10 愛と美の女神の好奇心
ギリシャ神話好きとしては、まさか目の前にオリンポス十二神の一柱が現れて、自分自身もその世界に加わることができただなんて、涙が出るほどにうれしいのだけれど……舞い上がる頭でも流石に思う。
――何で?
「……あの、俺、何でキューピッドになったんですか? ってか、天使と違ってキューピッドは一体だけのはずで……本体? の方はどうしたんですか??」
地面に投げつけられ、頭上からふわりと舞い降りる女神に手をついて請う様は、まるで下僕のようでもあり、映画のワンシーンのようなエモさを漂わせていた。
真面目な話に、どんなに押し込めようとしても顔を出す、俺の邪な心が邪魔をする。
落ち着け……。
今は「このシチュエーション、おいしい」とか思ってる場合じゃないだろう……!?
俺の心の葛藤をよそに、アフロディーテは手を口元にやり、少し視線を斜め上方向に漂わせたと思えば、おもむろに口を開いて言った。
「……きっかけは、妾が日本を観光しようと思ったことだ」
……はい?
なんかもう、スタートがすでにアレなんですが。
日本を観光? 何故? 神にも観光なんて概念あんの? そして、それがなぜ、俺がキューピッドになるきっかけに?
と、頭の中に次々と疑問が浮かぶ。
そんな俺の様子を眺めていたかと思えば、アフロディーテは美しく輝く金髪をいじりながら、少し照れたような顔をして言葉を紡いだ。
「……絵画のモチーフになることも減った現代で、新たな形として頭角を現してきたというマンガやアニメ……妾もよく登場するという、それらを生む日本に観光がてら遊びに来たところ、あの事故に遭遇したのだ」
ああ……お前のせいか。クールジャパン……。
海外の方のみならず、異教の神すらも惑わすとは……。
いや、そのおかげで俺は事故から助かった……というか、ギリシャ神話を目の当たりにできたと言えるのか。
ありがとう、マンガ! 俺のバイブルも、はじめはマンガだった!
「その節は……助けていただき、本当にありがとうございます」
「……助けたのはただの気まぐれだ。ただ……確かに助けたはずだったのに、魂が体から抜け出すとは思わなかった」
俺の感謝の言葉にそっけなく答えるも、何かに逡巡するかのようにじっと俺の方を見つめてくる。
ゴクリ……本当に、破壊力がエゲツない……。
やめてくれ……胸がどんどん高まってくるから……。
熱い視線に耐え切れずに、俺はアフロディーテから視線を外して顔を手で扇いだ。同時に、小さなため息が聞こえる。
「……助けてやったつもりなのに、死んでしまったら神の名折れではないか。だから、冥界に向かおうとするお前の魂を捕まえて、エロスがプシュケに夢中で脱ぎ捨てていたキューピッドの体に入れてやった」
……ん? んんんん??
それって……つまり、この体は、本物のキューピッドの体ってことですか!!?
てことは、俺、本当にアフロディーテの息子!?
ヤバい……鼻血出そう……。
「ただ、お前の世話を焼いてやるつもりはない。たまたま見つけた天使どもの産屋に放り込んだら奴らがやってきたから、今のお前は天使なのだろう……元の体に戻るなり、天界を荒らすなり好きにすればいいさ。どれも面白そうだ」
そう言って、アフロディーテは俺の方を見ながらニヤリと笑った。
あ、この表情知ってる……。
子供が新しいおもちゃを見つけた時の顔だ……。
善意ではない。けれども悪意でもない。その純粋な好奇心を目の当たりにして、先程までの興奮は一気に冷め、背筋に悪寒が走る。
でも、ギリシャ神話の伝手があるなら、もしかして、わざわざ力天使を目指さなくてもいいのでは……?
迫るタイムリミットとアフロディーテの思惑を回避可能な、唐突に浮かんだ淡い期待に縋ろうとしたその時、無慈悲な一言が放たれた。
「ちなみに、元の体に戻りたいのなら、天使どもの言うとおりにする他ないぞ。我らの世界には奇跡は存在せん。アスクレピオスでも無理だろう」
な、そんな……。
あの、WHOのマークにもなった、アスクレピオスの杖として有名な、ギリシャ神話きっての医神アスクレピオスでさえ無理だなんて……そこに、まさに一縷の希望を賭けたのに……折れるの早……。
「お主がこちら側であるとバレるのもごめんだ。下手をしたら宗教戦争に発展する」
結局、アスクレピオスもダメで、天使にバレるのもダメで、それで五年以内に力天使を目指さないといけないってこと……?
目の前がどんどん暗くなる。
……これって、一体、何の罰ゲームですか?
「キューピッドでありながら、天使の一員として立ち回り、正体がバレることなく奴らの世界を昇り詰める。気付いた時には……くっくっく、本当に面白い。はるか東まで来たかいがあったわ。楽しませてくれよ? 人間。期待しておるぞ」