第9話:ベルナデットと「黒衣」
朝の光が石造りの校舎を優しく照らしていた。今日から俺は正式に王立学院の衛兵としての任務を開始する。腰に下げたエミールの剣が歩くたびに小さく揺れる感覚に、まだ慣れない。手のひらを触れると、鞘の冷たさと同時に不思議な安心感を覚えた。
「さて、何から始めればいいんだ...」
誰からも具体的な指示はなく、とりあえず「学院内の警備」という漠然とした任務だけが与えられている。校門から校舎、中庭と順に見回ることにした。
石畳の廊下を歩いていると、中庭の方から生徒たちの騒がしい声が聞こえてきた。何事かと駆け寄ると、制服姿の女子生徒たちが人垣を作って、おびえた様子で中央を見つめている。
目を凝らすと、そこには野犬が迷い込んでいた。中型の痩せた茶色い犬で、うろうろと落ち着かない様子だ。生徒を咬んだりしたら大変だ。俺は追い出すことにした。
「みんな、後ろに下がって」
俺の声に生徒たちが振り返る。制服姿の少女たちの表情に安堵の色が浮かび、自然と道を開けてくれた。実家では犬を飼っていたから、犬は苦手ではない。追い出すのは可哀想な気がするが、この世界では狂犬病などもあるだろうから、そうも言っていられない。
「こっちにおいで…」
俺はゆっくりと、低い姿勢で犬に近づいた。犬は警戒して唸り声を上げる。剣を抜くことも考えたが、傷つける必要はない。ただ追い出せばいい。
「よし、こっちだ...」
剣の鞘で地面を軽く叩きながら、少しずつ犬を追い立てる。犬は怯えたように後ずさり、俺の根気に負けて、校門の方へと走り出した。俺もそれを追いかけ、最終的に学院の外へと追い出すことができた。
「ありがとう衛兵さん!」 「助かりました!」
制服姿の生徒たちが安堵の声を上げる。その笑顔に、衛兵としての仕事を果たした喜びを感じる。
一仕事終えて生徒会室に戻ると、エマがいた。いつものように銀色の髪を三つ編みにして、机に向かって書類を整理している。青い瞳が集中して紙面を追っていたが、俺が近づくと顔を上げた。
「あら、顔、どうしたの?テル」
エマの声には心配の色が混じっていた。顔に手をやってみると、指に血が付いた。夢中で犬を追い払っている間に、どこかで傷を作ってしまったらしい。
「大丈夫だよ。かすり傷だし」
「ダメ、絶対。小さな傷でも放っておくと熱が出たりするから」
エマは真剣な表情で立ち上がると、俺の手を取って廊下へと向かった。銀色の髪が彼女の動きに合わせて優雅に揺れる。
廊下を歩きながら、俺は朝の出来事を彼女に説明した。
「野犬は理性を持たない生き物だから、危険よ。咬まれなくて良かったわ...」
やがて二人は医務室らしき部屋の前に到着した。エマが扉をノックする。
「どうぞ」
中から女性の声がした。エマは扉を開けて、俺を部屋に引き入れた。
部屋に入ると、机の前に座っていた女性が振り返った。肩まで伸びた明るいブロンドのウェーブした髪、キラキラと輝く緑色の瞳。青い簡素なドレスの上に黒いローブを羽織っている。
「どうしたの?」
女性は優しく微笑みながら二人を見た。
「テル...衛兵の方が、顔に怪我をされたので連れてきました」
エマの声は冷静だったが、青い瞳には不安の色が浮かんでいる。
「どれどれ、座って」
女性は立ち上がり、俺に近づいてきた。彼女の指が俺の顔に触れる。顔が予想以上に近づいて、思わず動揺する。女性の吐息が首筋にかかり、甘い香りが鼻をくすぐった。
「かすり傷ね。ほっとけば治るわ」
女性が笑った。エマの方を見ると、彼女は眉間にしわを寄せている。銀色の髪が肩で揺れ、その視線には不満の色が浮かんでいるようだった。
「でも先生、かすり傷だからと軽視できません。発熱から死に至ることもあります」
校医と思われる女性はエマの顔を見て、意味ありげに笑った。
「分かったわ。エマの大切な人だから、特別に丁寧に治療しましょうね」
エマの頬が赤く染まる。長いまつげが下がり、瞳は床に向けられた。彼女の細い指がスカートの端を無意識に握りしめている。
校医は手際よく傷口を洗うと、何か白い粉末のようなものを塗ってくれた。その動きは無駄がなく、医師としての経験が感じられた。
「これでいいかしら? エマ」
「...はい。問題ないです」
「ところで、二人はどういう...」
校医が質問を切り出した瞬間、エマが遮った。
「私、これから授業なので失礼します」
そう言うと、エマは一礼して急いで部屋を出て行った。彼女の後ろ姿には、逃げ出すような慌ただしさがあった。
部屋には俺と校医が残された。窓から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしている。
「で、衛兵君、君の名前は?」
校医は再び俺に向き直り、艶やかな笑顔を見せた。黒いローブの下の青いドレスの隙間から覗く肌が、一瞬だけ目に入る。
「テルです」
「ベルナデット・マンディ。この学院の校医よ。よろしくね」
彼女の緑色の瞳には親しみと共に、何か人を魅了するものがあった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺は目をそらして答えた。しかし、何か違和感を覚える。無意識のうちに、もう一度ベルナデット先生の姿を観察していた。
「...何?テル、私に興味ある?」
ベル先生は意味ありげな表情で聞いてきた。その視線にたじろぐが、どうしても気になることがあった。
「あの、ベルナデット先生」
「ベルでいいわよ」
「ベル先生、この国では、その黒いローブが医師の一般的な服装なんですか?」
「そうよ。医師の威厳を示すとともに、汚れが目立たないという実用性もあるの」
俺の中で何かが爆発した。直前まで感じていた緊張感も吹き飛び、突然言葉が溢れ出た。
「ベル先生、医師と言えば白衣です!黒衣などもってのほかです。第一、夢がありません。白衣にはロマンがあります。白衣は素晴らしい。白衣にすべきです!」
言い終わってから、自分の熱弁ぶりに自分でも驚いた。なぜこんなことを...。
ベル先生は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに楽しそうに笑い出した。
「どうして、君は白衣にそんなにこだわるのかしら?」
自分の愚行を恥じながらも、場を取り繕う努力をする。
「すみません。俺の国では、医師や看護師はみな白衣を着用しているんです」
「そうなの。その意味は?」
「ベル先生は先ほど、黒衣は汚れが目立たないとおっしゃいましたが、汚れは目立つ方がいいんです。薬品や飛沫などが付着した場合、すぐに分かりますから、洗うことができて、清潔なんです」
ベル先生は指を顎に当て、考え込むようなポーズをとった。その仕草には優雅さがある。
「確かに、テルの言うことには一理あるわ。医師の威厳などよりも、そうした実用性の方が重要かもしれないわね」
安堵する俺。話の方向も修正されて良かった。
「テル、その『白衣』について、もう少し詳しく教えてくれる?」
ベル先生が関心を示したことに喜びを感じ、俺は情熱を持って説明した。手で形を示しながら、それがローブとジャケットの中間ぐらいの長さで、簡素な襟があり、比較的薄手で、前でボタンを留められることなど、デザインを詳細に伝える。
「なるほど。これは一考の価値があるわ」
ベル先生は真剣な表情で頷いた。彼女の緑色の瞳に興味の光が灯り、ブロンドの髪が肩で弾むように揺れた。
「早速試してみるわ。貴重な知識をありがとう、テル」
「こちらこそ、治療していただきありがとうございました」
俺は立ち上がった。ベル先生も立ち上がり、再び俺の顔に両手で触れる。顔を近づけられ、心臓が速く打つ。彼女の指の温もりと香りに、思わず息を呑む。
「問題ないわね。また来るといいわ。ここは気軽な場所だから」
そう言ってベル先生は笑った。その笑顔には純粋な親切さと、何か別の感情が混ざり合っているようだった。
——
その日の夜、俺が医務室での出来事を話すと、エマはあからさまに機嫌が悪くなった。それでも、彼女は自分ではそれを隠しきれていると思っているのが可愛い。銀色の髪が少し乱れ、青い瞳には感情の揺らぎが見えた。
「エマは、ベル先生が嫌いなの?」
単刀直入に訊く。エマは驚いたように目を見開いた。彼女の長いまつげが上がり、頬がわずかに紅潮する。
一つ息をついて、彼女は話し始めた。
「ベル先生は悪い人じゃないわ。医師としても素晴らしい能力を持っている」
エマの眉間にしわが寄る。彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「でも、彼女は理性よりも『傾向性』を重視しているような気がするの。わざと他人の傾向性を煽るというか...」
俺は医務室での出来事を回想する。確かに、自分の中の白衣への「傾向性」が突然爆発したのはベル先生の魔力か。
「確かにそうかもしれないね。何か意図があって、ベル先生は他人の傾向性を刺激しているのかもしれない」
俺は自分への言い訳と共に、最大限理性的な言葉で語った。
「そうかもしれないけど、私は、とにかく、医務室にはできるだけ行きたくないの!」
エマがきっぱり言い切った。銀色の髪が彼女の決意と共に揺れ、青い瞳には珍しい感情の波が見えた。
確かに、品行方正なエマと、何か妖しげなベル先生は相性が悪いのかもしれない。窓から入る月明かりが、すこし怒ったエマの横顔を銀色に染め上げていた。
その夜、俺は興奮で少しの間寝付けなかった。ベル先生に、ではなく、自発的に何かを提案し、それが採用されたことについてだ。現世で、俺は何となく受け身に過ごしてきた。しかし、とりあえず、この世界では「白衣の伝道者、ここに眠る」と墓標に刻んでもらうことができそうだ。それはこの世界にとっては小さな事かもしれない。しかし、俺にとっては巨大な足跡だ。明日から、もう少しだけ積極的にこの世界に関わってみよう、そう思いながら、俺は眠りに落ちた。