九回
〇三章,激動の末に・下/九回
ザルバードは、薄く雲のかかった空を飛行していた。
傍らにはゾンビ鳥が共に行動している。今となっては、すっかり伝書鳩の役割をなしている。
焼き尽くすか、粉々になるまで破壊しない限りは死ぬことはない構造になっているため、利便性は高いのだ。ただし他の魔物に比べ、数は限られている。
屍に命を吹き込むことは、主であるレンドにしかできないことも起因しているのだろう。
常に傍らに置き、重宝しているのはそのためだ。
そして大きな理由がもう一つ。
同胞であるマグノリアに利用されないということである。
彼は相手の血を取り込むことで記憶と能力を取り込むことができる。
逆をいえば、血液のない生命体である植物や建造物、精霊等といった類には変化できないのだ。できるのは、あくまでも血をすすった相手のみ。
だからこそマグノリアは、レーレンを介してまでアーサーの血を欲した。
血ともいえるそれは、飲み干したレーレンと一時的にせよ同化していたのだ。
アーサー自身の力が弱まっていたこと、日々年老いていくレーレンの力が弱まっていくことにより、互いの居場所も繋がりも希薄になっていたようではあるのだが。
そんなマグノリアが相手に成り変わり、周囲の心を惑わし、混乱を招くやり方が気に入らないのだ。
なぜと言われれば、返答に窮する。ただ方向性の問題なのだろう。
その同胞から、アーサー達の居場所を知らされた。
植物の神殿にいたと。いまだに周辺にいるのでは、と。
そして今、ザルバードは植物の神殿の近辺にまで来ていた。
すぐさまアーサー達の気配を探る。現在力が弱まっているアーサーを探すことは至難の業。
けれど相手が近くにおり、なおかつ注意深く周囲に気を配れば、見つけ出すことが可能なのだ。
マグノリアの発言通り、アーサーが近くにいるようだ。大よその見当をつけると、ゾンビ鳥を引き連れて、方角を転換した。
*
ザクザクと足早な歩みが響く。
辺りは焼け焦げた木々等の臭いが、いまだほのかに漂っている。
植物の神殿から数日が経とうとしているというのに。
ルアスは、ザルバード達が引き起こした惨劇に、改めて恐れと危機感を覚えた。同時に心がざわめき、急かされる。
「光の神殿まで、あとどれくらいなんだ?」
「おそらく二、三日程かと」
残りの過程を聞き、フィニアのせいではないと思いつつも、ルアスは思わず顔をしかめていた。
地図はシェイドが持って行ってしまったため、正確な位置まではわからない。
そのため精霊に道を尋ねながらの旅である。その差が、ことさら心を急かす。
「急ぐお気持ちはわかります。ですが気ばかりが焦っていても、状況は変わりませんよ」
「わかってる。けどさ……」
それでも焦る気持ちは変わらない。
早く光の神殿に赴き、シェイドと会わなくてはいけない。
ザルバードに復讐するために、光の神殿にいる彼等を利用しかねないのだとしたら、止めたい。
ラバーテラと合流し、フウラと再会し、力になれることがあるのなら助けになりたい。
彼等に対して、なにもできなかった罪悪感に苛まれている分、なおさらである。
いつしかそれは姉を助けたいという思いと同じくらい、大きな思いとなっている。
もはや誤魔化しなどできないほどに。少しでも現状を好転させたい、と。
だからこそ気ばかりが焦り、行かなくてはと自然と足も速くなる。
おそらくフィニアも、気が焦っているはずなのだ。
けれどそれを表に出しはしない。焦りは冷静さを失わせる。だからこそ、なのだろう。
頭ではわかっていても、やはり気持ちは落ち着かない。
そんなルアスを見かねたのか、フィニアは口を開きかけた時のことだった。
アーサーが突如として、白竜の姿で現れた。
「今からここを離れるのだ!」
叫ぶように言うと、アーサーは結界を周囲に張り巡らせた。直後、風の刃が無数に降り注ぐ。
ルアス達はアーサーの結界により、弾き飛ばされ、大地に突き刺さる。
何事かと、矢の放たれた方角へと目を向けると、滑空するザルバードの姿があった。
上空から舞い降りると、口元を歪ませ、嬉々としてルアス達を見据えた。
ルアスは剣を抜き、フィニアは呪文を詠唱するために身構える。アーサーは威嚇めいた眼差しで、魔族を睨みつけている。
「よくここがわかったものだ。マグノリアに聞いたのか」
「ああ、不本意にもな」
心底そう思っているのだろうか。マグノリアの名を耳にするや、ザルバードは憎々しげに言い捨てる。
「俺をまた、神の神殿に連れていくつもりか。前にも言ったが、俺は絶対に行くつもりなんてない」
「それは貴様の言い分だ。主のために、貴様には来てもらう。だがその前に……」
言うとザルバードは、地の魔法を使い、石礫をルアス達へと向けたのだ。
そして自身も地を蹴り、石礫と共にルアス達へと走り出す。
石礫を防ぐため、今度はフィニアが水の結界を張り巡らせて防いだ。
しかしザルバードは石礫によって一ヶ所を重点的に攻撃し、破壊する。
それを見て取ったルアスは、破壊した結界から侵入するザルバードへと斬りかかる。
しかし硬い皮膚によって弾き飛ばされた。体勢を整えようとしたのも束の間、ザルバードの手がルアスの首にかかった。
軽々とルアスの体は抱えられた。自然と首が閉まり、苦しさのあまりもがいた。
「ルアスさん!」
「動くな! 動けば小僧の血を見ることになるぞ」
射抜くようなザルバードの眼差しが、フィニア達に向けられる。
嘘ではないとでもいうように、ルアスの首に掛けられた手に力が込められる。
ルアスの首筋にはザルバードの鋭い爪がわずかに食い込み、血が滲む。
フィニアは小さく呻き、歯痒そうにルアスを見つめる。
アーサーも身動ぎせず、静かに、けれどザルバードの様子を窺っている。
「そなたの目的は、ルアスを生きて連れて行くことではなかったのか」
「その通りだ。しかし傷の大小は問われていない。主の御前に連れていくまで、生きてさえいればいいのだ。その前にまずアーサー、貴様には死んでもらわなくてはな」
「……それが、レンドの判断か」
半目置いた後、目を細めながらアーサーは問うた。
だが意外にもザルバードの口からは、否という言葉が紡ぎだされた。
その言葉に、アーサーだけではなくフィニアも目を眇める。
ザルバード達魔族は魔王とされるレンドに絶対服従であり、けして命じられた以外の事をするとは思っていなかったのである。
「主は貴様との決着をつけるため、連れてこいとの仰せだ。しかし貴様は、主にとって害でしかない。だからこそ貴様を、ここで始末する。たとえ器となっている小僧を殺し、貴様を引きずり出すことになろうともだ」
そのためならばどのような罰に晒されようと、主の意に喜んで反しようと高らかに宣言する。
口だけではなく、本気なのだと目が能弁に告げている。
「さあ、どうする」
ザルバードは、なおも問いかける。
アーサーの瞳が戸惑い揺れるも、ほんのわずかなことだった。
思い悩む部分はあるのかもしれないが、心は既に定まっているのだろう。
決意を伴った眼差しを、ザルバードに向けた。
「断る。二人は我と共に闘うことを望んだのだ。ならばこのような形で挫かれるわけがあるまい。そうであろう!」
アーサーは高らかに言い放つ。
ザルバードは残念だというように、嘆息する。
そして白竜から目をそらすと、ルアスを改めて見やる。殺意が迸る。首を掴む手に、新たな力が加わる。
呼吸が苦しくなり、ルアスは顔を歪めた。死の恐怖は、もちろんあった。
けれど思うのは、死にたくないということよりも、なにもできない自分への悔しさと歯痒さだった。
幸い落とさずにいた剣へと力を込める。剣に宿る炎を頭に思い描く。力を貸してほしいと願いながら。
そしてザルバードへと一閃した。炎は、剣を振りおろした直後に放たれた。
意表をつかれたらしく、ザルバードの手が緩められる。
好機と見たルアスは、半ば強引にもがいて逃れた。まともに呼吸ができたことで、激しく咳きこんだ。
再び捉えるべく、ザルバードの手が伸びる。
「水の精霊よ!」
フィニアが凛として言い放つ。
無数の小さな固まりが、風の刃のようにザルバードへと放たれる。
それが魔族の背中へと叩きつけられた。面立ちは苦痛に歪み、伸びた手は勢いが失われた。
ルアスは咳きこみながら、後退する。
魔族からフィニアを背に隠すことのできる位置まで来ると、再度剣を構えた。フィニアもすぐ様対応できるように身構える。
早くも優勢を逆転されたザルバードは、眼差しを細める。怒りや憎悪が、焔のように湧き上がる。
気を抜けば屈服してしまいそうなほど威圧的である。
「水の神殿ウンディーネ、火の精霊イフリート。以前会った時よりも、使いこなすようになったようだな」
「我はそなたに殺されるつもりはない。ルアスも、ここで死なせはせぬ。そもそもそれは、レンドの意思に反することであろう」
「さっきも言ったはずだ。だからこそだと。主は俺にとって絶対的な存在でありで、すべてなのだ。あの方の心を、これ以上貴様一人のために煩わせるわけにはいかん!」
心、とアーサーは呟いた。
なぜ、どういうことだと言いたげな目が、ザルバードへと注がれる。
だが答えるつもりなど、まったくないようだ。
殺意と憎悪、怨恨等が窺える中、ザルバードは小声で詠唱し軽く印を結ぶ。
悠長に身構えている場合ではないと、ルアスは再度剣に炎をまとわせ、斬りかかる。
援護をするため、フィニアも詠唱を始めた。
戸惑いを隠しきれずにいたが、そのような場合ではないと感じたのだろう。
ルアス達の行動を見るや、白竜は我に返った。
だがザルバードの攻撃の手が一足早く、炎の塊がルアス達へと向けられた。
まともに受け止めるつもりはなく、ルアスは一閃する。放たれた炎は分散され、地面に降り注ぐ。
フィニアは詠唱を済ませ、再び無数の水の塊を魔族へと放った。
散り散りに降り注ぐ炎と、水の刃がぶつかる。それによりほとんどが蒸発し、消滅する。残された炎と水は、それぞれ互いの下へと向かっていく。
ザルバードは水の刃に切り裂かれることなど気にせず、ひたすらに詠唱し、ルアス達へと突進する。
詠唱を終え、またしても繰り出したのは、炎の塊だった。それを間近で放つつもりなのだろう。
そうすればザルバードの身さえ、危ういのだ。
自分の身どころか、実際にアーサーやルアスなど、どうなろうと構わないのだろう。
逃げることも、防ぐことも、間に合わない。緊迫した面立ちで、ザルバードを見やる。
だが当の魔族は薄く笑っている。掲げた炎は、容赦なくルアスへと放たれる。燃え盛る炎が拡散する。
それがルアス達を襲う直前、アーサーが結界を張り巡らせた。
だが力が弱まっているためか、完全に遮断できたわけではない。円舞のように燃え盛る深紅の塊が、地面に叩きつけられる。直後、炎の衝撃からか、真下の地面が陥没した。
意外なところからの出来事に、とっさに声が出ない。ルアス達は逃げるどころか、動くことさえできず、地面の底へと吸い込まれていく。
ザルバードも同様のようで、狙うべき相手を唖然と見つめていた。ただただ硬直する。
なぜ平野であるはずの地面が大規模に陥落したのか、わからない。
光の神殿、植物の神殿のおよそ中間であるが、それらの建造物を襲った際、震動が伝わっているはずなのだ。
そのときはなにもなく、今回の直接的な攻撃によって瓦解した。まるで建物が崩れ落ちるかのように。
だがこの場所が、北寄りなのだということを思い出した。
アーサー側、レンド側に分かれていた時代、もう一つの派閥があった。
どちらにも属さない中立派である。中立の神々や、それに従う人々は北に身を寄せ、戦火に巻き込まれぬよう、一部地面の下に建設していたのだ。とくに神殿は、地下にあった。
遠くなるような時が流れ、風化し、いつしか入口は塞がれ、完全に地面の下に埋まっていたのだろう。
神殿の中は、侵入者のことも考え、身を守るために迷路状になっているという。
これまでの振動によって地盤が緩み、今回の攻撃が決定的なものとなって崩れたのだろう。
そのような場所に、なんの警戒も気構えもなく放り込まれては、おそらくただではすまない。
無事であったとしても、簡単には出てこれないだろう。だが万が一ということもある。
彼等の遺体を拝めないことが残念ではあるが、ここで確実に息の根を止めておかねばと、魔法の詠唱を始めた。
「待て、ザルバード」
突如声をかけられ、呪文の詠唱が止まった。きごちなく、声の主であるゾンビ鳥を見やる。
正確にはゾンビ鳥を通して語りかけてくる相手。ザルバードの主である、レンドである。
ゾンビ鳥の体を通して、話をすることができる。
以前ゾンビ鳥を連れ帰った際、ルアス散策のこともあり、即座に通話できなければ不便であるということで、細工を施したのである。常に開通状態というわけではないが、必要に応じて会話することができる。
レンドからはゾンビ鳥の目を通して、観ることができる。
「先程の影は、アーサー達だな。地下へと身を落とした彼等へと、攻撃を仕掛けようとしていたようだな。私は生きたまま、連れて来いと命じたはずだが」
「滅相もございません。たとえそうだとしても、レンド様の身を思えばこそ!」
「そのようなことを頼んだ覚えはない。だが今は、そんなことを言っている場合ではないな。一度神殿へと戻ってこい。今後の計画に欠かせない、大事な話がある」
「しかしアーサーや小僧を目の前にしているのですよ」
「かまわん、機会はいくらでもある。たとえここで朽ちようとも、そこまでだったということだ」
反論したいザルバードだったが、主の命令には逆らえず、渋々ながらも頷いた。
「承知しました」
承諾の言葉を向けた直後、そのことに満足したのか、ゾンビ鳥の通信機能が遮断された。
いつものゾンビ鳥に戻り、静かに一声鳴いた。
見られていないのだとしたら、今ここでトドメを刺したい誘惑に駆られたが、戻ってくるよう促したレンドの言葉がなによりも優先された。
地下に落ちた衝撃で深手を負ったか、出口を彷徨い歩き、朽ちてくれたならと願わずにはいられない。
名残惜しみながらも、ザルバードは光の神殿へと向かった。
*
「いつから見ていたのですか」
マグノリアは、どこか楽しげに笑む主レンドへと尋ねた。
聞くマグノリアさえ、どことなくおかしげに微笑んでいる。
「お前があれにアーサー達が植物の神殿にいると伝えたときからだ。あれは、お前を毛嫌いしている節があるからな。アーサーに対しても執着している」
「とはいえ、意地の悪いお方ですね。わかっていて素知らぬふりをし、けしかけるだなんて」
「だからこそだ。だが結果的に、良い働きをしてくれた。もし仮にアーサー達が死のうが、それまでだったということだ。この手で決着をつけることができないことが心残りだがな」
アーサーが命を落としたなら光の粒子となって消え失せる。
そして彼に分け与えた力はレンドの下へと戻ってくる。
同時に、宿主のルアスが死んだところで困りはしない。
肉体はそこにあるのだから、使い道はいくらでもあるのだ。
それを考えるや、レンドの口元を緩やかに歪ませた。
あえてマグノリアはそれに触れず、今後のことについて口を切る。
「弟君達の足止めをしたのは、そのためでしたからね。敵対する者達を一掃し、今後そのような思いを抱かせないために。そしてすべての生き物を消滅させる」
そのためにはザルバードの存在は必要不可欠だった。
すべての神殿を壊滅させたことになっているザルバードが行なえば、誰もが震えあがらずにはいられない。
一致団結し、武装した妖精や人を容易に潰した魔族。
それを従える魔王レンドに、大いなる畏怖と恐怖を覚えることになるだろう。
同胞であるザルバードの血を啜り、変化可能になったマグノリアが、すべてを引き受けようかと申し出たところ、却下したのだ。肝の一つである別の役割に専念させるため。
マグノリア一人いれば、今回の計画をすべて担うことができる。
とはいえ、いくつも分裂すれば、その分力も分散される。
ザルバードのように戦闘向きではないにせよ、傷を負わせる者はそうはいない。
例外があるとすれば、アーサーか、精霊長のような高位精霊を扱える者くらいだろう。
そのためなるべく分散化を避ける必要があった。
なによりザルバードでなくてはならない理由がもう一つ。
忠誠心が強く、レンドの命令を遂行しようとする反面、それが過ぎて時折とんでもないことを引き起こすことがある。良くも悪くも。
一つはルアスを拘束する際、手傷を負ったこと。
それが不覚にもアーサーと、火の精霊長イフリートの存在を知りえたのである。
アーサーが行なおうとしている計画を知り、各々の神殿を破壊することによって、先手を打つことができた。
そして今回これからするであろう計画の最大の障壁である、アーサー達を足止めすることができた。
もう一つの懸念であるゲオルグ達のこともあるが、差し当たり問題はないだろう。
なぜなら彼等は人間なのだ。
マグノリアの情報により、光の神殿を取り仕切るフウラは、人と妖精との協力体制を強化していることは知っている。だが彼等は、互いに敵意を持っている。いくら行動を共にできたとしても、制限が掛かる。自由に動き回るのは難しいだろう。
今回の計画は、そこまで見越してのものである。それほどまでに大事な肝なのだ。
人々や妖精達が神と崇める姿の者を叩きつぶし、力を見せつけるために。そのためマグノリアの能力と、ザルバードの力は必要なのだ。
その間までアーサー達を足止めできればと、胸の内でぼやく。
玉座に居続けることに息苦しさを感じ、レンドはいつもの場所へと向かうために立ちあがる。
「詳細はザルバードが戻ってきた際、改めて伝える。それまで好きにするがいい」
聞くやマグノリアは返事をする代わりに、深々と頭を下げた。
そんな彼を振り返ることなく、レンドは神殿の屋上へと足を運んだ。
そこから魔物の群れが見て取れる。元々は下級精霊だった者達。
それらを今のように変貌させたのは、三人目の魔族である。
故あって体を持ち、自由に動くことは許してはいないが、精霊にせよ、人にせよ、妖精にせよ、ただ一つの感情に働きかけることができる。
もしくは新たに芽生えさせることにより、本来とは異なる者へと変貌させる。
あるいは凶暴化させ、あるいは善を強調させることができる。
それでこそ本人であるのかと疑うほどに。
精霊が姿形を変えたのは、持つべき器を持たないため、感情により変貌したのだろう。
当初その力によって人々を一人残らず同士討ちさせようとした。
だが条件が厳しく力の消耗も大きいため、精霊達に働きかけ、魔物にするに留まっている。
そんな無数の配下を目にしていたが、やがて見飽きたため空を仰いだ。
ちょうど夕暮れ時である。
地上を染める橙が、徐々に薄紫色へと変わっていく。一日の中で、もっとも短い瞬間である。
その空模様を目にするたび、胸の奥がざわめいた。この空は、遠い日々を彷彿とさせた。自然と当時の事が思い返される。
あの時レンドの中に溶け込み、同化した際のレイナの言葉が、昨日の事のように思い返された。
背負わせてごめん。でも、もういいの。レンドの好きなように生きて――
それがレイナの最期の言葉。知らされた真相と、彼女の想いと願いが、どれだけ衝撃だったか知れない。
再びレイナに会いたくて、世界の維持を保っていた。共に過ごした日々を永遠のものとしたくて、無駄だとわかっていても再び産まれてくることを望んでいた。
ただ、共にいたかった。会いたかった。
そして今の自分の姿を見てほしかった。傍にいる誰かも一緒に。
そこまで考えて、アーサーやガリック、ミレイアの顔が自然と脳裏に浮かぶ。
彼等もまた、今というあの日々を守りたいと望んでくれると信じていた。
そのため手を伸ばした。けれどこれから生まれる命や世界に思いを馳せ、手を取ってはくれなかった。
裏切られたと感じた。許せなかった。共に過ごした日々はなんだったのかと思うほどに。
そして新たに生まれた命達に嫉妬した。お前達の笑顔も、幸せも、日々の営みも、すべてはレンドとレイナのものだ。
彼等の今は、レンド達の礎によって成り立っている。
だからこそ許せない。だからこそ破壊する。すべてを壊し、再構築し、あの日々を取り戻すために。
椅子に鎮座し、膝に置いた拳を強く握りしめる。態度と違わぬように、シンシアの表情は硬く、緊迫に包まれていた。
「眉間にしわが寄っていますよ。あなたが気に病むことではないでしょうに」
部屋へとやってきたマグノリアが、自分の眉間を差した。
シンシアは彼の口から発せられるそれに、神経を逆なでする。あまりに弄んだ物言いなのだから。
「私に光の神殿に向けての計画を知らせておいて、気にするな、ですか。そんなこと、できるとお思いですか」
「でしょうね」
憤りを見せるシンシアに、マグノリアは楽しそうに微笑する。
「ですがここであなたが気を揉んだところで、なにもできない事実には変わりないでしょう。レンド様を止めることも、ここを抜けだして知らせることもできませんからね」
だからこそレンドは止めず、マグノリアもシンシアに伝えたのだろう。それ故の余裕だろうか。
ただただ笑みながら、シンシアを見るばかりである。
それがことさら悔しくて仕方がない。なにもできず、囚われの身になっているということが。
痛いほど身に沁みて、心が何度折れそうになっただろう。
けれどと、自分を奮い立たせた。現在神の神殿におり、魔王とされるレンドと会話できる数少ない一人なのだ。
いつしか殺されるものだとしても、少なくともそれまでは手出しはしないということなのだろう。ならば諦めるわけにはいかないのだ。
「レンドに話があります。彼は玉座にいるのですか」
「いえ、屋上にいるはずですよ」
余計なことはなに一つ言わず、マグノリアは主の居場所を知らせた。
けれど眼差しは、あからさまに強情な方ですねと告げている。
たとえそう思われていたとしても、どんなに恐ろしくても、唯一シンシアにできることなのだ。
最後の最後まで抗うしかないのだと自分を叱責し、屋上へと向かった。
屋上へとでると、夕焼けの名残りがあるばかりである。薄明かりに照らされながら、レンドは下を見渡すことのできる場所にいた。
「またか。相も変わらず、強情なところは変わらんな」
「単刀直入に言うわ。光の神殿への攻撃をやめて。あなたなら止められるはずよ」
「ならば、それが私の命令だとわかるはずだ。諦めることだな」
「そんなことできない。多くの人々の血が、あの時の戦争のように流れることになるのだもの」
だからこそやめてほしい。あの惨劇の日々を、今も変わらず血で血を洗い続ける日々を見たくはない。
終止符を打ちたいのだ。そして弟が苦しむ姿など。
そのため胸の奥には、怒りと悲しみが燻り続け、苛立ちとなってレンドに向けられる。
受け取り手であるレンドは意に介さないのか、ゆっくりと振り返る。
だがそこには、常にあった高圧的で見下した様は見受けられない。
深い悲しみと真摯さに加え、頑ななまでの決意が伝わってくる。
一瞬父かと考えたが、なにか違和感があった。
それがなにかはわからないが、窺い知れるものがあるとすれば、長い年月を過ごした者が身にまとうことのできる威圧感だろうか。
とっさにかける言葉を見失い、小さく息を呑む。
「私はこの計画に賭けているのだ。すべてを取り戻すために。お前は止めて、なにをしたい」
お前には、それを止めるだけの理由があるのかと問いかける。
「……あなたには、あるの?」
シンシアは、問いに問いで返していた。これまでのレンドとは異なり、意表を衝かれたためだ。
夕暮れ時ということもあって、受ける雰囲気が異なるためかもしれない。
同時にレンドに問いかけたのは、事実上今回が初めてかもしれないということにも、驚きを隠せない。
これまではレンドに対して叱責し、父に声をかけ続けているばかりだった。
これまでレンドがこのようなことをしているのかを、考えたことがなかったためかもしれない。
「聞いているのは、私だ」
数瞬の間戸惑っていると、またしても声がかけられた。
「…もちろん、あるわ。最初から世界の滅亡を望むのなら、止めようだなんて思わないもの」
「お前のいうそれらが、本来歩むべきだった日々を壊した上に成り立っているのだとしてもか」
「どういうことなの。私達が壊したというものはなに。あなたはそれを取り戻したいの」
「お前に話すようなことではない。どちらにしろ、私を止めることはできないのだから」
言うトレンドは口を固く結び、神殿内へと戻っていく。
慌ててシンシアも後を追いかける。
「待って、説明して」
訊ねるも、レンドはけして振りむかず、足を止めず突き進んでいく。
やがてシンシアは足を止めた。これ以上詰問したところで、答えてはくれないのだろう。
なんとなくではあるが、レンドの態度や発言などから察することができた。
これまで何度も対峙し、説得してきたことによるものだろうか。
けれどこれは惑わすための嘘かもしれないのだ。
いつまでも諦めようとしないシンシアを、突き落とすための嘘。
とはいえ、心のどこかで違うとなにかが告げている。
それほどまでに鮮烈で、真摯なまでに哀しみに彩られた面立ちだったのだ。
それが相手の思惑だと、容易に懐柔されてはいけないという思いはあるものの、疑問が拭えない。
多少混乱しているためか、ここにきてどうするべきか途方に暮れた。
だがややあって、マグノリアの存在を思い出した。彼は魔王直属の配下である。
なにかしら知っていてもおかしくはない。だが彼も共謀して、嘘を吹き込むことだってありうるのだ。
暫しその場に立ち尽くす。
これはすべて相手の嘘だと断じ、これまでと同じ方法で父を取り戻すか。
それとも話を聞いた上で判断するかである。それが真実か否かを知る術はないのだけれど。
迷ったあげく、シンシアは部屋へと引き返した。
当面のところ帰るべき場所はそこしかなく、マグノリアが居てほしいと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
「おや、もうお帰りですか」
部屋に戻ると、マグノリアがお茶の準備をしていた。
呑気に構える魔族へと、シンシアは無言で歩み寄る。
間近で見上げることのできる位置まで来ると、口を切った。
「レンドがなにをしようとしているのか、教えてほしいの」
「計画のことなら、既にお伝えしたはずでしょう」
なぜ今になって聞くのかと言いたげな口振りである。
「知りたいのは、その事ではないわ。その先に、なにを求めているのかということです」
「それこそ今更としか言いようがありませんね。けれど知ってどうするおつもりですか。あなたにとって、私達は敵のはずでしょう」
「……それでも知りたいの。もちろんできることなら何も聞かず、あなた達を悪だと決めつければいい。けれど知らなくては、きっとなにも変えられない気がするの」
柔和な笑みが、真剣に訴えるシンシアを捉えた。
「よい心がけですね。と言いたいところですが、簡単にはお教えできません。レンド様に叱られてしまいます。あなたも、ただではすまないはずですよ」
「責めなら私が負います。ですから聞かせて下さい」
それでいいでしょうと、目で問うた。
しかし表情はそのままに、マグノリアは首を左右に振った。
「同意しかねますね。私とあなたは賭けをしているのですよ。そしてあなたの弟君のこともあります」
賭けの決着を迎えるというのは、どうやら本気のようである。笑みの奥に、確固たるなにかが窺えた。
しかし押しとどめようとするマグノリアを、承諾も否定もせずに見続けた。
もちろん弟であるルアスは心配である。
できることならば救い出したい。同じ目に合わせたくはない。今もそれは変わらない。
けれど弟の身に宿る神がいる以上、なおさらレンド達はつけ狙うだろう。
そのときの衝撃は、今でも忘れられない。
ならばできることは一つ、レンドを止めること。
そうすれば、少なからず魔と呼ばれているレンド達による介入はなくなる。
それには父に、体の支配権を取り戻してもらうことが一番だと考えていた。
けれど父が体を取り戻したところで、はたしてこれまで築いてきた事柄を諦めるのだろうか。
根本的な解決になるのだろうか。
あの目を見て、思わずにはいられなかった。
レンドが争いを好む神なのだとしても、父ルビナス以前にも機会はあったはずなのだ。
だが今回のような魔が絡む話など聞いたことがない。なぜ選ばれたのが父だったのか。
あの戦争により、世界の崩壊を望んだものは大勢いたはずなのだ。
たまたまだと言われれば、それまでである。
とはいえレンドの行動理念を知ることができたなら、なにか別の道を模索できるかもしれない。血の雨はやむかもしれない。
魔の件が終結しても、人と妖精との間にできた大きな亀裂は、簡単に拭いきれないだろう。
けれどなにかしらの希望は見出せるのかもしれない。
理由如何によっては、シンシア一人の命で購えるかもしれないのだ。
神の理念を理解するなどとは、到底おこがましいかもしれない。ただの冒涜かもしれない。
それでも知りたいのだ。
だからこそ、ひたすらにマグノリアを見つめ続けた。
シンシアの頑固さに、ようやく折れたようだ。マグノリアは小さくため息をついた。
「やはりあなたは頑固な方ですね。では私から条件をいくつか。このことはレンド様も含め、他言無用に願います。そしてこれから説明することを聞いても、けして後悔なされませぬよう」
すうっと目元が細められる。常にはない生真面目さがあらわになった。
つられるように、シンシアにも緊張が走る。だがここまできて、否と応じるつもりは毛頭ない。
そのため力強く頷いた。




