六回
「なんでまた目的地に近づくたびに、魔物の数が多くなってくるんだよ」
ルアスは思わず、愚痴が口からついて出た。
なぜなら出てくる魔物の個々の強さはさほど脅威にはならないが、数によって補われているからである。
場所が洞窟内という閉鎖された空間のため、草原、森林といった広大な場所とは異なり、団体で来られるといってもまだ限りがあるため、なんとかマシという程度ではあったが。
その中を先頭がシェイド、真中がルアス、後方がサーシャという隊列で走っている。
洞窟内にいることのできる魔物の数が制限されているかわり、逆に閉鎖的な空間となってしまっているため、思うように身動きが取れない。
しかも前後の道を挟むようにして魔物の群れが現れれば、すぐさま戦線離脱とはいかず、ほぼ確実に戦闘を強いられた。
「少しは黙って戦闘に専念しろ。魔法を繰り出すのにも時間が掛かるのだから、剣を振り回すだけしか能がない貴様でも、少しは役立ってもらわないと困る」
「だったらチマチマ魔法使ってないで、思い切りドカンとやってくれよ。そしたらこんなに逃げ回らなくてもすむのに!」
「やってもいいぞ。生き埋めになりたいのならな」
「シェイドのドけち!」
ルアスは悪態をつくのだが、シェイドにすかさず正論で突き返され、仕方なしに無茶なことを苛立ちと共に叫ぶ。
後ろでサーシャは敢えて口は差し挟まず苦笑した。
そうしている間にも、前方にゴブリンが五、六匹現れた。
「ちっくしょう。もとはと言えばお前等が出てこなければ、万事解決なんだよ!」
ルアスは苛立ちを前方に現れた魔物にぶつけるように、シェイドの一歩先を踏み込むと、群がるコブリンの先方に切りつけた。
「グレイブ!」
「ライト!」
シェイドは小声で素早く呪文を唱えると、大地の力を司る魔法の中でもっとも弱い魔法の一つである、小さな石礫をゴブリンの群れの先頭に叩きつけた。
前の何匹かは崩れるようにして倒れこみ、後ろにいた何匹かが怯む様子もなく殺到すると、サーシャは洞窟内が暗いことを逆に利用して、主に暗闇を照らすときにのみ使われる光属性の魔法を造りだし、目を眩ませた。
功をそうしたらしく、ゴブリン達は目を押さえながら七転八倒する。ルアス達は、ここぞとばかりに通り過ぎていく。
「よし。それで後どれくらいなんだ?」
切り込むときに先頭へと踏み出していたルアスは少々息を切らしながら再びシェイド後ろに回り、もとの順列に戻ると先に行く彼に訊ねた。
「もう少しすれば二手に分かれる道がある。そこを右に曲がり、まっすぐ進めばすぐだ」
今まで走り続け、しかも魔法を使ってきたというのに、シェイドは息を切らさず間断なく言葉を発している。
「よっし。よかったなサーシャ、あともう少しだ!」
「はい」
ルアスは後ろにいるサーシャに声を掛けた。
サーシャは気づかず短く返事をすると、ルアスの先を行くシェイドへと視線を走らせていく。
彼女のどことなく嬉しそうな表情を見ると、ルアスは満足したように目線を前へと戻した。
まもなくすると細長い道を辿った先に、二手に道が分かれた広い空間が覗くように見えてきた。
あそこだとシェイドは指し示すように言い、ルアスは喜び勇みながら歓声を上げ先頭に進み出た。
右へ曲がり細い道を通り抜けると、広い場所へと一歩踏み出した。
「ようし、ようやく着いた!」
「子供か貴様は。なにしに来たか忘れたわけではあるまい。いや、まだ子供だから当然か」
「なんだよ、その言い方!」
ルアスは満面の笑みで振り返り手を掲げると、ため息混じりに走りよってきたシェイドに、今度は怒りの目を向けた。
同じようにルアスのもとへ駆け寄ってきたサーシャは、反応に困りながら微苦笑している。
そのときサーシャの目に、ルアスの背後でぬるりとした半透明の細い触手が幾本もゆっくりと這い出し、彼目掛けて突進する姿が映る。
「ルアスさん、危ない。うしろ!」
サーシャの悲鳴にも似た叫び声が、あたりに反響する。
何事だろうと何気なしに振り返ったルアスは襲い来る『それ』に驚き、とっさに避けることができず立ち尽くした。
刹那、シェイドが体当たりしてルアスを横へ押しのけると、身につけていた中剣を襲い来る『それ』に素早く上から下へと一閃した。
半透明の『それ』がボトリと重量感のある音で落ちると、水溜りのように地面に広がった。
かと思うと液状となって落ち広がったものが、今度はうねりながら地面を這っていく。
『それ』と融合し、元の姿へと戻っていく。
「スライムか。少しばかり大きいな」
「……これって、スライムなのか。少しばかりって大きさじゃないぞ。さっきまで戦ってたスライムとは、比べ物にならないじゃないか!」
ルアス達が辿りついた空洞は、直径三百メートル程で円形に広がっている。
壁岩に苔が少々生えているだけで、この洞窟に入ってきてからというもの飽きるほど眺め回した、他となんら変わりない岩肌があった。
スライムは本来、どんなに大きくとも約一、二メートル程度。
だが通常の身の丈の何倍もある巨大なスライムが、所狭しと動き回っていた。
スライムが壁岩にも這っているために、岩肌は滑りやすそうにぬめっている。
「こんなの、どうやって倒せっていうんだよ」
ルアスは目の前に聳え立つように蠢くスライムに圧倒されながら独語した。
「これだけ大きいと厄介ですね。いくらスライムが炎に弱いとはいえ、シェイドさん達が持っている松明だけでは、倒すのは難しいですね」
「そうだな」
巨大なスライムを睨むように見つめるサーシャへとシェイドは、取り乱すルアスとは違い、冷静に分析している。
「だったら、炎系の魔法使えばいいじゃないか」
シェイドのおかげで難を逃れたものの、いまだ座り込んでいたルアスは立ち上がり、彼等を眺め回しながら言った。
しかし彼等は浮かない表情でお互いの顔を見合わせると、苦々しい笑みを浮かべる。
意味をルアスは訊ね、それに対してサーシャが口を開きかけた途端、またしてもスライムの触手が彼等に叩きつけるように伸びてきた。
スライムの胴体に当たる本体そのものの動きは緩慢だが、逆にいくつもの触手が素早く次々と伸びてくる。
いくら洞窟の中では広場のような空洞だとはいえ、スライムの予想外の大きさと、触手から逃げるようにかわしながら動き回るには狭く、身動き一つ取るにも辛かった。
「くっ…!」
このまま逃げ回っているだけでは埒があかないと思ったルアスは、腰につけていた剣を鞘から抜くと、スライムの懐へと潜り込み胴体へと切りつけた。
しかし切ったはずの傷は、瞬時に跡形もなく塞がっていく。
ここに来るまでに何度か目にした光景なのだが、それでもスライムの巨大さと、目の前で塞がっていく傷を見ると圧倒され、とっさに次の行動へと移すことができない。
ふいをつくように触手の一つがルアスの背後から伸び、スライムの胴体の方へと引き寄せるように叩きつけられた。
ルアスは声を出す暇もなく、液体に近いゼリー状の体内の中に飲み込まれ、息ができずにもがいた。
ゴホッと息を吐き同時に水を飲み込んだかと思うと、手の先を喉元へと引き寄せる。
「なにをやっているんだ、あいつは!」
ルアスの持つ剣より少々小ぶりな剣を構えなおし、彼が飲み込まれた先へと目線を向けると、シェイドは苛立だしそうに吐き捨てた。
「女、防御系の魔法を頼む」
「は…、はい!」
さすがにこのままルアスを放置することはできず、シェイドはサーシャの返事を聞く間も惜しむように、スライムの胴体へと駆けていく。
するといくつもの触手がシェイド目掛けて伸びてくる。
触手が叩きつけられる前に、シェイドは素早く先端を切り裂いていく。
音を立てて落ちた液体に近いゼリー状のような物体は、地面を這いながらスライムの胴体へと戻っていく。
それに足を取られないようにしながら、シェイドはまるで網目を縫うように軽やかに駆けていく。
息つく間もなくスライムの胴体へと近づくと、ルアスが取り込まれた周りの部分だけを抉るように切りつけた。
そして体中にスライムの破片をまとわりつかせているルアスを引きずり出し、地面へと叩きつけるように倒れこませる。
目線をスライムに移すと、先程切り離された触手が胴体へと集まりだし融合していく様を捉えた。
シェイドはルアスをサーシャ目掛けて乱暴に蹴飛ばし、素早く火打石で松明に火をつけると、スライムへと思い切り投げつける。
スライムが火に脅え怯んだ隙に後ろに飛び退き、すぐ様身を翻すと蹴飛ばしたルアスの襟元を掴み、引きずるように呪文の詠唱をしているサーシャの元へと走り抜けた。
一瞬躊躇し攻撃に転じそこねたスライムは、今度こそシェイド達の背後に触手を叩きつけようと、伸縮自在のゴムのように鋭く動かした。
「シールドよ!」
スライムの触手がシェイドの背中へと目と鼻の先まで伸びたそのとき、サーシャは呪文の詠唱を終える。
両手のひらを外へ向け無色透明な円形のバリアを張り巡らせると、攻撃を間一髪で防いだ。
「よくやった」
滑り込むようにサーシャのもとへと辿りついたシェイドは労いの言葉をかけると、ルアスを横たわらせる。
「大丈夫でしょうか」
「これくらいなら、なんともないだろう。頼まれ事をされてなかったら、放っておくのだがな」
バリアを張っている姿勢のままで心配そうに声を掛けるサーシャに返事をし、悪態をつきながらもシェイドは手際よく飲み込んだ水を吐きださせた。
ルアスは水を吐き出すと体をくの字に曲げ、苦しそうに咳き込むと荒く息をした。
「…た…たすか……」
「なにが助かっただ、この大馬鹿者が!」
「落ち着いてください、シェイドさん」
荒い息を吐きながら安堵の言葉をつくルアスに、シェイドは眉を吊り上げ、これでもかというほどの形相で叱咤した。
サーシャは魔法を放っている姿勢で宥めるも、効果は薄い。
もちろんその間にルアスはエルフの青年に抗議の声を上げようとしたが上手く言葉が紡ぎだせず、彼に視線を投げ掛けたまま押し黙っていた。
荒い息が収まりかけ一応落ち着くと、助けてもらった御礼よりも、自然に文句が口をついて出る。
「怒る理由ももっともだけど、スライム系の魔物って炎が嫌いなんだろ。なのにシェイドもサーシャも炎の魔法使わないから、飛び掛っていったんじゃないか」
サーシャはそれを聞くと、言いにくそうに応えた。
「……使わないのではなく、使うことができないのです」
ルアスからはサーシャの背中しか見て取ることはできなかったが、表情には先程同じ質問をしたときのように、困惑めいたものが浮かんでいると、放たれた声で予想ができる。
それを聞き、ルアスは驚いたというような呟きを洩らすと唖然とした。
「厳密にいえば使えないというわけではなく、それは禁忌とされている」
「炎、すなわち火は破壊を招くもの。水や風、大地、そして光のように命を育むのでなく、逆に命あるものを焼き尽くし、崩壊させる炎を私達は忌み嫌っています。だからこそ私達妖精と呼ばれる、精霊の声を聴き、魔法を使う者達にとっては暗黙の了解なのです」
「だから禁忌………」
聞き終えたルアスは、またもや呟くようにその単語を吐きだした。そして気づいた。
なぜガロウが禁忌だと言い、ルアスがゴルファ洞窟へ行くことに反発したのか。
ルアスがハーフだという理由だけではなかったのだ。
町の者達の、いつにも増した冷たい反応も。
ガロウは暗黙の了解を犯したルアスに町の者達の気持ちを代弁するように反発し、長老は毒に犯された町の皆のことを思えばこそ、少しでも可能性のある方に望みを託した。
しかしルアスは、自分自身炎を使ったという自覚はまるでなかった。
自分の中で、なにかが熱く燃えさかるような感覚がしただけだ。
自覚がなかったとしてもその時使ったものが炎で、しかも禁忌とされているものなら、周りの過剰な反応を考えると辻褄は合う。
けれどルアスは、自分にはそんな力があるとは到底思えない。
証拠にハーフにも魔法が使える者がいるというのに、ルアスには扱うことができない。
それ以前に妖精の血を受け継ぐ者のほとんどができる、精霊の声を聴くという当たり前のことがルアスにはできなかった。
精霊の聴くことのできる者は、力を借りて魔法を繰りだすというのに。
けれど扱えたのは自分の体に入り込んだアーサーの力かもしれないと思い、辺りに聞こえないようルアスは囁くような声で訊ねた。
「アーサー、もしかして町でのあれはお前がやったものなのか」
『あのとき我が力を貸したのは、そなたの傷を癒したときのみ。我が力を放つ前にあらわれた炎、あれは紛れもなくそなた自身の力だ』
アーサーは、あっさりと否定した。
「でも、だって俺には……」
「なにをブツブツ言っている。まずは目の前の敵に集中することが先だろう!」
アーサーの言葉に納得できず、ルアスが食って掛かろうとしたところに、シェイドの叱咤が飛び込んできた。
「ちくしょう、あとでその事しっかり聞かせてもらうからな」
言うとルアスは再び剣を構えた。
サーシャは自分自身とルアスを守るために、いまだ魔法で張ったシールドを張り巡らせている。
そのため巨大スライムは、シールド内にいるルアス達に手を出せないようだった。しかし疲れが見えはじめ、あまり長くは持ちそうにない。
シェイドは片手に松明を持ち、押しつけながら対応している。
だが巨大すぎるスライムに、小さな松明ではあまり効果はないようで、意外にも苦戦している。
もしあのときの炎がアーサーの言った通り本当にルアス自身が放ったものなら、もう一度出せるはずだ。
アーサーの信憑性のない言葉を半信半疑に受け止めながらも思い至り、炎よ出て来いと念じた。
しかしあのときの高揚感のようなものはなく、はっきりと判るような変化もまったくない。
だがルアスは立ち尽くしていても仕方ないと思い、シェイドに応戦しようとサーシャの張り巡らしたバリアから抜けだした。
するとスライムの触手が飛び込んできたために、とっさに横に飛んだ。もう一度炎を使おうと集中するが、またもや変化はなにもなかった。
その間に次から次へと触手が伸びてくる。
(やっぱり俺が炎を出すなんて、無理じゃないか!)
アーサーに毒づきたい気分にかられながらも、ルアスは必死でよけながら伸びてくる触手の先端を切っていく。
目の端に映ったサーシャを見ると、彼女は魔法を打ち切っている。
しかも疲労のためか触手から離れようと、逃げるだけで精一杯の様子である。
こんなとき本当に炎が使えたらと歯痒さを感じるが、使えないものは使えない。
「きゃあ!」
サーシャは小さな悲鳴をあげ足が縺れ倒れ込むと、スライムの触手に絡め取られるように捕まり、軽々と持ち上げられた。
逃れようと悶えたが、両腕を封じられ、簡単にはいかなかった。
手間取っていると、スライムの胴体へと引き寄せられていく。
どうやら取り込む気らしい。
ルアスは駆け寄ろうとするが、多くの触手に阻まれて行くことができない。
「女、そのままじっとしていろ!」
刹那、声が響き渡ったかと思うと、サーシャを掴んでいた触手を風魔法で切り落とした。
シェイドは落下してきたサーシャを抱きかかえると、すかさず飛び込んできた触手をかわし素早く呪文を詠唱すると、彼女が使ったものと同等のバリアの魔法を周りに張り巡らせる。
「おい女、このままではあの巨大スライムは倒せん。この場所が少々壊れることになるが、かまわないか」
ほんの数刻、二人の間には沈黙が流れていく。
サーシャがシェイドの言葉の意味をしっかりと理解するのに、それだけの時間が必要だった。
「………はい」
シェイドの突然の問いかけにサーシャは返答に窮していたが、やがて意を決したように頷いた。
「よし、では女。貴様はすぐ様通路へと出ていろ。巻き込まれるぞ」
言い放つとシェイドは抱きかかえていた手を離し、この空洞から出るよう促した。
サーシャは彼を見つめていたが、無言で離れていく。
「ルアス、貴様もだ。そいつから離れるんだ!」
「でも!」
「俺に策がある、貴様がいると目障りだ。いいからここから離れるんだ!」
シェイドはすぐ様この場から離れるよう言うが、ルアスは納得がいかないように反発した。
だが間髪いれずに言い返され、僅かな躊躇いの後、渋々ながら頷くとシェイドが指し示す方へと引き返した。
シェイドは横目で確認すると、素早く腰につけている必需品の入った鞄の中から、液体の入った小さな袋をいくつか取り出した。
それを取り出している間にもスライムの触手がシェイドに向かって打ち放たれ、避けながら液体の入った小さな袋をスライム目掛けて投げ放つ。
今度は鋭く尖った小型の刃物を小袋へ向けて放った。
すると小さな袋から液体が溢れだし、スライムの全身にかかっていく。
今度は火のついた松明を用意すると、スライム目掛けて投げつける。
松明の火はスライムに接触すると激しく燃え上がり、徐々に体を包み込んでいく。
それが全身に回るとスライムはあまりの苦痛に悶え、天井、床、壁など見境なしに触手を打ちつけ、暴れ始めた。
そうなるともはや手がつけられなくなり、巨大スライムのさせるがままにするしかなかった。
巨大スライムの触手が打ちつけられた壁は崩れ、炎が立ち込めている。
既に空洞の入り口を抜け通路に出ていたルアス達三人は、己の身を守りながら光景を見つめていた。
やがて静まり、呆然としているサーシャとルアスを押しのけてシェイドが中へ入っていく。あとの二人もつられるように、後ろを着いていく。
シェイドが魔法で光を作り、辺りを照らして見ると、壁岩は崩れ、大小様々な岩石が空洞半分を覆い尽くしている。
僅かに見える岩肌には、焼け焦げたような跡があった。
「これは酷いな。一体なにやったんだよ」
最初の面影がほとんどなくなってしまった場所を見渡しながら、ルアスはシェイドに問い掛けた。
「松明に使う予備の油を奴に投げつけて、火を放っただけだ。あれだけ巨大だと、かなりの数の油を必要としたから、もう予備はないがな」
スライムのように炎そのものが弱点という魔物は少ないが、怯む魔物は多いという。
故にこの洞窟から抜け出すまで炎に弱い魔物と出会っても、一目散に逃げるしかないとシェイドは一言つけ加えた。
だが愛嬌がなく無愛想なため、冗談なのか本気なのかルアスには判断がつきかねた。
「ここが…、この場所がひかり苔に覆われていた場所なのですね」
そんなとき弱々しく儚げに声を震わしながら、サーシャはポツリと呟いた。
その声にルアスとシェイドの二人は、彼女の方へと振り向いた。
「ひかり苔?」
ルアスはサーシャと同様に呟きながら、問い掛けるかのように訊ねた。
「ここは、この空洞はひかり苔に包まれていて、とても幻想的な場所だったのです。それが今では、面影一つない……」
サーシャの胸の内に寂寥感漂う風が吹きこんできたように寒々とし、意識したわけではないのに嘆くような、呻くような声が口からついて出た。
まるでなにかが覆い被さったように、重い沈黙が辺りを漂っていく。
「サーシャ、あのさ……」
「いいえ、わかっています。わかってはいたんです、あれからもう十七年も経つのですから。それでも私は……自ら望んで、ここへ来たのですから」
どう言っていいのかわからず困惑した表情で、ルアスはなんとか言葉をかけようと試みた。
しかしサーシャは一筋涙を流すと、途端に手で顔全体を覆い、下手な同情や慰めなどいらないとでもいうように、やんわりと突っぱねる。
「ルアス、しばらくこの空洞から出ていろ」
三人の間に暫しの沈黙が流れると、シェイドは口を開いた。
なぜ突然そんなことを言うのか、ルアスは訳がわからない。ただでさえ疎外感を感じているだけに、納得もできない。
「いいから出ていろ、俺はこの女と話がある」
「そんなの俺がいたってできるじゃないか…」
文句を言いながらも結局ルアスは渋々承諾し、その場から離れていく。
シェイドはいまだ顔を覆っているサーシャに向き直ると、なにも言うでもなく見つめ続けた。
「なぜ、私をここへ連れて来ようと思ったのですか」
サーシャはその経緯に気づき意を決したように、覆っていた顔を上げると潤んだ瞳でシェイドを見つめ返す。
「俺も幼い頃、ここに来たことがある。俺一人ではなく、ある姉弟の二人とだがな。あることがキッカケで知り合い、この場所を教えたんだ」
そこまで言うと、シェイドは次の言葉を考えあぐねているように閉口する。
サーシャは横で紡がれる言葉を、無言で待ち続けた。
「だが既に洞窟の近くにあった町は、魔族に襲われ壊滅し、今では新しい町ができている。貴様が一緒に来たという者も、壊滅したときに死んだはずだ。ここへ来たとしても、その日々が帰ってくるわけではない。ならばこの洞窟から去れ。そしてそいつの分まで生きるといい」
言うとシェイドは踵を返し、サーシャへと背を向け、歩き出す。
「待ってください。なぜです、なぜそんなことを言うのですか!」
サーシャは自分でも驚くくらい激しく振り返ると、叫ぶように言い放っていた。
帰る場所などないというのに。この場所に捕われ続けながら、生きるしことかできないというのに。
言葉にならない想いによって、サーシャの胸の内が満たされる。
「貴様が過去に捕われている、そんな気がしたからだ」
サーシャの悲痛な叫びにシェイドは振り返りもせず、たった一言を告げる。
このときサーシャは確信していた。やはり共にここへ来たのは、この人なのだと。
しかしどんなに本来の彼の名を呼び駆け寄りたくとも、喉に詰まってしまう。たった一言、彼の名を口にするだけだというのに。
簡単なことさえやってのけることのできないことが歯痒く、シェイドの背中を見送ることしかできずに、声を潜めながら涙した。
そんなとき判別がつきかねる程の小さな羽音が聞こえたような気がしたサーシャは顔を上げると、どこから現われたのか、あのゾンビ鳥が目に映る。
ゾンビ鳥が自分を凝視する様を見たサーシャは、全身を硬直させた。ゾンビ鳥を通して、あの魔物が忘れるなと伝えているように。
私は忘れていたわけではない。
サーシャは強く思った。
忘れていたわけではないけれど、あの二人を見ていると心が揺らいでしまう。
では今までは人々を惑わすことが平気だったのかと問われれば、そうではない。
けれどそれ以上に、今回ばかりは迷いが生じてしまう。
――『あれ』がどうなってもいいのなら
ふと、あの言葉が甦る。いつまでも迷っているわけにはない。
どうしても『あれ』を守る為には決心をせざるを得ない。たとえそれが自分にとって、とても大切な人だったとしても。
サーシャは決断しながらも、そうせざるを得ない自分自身を心の底から呪った。




