時々
私は時々、“恐怖”とは何かについて思索に耽る時がある。
そういった時は、決まって皆々が寝静まる深夜。
私は、幼少の頃、あらゆるものに恐怖を抱いていたものだ。
時に暗闇に対しては、ありもしない、妖怪変化や怪奇幻想を想起させ、身を震わせて――恐怖の果てに眠りに就くことが多いのだった。
嗚呼、こうして寝静まった時にこそ、死神や魔王の類が自分の小さな体をここから引きずりだし、親元から離し、だだっ広い居間――に身を置いた瞬間、私の肉を裂き内臓を啜るのだろう。と。
今では、そうしたイメージはフィクションのものと稚拙ながらも豊かな想像力の賜物でしかなく、暗闇にあるのは、光に照らされていたものと同様あるいは見知った生き物達が練り歩いているのだという事がわかる。
成長とは、認識とは大抵はそういうものである。
青年期に入ると、私は怖がりだったにも関わらず打って変わって、怪奇小説を読み始めた。
その頃からだろう、恐怖という蠱惑的な感情に魅了されたのは。
隻眼の、かつて飼っていた黒猫に似た猫が、酒乱と動物の虐待の狂気に駆られた男を混迷に陥れる物語。
違う作者だが、その作者から影響を受けたという作家の物語――男が雨宿りに来た館で、老人に不気味な本を読み聞かせていく内に、老人の狂気に取り込まれていく話。
他にも、二重人格による破滅の物語や、あのロンドン(尤も、私が青年の頃はどういった国かさえ知らなかったのだが)を襲う吸血鬼の物語――廃屋の幽霊屋敷等。
一般的に言えば、私の読んでいた作品は少々古いと呼ばれるようなものばかりだろう。
しかし、何故か妙に心惹かれてならなかったのだ。
当時流行していた、ホラー映画や特撮番組、幽霊実在に説得性を持たせるような特集番組でさえも、私の中では芝居がかったこけおどしの類に過ぎなかったのである。
スプラッター映画も、ホラー映画ではあるが……意味のない暴力的な演出ばかりで、冷めた目線でいつも見てしまうばかり。
今では、私には趣味を同じくする――が、似て非なる友が居る。
例えその友人と共に鑑賞したとしても、嫌な奴呼ばわりされてしまう事請け合いの反応と感想しか口にできないだろう。
映画に出てくるような臓物や、衝撃的な事故の数々を見ていたとしても私は内心笑いをこらえるのに必死なもので、きっと口々に語るかSNSに書き込んでしまえば鑑賞者から首を絞められる。
まず、“あり得ない”のだ。
怪奇、ホラーとは必ず超常的かつ、あり得ないもの、理解し難いものの連続で、視聴者を惑わせるものだが、その正体が人間などの生き物であれば話は別である。
ガラス片をかすめただけで、内臓にまで達し、飛び出るだろうか。
実際は、勢いによるところではあれど最悪皮膚から出血あるいは肉が少し見えるだけであろう。
娯楽としては、視覚的に盛り上がる場面だろうが、私にとっては興冷めもいいところだ。
飛び出た障害物に思いきり衝突させたところで、人間の体を貫通させることはできようか。
否。
学の無い身である事を承知の上での考察だが、それほどのエネルギーと力があるのなら、前からの衝突であればその前に抵抗を無くそうとして足が動くはず。
後ろから貫かれるのであれば、背骨が砕けて前へ倒れるか、吹っ飛ばされるはず。
そういった、身近に想像できるものでありながら現実味の無いものにはほとほとうんざりだ。
他者の趣味を否定する程愚かではないつもりだが、私の趣向、恐怖というものとは程遠いのである。
恐怖とは何か。
恐ろしい怪物か? と訊ねられば、きっとそうだともいえよう。
では、その姿か? と言うと私はきっと否と答えるだろう。
姿ではなく、及ぼす行動に恐怖を覚えるのだと私は思う。
どんなにグロテスクな造形だったとしても、実害がない、もしくは単純なものであればそれは恐怖に値せず、単なる不気味な置きものへとなり下がる。
極端な例だが例えば、可愛らしい兎と、黒々とした粘液状の人型が居るとしよう。
兎は、耳が垂れ、雲のような毛並みをしており可愛らしいものであるが、葉野菜のみを食べるというわけではない。
時折、人間を見ると目を大きく剥かせて、飛び掛かるのだ。
飛び掛かった後、どうなるかは知られていない。
対して、人型はただ木陰に座っているだけ。
これだけ見れば、どちらの方が恐怖を覚えるかは明らかだろう。
さて、もうわかるだろう。
寝静まっている中、恐怖について何故考えてしまうのかを。
ありもしない空想に耽ってしまうのか。
私もそろそろ眠るとしようか。
携帯で長電話すると、一方的な自分語りをしてしまうのは私の悪癖だ。
思うに、恐怖とは実害のある行動の意味に想像力の余地がある――ことに感じるのだろう。
ところでこの携帯は、どこに繋がっていたのだろうか。
ふと思い出してみるが、誰にもかけた記憶は無いし。
恐らくは、酔っていたのが今になって素面になり、気づいたのだろう。
携帯を明日、出かける為のスーツのポケットに入れて、消灯するとしよう。
さてと、寝ようか。
おやすみ、我が愛する妻と、娘よ。
恐怖についての考察は、これでしまいだ。
まだ繋がっているかもしれないので、一つ付け加えておくとしよう。
何故、私がスプラッター映画をここまで酷評するのかについてを言っていなかった。
それは、実際に試したからに他ならない。
硝子を突き刺しても、娘はただ痛がっていただけだったし、階段から突き落としても肋骨がへし折れる程度だった。
運が良かったのか悪かったのか、肺には肋骨が刺さる事はなく病院から何事も無く退院できた。
妻の後頭部を金づちで殴ってもみたが、後遺症で物を言わなくなっただけで、脳髄が飛び出るなんてこともなかったのだ。
何故、そんなことをしたかについては、単に好奇心が私を駆り立てたからである。
ただ、唯一映画が真実だと分かったことは――。
喉を切り裂けば、血が滴り、苦悶の末に死ぬという事である。
それはそれは赤子のように、映画のように。
そして、もう一つ。
映画の主人公は逮捕されていたが、死体も、苦労はしたが、人気のない場所で処理すれば逮捕されない。
故に、スプラッター映画が嘘で、私の言ったことが真実に違いないのだ。
友人も、数か月前、私に荒縄で拘束され、果物ナイフで腹を裂かれながら最期にそう言っていた――。