五十話、空席の玉座
土曜日も休めたおっさんは生産性が上がる
瓦礫の王が闇の迫った黄昏の中でその命を散らした翌日、都市鉱山より南方に位置する『農場』の責任者であるイドは己の依って立つ揺らぐはずの無い足元が崩れ去ったような不快な焦燥感と共にベッドの上で目を覚ました。
寝巻の懐から取り出したゼンマイ式懐中時計を見れば時刻はまだ朝の7時、いつもよりも2時間も早い目覚めである。
「……いつもよりも早く目覚めちまった、不吉だぞこれは」
毎日決まった時間に眠り、そして決まった時間に起きる事を尊ぶイドは顔を歪めながらベッドのわきにある机に置いてある鈴を手に取って無造作に鳴らす。
それは部下を呼び出す為の呼び鈴である。
当然ながら、一日の概念がかつてに比べて大きく変わったこの世界では9時に起きるというのはかなりの重役出勤と言える。
そもそも、既にこの世界の暦を24時間365日で計算して良いかすら怪しい。
エンキが教会の人間から奪い取り、イドに下賜したこの精巧な時計ですら、実際には大まかな時間を見る程度の役割しか果たしていないのだ。
農奴やそれを見張る監視員たちは夜明け前には目覚めて準備をし、太陽が地平線から顔を出した時には既に畑仕事や所定の職務を開始しているのだ。
現状ですら既に太陽は既に登った後であり、この様に遅く起きるという事自体がエンキが『雑事』と称して嫌う広範な統治と運営の業務を任されたイドだけに許されている特権なのだ。
エンキにとっては都市鉱山での道楽を続けるにはイドの頭脳と実務手腕が必要であり、イドにとっては力にしか従わない脳みそが筋肉と同程度の知能しか持たない低能たちを統制するのにエンキという権威が必要という相互関係が本来水と油である二人を強く結びつけている。
いや、結び付けていたというべきであろう。
イドはまだ知らぬが、その己の立場を確固たるものにしてくれていた権威であり武力であったエンキが昨日、この世を去ってしまったのだから。
「イド様、おはようございます。ショウでございます。といつもの二人も一緒です。入ってもよろしいでしょうか?」
鈴を鳴らして僅かに間を置いて部屋の入口である茶色い扉がノックされ、執事兼管理補佐のショウが入室確認の声をかけて来る。
「構わん、入れ」
ベッドから上体を起こした状態のイドが許可を出すと同時に扉が開かれ、男が部屋へと入って来る。
最初に入ってきたのはまるぶちメガネをかけた人民服の様な衣装を着た細身で長身の男であった。
男は無言で部屋に入ると素早くイドの座るベッドの傍まで歩み寄り、寝巻を脱がして日常用の作業服に素早く着替えさせていく。
「ギン、朝早くからすまないな」
それを聞いた男は作業を続けながら無言のまま首を振って応えた。
普段通りのギンの態度を見てイドは微笑むと入ってきているであろう二人にも言葉をかけた。
「ベア、ショウ。お前たちもご苦労だった」
そこには人とはおおよそ言えない二体の異形がいた。
「イエ…、イド…サマ…」
ベアと呼ばれた男は苦し気に声を漏らしながら片言で答える。
男は背はそれ程高くはないが、体の右側だけが異常に発達していた。
右腕、右足、そして顔に右側、体の右半身の筋肉だけが異常に肥大化し、正常な左側の体の数倍近く膨れ上がっている。
左右非対称のその体は男を苦痛で苛み、捻じれて引き攣った口からは抑揚の無い短い言葉しか発せない様である。
『なりそこない』、悪魔憑きになれず、かといって人のままでもいられなかった半端な状態の中度汚染者をトウカイでは基本的にそう呼ぶ。
かつてレオを裏切ったニシもまたなりそこないの一人である。
いずれは肉体の変異に浸食されて自我を失い、ミュータントの仲間入りが確定しているどん詰まりに落ちた者たち。
これより先の未来には行けないが故になりそこないと呼ばれるのだ。
「朝ゆっくり寝てるのはイド様だけなんですから苦労も何もないってもんでさぁよ」
ベアの遅い口調を待つことなく、もう一つの声がイドを挑発する様に返答した。
だが、その姿は見えない。
いや、見えないのではない。
ベアの陰に隠れているだけでなのだ。
影から姿を現したのは小人の様な男だった。
太い胴に短い手足、そして子供のそれである体に不自然に乗っかる中年男性の顔。
この中で最も小さく、しかし最も態度のでかいショウをイドは笑って許した。
「相変わらずだな貴様は。ワシにそんな口聞いてるのはお前ぐらいだぞ」
「主従の関係を超えた友情と親愛の証ってやつでさぁよ。敬語だ丁寧語だ言われても学のねぇ俺らにゃ分からねぇんでさ」
常に周囲を固めるいつもの腹心三人が健在である事を確認したイドは僅かに安堵するが、胸の内に燻ぶる焦燥は更に高まっていく。
何かが欠けてしまった感覚が徐々に鮮明になっていくような喪失感にも似た何かをイドは払拭できない。
焦燥感の原因は頼りにしている三人のいずれかが失われたからであると思っていた。
だが、そうではなかった。
ならば、何かが起きているという事だ。
それも恐ろしい何かが。
「ギン、外を視察したい。車を持ってこい」
会話をしている間に手慣れた手つきで着替えを終わらせてくれたギンに対してイドは次の命令を出す。
ギンはやはり言葉を介さず、首を一度縦に振ると外へと出て行った。
「え、外に出るですかいイド様。ちょっと今はまごついてまして……」
「農奴どもが騒いでいるのか?」
「ええ、なんか今日は良くない事が起きそうだとか外の気配が恐ろしいから小屋に帰してくれとうるさくてですね。あいつら何かにつけて騒いでサボろうとしやがるんでさぁ」
「なるほど、お前はやはり鈍いのだな。まあ、それが役に立つ事もある」
「へぇ?」
「ベア、お前はどうだ?」
外への視察を渋るショウをいなすとイドはベアに答えを求める。
ベアはゆっくりと苦し気に呼吸しながらイドの問いに答えた。
「キョウ…ナンカ…ヘン…デス…」
「何が変だ、ちょっと外が騒がしいだけでよ」
イドに迎合したと思ったのかショウはベアを小突くが圧倒的な体格差で揺るぎもしない。
「分かった。ベア、お前を信じる」
「そんなぁ…」
側近であるベアの返答にイドは答えを得た様に頷くとショウが不平を漏らす。
そんな時、重い音を立てながらギンが鉄板を全周囲に打ち付けた装甲車の様な車椅子を部屋へと運び込んで来た。
細い体に似合わず、鍛えられた両肩と両脚で重い車椅子をイドの傍まで苦も無く動かすとギンは一度短く会釈をし、恰幅の良い―――ともすれば肥満とも言われかねない体格の―――イドの両脇を抱えて持ち上げた。
上半身こそただの人間であったその体は、足が木の根の様に変質し幾重にも枝分かれして垂れ下がっていた。
イドもまたなりそこない、自身だけではどこにも至れない者であった。
―――――
「やはり外が騒がしい」
「そうですかねぇ?」
キャンプ場のロッジを思わせる邸宅から出たイドは外に広がる農園を一望して自身の胸騒ぎの原因を理解した。
一見すればいつも通りの日常の風景がそこにはある。
濁った空には奇怪な怪鳥『ハト』が飛び交い、農場を円形に囲む木の柵は揺ぎ無く林立し、エンキに献上する作物を栽培する畑には痩せた土地でも育つ雑穀や大麦、ライ麦に豆類、酒の原料になる山葡萄の如く小さい粒を実らせた捻じれた葡萄の木の世話をする農奴たちとそれを監視し、怠けた農奴を殴り倒す管理者たちの牧歌的な光景。
農奴たちに礼拝させる為に苦心して作らせた奴隷を足蹴にして腕を組むエンキの石像もしっかりと手入れをされて美しく輝いている。
だが、場の空気がどこか張りつめているのがイドには見て取れた。
ハトたちは普段よりも数を増して地上の鈍重な獲物を虎視眈々と狙い、農奴たちは内から湧き上がる不安に押し潰されんばかりに体を震わせて活力を失い、管理者たちは突如湧き上がってきた恐怖を農奴たちが怠けているためだと決めつけた様に手当たり次第に棒を振るって有る事無い事を構わず叫び散らしている。
よくよく見れば堅牢な筈の木の柵や輝いてる筈の石像すらも色褪せて見えてきている。
これからも命が果てるまで続く崩れる筈の無い世界が急激に色褪せていくような言いようのない感覚がイドの視野に襲い掛かってきているようであった。
なぜこのような感覚に陥るのか、最早答えは一つしか無かった。
拠り所とする強大な存在の喪失、イドとて不平は漏らせどエンキという支え無くして生きられぬ以上は彼の小さき邪神を尊敬し信仰しているのだ。
祈りを捧げるべき神が消えてしまったが故に、心の平静が失われてしまったのだという仮説にイドが行きつくのはそう難しい事ではなかった。
それはかつては『虫の知らせ』と称されていた物であった。
エーテルで満ちた世界ではその感覚はより鋭敏に、正確に伝達される。
だが、それをここで言う事は憚られる。
もしまだ生きているならば、神の不在を口にするのは最上級の不敬であり極刑に値する背信行為だ。
確定していない事象を元に物事を判断する事は自殺行為、そんな正論を盾に己の感覚を否定したいという強い感情が湧き上がる。
故にイドはショウに命令を下した。
「ショウ、48thの連中に馬を出させろ」
「へぇ、アミどもをどこに偵察隊を送るんで?」
「都市鉱山、エンキ様の居城だ」
「えぇ!ヤバいですよイド様、また小言かってキレられちまいまさぁ」
「問題ないならばすぐに帰らせれば良い。トラックがちゃんと到着したか確認に来たとでも言えば申し訳は立つ」
「まあ、イド様がそう言うんならそう取り計らっときますがね…」
ショウが不承不承とした口で答えながら短い脚で厩舎へと向かう中、イドはただ自身の中にあるこの感覚がただの気のせいである事を祈った。
「もしワシの想像通りならば嵐が起きるぞ、それも全てを吹き飛ばす大嵐が…」
イドの肌を苛む向かい風がこれから起きる運命を暗示している様に更に強く吹き荒んでいた。
―――――
イドがエンキの住まう都市鉱山に斥候隊を送り出し、眠れぬ夜を迎えようとしていたその時、レオ達一行はと言えば―――――。
「皆遠慮せずにどんどん喰えよ!今日は無礼講ってやつだ!」
「「「イェアーッ!」」」
エンキの居城たる廃ビル、それもエンキの座する玉座の間であった空調の利いた大部屋で大いに飲み、大いに喰い、盛大にどんちゃん騒ぎを行っていた。
騒ぎの主はスーツの上からエプロンとコック帽子を被ってフライパンを振るうクトーと食事が出てくるたびに歓声を上げる機械教徒たち、そしてそれに便乗するレナルドとドッグである。
呆れた顔で眺めるボースと神妙な顔のレオを無視して一行は静謐が保たれるべき王の玉座の間に鍋とフライパンを置いて火を焚き、食料保存用に設置されていた冷蔵庫の所在を暴くと中身を強奪しては次々と下処理を加えて鍋へとぶち込んでいった。
「燃やせ燃やせ!うまい飯には炎が必要だ!全部燃料にしちまえ!」
クトーの的確な指示の下で動く一行の前では床に敷かれた絨毯もコレクションの剥製を飾る机や木の板も今や料理をする為の立派な燃料だ。
R1039として初めてここに通された時、レオには絶望しか無かった。
ボースという強者すら赤子の様に扱う強大な怪物、人類の厄災と言っても良い存在と出会い、そして奴隷の烙印を押された屈辱の場所。
「冷蔵庫あるじゃねぇか!?肉と卵もあるだって?こいつはご機嫌だな!」
それが今、クトーと愉快な仲間達の手によって荒らし回されてその尊厳を凌辱されている。
敗者は全てを奪われる、これが世界の縮図だとばかりに部屋の可燃物は全て破壊されて薪に変えられ、エンキが味わうべく献上されたであろう肉や穀物は次々と男達の魔の手にかかって料理に変えられていく。
「おおっと!こんな所に葡萄酒まであるじゃあないか!こいつらも『解放』してやらねぇとな!」
聖域を荒らす蛮族の饗宴といった様相だが、この地の支配者にとっては相応しい末路と言えるのかもしれない。
今、諸行無常の真理がここにある。
「キルロイ、前菜は野菜スープで良いか?」
「ああ、もう好きにしてくれ…」
部屋を一通り荒らしまわったクトーが屈託のない笑顔でそう語りかけて来た時、レオは考える事を止めた。
――――――――
この日の夜、レオたちの夕食は文字通りの豪勢な宴会となっていた。
クトーと料理の腕のある幾人かが持ち回りで調理を担当し、次々と食材を喰えた料理に変えて食卓に出し、残った者達がそれを味わって腹の中にしまっていく。
キャベツの触感と風味のある葉野菜とニンジンの気配がある植物の根の入った塩スープを前菜として雑穀と豆、人面草をハーブと岩塩と共に煮込まれた雑炊が主食として出された後に本日の目玉とばかりに冷蔵庫に貯蔵されていたよく分からない鳥の肉と卵、何で作られたか分からない塩漬けベーコンと付け合わせのピンポン玉サイズの芋を焼いたミックスグリルが供され、一同は歓声を上げながらそれを次々と平らげていった。
それらを作り、各々の更によそっていくクトーは文字通り神の様に崇められ、これまで贅沢と娯楽に飢えてきた彼の部下たちは次々と現れる欲望を満たす品々に狂気すら伴う程に目を輝かせている。
ベーコンと鳥肉のミックスグリルが出た時など、機械教徒たちだけでなく酒が入って酔っているとはいえドッグやレナルドすらもエンキを冒涜する文言を吐き散らしながらガッツポーズでそれを称える程であった。
どうやら支配する側のボースたちすらも食事に関しては不満がある状態であったらしい。
食事の恨みつらみは恐ろしい物である。
キドはといえば、集団からつかず離れず、絶妙な位置で乱痴気騒ぎに巻き込まれないようにしながら何度も雑穀雑炊のおかわりを要求している。
必要以上になれ合わないがタダ飯は貰えるだけ貰う、それがキドの流儀らしかった。
「ひでぇもんだな、てめぇもそう思うだろ?」
「今日ぐらいは許してやるべきだろう、何事にも儀式は必要だ」
ここに至るまでに大勢死んだからこそ、禊としての戦勝祝賀会は必要なのだ。
感情に支配される人間という種には感情を処理するための儀式は必須だ。
祝賀会も葬式も、死んでいった者の為ではない、今を生きる人間の心を慰める為にあるのだ。
次に進んでいくために過去にケジメをつける事、儀式の骨子とはそこにある。
しかし、全員がそれに迎合出来る訳ではない。
馬鹿騒ぎに馴染めないボースとレオは自然と隣に座り合って他者よりも大皿で多めに渡された料理をつつきながらその光景を見やっていた。
夕方には一度暴走しかけた相手であるが、だからと言ってそれを理由に避けるというのはボースにとっては勝てないから逃げるという事と同義であり誇りが許さない。
結局のところ、ボースはこの祭りが始まって早々にレオの隣に座り、『貸し一つだ。対策は考えてやる。今後同じ事したら容赦しねぇぞ』と告げて手打ちとした。
ボースとしては口の回るクトーよりもレオの方が同じ仕事をしてきた分、話が分かると思っているのだろう。
互いに必要以上にはしゃいで楽しむ性格ではないと思っているというのもあるかもしれない。
一方のレオはその騒ぎを目を細めて見守る様に静かに見つめていた。
その光景に在りし日の戦友や上官たちと戦果を挙げた時に行っていたバーベキューパーティーを重ねていたのだ。
あの時には悪友のLがいた。
上官であり理解者であったジョンソン少尉もいた。
苛酷ではあっても温かみの在った、もう戻れない日の面影を幻視してレオの胸が締め付けられていく。
もう戻れないからこそ、郷愁の念は強まっていく一方だ。
このままではいけない、そう考えたレオは話題を変えた。
「それよりもボース、なんで椅子に座らなかったんだ?」
レオは雑炊に息を吹きかけて冷やしながら片手でエンキの座っていた玉座を指さした。
他の一切が蹂躙されていった中で、それだけは今も変わる事無くそこにある。
一つ変わった事があるとすれば、主を失い破壊された鉄砕きの残骸の一部が椅子の足元に置かれていることぐらいだろう。
夜が訪れるギリギリにビルに辿り着き、人力エレベーターを動かしてなんとか闇に飲まれる前に部屋に転がり込んだ一行の中で最初に玉座に近づいたのはボースであった。
椅子の背に手をかけて座ろうとし、しかし途中で立ち止まり、最後には無言で手を離していつも通りの不機嫌な顔で椅子に背を向けたのだった。
「もう良い、好きにしろ」
見守る一行に対してボースはそう告げるのみであった。
その後に蛮行を楽しんだクトーらも周囲の設備を破壊する一方でエンキの玉座にだけは手を付けなった。
或いはレオが座るだろうと思ったのかもしれない。
ここは引き払う場所である以上レオにもその意思はなく、結果的にこの廃墟の玉座は空位のまま残された。
「ボース、あそこにお前の焦がれた『自由』は無かったのか?」
「……焦がれたに決まってるだろうが。座りたかったに決まってる。だが、あれは俺が手に入れた物じゃねぇ」
ボースは早々にミックスグリルを食い尽くすと渡されていた酒瓶を一気に煽り、顔を赤くしながら続ける。
「レオ、てめぇも理解しとけ。自由はてめぇで手に入れるから自由なんだ。他人から恵んで貰った物なんざは他人の気まぐれで奪われちまう。どんだけ偉くなろうと強くなろうと、玉座に君臨して様と他人に金玉を握られてたら自由じゃねぇんだ」
次はレオの顔が歪む番であった。
ボースの考えは至極全うであり、今のレオに大きく刺さる言葉であったからだ。
ここまででレオは自身の力では何も為していない。
この肉体は邪神スーラによって改造された物であり、エンキを滅ぼしたのはもう一つの更に古き者と呼ばれる化け物の力、手に握る剣も元はと言えば人類の敵が用いていた物である。
事態は進んでいようとも、レオ本人は未だに呼吸の仕方を理解した程度の塵芥と同じにすぎないのだ。
他人に与えられただけの力はいずれは他人の都合で取り上げられる。
当然の真理だ、自分の魂は既にあの不気味な唇たちに齧りつかれている。
「エンキは屑だった。だが真に強く、自由な男だった。それに対して俺は自由を他人に恵んで貰った乞食に過ぎねぇ。そんな奴が玉座に収まっても見苦しいだけだ。道化を演じるのはごめんだ」
ボースは言いたい事は言い切ったという様に更に酒を煽り、立ち上がった。
「俺は先に寝る。器はてめぇが処理しろ。貸し借り無しにしてやる」
言うやボースはレオの答えを待つことなく視界の端から消えていく。
これ以上の会話は不要、そう言わんばかりであった。
「確かに、金玉を握られてちゃ自由なんて無いな…」
レオは呟きながら手に持った雑炊を見やる。
器になみなみと盛られた紫色の雑炊は食欲を削ぐには十分だ。
いや、雑炊自体が紫色なのではない。
紫に染まっているのはレオの視界そのものだ。
かつてはスーラの権能によって一時的に変化していただけであった視界は、肉体の再編と邪神との強制契約の影響なのかこの状態で固定されて最早戻る事は無い。
その代償としてエーテルの流れが見えるようになったのだから失った以上の価値はあると言える。
そして問題はそこではない。
あの唇との契約以降、レオは満腹感を感じる事が出来なくなってしまったのだ。
食事を味わう事は出来る。
味覚が失われたわけではない。
だが、いくら喰えども満腹感が訪れない。
それに気づいたのはスープを食べ終わり、雑炊を半ばまで食した時であった。
食えども食えども胃が膨らむ感覚が無い。
今現在、レオが冷ましている雑炊は三杯目なのだ。
幾らなんでも腹八分ぐらいなって無ければおかしい量を喰らい、なおも小腹が空いた様な飢餓感が消えてくれない。
『尽きぬ鼓動と果てなき飢えを 』
あの声が脳裏に甦り、レオは首を振るって酒瓶を掴む。
そして、それまでの人生で一度も手を付けてこなかった酒を一気に流し込んだ。
渋みと酸味、そして若干のかび臭さが加わったえぐみのある酷い味と喉を焼くアルコールにむせながら、それでも現実から僅かな時間でも逃避して心を休める為に瓶の酒を一気に飲み干す。
「酷い味だ、まるで屑の人生みたいだな…」
その愚痴の文句が己が食い殺した相手と全く同じである事に気づく事も無く、アルコール初心者のレオはそのまま床に倒れて眠りについた。
レオが意識を放り出した後も宴は続き、翌日に二日酔いの犠牲者を多数出す事となったが、それはまた別の話であった。
イドの任せられた農場は荒野となっている都市鉱山周辺地域に点在するオアシスを開拓して作られた食糧生産拠点であり典型的なモット・アンド・ベーリー方式を大型にした簡易城砦の様な形態をしています。
防御拠点を兼任するイドの邸宅、エンキの為の献上品を栽培する畑、農奴と管理者を住まわせる住居に防衛用の兵士を住まわせる兵者が木の柵と堀で守られた内側に詰め込まれている形です。
この拠点を最初に作って基盤とし、ミュータントの勢力が弱体化するごとに柵を広げて人のつかる領域を拡大し続けるのが開拓のやり方となっています。
農奴と管理官はイドの配下ですが、兵士はエンキに忠誠を誓う別部族の人間達でありイドに対してはあくまでエンキの信任があるが故にしたがっているという状態です。
エンキの権力無くして体の不自由なイドの安寧はありません。
故にイドはエンキと一蓮托生であったのです。
今回はここまで




