Break Away
第1部 第5話 Puella Magi Madoka Magica
いつものようなうらぶれた午後。俺の友人扶桑は、閑散とした「いそしぎ」の店内でコーヒーを啜る。ここでようやく俺の登場だ。単なる語り部だと思ったかもしれないが、俺はちゃんと登場する。
俺は、ドアに取り付けられたベルを鳴らす。扶桑は何かを感じたのだろう、背中を引きつらせた。
「ここに来れば会えると思っていた」
俺のセリフに、扶桑は回転する椅子ごと振り返り、固唾を呑んだ。
「蒼龍、久しぶりじゃないか。帰って来てたんだ?」
扶桑は額に汗を浮かべながら尋ねた。そう、俺は蒼龍。あきらめの悪い男……。
「今帰って来た所さ」
俺は、扶桑の隣に座る。
「旅は楽しかったの?」
扶桑は取り合えず、差し障りの無い質問をしてくる。
「ああ、得るものはあった」
「何の旅だったんだっけ?」
「鬼、鬼探しさ」
俺は真面目な顔で言った。
「鬼はいなかった」
「鬼の住む所、か」
「実際には、鬼のいぬまに洗濯だった。でも、わかったこともあるよ」
俺はニヤッと笑った。
「なんだい?」
「鬼は空が飛べる」
「本当。どうやって?」
俺は瞳から光を消した。
「実は、鬼は、ハンググライダーに乗ってるんだ」
俺は扶桑にマリファナを勧めた。90年代にはマリファナは当たり前だった。
「ハンググライダーに?」
「そう。山から山へと移動する。ムササビのように現れて、若い娘をさらっていく」
「そりゃ凄いな!」
「鬼は娘をさらってどうするの?」
「鬼は言うのさ。『僕と契約して魔法……じゃなかった、鬼になって欲しいんだ!』と」
俺はキュゥべえを真似て言った。
扶桑は迷っていたが、マリファナは断った。
「鬼は風を捕らえるのがうまいんだ。時には風を操ることだってある」
「凄いな。まさに鬼に金棒だ」
「最近の鬼は金棒なんて使わないよ」
俺は笑みを浮かべる。
「じゃあ、トラのパンツももう履いていないのかな?」
「さあ、下着の事まではわからないな」
俺は美味そうにマリファナを吸って見せる。今の俺にはマリファナを吸うことは当たり前のことなのだ。扶桑が煙草を吸うように。
「でも、服は着ている」
「洋服を着てるの?」
「そう、だから見た目には普通の人間と変わらない」
「角が生えてるだろ?」
「帽子を被っているさ」
「なるほど」
「ザ・ワールド」
「春の祭典スペシャル」
沈黙が辺りを襲った。暑くも無いのに扶桑は汗をかいている。シャルンホルスト・カットのマスターはいつものようにグラスを磨いている。扶桑は息苦しさに耐えられなくなり、沈黙を打ち破った。
「そっかあ」
「そう」
「じゃあ、山を歩いていたら気づかずに鬼と遭遇、なんてこともあるかも知れないんだ?」
「そういうことになるね」
扶桑は煙草に火をつける。
「もしそうなったらどうしよう」
「大丈夫さ。こちらから危害を加えなければ攻撃される事はないよ、基本的に」
「基本的に」
「そう。基本的に」
扶桑は笑い出してしまった。俺もそれにつられて笑う。
「でも実際にはね……」
「うん」
「もうそんな心配は必要無いのかもしれない」
「どうして?」
「近年の過疎化に伴って、若い娘はもうほとんど山にはいないだろう。そうなると、もう鬼は生きていけなくなる」
「都会に出てくれば良いじゃない」
「鬼は、空気や水の汚い所では生きられないのさ。もう絶滅危惧種と言えるかもしれない」
90年代はまだ公害がひどかった。
扶桑は口をぽかんと開けていた。俺は扶桑を見る。扶桑は正気を取り戻した。
「鬼も大変だなあ」
「そう、大変だ」
扶桑はトイレに立った。俺は変わった。良い方向に変わったのか、悪い方向に変わったのかはわからない。人は時とともに変わるのだ。
風を操る鬼、鬼は魔法少女なのか。
扶桑トイレから帰って来る前に、俺はその場を立ち去った。しかたなく扶桑はマスターに話しかけた。
「ねぇ、マスター。知ってたかい。鬼はハンググライダーに乗ってるんだ」
マスターはサイコロキャラメルを食べながら答えた。
「へぇ。ところで、今何時だろう。6時半ぐらいだー。なんちゃって」
「落下してしまえ!!」