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善市じいさんと僕の戦争  作者: 剛虎
1/1

デタラメ戦記

昭和54年春、僕は善市じいさんの家に預けられた。

両親は離婚、年子の弟がいたが母親は弟だけを連れて出て行った。

僕は父親に引き取られたが父親は再婚するにあたり僕が邪魔になり父親の親、善市じいさんに僕を押し付けたのだ。

とにかく、善市じいさんとの暮らしが始まった。

後で知った事だがとにかく貧乏だった。

朝は5時半に起き一緒に飯場の土方の朝食の準備、風呂の掃除、部屋の掃除、散歩。

これも後で知った事だが善市じいさんは土方の飯場で暮らしていた。年寄りなので現場には出ず飯場の世話をして毎月四万円程度の年金と飯場の世話代で生計を立てていた。

僕が12歳の時飯場を出て暮らす事になるが又話すとしよう。

戦争を経験した善市じいさんは毎日人の殺し方や正当防衛について教えてくれた。

国が武装解除した時誰よりも先に名乗り出るよう教育された。

怪我の治し方や食料の調達の仕方、小学生ながらに1人で生きていく為、又戦地で生き抜く為のレクチャーを毎日受けた。


勉強などは全くしなかった。

唯一したのは漢字の勉強と算数だけだった。それだけあれば生きていけるという教育だった。方程式を覚える位ならロープの結び方、火の起こし方を覚えた方が為になる。

そんな理論の持ち主だった。


学校から帰ると煮炊きが始まる。

何年も同じ鍋に食べたい野菜や肉をぶち込んで煮る。

味噌ベースの鍋だった。たまにはのびるやつくし、ゼンマイの煮物なども出たがほぼこの鍋だった。だから学校の給食は毎日が御馳走だった。

小学生高学年になると人の家でご飯をもらう事を覚えた。カレーやフライは幼馴染の家で食べたのが最初だしお袋の味は他人の家で食べた味かもしれない。

そんな日々の最中事件は起きた。


〜飼っていたウサギが鍋に〜


我が家にはペットのミニウサギが二匹いた。

毎日可愛がって世話をしていた。じいさんが沢山餌をやるのでもはや容姿はただの野うさぎだった(笑)


ある日の夕方学校から帰ると、ウータが居なくなっていた。あれ?と思い、じいさんにウータは?と聞くと鍋にしたと笑いながら言っている。勿論冗談だと思い、あちこち探したがウータは居なかった。


その夜だった。見慣れない肉、食べたことの無い味の肉鍋が食卓にはあった。

すぐ悟った。

じいさんは心臓は貴重だからとそっと鍋から取り出し僕のご飯の上に乗せた。

僕は泣きながらパクリと口に入れた。

その夜もう一匹居たウーコを抱き抱え、家出をした。

飯場のまわりは工事地帯、隠れる場所は沢山あった。

とりあえず静鉄電車の土手にウーコを放し、ゴロンと横になった。

凄く綺麗な夜空だった。

急にお母さんの顔を思い出し又涙が止まらなくなった。両親は居なくなる。学校ではイジメられる。ウサギは食べた。何もかもがグチャグチャになり、とにかく泣いた。そしてそこに寝てしまった。

朝目覚めた時布団の中だった。夢?とも思ったが、ウータは居なかった。

その後じいさんも悪いと思ったのかウーコの檻が玄関から部屋の中になっていてテレビをくり抜いたカッコイイウーコの部屋ができていた。

ウーコは長生きした。


後日談になるが、じいさんが話してくれた。

お前らは商店に行って切ってある肉は食べてよくて犬やなんかは可哀想って泣くけど、あの商店の肉だって元々生きていた動物なんだ、あの肉だって切られたら痛いし泣くだろう。

一番いいのは食べる時必要なだけ殺生する。そして感謝する。そう言っていた。

御託並べても人間は生きる中でそうして殺生してるんだ。誰かがやるのか、自分でやるのか、

そんな事よりちゃんと土に還して残さない。成仏してもらう。身体から出て肥料になって新しい命を生んでくれる。

だからと言ってウータは違うだろ!と僕は思った(笑)



〜養鶏場へ潜伏〜


じいさんと暮らし始めて数年が経つ頃あるサイクルに気付いた。

たまに夜中起きると何処かへ出かけ、大体次の日は鶏肉の鍋だった。それが必ず隔週あった。

たまごも豊富にあった。

じいさんの好物の一つに鶏卵糖という食べ物があった。これはたまごを10個程お湯で溶きそこに砂糖を大量に入れて飲む飲み物だった。

9才頃のある夜中、じいさんに叩き起こされた。体操着に着替えて向かった先は近所の養鶏場。

裏に回りU字溝から匍匐前進で場内に潜伏。

糞まみれになりながらグレイチングを外すと簡単に中に入れた。

すると手際良く鶏が騒ぐ事も無くさっと袋に二匹だけ入れ又同じ経路で外に出た。

問題は朝だった。恥ずかしい話しだが我が家には体操着が一つしか無かった。しかも僕は普段着はほぼ無く毎日体操着で暮らしていたから朝になりその体操着の汚れ方を見て絶句した。

学校に行けない。その時だった。

飯場の土方衆が学校の側の朝早くやっている商店で体操着を買ってくれてプレゼントしてくれた。

嬉しくて嬉しくて、そしてもう一つアディダスの青いビニールジャンパーもプレゼントしてくれた。そのジャンパーは卒業まで着たし、卒業アルバムにも載っている(笑)

話しがそれたが、この養鶏場潜伏は12才まで続いた。

しかし一度も見つかった事は無かった。

流石に戦争経験者と感心した。

この時じいさんに教えられた。

悪い事は1人でやる。じいさんはシベリア捕虜時代信頼していた仲間に靴を盗まれてそれ以来人は信用するな。悪い事は1人でやれが口癖だった。


後日談になるが、程なくした日曜日土方衆の中の1人が僕を連れ出し、沢山服を買ってくれた。

そしておもちゃ屋で船のプラモデルを買ってもらい帰りしなスポーツショップでグローブを買ってもらった。

その日の夜その土方衆の中の1人のおっさんと一緒に風呂に入った。理由はわからないがおっさんは東北の方から静岡に来ていて、僕と同い年の息子を置いて働きに来ている話しをしてくれた。

僕が可哀想に見えたらしい(笑)強く生きろよって何故かおっさんが泣いていて僕は困った事をよく覚えてる。

しかし次の日おっさんは居なくなってた。



〜動物園へ〜


まだ10才位だったか?じいさんが動物園に行くと言いだした。

朝早く弁当を作っている。グチャグチャのオニギリとたくあん(笑)

歩いて1時間位で動物園に着くと何やら作業員の方と話している。

どうやら入場料が足りないようだ。といっても確か子供20円大人150円程だった気がする。

かなりの時間足止めをくらい、じいさんが戻ってくると、じいさんが足が痛くなったから1人で行って来いと言いだした。

勿論僕は駄々をこねる。

入り口はやや渋滞している、じいさんはポケットから20円を出し僕を中に半ば無理矢理入れた。

立ち尽くす僕。

その時ガラス張りの入場ゲートの中に居たお姉さんが2つパンフレットをじいさんに渡し、どうぞと笑顔で言ってくれた。じいさんは乞食じゃ無いからと断わったがお姉さんが又どうぞと笑顔で言っている。

僕は嬉しくてじいさんの手を引っ張って無理矢理中に入ってもらった。

実は先程じいさんが話していた作業員は飼育員でお金を出してくれていたらしい。

じいさんは深々とお辞儀して夕方まで遊んだ。

そういえばサプライズはこれだけでは無かった。

お昼時、僕はじいさんに蕎麦を食べたいって駄々をこねてしまった。

じいさんは黙ってグチャグチャのオニギリを食べていた。

諦めて僕もグチャグチャのオニギリを食べ始めたが、まわりの子供がお菓子やら蕎麦を買って食べているし弁当も豪華で何だか急に恥ずかしくなって、もっと動物が見たいと嘘をつきその場を離れようとした。

そしたら売店のおばちゃんがじいさんに、間違えて作ってしまったので良かったらどうぞ、と、一杯の蕎麦をくれた。俺もじいさんも嘘だとすぐにわかった。

蕎麦は1種類間違えるはずが無い。普段ならじいさんは断るがこの時はさっと手を出しありがとうございますと言って僕にくれた。

僕は小さいお椀を貰って少し分けてどんぶりをじいさんに渡した。

美味しかった。夢中で食べていると時々じいさんが蕎麦を僕のお椀に入れてくる。

じいさんも食べようよって言ったら、じいさんは何とも言えない顔をしながら、すまんな、と言って蕎麦をすすった。何だかじいさんが泣いているようにも見えた。どんぶりを返す時小さな声でじいさんが、情けない、と一言言った。

僕はこの日を境に鬼になった。


〜盲腸は自分で治す〜


僕のじいさんは

右の腹が一箇所異常に出ていた。

いつ頃かは忘れたが、腹をさすりながら寝ているじいさんが居た。

汗を吹き出し苦しそうにしている、相当痛そうだ。

しかし医者に行く金なんか無い。

ただ寝てる。しかしある日を境に又元気なじいさんがいた。どうやら本当は盲腸が破裂したらしくそのまま治ってしまったらしい。死なずに助かった。

基本怪我もアロエだけで治してしまう。

流石に戦争経験者はタフだなーと感心した一幕だった。


〜ツツジ泥棒確保〜


小学六年生のある夜中、じいさんに起こされた。

じいさんは外に誰かいるから見て来いや❗️と言っている。

じいさんは裏から外へ自作の出刃を持って出ていく。

とんでもない恐怖だ、恐る恐る外に出ると、どっかオヤジがじいさんの植木を盗む正にその時だった。


この野郎❗️じいさんの一喝の合図とともに僕は無心でオヤジに飛び乗って手当たり次第にぶん殴る。

騒ぎが聞こえた飯場の屈強な男達が灯りを付け階段を飛び降りて来た。

じいさんは持っていた出刃で足をブスっとやった。


痛い痛い。当たり前だ、刺されてんだから、何だか僕は冷静だった。


飯場の衆が蹴るは殴るは(笑)瀕死のオヤジにじいさんはトドメを刺そうとするが飯場の衆に止められた。

160センチ程しかない小柄なじいさんを土方の衆三人でも止められない。


じいさんは明日袋に詰めておくからアスファルトに埋めてくれや、と一言言って部屋に戻っていった。


朝何だか起きてしまいオヤジを捜したけどいなかった。


後日奥様と一緒に謝りに来た時、生きてたと思い何だかホッとした。

このオヤジにはこの後も何度か下校中に遭遇したが、僕を見つけると、坊ちゃんって言われるようになった(笑)

じいさんが死んでもう何年も経つがまだこの時のドスは持っている。











〜あとがき〜


この話しはじいさんと暮らしたほんの一コマである。

結局じいさんは僕が12才の時から無職になりそこから92才まで生きた。勿論無職のまま(笑)

又気が向いたら思い出の数ページを書き記してみようと思う。






































































































































































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