最悪の始まり
中学三年生になって最初の登校日、その事件は起きてしまった。
時刻は始業式の直後。全校生徒と多くの職員が体育館に集まり、事務員用務員を除けばほとんどの人間が校舎からいなくなる。人目を外れたその時を狙ったのだろう。
過ごしやすい春の陽気は、密になる体育館では少々蒸し暑い。全員がマスクを着用し、時世が時世なのでちゃっちゃと話も済ませる。若い少年少女にとっては、大人の退屈な長話が減って僥倖か。
一通り行事を終えた全校生徒と教師たちは、ぞろぞろと体育館を後にする。春の日差しが出迎え、風通しの良い空気が身を包んだ。
そよ風に乗って舞う桜の花びら。つられてふと、生徒たちは一本の桜の木を見つめる。太い幹を持ち、大きな枝を広げて咲き誇るのは、この学園に深く根を張った『恋桜』だ。
いつからそう呼ばれるようになったのかは、分からない。多分この桜の木は、それなりに長い年月植わっているのだろう。立地も影響を受けたのかもしれない。体育館から出てすぐの位置にあるこの木には、微笑ましい伝承が語り継がれていた。
「その桜の木で告白すると、恋を実らせることが出来る――」
ありきたりな話だが、学園代々伝わる有名な話だ。生徒だけでなく、教師たちの間でも知らない者はいない。体育館すぐそばの桜の木は、主に卒業式の後に賑わいを見せる。
卒業と別れ、恋と桜の木。結びつかない方が珍しいだろう。先輩後輩に限らず、中には卒業生が教師に告白した話もあるとかないとか。そうして告白エピソードが重なるうちに、平時にも恋にまつわる伝説が重なって――『恋桜』の話が定着したのだろう。
その桜は……既に花のほとんどが散ってしまっていた。今年の気候は早く桜が咲き、早く散ってしまう天候だった。卒業シーズンには間に合ったけど、始業式までは持たなかったようだ。
風がひゅるりと吹き抜ける。桜吹雪が舞い上がる。けれど風は妙に肌寒く感じた。三月四月は気温が安定しない。今日は少し肌寒い日か? 吹き付ける塵に目元を覆い、手をどけた時『異物』が目に入り、軋むような異音を聞いた。
ぎいぃ……ぎいぃ……錆びついたブランコのような、吊り橋が揺れるような、妙に不吉な印象を与える音が揺れる。いったい何の音なのか? 音源は恋桜の影にあった。
――何か、質量のある何かが、風に揺れている……
無関心に通り過ぎる生徒と教師も多いが、逆につい視線を向ける生徒もいる。彼ら彼女らは見てしまった。ぶら下がり揺れる、自分たちの着る制服と同じ人影を……
ぎいぃ……ぎいぃ……小さめな身長が、無機質に流されるまま動いている。
木と首に括られたのは荒縄。忌々しい繋がりのように見える。だらりと垂れ下がった両腕と舌。光を失った瞳と、新学期に心躍らせる若人たちの目が合う。もう一度突風が吹きつけると、人の体重を支えきれなくなった桜の木の枝が折れた。
バキリと折れて割れる音。
どちゃりと潰れる肉の音。
崩れて投げ出される死体。
凍り付く学園の生徒たち。
一人の教師が悲鳴を上げ。
残酷な現実が認知される。
「きゃあああああぁぁっ!!」
「だっ……誰か! 誰か死んでる!!」
「首吊り!?」
「警察だ! 警察を呼んで!」
「みんな落ち着け! とりあえず教室に!!」
「せ、先生は点呼を始めて下さい! あの子は――死んだ生徒は誰だ!?」
狂騒に包まれる人々。始業式が終わり、これから新しいクラスと学年、変化に何らかの期待を寄せていた生徒たちも多い。そんな人々の衆目の中で――明石 優魔が、中学三年生になったその日、恋桜の下で影を残し逝った。
***
翌日……学園は緊急の休校期間が設けられた。
新学期早々、生徒の一人が死んだのだ。無理もない。さらに一週間の休みが取られたが……それを喜ぶほど、名越 正樹は子供じゃない。
恐らくだけれど、学園の生徒全員が事件を知っている。たまたま始業式に出ず、休んでいた生徒でなければ……ほぼ全員が生の首吊り死体と遭遇してしまった。体調や気分が悪くなって当然。思春期の多感な時期に、それも新学期の出だしは最悪と言えよう。
「はーっ……」
宿題がないから気楽。何か動画なりSNSなり、気に入った漫画などを読もうとするのだが、どうにも集中できない。何かにつけて死んだ生徒の事が気になってしまう。何度目かのため息を漏らした時、家のチャイムが一つ鳴った。
最初は母親が対応していたが……そのうち正樹も呼び出される。相手が相手なので居留守もできず、憂鬱な気分で彼は玄関先に赴いた。
「警察の者です。君が名越君だね」
「はい……」
「我々がここに来た理由は……分かっているね? 死んだ生徒――明石 優魔君について、話を聞かせてほしい」
「う……ですよね」
首を吊って死んだ生徒。今は亡き元クラスメイトの名前を聞いて、正樹の表情が締まった。警察官は「すまないとは思っている」と形だけは詫びる。
本当に……新学期早々、最悪の出だしになった。
死んだ生徒――明石 優魔。
はたして彼は何故、恋桜で死んだのか――