Sleeper
Sleeper
序話 Your Name.
最初に断っておく。
この話は、俺の友人が、ただモカを一杯飲みに来ただけの話だ。
――と、書けば穏やかそうに聞こえるだろう。だが今、俺の目の前で、地上20階建てのビルが、まるごと逆さまに笑っている。
夜空を、一本の彗星が裂いた。
尾を引いて、割れて、2つになって落ちてくる。誰かが「うわ、綺麗」と呑気に呟いた次の瞬間には、その光がディスコフロアの天井をぶち抜いていた。
催涙弾の白い煙が、ミラーボールの下で花みたいに咲く。七色の破片が雨になって降る。投票所の受付台には、なぜか制服姿の若宮ちゃんが飛び乗って、聞いたこともないラップを刻んでいる。4基あるエレベーターは、見えない力でぴたりと止まったまま、うんともすんとも言わない。
銃声。バズーカ。手榴弾。
そして――真昼のはずの空を斜めに裂いて、一機のハンググライダーが窓ガラスへ突っ込んでくる。操縦しているのはフルフェイスのライダーだ。「加速装置ォッ!」と叫んでいるが、あれはただの絶叫で、たぶん意味はない。
「蒼龍っ、後ろ! 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!」
叫んだのは扶桑だ。俺の、たった一人の友人。人の顔をまともに見られないくせに、こういう時だけは俺の背中をちゃんと見ている。
俺は振り返らなかった。振り返る必要がない。
拳を、握る。旅の果てに持ち帰った、この力を解き放つだけでいい。全集中の、呼吸。
「――来い、鬼」
黒いスーツの男が五人、赤・青・黄・緑・桃のネクタイを揺らして、こちらへ地を蹴った。まるで戦隊だ。桃だけ妙に張り切っている。
……さて。
君は今、「なんだこれは」と思っているだろう。
当然だ。俺だって、3時間前まではそう思っていた。
3時間前。
シャルンホルスト・タワー地下一階、喫茶店「いそしぎ」。
BGMはスイング・アウト・シスター。カランカランとベルが鳴って、扶桑がいつものカウンターに座る。ショートホープにジッポーで火をつけ、モカを一口。
「マスター、今日のモカ、なんだかしょっぱいね」
差し出されたハンカチで涙をぬぐいながら、扶桑はウェイトレスの顔を、うっかり見てしまった。
――一目で恋に落ちた。若宮ちゃん、というらしい。声まで好みだった。
「君の、名は」
扶桑がかすれた声で訊く。だが言い終わる前に、なぜか二人ともスッと涙をこぼして、その理由を、次の瞬間には忘れていた。
「……あれ。僕はいま、何を訊こうとしたんだっけ」
「さあ。夢を見てたみたいな顔してるよ、扶桑君」
マスターが笑う。手首には、なぜか一本の赤い組紐が結ばれていた。
この時の扶桑は、まだ何も知らない。
このタワーの名前の由来も。
自分が惚れた相手が「一体誰なのか」も。
軍服姿でコーヒーをすする神鷹中尉が、なぜここにいるのかも。
一日中フルフェイスを外さないライダーの、素顔も。
そして――このビルに、人の顔をして「鬼」が紛れ込んでいることも。
俺だけが、湯気の向こうで、それを知っていた。
照明が、一瞬だけ点滅する。
俺はカップをそっとソーサーに戻した。まだ、温かい。
「……来たか」
扶桑が笑う。
「なにが。ヤキソバンの新CMでも始まったのか?」
「電気もか」
俺は立ち上がる。
「鬼だ」
「……は?」
「鬼が来た。前に話しただろう」
「あいつら、どう見ても人じゃないか!」
「鬼は人に似ている。だから今まで、誰にも見つからずにすんだんだ。壁の中に潜む巨人と、同じさ」
カランカラン、と入口のベルがまた鳴った。
――誰も、ドアに触れていないのに。
若宮ちゃんが、パセリを買いに出たきり、帰ってこない。
4基のエレベーターは、すべて5階で止まっている。表示灯だけが、赤く「使徒、襲来」とでも言いたげに点滅していた。
俺は駆け出した。
「おい、待てよ蒼龍!」
扶桑が追ってくる。
「私も行く!」
神鷹中尉も来る。軍服の裾をひるがえし、まるで戦場の指揮官だ。
「あなたの行くところなら、たとえ火の中、水の中、草の中、森の中――チョコモナカ!」
どこからともなくライダーまで現れて、中尉に抱きついて蹴られている。
「なんであんたがいんのよ!」
「運命だからさ。赤い糸で結ばれてる」
「気色悪いこと言ってないで走りなさい!」
まったく、狂ってる。仲間は全員、狂気と美しさを半分ずつ着ている。
だが、いい。
これから始まるのは、笑いと、涙と、爆発が、同じ皿の上でぐちゃぐちゃに混ざる話だ。
入れ替わってしまった男と女も、黄昏どきに出会う“かたわれ”も、殺し屋だらけの教室も、響かないユーフォニアムも、墜ちる飛行機も、紅茶を淹れながらの銃撃戦も、ぜんぶ出てくる。順番はめちゃくちゃだが、心配いらない。どうせ最後には、赤い糸みたいに、全部つながる。
――ここで、君に一つだけ言っておく。
この物語のエピソードには、ぜんぶ、ヨーヨーの技の名前がついている。
今読んでいるこの話の名前は「Sleeper」。投げ落としたヨーヨーが、糸の先でひたすら回り続ける、あの状態のことだ。いちばん最初に覚える、基本にして最強の技。すべてのトリックは、ここから始まる。
そしてスリーパーには、一つだけ、絶対の掟がある。
どれだけ長く眠っていても――軽く手首を返せば、必ず、投げた者の掌へ戻ってくる。組紐のように。赤い糸のように。
君はもう、投げられた。
途中でこのページを閉じてもいい。無理にとは言わない。
ただ、糸の先で回りながら、きっと気づくはずだ。あの喫茶店で、扶桑と若宮ちゃんが、なぜ二人そろって泣いたのか。「若宮ちゃんは、一体誰なんだ」「鬼とは何なんだ」「そもそも、蒼龍の“力”とは?」――その問いが、掌の中で静かに回り続けていることに。
夢から覚めたら、いちばん大事な名前を、忘れてしまう前に。
――君の、名は。
そして気づいた時には、君の指はもう、次の一話をたぐり寄せている。
スリーパーの次は、ロングスリーパー。眠りは、もっと長くなる。
さあ、モカはまだ温かい。
次の一杯は、君の分だ。
――物語を、始めよう。




