影が頬に落ち、薄紅色の唇がかすかに開いている。その表情は穏やかで、さっきまでの苦悩は消えていた。
「またぜひ彼女と話してあげて。あなたのことを気に入ったみたいだから。彼女、普段は自分からは人に話しかけないのよ」
ベル先生の言葉に、なぜか胸が温かくなった。
「ええ、もちろん」
医務室を後にする時、最後にジャンヌの寝顔を見た。小さな体で、大きな「生きることの謎」と向き合う彼女の姿に、なぜか心を打たれた。
「存在とは何なのか...」
そんな問いを胸に抱きながら、俺は再び学院の警備に戻った。腰の剣が軽く揺れる音が、静かな廊下に響いていた。
嘔吐:サルトルの小説『嘔吐』(1938年)に由来する概念で、実存主義哲学における重要な観念です。日常生活の中で突然「なぜこの世界があるのか」「なぜ私がここにいるのか」という根本的な疑問に直面したときに感じる違和感や吐き気のような感覚を表します。普段は気づかない「存在の不思議さ」に気づいた瞬間の体験を象徴しています。