プロローグ
「うわっ! また遅刻か!」
のぞき込んだスマホの画面に「9:37」と表示されている。一限の英語はとっくに始まっていた。
俺、浅田直照。大学2年。特技は寝ること、欠点も寝ること。目覚まし時計を三台セットしても、自動的に止めている男。
「4回目の欠席...落単確定じゃん」
ベッドから飛び出す。昨夜は『異世界転生~最強魔道士の俺がゴブリン討伐から始める英雄譚~』を読んでいたら午前3時。6時間の睡眠じゃ、10時間睡眠の俺には全然足りない。
「単位、マジでヤバい」
歯を磨きながら服を着る。鏡の中の顔は青白く、目の下にはクマができていた。朝食を抜いて玄関へ。靴のかかとを踏みながら外に出る。
アパートから駅まで10分、電車で15分、大学まで15分。どう頑張っても40分はかかる。絶望的だが、とりあえず出席だけでも取っておきたい。
「間に合ってくれ!」
道路に飛び出した瞬間、右から轟音が聞こえた。
振り向くと、大型トラックが猛スピードで迫ってくる。時間がスローモーションになる。響くクラクション、驚く運転手、銀色のバンパー、そして白い光。
「マジでお約束展開かよ…」
これまでの人生が走馬灯のように…めぐらない!?
「俺、何もない人生だったのか…」
そう思った瞬間、世界が真っ白になった。
——————
「………」
気がつくと、果てしなく広がる白い空間に立っていた。周囲には何もない。ただ、無限に続く純白の虚無。
「ここは…?」
声が虚空に吸い込まれていく。全身を確認すると、朝、家を出たままの服装だ。体に痛みはない。
「あぁ、これはあれだな」
『俺ゴブ』の冒頭で主人公が経験した展開そのものだ。俺は死んだのだ。
「いや、ワンチャン…」
思わず口から漏れる言葉は、絶望の中の一筋の希望だった。
「転生だよな? 転生であってくれ!」
異世界転生モノの鉄板展開通りなら、次は必ず女神様が出てきて、転生する俺に特別な力を授けてくれるはずだ。主人公の神剣とか、全ステータス・カンストとか…
「頼む…」
そう懇願した瞬間、目の前の空間がゆがみ始めた。まるで空気が結晶化するように、光の粒子が集まって人型を形成していく。
「おぉ…」
息を呑む俺の前に現れたのは、金色に輝く長い髪を持ち、純白のドレスに身を包んだ美女。全身から溢れ出る神々しいオーラが空間を満たしていた。長く繊細なまつげが光を受けて輝き、瞳の中には宇宙全体が映し出されているようだった。
「召喚されしものよ。我が名は女神サンデラ」
その神々しい声に喜びがわき上がる。
「転生ですよね!」
興奮のあまり声が裏返った。
「……ですね」
サンデラは一転してテンション低く、そう答えた。長いまつげの下の瞳が泳ぎ、純白のドレスの裾を無意識に指先で弄っていた。
「なんでそんな言いづらそうなんですか?」
「いや、別に…」
何かを隠しているようだ。彼女は髪の毛の一筋を指に巻きつけ、いじっている。
「で、どこに転生するんですか?中世ヨーロッパ風の異世界ですか?剣と魔法とか、そういう世界ですよね?」
期待を込めて畳みかける。
「まあ、世間で話題になるのはそういう世界だけど、実際はそれ、激レアですから」
そうなのか。でも、ここはもう、信じるしかない。
「あと、何かもらえるんですよね?転生特典として。チートスキルとか」
「……」
沈黙。不吉な予感が背筋を走る。
「なんで無言なんですか?」
「…転生スキル、今、在庫切らしていて…」
サンデラは両手を胸の前で組み、視線を逸らしながら言った。
「いや、在庫切れとかあるんですか?スキルって!」
常識を疑う発言に、思わず突っ込んでしまう。
「ここのところずっと、ハイシーズンなんですよ。転生業界」
サンデラは悲しげに呟いた。その表情には疲労の色が滲む。
「需要が増えすぎて、在庫の補充が追いつかなくて…」
「追いつかないって…神の力じゃないんですか?」
「神界にも発注のタイミングとか納期とか、あと関税とか、いろいろあるのです」
「じゃあ、俺、何もなしで転生しろと?それはないでしょ!」
流石にそれは納得できない。異世界転生モノでチート能力なしとか、ゴブリンの餌食になるのが関の山だ。
「わかりました。特例として…スマホ、持っていっていいです」
サンデラは長い指で自分の金色の髪をいじりながら言った。
「スマホ?」
言われて初めて気づいた。ポケットを探ると、確かに入学祝いで買ったiPhone 15が入っている。画面には「圏外」の表示と共に、バッテリー残量21%の文字が目に入る。
「でも、異世界ですよね?中世ヨーロッパ風の世界に電波なんてないじゃないですか?」
「そこは何とかします。神ですから」
サンデラは胸を張った。
「あ、元の世界への通話はダメです。いろいろ面倒なことになるので。ネットだけで」
「ネットがあれば、いいです」
実際、検索さえできれば、色々と応用が利く。魔法の知識、武器の作り方、錬金術のレシピ、モンスターの弱点…異世界サバイバルのための百科事典だ。
「…あ、バッテリーは…」
現実に引き戻される。スマホ最大の弱点、充電の問題だ。異世界にコンセントがあるとは思えない。
サンデラは再び気まずそうな表情を浮かべた。その眉が少し寄って、透き通るような頬が微かに赤く染まった。
「何とかします」
サンデラの顔に決意が浮かんだ。
俺は両手を合わせてサンデラを拝む。
「バッテリー無限スキルでお願いします」
サンデラはこめかみに人差し指をあてながら答えた。
「いえ、充電できるようにします」
「充電って…どこから?」
「体から」
「体って…どういう意味ですか?」
「体で発電できるようにします。試してみてください」
サンデラの提案に、なんだか胡散臭さを感じる。
「まず、胸の前で両手をクロスします」
言われた通りにしてみる。
「逆です。埼玉ポーズみたいに。手のひらを胸の方に向けて」
サンデラは自ら手本を示すように、優雅に手のひらを胸に向けた。その仕草はまるでバレリーナのように美しい。
言われたとおりにする。なんとなく不安感が増してきた。
「右手で左胸、左手で右胸をつまみます」
「なんでですか!」
思わず叫んでしまう。
「発電のハードルを高くしておかないと。あまり頻繁に発電されると、こっちもコスト的にね…」
全く納得いかない。
「今や神界でも電力は貴重な資源なのですよ。脱炭素、ゼロエミッション、知ってますか?」
彼女は真面目な顔で言った。どうも本気のようだ。俺は観念した。
「わかりました。これで発電できるなら、我慢します」
すると、サンデラが、いかにも今思いついたかのように付け足す。
「あとは、そのポーズのまま『エレキテル』と繰り返し唱えてください」
「なんでですか!いらないでしょ、それ!」
これはいくらなんでも恥ずかし過ぎる。俺は必死に抗議する。
「ハードル調整です」
サンデラはもはや開き直っている。
「やってみてください」
もはや、従うほかない。
「エレキテル、エレキテル…」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「1分繰り返すとスマホに1%充電できます」
サンデラはにっこりと微笑み、満足そうに言った。
「マジでハードル高すぎでは?」
「こちらもコスト度外視で特別にやってるんです。そこは理解してください」
サンデラは困ったような顔で俺を見る。
「…わかりました。では、体からスマホへの充電はどうやって?」
「左手でスマホを持つだけです」
言われたとおりに左手でスマホを持つと、ポンという音とともに、スマホに充電マークが表示された。瞬時にバッテリー残量が1%増えた。
「ここはハードル低いんですね」
「あなたの左の手のひらにMagSafe機能を追加しておきました。しかも下界では実用化されていない240W急速充電です。令和最新型です」
サンデラは少し誇らしげに言った。
「あの、一つ質問していいですか?」
訊いておきたいことがあった。
「俺のミッションは何ですか?何の目的で異世界に転生するんですか?」
「救ってください」
サンデラは真剣な表情で言った。その目には、一瞬だけ深い悲しみが映り込んだように見えた。
「世界をですね」
「いいえ、あなた自身をです」
サンデラはにっこりと微笑んだ。
「…どういうこと?」
「行けば分かります」
この女神は転生者に冷たくないか。
「それじゃあ…行ってらっしゃい」
サンデラはこちらに背を向け、あっさり立ち去ろうとする。
「ちょっと待って。転生後のサポートは?スマホで、あなたと通話できますよね?」
「私への通話はNGです。業務の邪魔になるので。メッセージなら。1通につき50円いただきますけど」
サンデラは真顔で言った。
「なんでですか!」
「正直、こちらもボランティアではないので」
サンデラは肩をすくめ、事務的に言った。
「じゃあ…がんばってください」
俺は嫌な予感を彼女にぶつける。
「既読スルー、やめてくださいよ?」
「….」
「何で無言なんですか!」
その瞬間、目の前が眩い光に包まれる。体が溶けていくような感覚。女神サンデラの姿が光の中に消えていき、最後に見えたのは、彼女の不思議な微笑みだった。
そして、俺は転生した———とある異世界へ。