二十七話、けだもの三匹
遅筆で本当に申し訳ない
目前の異形が己が腹に欠けた剣を突き立て、勢いよく横に切り捌いた瞬間、白と黒の明暗でしかない筈のクロエの視界は目が眩むほどの暴力的な極彩色の色彩に覆われた。
自刃したレオの腹から漏れ出すは濃く黒い深海の如き蒼であり、弱き者の目を潰す程の黄金の如き光輝であり、あらゆる物を焼き払うマグマの如き朱であり、全てを塗りつぶすほどの純白と暗黒であった。
いかにしてそれ程高濃度のエーテルを体内に内包したのか、腹からまき散らされた色は大気と溶けあい、混ざりあい、しかし各々が飲み込まれることなく併存し、名状しがたい色となって空間を満たしていく。
飛び散った血が燃え上がり、まき散らされたエーテルが周囲に致命的なアノマリーを形成していく。
血に誘われ集まった夜行種たちの群れが予期せず発生した重力アノマリーに絡めとられて宙へと浮かび上がっていく、そして―――――。
外壁から投石の如く投げ込まれてきた小型種の集団が突如として空中にて急停止し、まるで何かに丸め込まれるように圧縮されて砕けるように爆散した。
細長い手足を持つミイラの様に細い肢体を持つ中型種が何も無い筈の空間で突然燃え上がる。
その直前まで哀れな犠牲者を追い立てていた顔に無数の目を持つイノシシの様な中型種が狂ったようにのたうち回りながら酸性アノマリーに溶かされて液状へと変じていく。
それはまるで檻の様にクロエとレオの周囲で巻き起こっていた。
城壁などよりよほど堅固で厄介な籠を即興でこしらえてくれる物だ。
こんな事も出来るのか、クロエは己の握る得物を無意識に強く握りしめる。
対するレオはぎこちなく再生した剣を両手に持ち直し、クロエをにらみつける。
「クロエ、貴様を滅ぼす」
短くも明確な殺意と戦意に満ちた処刑宣告を放ったレオの背後に浮かぶのは無数の残留思念と情念たちだ。
何かを求めてまくし立てる無数の暗黒の唇たちが、嘲笑する猿の様な貌の消えかけた蜃気楼が、弾劾する様に強く燃え盛る炎の塊がレオの背後に立ち上る。
それだけではない、レオの体には無数の薄く透けた筋肉質な肉体を持った多数の亡霊たちが絡みつき、奪われた体を奪い返そうと掴みかかり、爪を立てている。
それらから僅かな距離を置いてレオに手を伸ばすのは宇宙服にも見える装甲服を着た人らしく亡霊の姿だ。
まるでまだレオが生きていることを咎めるように腕を伸ばし、闇に引きずり込もうとするそれをもう一つの宇宙服が肩を掴んでたしなめている様にすら見える。
クロエは己でも驚くほど冷静にその光景を思案する。
背後にいるのはなんらかの神格級、周囲に絡みつくは生きるためにレオが食らった悪魔憑きや人間たち、咎めるように側に立つ宇宙服は―――――。
あの子のかつての仲間たち…?あれは教会でも希少な完全状態の強化外骨格ではないのか?
教会の外であのような装備を維持できている勢力などいくつかの不確かな噂でしか聞いたことが無い。
となればレオちゃんの過去はかの遠き地に残るという―――――。
クロエが答えを出すまでの時間をレオは与えなかった。
切腹によって大量に失われたエーテルの事など気にするそぶりを見せず、レオは己にまとわりつく全てを緑の炎で焼き払い、追い散らし、それを推進力に変えてクロエへと突撃する。
周囲に展開したアノマリーによって瞬時に安全な退避が可能な空間は無い。
―――――受けるしかない。
「…ッ!」
剣を両手で握りこみ、切っ先を向けた愚直なまでの突きの姿勢での突撃。
だが、これまでの剣戟のいずれよりも早かった。
人から逸脱した強靭な脚力を己を射出するカタパルトとし、更にエーテル消費を顧みない全力の疑似スラスター加速でもってレオ自身が一つの砲弾と化したが如く突っ込んできたのだ
弾けない―――――。
瞬時に判断したクロエが裁断刀を盾にすべく腹でその衝角の如き突きを受け止める。
「グゥッ…!」
左手で剣の柄を握り、右手で拳の腹を抑え、前傾姿勢にて重心を落とし、全身の筋力を動員した不動の構えでレオの突きを迎え撃ったクロエの網膜が青い閃光で焼き尽くされる。
裁断刀が硬質な絶叫を上げ、青い燐光をまき散らす。
頭部を狙った一撃、防ぎえなければ頭蓋を貫通して後頭部から剣の刀身が突き抜けていたであろう重すぎる攻撃を受けた裁断刀はあろう事か、貫通を許していた。
クロエの眼前、赤い刀身の切っ先が盾とした裁断刀の腹を貫いている事を認識した刹那、クロエは両腕を強引に上方へと振り上げた。
「ガァッ!」
前傾姿勢にて蹴りによる反撃は不可能、しかして現状を維持すれば今度こそ完全に貫通されて絶命。
武器を捨てる事など論外、故に剣を両手で扱いながら万歳をするかの如く勢いよく突き刺さる剣ごとレオを空中へと射出する。
なまじ、剣と剣が突き刺さっている事も相まってこれもまたカタパルトの如く作用してレオは暗黒の空へと弾き飛ばされる。
文字通り、投げ飛ばしたのである。
レオの行いが射出装置であるならばクロエのそれは投石器であった。
「ガァアアアアアッ!」
空中にて疑似スラスターによる姿勢制御を試みるレオに対し、咆哮と共に放たれたクロエから雷光が直撃する。
その姿とあり方には最早魔法少女と嘯いていた面影などありはしない。
紫電の走る黒い毛皮を纏う奇怪な大剣を抱えた巨躯の人狼の体から次々と全方位に放たれた数多の雷撃が不自然な軌道を描いてレオを包囲する様に攻撃する。
直撃する毎にまき散らされる閃光と爆発音、剣とエーテル操作による防御で防ぎきれぬ威力にレオの体の一部が砕け散り、血の塊となって周囲にまき散らされて行く。
落ちろ、墜ちろ、堕ちろ―――――。
クロエもまた己の内にあるエーテルを消耗を厭わず現状での最大出力、全火力でもってレオを迎え撃つ。
クロエの中で状況は時間稼ぎから殲滅へと移行していた。
出し惜しみなしの全力攻撃。
立ち振る舞い、言葉、見栄え、その全ては人の形を解いた時点で捨て去った。
魔法少女という建前を捨てた本来のクロエに指を用いた雷撃の指向など必要ない。
特異な帯電体質が生み出す電力を体毛へ蓄積し、エーテル操作で増幅させて射出し、誘導して確実に雷光を直撃される生体砲台。
『教会の黒き雷獣』と呼ばれたる由縁をクロエはレオに叩きつけ続ける。
そうして雷撃が撃ち込まれ続ける事、数十。
空中での回避も防御も許さぬ火力投射が終わると同時にレオが建物の影となった地面へと墜落する。
ほんの一瞬に過ぎない僅かな間、しかして双方が先刻まで続けてきたエーテルと体力を温存した持久戦とは異なる全力の戦闘と機動であった。
「ハァアアアアッ…!」
口から蒸気を吐き散らしつつ、クロエが一息をつく。
一度に力を使い過ぎた。
いかにある程度は電力が勝手に発生するとはいえ、限度がある。
全力射撃となれば電力供給が追い付かなくなって発電自体にエーテルを消費せざるを得なくなるし、射出と照準補正にもエーテルを消費する。
こうした形でのエーテル由来の投射攻撃は見た目こそ派手だが、非常に燃費が悪い。
エーテルがいかに万能な存在であるとしてもそれを運用する側である悪魔憑きは万能には程遠いのだ。
エーテルが生存に必須な生き物がそのエーテルを純粋に攻撃の為だけに使い捨てているのだ。
その行い自体が実際のところは、最初から最後まで全力でフルマラソンをする様な自殺行為に等しい。
戦いは長丁場になる、回復する必要があった。
人間形態であれば携帯していたエーテリウム結晶が使えたが、変身解除によって人狼に戻った今ではどこに吹き飛ばされたかすら判然とはしない。
こうなれば、致し方ない。
夜の市街で人間たちが蹂躙される絶叫と崩壊する建造物の騒音が木霊する中、クロエはゆっくりと周囲を見渡して見出したソレに向けて歩みより、持ち上げた。
赤い、紅い僅かに蠢くそれはクロエの攻撃によってレオから剥離した体の一部。
本体と合流しようと足掻き続ける半液体半固体の血液塊であった。
夜行種を狩り殺してそれを食べても良い―――――グルメとしては敬遠したいが、最悪電気で焼いてしまえば食えなくはない―――――が、あいにくレオの切腹でまき散らされた血に引き寄せられた物たちもアノマリーの檻に阻まれて手が届かない。
人肉食はごめん被るし、保有エーテルも薄すぎてミュータントの血肉と比べれば効率が悪すぎる。
何よりも時間は有限であり、残り僅かであろう。
奴はまだ生きている、すぐに姿を現すだろう。
これまで多くの悪魔憑きやミュータントを葬ってきたからこそ感覚で相手の力量はつかめる。
殺しきれていない、しかも割と元気だ。
即座に回復する手段を取るほかない。
想い人と違って好んで血を飲む趣味はあまりないが、背に腹は代えられない。
おそらくこれが今最も手近な一番純度の高いエーテル源であったから。
これで元が取れる―――――。
言葉が喋りにくくなった代わりに内心で語りつつ、クロエは鼻の伸びた狩猟犬の如き大口を開けて血液塊を咥え、嚥下する。
そうして、クロエはレオという存在の本質を瞬間的に理解した。
内から力が蘇ってくると同時に、レオのこれまでの人生すらもクロエの脳裏で追体験の如く浮かび上がってきたのだ。
血とは命であり、魂そのものである。
想い人、リュナ・ドラクリアはいつだったかそう寝物語で教えてくれたことをクロエは思い出す。
相手の血肉を喰らうという事は相手の力と記憶を得る事であると。
だからこそ、明確に、深く濃く理解する。
先の光景の意味が、点と点が繋がっていく。
この者は幾柱の神格級の器となる事を強いられ、それを拒否して悪魔憑きですら無くなった生きながらに死した壊れた祭壇。
壊れた器たる肉体にこびりつくのは因縁を持った者達の残留思念の群れ、手に持つのは朽ち果てた古代の武器。
精神すらも主導権を奪い合うしがみつく数多に引きずられて常に正気を蝕まれ続ける哀れな亡霊であると。
望んだ死を奪われ、己の中の義務感と理想の為に漫然とした死を選ぶことも出来ず彷徨い、人から逸脱し、最後には生命という枠からも転げ落ちた哀れな不死の怪物であると。
これほどの苦しみを負う者は殺してやらねばならない。
教会の処刑人である、自分が殺さねばならない。
違う、殺したくて仕方がないのだ―――――。
あの『人の神』の眷属は自分が殺す。
初見で感じたあの存在と気配に間違いが無かった事を確信したが故に、殺意と戦意が嫌がおうにも高まっていく。
故に―――――。
「ババァ!もう十分だ!引き上げるよ!」
クロエは背後に飛来した生首、もとい亜種脳髄啜りの言葉を無視する事を選んだ。
アノマリーで作られた檻は空中まで広がってはいるが、地上に比べれば隙間は多くある。
知ってか知らずか上手くかわして入ってきたのだろう。
いずれにしろ勇気のある行動ではある。
だが、聞き入れられない。
「外から大型夜行種も迫ってきてる!脱出できなくなる!帰れなくなるんだぞ!」
帰れない?上等―――――。
未帰還上等。
元より、奴を殺さねば帰れる筈が無い。
人へと変じて抑え込んできた骨格と筋肉の軋みと凝りもようやくほぐれてきた所。
ここからこそが全力だ。
クロエが亜種へ行った返礼は雷撃であった。
「ひぇ…ッ!」
無論、当てはしない。
否、そもそも狙いは亜種に対してではなかった。
空飛ぶ生首の遥か横へと逸れたソレは親愛なる親類を狙った者に対する拒絶の意思を明確に伝えるための一撃であった。
「え…ッ!」
脳髄啜り亜種の片割れ、ラペナの姉たるデュラは雷撃がそれに直撃してからようやく事態を理解した。
彼女のすぐ近くまで紅い腕が迫っていた事に、その脅威から今までババアと呼んできた仲間によって守られた事に。
クロエの雷撃を再び受けて撃墜されたレオがレンガで出来た建物に突入して姿を消す。
あと僅かでも対応が遅れればデュラは貫かれ、団子の如くレオの剣に突き刺さっていたであろう。
「ババ…!…ッ!」
呆然とするデュラにクロエは言葉を返す代わりに片手を振って答えた。
別れを告げる、さようならの挨拶を。
こいつが生きてる限りは帰れないよ―――――。
そう言外に伝えるためであった。
短い別れを済ませたクロエは素早く己の得物へと目を移す。
人類の合金と混ぜ込むことで劣化しているとはいえ、異世界種族の生体金属を含有するアマルガム鋼は強固であり自己再生力を持っている。
故に貫徹されていた刀身の破孔が徐々に押し戻され、修復されつつあった。
だが、ある意味ではそれこそが問題だった。
特大剣形態の裁断刀は二本の刀身を重ねた状態で運用されている。
あの赤い剣は全力を出せば彼の教会砲兵の放つ徹甲弾に対しても盾になりえるアマルガム鋼の装甲を容易に貫通できるという事だ。
ならば、奴にこれ以上ペースを握らせてはならない。
敵に主導権を握らせず、攻勢を続けて刺し違えるつもりで必殺の一撃を叩き込む。
そうであるならば、まだやりようはある。
裁断刀が壊れるまでの間に決着をつけるだけだ。
武器と作戦を確認したクロエが両の手で裁断刀を掲げるように頭上に持ち上げたと同時に、レオが建物の残骸から起き上がり、姿を現した。
その姿こそがデュラを襲った理由そのもの。
なるほど、向こうも燃料補給をしていたか―――――。
クロエの瞳に映ったレオは悪鬼のそれであった。
右手に剣を持ち、左手には半ば干からびた白い小人の様な夜行種の亡骸―――――握った首は文字通り握りつぶされて頭が分離している―――――を引きずり、口には同じく犠牲となった蛇の様な夜行種を咥えている。
クロエを目視したと同時にレオは咥えていた夜行種を顎の力だけで食い千切り、左手に持った遺骸をも投げ捨てる。
剣を両手で構え、幾度か咀嚼。
血を絞り出した残り粕を吐き散らしてクロエを睨む。
にわかに街に燃え広がり始めた火災に照らされるのは乾きかけた人の血の様な赤黒い鎧、闇夜に浮かび上がる輝く深紅の瞳、病的までに青白い貌。
口の端から濃い蒼の血の筋を流しながら、敵意と憎悪に染まった顔がクロエを射すくめる。
今やクロエの内にもある記憶の中で似た事例が思い当たるが、どうも違うようだ。
正気を失っていない。
デュラを狙ったのも知性を喪失していないが故だろう。
クロエよりも先に、脱出の支援の為に来た伝令を始末しようとしたのがその証左。
奴は、己の内にある最も忌避している力を今また少しばかり受け入れたのだ。
己をエーテルの枯渇という死の淵に追い込む事で神の力の一端に触れて行使しながら、それでもなお揺るがぬ殺意でもって自我の主導権を維持しているとでも言うべきであろうか。
最も憎悪する人の神の力を行使し、しかしてその願いに背く事で意趣返しをしているつもりなのだろう。
レオはこの夜、強者を滅ぼす為に更に人より逸脱したのだった。
「ハァアアア…」
それを姿にクロエもまた牙をむき出しにして笑みを浮かべる。
なんと素晴らしい獲物か、ここまで憎悪されるのは悪い気がしない。
殺意に呑まれし者の先達として全身全霊の一撃を叩き込んでやるとしよう。
クロエの中で恐怖と愉悦が混ざりあい、殺意が際限なく高まっていく。
狩られようとしているのは奴か、或いは自分か。
いや、そんな事は最早どちらでも良い―――――。
もう取り繕う必要も憂う必要も、考える必要すらない。
最早抑えきれぬ衝動に従い、やるべき事をやるだけだ。
クロエは掲げた剣の柄を左右へと押し広げていく。
それに合わせ、刀身がスライドして開いていく。
まさしくそれは人間と同じほどの大きさの鋏であり、故に与えられた銘は裁断刀。
だが、それだけではない。
限界まで開ききった鋏は鈍い音と共に抑えたるネジすらもスライドさせて遂には二つに分離する。
特大剣から一転した長剣二刀流への変化。
特大剣、長剣二刀、そして鋏。
それらを適時使い分ける事でミュータントを文字通り『裁断』し続けて来たのが教会現役時代の『処刑人』クロエであった。
分離した二刀ににわかに体から流れ込んだ紫電が帯電され、輝きを増していく。
最早、双方共に一言たりとも言葉を発する事は無かった。
レオからすれば異形と語る口など持たず、人狼形態なったクロエは徐々に人間的な思考を喪失しつつあるが故であった。
言葉は不要、後は剣のみだ。
思考が二つ、心は一つ。
そう長くは打ち合わない。
狩りとはそういう物だ。
狩人は、獲物から狩られる事をすら受け入れねばならない。
それでこそ、本気の狩りなのだ。
かくして、双方が相手に向けて斬りかかるべく駆け出したのはほぼ同時であった。
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非常にまずい事になった。
眼下で再開された戦闘を見下ろしながら脳髄啜り亜種の片割れであるデュラは頭を悩ませていた。
見かけだけで言えば、クロエが敵の頭を抑え込んで優位にすら見える。
だが、それなりの付き合いがあるデュラからすれば無茶をしているのが理解できる戦いぶりであった。
何より、徐々にクロエの戦いから理性の気配が消えつつある。
血に呑まれつつあるのだ。
普段、魔法少女だの秩序の味方だのと気取るのは別に若作りや人間社会に潜りこむための擬態の為ばかりではない。
悪魔憑きクロエの持つ衝動は殺戮衝動だ。
殺すという行為は最早呼吸をすることと同じ程度にはクロエの根幹となっている。
その高すぎる殺意とそれを可能とする身体能力を抑え込む拘束具が人の形へと己を変じる事であり、悪人だけを殺す正義の魔法少女であるという言い訳でもって決して尽きぬ衝動を三大欲求程度にまで抑え込んでいるのだ。
この方法を見出すまでのクロエはただひたすらに老いも若いも弱者も強者も構わず、敵味方の区別すらなく衝動に任せて人間を殺戮し続けていたというのは本人が笑い話として語って聞かせてきたから嘘ではないだろう。
命の危機を感じない限りは一時的であれ人の形態を解除しないのが今のクロエだ。
老練故に仮に変じてもほんの僅かな間であれば理性を維持する事すら出来る。
それでも限度はある。
結局のところ、根源が殺人衝動であるが故に長く本性を維持すれば自我と思考が殺す事に最適化されて行ってしまう。
一度そこまで行けば再び理性が戻ってくるのは相当に殺戮を楽しんでからになるであろう。
今のクロエにとってはそれは好ましい所ではない。
そのクロエが理性すら放棄して全力で戦闘を行う、それは敗色濃厚であることを理解した上での戦う事を選んだ場合でしかない。
だが、そうなればあの不気味な悪魔憑きを殺した程度ではクロエは止まらなくなる。
周囲に殺到してきている悪魔憑きを皆殺しにし、街を完全な廃墟に変えるまで決して理性が戻ってこないだろう。
このままではクロエが死ぬ、よしんば勝利しても深手を受けたまま殺戮衝動に呑まれて自滅する。
それは決して許されることではない。
「パパに怒られるのは怖くない、でも失望されるのは耐えられない…ッ!」
デュラは歯がみする。
父に信頼され妹と一緒に任せられたのだ、クロエを生きて連れ戻すことを。
だが敵は強く、撤退は困難だ。
父から預かった騎獣は強く賢いが、相手も飛行能力を持っているならば決して安全には事は進まない。
ならば―――――。
「私も参加するほかない」
クロエが完全に理性を放り投げる前に戦闘に参加して支援、退路を無理にでも確保する。
デュラは戦闘から顔を背けて弱き者共が蹂躙される大地に目を移す。
そしてまだ生命のある素材を見出した。
「しょうがない、アレで良い」
即決し、ホバリングをやめて急降下。
目指すは建物の残骸を背にへたり込んで放心状態となっている人間、おそらくは追い立てられていた夜行種がアノマリーに呑まれて助かったのだろう。
負傷はあれども五体満足で残っているので現状ならば及第点、適性や肉体の品質はこの際無視することを決意する。
地面に近づくと同時に被膜状に変化させたアホ毛を広げてエアブレーキを再開、減速しつつ男の前に着地すると同時に下部に力を入れて跳躍。
飛び掛かりながら、首目掛けて収縮させて硬質化させたアホ毛をしなった鞭の如くしならせつつ一閃。
男からしたら突然空から降ってきた生首がバウンドして自身に飛び込んできたように見えただろう。
そして、妙な違和感はむしろそこから強まったであろうことは予想に難くない。
なぜ、自分の首が体から離れているのか男には理解できなかっただろう。
自分の首の代わりに、主を失った体に先の生首が乗っかっている事に。
その妙に大きめの生首が顔全体をすぼめて『根』を体に伸ばしている事に。
そもそもなぜ、いつ自分は首を斬られたのか。
それすらも理解する事無く、哀れな犠牲者は消えゆく意識を手放した。
「やっぱり男の体って合わない!栄養も足りないし老いすぎてる!」
男が尽きぬ疑問と共に絶命した頃、デュラは当の男の肉体の貧相さをののしっていた。
人のそれと比べると戯画的に肥大した生首と言っても良い身体の下部から伸ばした触手が肉の根の如く男の肉体の末端まで伸び切って張り巡らされ、その筋肉と神経を掌握支配し融合していく。
デュラの『根』から流し込まれる蒼い血、高濃度のエーテルが男の肉体を強制的に変異させてデュラが望む戦闘用の肢体への変化させていく。
だが、その発育具合は悪い。
この都市の住人の上層に当たる筈であるのに基礎となる肉体がデュラが求める要求値以下であるのだ。
望んだほど骨格が成長せず、筋肉が増強されない。
装甲となる鱗の発生が乏しい、飛翔能力を獲得するべく生やした羽が貧相だ。
それでも人に擬態するだけだった原種から派生し、人の肉体を奪う事に特化した脳髄啜り亜種にとって肉体の有無は戦闘においては天と地ほどの隔絶を引き起こす。
ふくよかを通り越してデフォルメされた漫画の様な大きさの生首であったデュラの顔が内容物を人体側に移した事で常人と同じほどまで細く縮小した頃、肉体の乗っ取りと改変は終了していた。
それはさながら背から歪になった蝙蝠の羽を生やしているスケイルアーマーを着込んだ騎士の如き姿であった。
「まあ良し、後は…」
人体の掌握を確認する為に両手を幾度か握りしめて感覚を理解したデュラは何かを求めるように両腕を天に掲げる。
そして、その両腕の手首目掛けて頭部のアホ毛を一閃した。
溢れだすは蒼い血、高濃度エーテルの詰った血液。
それが、重力を無視する様にそれぞれの手へ向けて登り上がっていく。
「我が身もまた、偉大なる騎士の末裔也―――――」
デュラが祈りの言葉と共に両の手に集まった血液を握りつぶす。
瞬間、指の間からあふれ出した血が蠢いて形を成し、凍り付く。
デュラの手中に生まれ出たのは空で朧げに光る赤黒い月とは対照的な蒼く輝く凍り付いた槍であった。
「さて、ババアを助けないと」
未だに続く戦闘の音を確認し、脳髄啜り亜種のデユラは背から生えた羽をはためかせて空へと飛び立った。
脳髄啜り亜種の解説は前回出しているので今回は後書きはお休みとします
投降速度が安定しなくてもうわけ有りません
なんとか最近週休二日を月一ながら確保できそうになってきているのでそこで鋭意制作させていただく所存です。
なお、職場の戦況は増員の予定が更に人が減ってまるで末期ドイツ軍の如くです。
今回はここまで




