一回
〇三章,激動の末に・上/一回
場所は神の神殿。華奢な装飾の家具一式に彩られた一室。
そこでシンシアは頑なな姿勢で座っていた。お目付け兼世話役である、魔族マグノリアがお茶を入れていた。容姿は、さほど年端の変わらぬ人間の男である。
ある方法によって、見た目を変化させているのだという。
「いつまで私を、このような場所に縛りつけているつもりなんですか」
「このような、とは? これでも十二分に不自由のないよう、心掛けているつもりですよ」
まるでシンシアの反応を楽しむように、マグノリアは底の知れない微笑を浮かべる。
問いの心意を知りながらの対応であることは、容易に知れた。
ことさらシンシアは剣呑とした表情を浮かべる。
「私は魔王と呼ばれるあの人に、会って話がしたいのです。何度も、そう申し上げているはずですが」
「そう簡単に、お会いできる方ではないよ。お会いして下手をすれば君は、すぐにでもこの世から消え失せているだろうね」
そのために留まってもらわなくては、と続ける。
この一室へと軟禁状態で押し込められてから、何度も向けられた言い分である。
けれどシンシアは聞き飽きたそれに、ため息をついた。思い通りにいかないことに、図らずも眉をひそめる。
「お綺麗な顔に、そのようなものは似合いませんよ」
「世辞は結構です。私とあの人との関係を考えれば、なにを憚る必要があるのですか」
「主の肉体とは、ですけれどね。ですがまあ、現状を招いて下さったことを含めて、という意味では確かに浅からぬ関係というのは間違いないでしょう」
楽しそうな笑みを絶やさずにいたが、射抜くような冷たい視線を彼女へと向ける。
内心怯みつつも、シンシアは逸らさずに迎えうつ。
「いくら切望しても、否としかお答えできません。暫くはお待ち下さいますよう、お願いしますよ。シンシア姫」
口調は丁寧だが、勝手に会おうものなら容赦はしないということが、言葉の裏に含まれていると感じた。姫と呼んだのも、そのためだろう。
シンシアは彼等と、まともに渡り合えるだけの力は持たない。
魔王である彼と話をするにも、ルアスに無事を知らせるにも、無謀な行動には移れない。目的を果たす前に、容易に止められてしまうだろう。
今はただ口元をきつく結び、この状況を耐えることしかできなかった。
だが本人であるという保障はない。
マグノリアのように人に変化し、シンシアの心を掻き乱すために、あのような姿をしているのかもしれない。
当時の姿のままであることが、一つの証明である。
けれど、ならばなぜシンシアやルアスを狙うのか。そのことが否定できない大きな要因だった。
まったく否定できないからこそ、魔王となった彼の顔を思い出すたび、考えずにはいられない。
なぜ、と――
幼かったとはいえ、暖く穏やかな笑顔は覚えている。人と妖精との共存を強く望んでいた。
母や、友であった一組の男女と共に奮闘していた。当時ルアスは生まれてはおらず、シンシアにとって暖かく、優しい存在を独占していた。
あの人であるという肯定と、否定の狭間で大きく心が揺れ動く。
だからこそ会って確かめたかった。違うのだという確信を得たかった。
室内を出たマグノリアは微笑みを浮かべたまま、魔王のいる場所へと向かった。
だが中に入る前に、馴染みのある声が耳に届いた。魔王とザルバードである。
どうやら報告に戻ってきたらしいと、マグノリアは察した。
会話が聞こえてきた中に、アーサーという名が出たことに興味を引かれ、静かに室内へと身を滑らせる。
邪険なザルバードの一瞥を気にとめるどころか、マグノリアは邪気のない微笑を浮かべた。
ザルバードは瞳の奥に嫌悪を孕んだが、すぐに押し込める。
「それは本当なのか」
玉座で足を組みかえると、人の姿をかたどった魔王が悠然とした口調で問うた。
逆にザルバードは、痛む体を引きずるように跪く。声色もやや硬く、焦燥が入り乱れていた。
「御意に。憎きアーサーは、ルアスの小僧めの体を宿主に選んだ様子。いまだ完全に力を取り戻してはおりませんが、後々厄介な相手になりましょう。見つけ次第、屠る許可を頂きたいと存じます」
頭を緩やかに下げ、主の返答を待った。
「彼の者を生きたまま、私のもとへと連れてこい。それは変わらぬ」
「しかし!」
「前の戦いで深手を負ったあの者が、再び現れたのは面白いではないか。なおのこと、私の手で決着をつけてやりたいのよ。永久の因縁を憂いなく絶つためにはな」
「けれど!」
「くどいぞ。ここへと連れてくるまでに、力を取り戻している可能性を危惧しているのだろうが、私がそう容易く倒されると思うのか」
逆に問われて、ザルバードはなにも言えなくなってしまった。
なんとも口惜しそうに、きつく唇を結ぶも、否定の意味を込めて頭を下げる。
真理と秩序と調和を司る神々の一人がアーサーならば、現魔王として君臨している彼は対極に当たる。
永遠にも近い時を生きる彼等にとって、力を蓄える年数は微々たるものだが、激しく力を消耗していたことを考えると、その差は一朝一夕で埋まるものではない。
どんなに早くとも、魔王と渡り合えるだけの力を取り戻すことは難しいだろう。
いくらそのための宿主だったとしても。
それでも一抹の不安は拭いきれない。
けれどどんなに異を唱えようと、ザルバード達魔族の創造主たる、魔王の命令は絶対なのである。
改めて拝礼をするとザルバードは立ち上がり、退室しようとする最中、マグノリアと視線があった。
口元には笑みが宿っていたが、眼差しには嘲りの色が灯っている。
「手を、貸しましょうか」
「ふざけるな、なぜ俺が貴様の手など!」
憤慨するザルバードに、マグノリアは深く口元を吊り上げる。
「ふざけてなんて、いませんよ。直接的で単純であるがゆえに、君の力は周囲に恐怖を植えつけるには効果的ですからね。だからこそ君は、主の威光を代弁すべく目に見える形での破壊を行なう。でもそれだけでは駄目だとことですよ」
「ならば貴様には、策があるとでも言うつもりか」
「もちろん。たとえばいくつもある神殿を、君が同時に、盛大に破壊するとかね。たぶんにアーサーの狙いは、精霊長の助力を願うこと。それは自然と、宿主であるあの子も来るということですよ。現段階で敵に回す、もっとも厄介な存在は精霊長です。神殿を襲わせ、精霊長を呼び出せる巫女を媒体にして封印する計画だったけれど、悠長にしていられません。ただし地形を変えれば、あるいは呼び出す確率は格段に減ります」
神殿以外でも、条件が揃えば精霊長を呼び出すことは可能である。
だが神殿ともなれば、それぞれの属性が強い場所を選んで造られた建造物であるため、召喚する確立はそれだけで格段に跳ね上がる。
あとは精霊長を扱えるだけの力量が術者に備わっているかどうかに、かかっているといっても過言ではない。
だが神殿を地形が盛大に変わるほどに破滅に追い込めば、一時的にせよ永続的にせよ気候は変わり、属性も伴って変貌を遂げる可能性がある。
ルアス達が神殿に来ていたなら追い詰めることもでき、いなくとも出鼻を挫くことにもなる。それこそ一石二鳥である。
だがザルバードは渋面を押し隠すことなく、マグノリアを凝視する。
同時に進軍するといっても、ザルバードの体は一つきりなのである。
分裂でもしない限り、無理な話であった。
そう考えたとき、マグノリアの能力を思い出した。彼の力を改めて認めさせられたことは不服ではあったが、魔王へと即座に振り返る。
話を聞いていた魔王は、軽く頷いた。
「マグノリアよ、一時的にザルバードに加担してやるといい」
「仰せのままに」
彼等のやり取りを見ると、今度こそザルバードは退室した。彼を見送ると、マグノリアは改めて主へと顧みる。
「シンシアのことだな」
シンシアの監視兼世話役として任命したのは魔王本人であるため、すぐに察した。その通りであるというように、柔和な微笑を浮かべた。
「貴方様との再会を、強くご所望するばかりですよ」
「仕方あるまい。だが、そろそろ頃合だろうな」
魔王は自分の胸に手を押し当てると、薄いながらも見下すような笑みを浮かべた。
「では、そのように計らいましょう」
マグノリアも、邪気のない微笑で応じた。
なにかがおかしい。シンシアは思った。
監視として身の回りのことをしていたマグノリアが、ここ数日やってこないのである。
これまでは少なくとも日に一度は来ていたのだが、兆候がないまま訪れずにいる。
本拠地ともいえる神の神殿において、音沙汰なしというのは不気味でしかなかった。
けれど逆に考えれば、これは自由に動ける良い機会である。
魔物達も神殿の敷地内にいるはずなのだが、建物の中に近づいてくる様子はない。
気配も、音もしないのだ。魔王やマグノリアといった魔族達が出入りするために、本能的に畏怖や危険を察知しているのかもしれない。
ともあれシンシアは、警戒をしながら部屋を出た。すると誰一人姿を見せず、閑散としている。
なにが起きても不思議ではないだけに、静寂は逆に恐れを増長させる。
急いで神殿の奥へと行き、魔王がいる扉の前までやってきた。
一人で開けるには重厚でそうであり、難しく感じた。
思案していると、扉は独りでに開き始める。
招かれているという直感めいたものがよぎり、危険だという警告と、行けという号令とが、同時に圧し掛かってきた。一瞬の躊躇いの後、扉の向こうへと足を踏み出した。
「やあ、来てくれたんだね。愛しの我が娘、シンシア」
玉座に座る人間の男が、柔和な笑みで迎えた。
シンシアは彼の姿を見るや、懐かしさと喜びによって涙が滲む。
けれど笑顔の向こうにあるなにかに違和感を覚え、睨みつける。
「あなたは私の知っている、お父様ではないわ。あなたは誰、なぜその姿でここにいるの!」
「心外だな。私はルビナス、父の顔を見忘れたのか」
「……違う、違うわ。確かに姿形はお父様のものよ。けれど雰囲気も言葉遣いも、なにより人間だったお父様が十七年間同じ姿だなんて、ありえないもの」
断言するシンシアに、彼は粘りつくような微笑を浮かべ、目を細める。
予想外の出来事に、楽しんで品定めするような印象を受ける。
シンシアはまとわりつく視線に、今すぐにでも逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
けれどようやく会えた、会いたいと望んだ父の姿がある。逃げ腰になる自分を、心の内でひたすらに叱咤する。
「できるならば再会に喜び、余韻に浸ってくれたなら扱いやすかったのだがな。だが面白い。それに免じて我が名を教えてやろう。私の名は、レンド。この体は紛れもなくお前の父、ルビナスのものなのだよ。人間の体は老いやすいため、当時のままで保っているに過ぎない」
なにを言っているのだろうと、思わずにはいられなかった。父ではないと断言したのはシンシアである。
父ではないと断言したのはシンシアである。
けれど想像していた以上の受け入れ難い話に、衝撃を与えられたかのように頭の中では反響音が鳴り響く。まるで遠くで起きた出来事のように感じられる。
「……そんなの、嘘よ」
「嘘をついてなんになる」
「嘘よ!」
シンシアは、悲鳴にも似た声で荒げた。
惑わすために、マグノリアと似た能力によって姿形を変えていると思っていた。そうだと思いたかった。
けれども対面したときの懐かしさや、ふとした仕草が、当時の父を強く連想させる。
嘘ではないと、直感めいたなにかが告げている。
なにより魔王と呼ばれる体が父のものではないのなら、無関係である自分と弟が狙われる要素がないという考えが、一向に頭から離れなかった。
「もし本当なら、なぜそんなことをするの。お父様の体を返して!」
「返してやるとも。ルビナスの寿命が尽きた日には、な」
「お父様は、とても優しい人だった。なのにどうして、こんな形で冒涜されなくてはいけないの。この悪魔!」
睨み続けるシンシアに、魔王であるレンドは哄笑した。
やがて笑いを噛み殺すと、意気揚々と見下した。
「悪魔、か。そう呼ばれていた時もあったな。だが私は神々の一人としても呼ばれるのだよ。混沌と不和と破壊とを司る神々とな。そしてこの男、ルビナスは望んだのだ。この世の破滅を。私は囁いたに過ぎない、力がほしくないか、とな。その代償に、体を借りているのだ」
「そんなはず……!」
「ない、とは言わせんぞ。そうさせたのは、お前達だ。すべてはお前達が死んだのだと、思い込んだことから始まるのだ。だがこの男の妻と親友の二人は本当に、無残な形で命を落としていたのだがな。憶えているだろう、母と、お前達姉弟を救おうと死んだ者達の姿を。だから呪ったのだよ、この世界を。人の心の愚かさを」
シンシアは体を小刻みに震わせると、目尻から涙を一筋零した。
すべてではない。けれども憶えている。
父の親友の一人である男が、産後で体調の整わない母を背負い、女が生まれたばかりのルアスを抱きかかえ、シンシアの手を取って走り出す。
そして彼等は――
哀しいわけでも、辛いわけでもない。まったくないというわけではないが、父ルビナスに、そのような行動を起こさせた自分達が不甲斐なく思われた。
たとえ自惚れでも、思わずにはいられなかった。
すべてのキッカケは、自分達だったということに。その代償が、こうして現れたのだということに。
*
傷の手当てを施され、ベッドで寝入るシェイド。傍らにはフィニアが沈痛な面持ちで、腰掛けに座っていた。その状態が、どれだけ続いただろう。昏々と眠り続けたまま、目を覚まさす気配はない。
フィニアといえば疲労によって倒れただけなので、数日も経てば体力は回復していた。
ただしシェイドは加えて、全身に傷を負っていたのだ。
治療を行なったものの、命を落とさなかっただけでも幸いである。
休息の場所を得て、手当てを終えた今は、魔族ザルバードへの復讐という言葉が頭をもたげていた。
以前シェイドの口から、関わりがあるようなことは知らされていたが、仇討ちだとは考えが及ばなかった。
いや、薄々とは感じていた。
けれど結びつけないようにしていたのは、混血の者もいたが、変わらず町はあったためである。
十七年前とは趣が異なっていたが、ゴルファ洞窟に囚われの身同然だったため、訪れることはできなかった。その間に様々な出来事があったかもしれないとは、思っていた。
町中を満足に見て回る余裕がなかったことも、拍車をかけていた。
けれど考えは甘く、事態は思いがけないほど重かった。
フィニアは以前での町の彼等に恩義があり、いつかなにかの形で返したいと思っていた。
それが叶わぬことと知り、膝に置いていた手に力がこもる。
重荷を一人で背負っているシェイドを、直視することができない。それでも傍を離れることができなかった。
「フィニア、食事できたってさ」
「すみません、あとで頂きに参ります」
扉を開けて顔を出したルアスへと、申し訳なさそうに目を向ける。
すると彼は歩み寄り、果物を差し出した。
「そう思ってコレ、貰ってきた。なんだかんだ言いながら、最近まともに食事とってないだろ」
「……すみません。ありがとうございます」
まったくその通りだったため、フィニアは素直に受け取った。
ルアスは安堵すると、眠っているシェイドへと視線を滑らせる。
「まだ、目が覚めないんだな」
「……ええ。傷は魔法によって、だいぶ塞いだのですが」
「フィニアのせいじゃないよ」
フィニアの伏せた目元に、若干影が差す。
水の神殿では、何一つ役に立つことができなかった。
慰めてくれることがなおさら不甲斐ないせいだと責めたてられているようで、自責の念が重く圧し掛かる。
それでもルアスは破顔した。
「言ったろ、フィニアのせいじゃないよ。シェイドが目を覚ましたとき、そんなフィニアを見たら、きっと辛いよ」
虚を衝かれたように、はっとフィニアは顔を上げる。ルアスは元気に笑っていた。
その通りだというように、フィニアも笑みを浮かべる。
その姿に安堵したのか、ひとまず頷いてルアスは静かに立ち去った。
残されたフィニアは再び目の前の青年へと、体を戻した。
階下へ戻ると、ルアスは人間の男と、ダークエルフの女が待つ居間へと向かった。
テーブルの上には、少ないながらも暖かな料理が並べられている。
「様子はどうでしたか」
人間の男リフティアは、心配そうに問うた。ルアスは小さく首を振る。
「心配ね。このまま長引けば、二人の体力が持たないわ」
ダークエルフの女、フロリスミアが呟いた。
二人は以前水の神殿の情報をくれた、行き倒れであった。
水の神殿近くで倒れていたリフティアを無断で匿った罪により追い出され、今度は近くの人間の街で、手酷い迫害を受けた。
旅の行商人であるフォルシスの父、グレナスに助けられたところを、ルアス達が偶然見つけるという形で出会ったのだ。
あのあと二人は、東に位置する水の神殿から南下して西へと向かい、地の神殿の領分が大きい土地へとやってきた。そこにたまたまルアス達がやってきたらしい。
当時の誼によって行き倒れているところを、今度は彼等によって救われたのだ。
「ごめん、助けてもらったのに心配ばかりさせて……」
「いいえ、あの時助けてもらったお礼です。それに水の神殿では、大変だったようですしね」
リフティアの優しい慰めに、ルアスはますます行き場を失った。
二人は夫婦ともいえる間柄でありながら、人間の住む地にも、妖精の住む地にも行くことができない。互いの種族が争い、いがみ合っているためだ。
他の土地となると、ほとんど魔物が住み着いており、なおのこと住む場所は限られる。
幸いといえば、現在住んでいる家が廃屋だったということだろう。
部屋数が、四、五個と、わりと多い。とはいえ随分前に放置され、辛くも雨風を凌ぐだけで精一杯であったため、地道に補強し直している段階らしい。
比較的魔物が少ないのも幸いではあるが、皆無ではない。食料や水の確保も難しいようだ。
貯蓄をしているとはいえ、厳しい状態で怪我人のルアス達に居場所を提供してくれている。
代わりにできることで手伝いをしてはいるが、どうにも居たたまれない。
「たいしたことできなくて、本当にごめん。事情説明もシェイドがいれば、もう少しできたんだけどね」
シェイドは意識を取り戻さず、フィニアはほとんどの間気を失っていたため、部分的なこと以外は知りえない。
加えてルアスは、説明が下手なのである。アーサーも力の使いすぎか、姿を見せない。
ただしアーサーの場合は姿を見られていないようで、一度も話題に上っていない。説明も面倒なため、見たかどうか、あえて確認もしなかった。
「貴方達を助けようとしたのは、私達の意思よ。あまり謝られては、私達に対して失礼よ」
叱るフロリスミアの語に、ルアスはうな垂れた。
「うん、ありがとう。そうだな」
今はただ、彼等が目覚めるのを待つことしかできなかった。
惨劇に、小さく唸る。
目の前には、血まみれの死体の山。誰も声を上げない、誰も動くことはない。
中央で目を見開いたまま、ろくに身動きが取れなかった。まるで石造のように。
見ることしかできない。父や母、兄弟姉妹、あげくには親しかった者達の躯を、脳裏に焼きつけるように。
これは悪夢。永遠に醒めることのない、現実。
「……いいな、番人の息子よ」
耳元で、魔族ザルバードが囁いた。
開かれた口が妖しく三日月へと変貌し、鋭い歯を覗かせる。直後、遥か上空へと去っていった。
その姿を、なんの反応もできずに視界に捕らえ続ける。
なにかを介して見ているようで、実感が伴わない。
どれくらい座り続けていただろう。
随分遅れて、凍りついていた感情が、ようやく溶け出したかのように殺意が目覚めた。
目の前に広がる炎のような殺意。
この炎を使って、報復をしよう。
思い立つと、炎の精霊長イフリートを呼び出そうと試みる。
命の炎を代償に、尽き果てるまで己以外に呼び出されぬよう、契約を交わすために。
けれど炎の長は、呼びかけに応じることはなかった。
納得いかず、中級精霊サラマンダーを呼び出して問いただす。すると言うのだ。
我らが長は、既に彼の者の身の内にあり。盟約は、彼の者と執り行われり――
悔しかった、苦しかった。あれほど欲した荒れ狂う炎が手に入らないことに、自分に課した約束を果たせないことに。
結局は、闇を代役として選ぶことにした。魔族の属性に近い、闇を。
そのために選んだ道のはずだった。だというのに、家族や知人の亡くなった場所から離れることができなかった。
いざ離れようとすると、足が竦む。震える。闇の精霊は、恐怖をも司る。
だからこんなにも震え、恐れるのだろう。ならば克服してやる。絶対に。
そんな折、見知った女の顔が浮かぶ。死んでしまったと思っていた。
けれど彼女はそこにいて、哀しげな面持ちで、捨てたはずの名を呼ぶ。
一度は決意したはずの心を揺るがせる。形状しがたい情念が揺らぎを大きなものとして、胸を騒がせる。
もう一度呼ぶ声がした。導かれるようにして、意識が白光の下に浮上する。
緩やかに目を開ける。
見知らぬ光景に、数瞬思考が定まらない。
ここはどこだろうという疑問と共に視線を動かすと、疲れによってだろうか。
近くで寝入るフィニアの姿があった。
先程見ていた夢が、連鎖的に呼び起こされた。惨殺された家族や、親しかった者達の屍。
ザルバードへの、押さえようのない殺意。同じようにこの世を去ったのだろうと思っていたフィニアとユーイが無事だったという動揺が、一気に押し寄せたのである。
ザルバードのもとへと行かねばと、衝動と焦燥がシェイドを掻き立てる。
体中の痛みは激減していたが、足元がおぼつかない。
それでも心中の奥底にある、なにかに突き動かされて乱雑に部屋を飛び出した。
「……ケティル、さん?」
フィニアは物音に気がつき、いつの間にか寝入っていた体を起こした。
薄暗い部屋の中で目を凝らしながらベッドへと視線を滑らせると、シェイドの姿がない。
代わりに扉が開け放たれた形跡があり、わずかな隙間から光が漏れている。
目を覚ましたのだと、ようやく思考が定まると慌てて立ち上がり、彼の姿を捜し求めた。
シェイドが目を覚ましたのだと知ったのは、ルアスも同様だった。
玄関から近い一室で、柱にもたれ掛かりながら現れたのである。
一瞬思考が追いつかなかったけれど、彼の姿を認識し、ルアスは駆け寄った。
「よかった、目が覚めたんだな。けどまだ体調悪そうだから、もう少し寝ていないと……」
差し出す手を跳ね除け、シェイドは幾分か背の低いルアスを睨めつける。
鋭い視線に、思わず怯む。
直後シェイドは、すぐに玄関口へと目を向けると歩き出す。その腕を掴んだのはルアスだった。
「どこ行くんだよ」
シェイドは答えない。振り向かない。
態度同様に、手を振り払おうとしているが、今はルアスの力のほうが上回っている。
普段なら容易に振り払われるそれは、シェイドの体調不良を能弁に伝えている。
「もしかしてザルバードに会いに、水の神殿に戻る気かよ」
シェイドの肩が、わずかに震える。
言葉にせずとも、たったそれだけの仕草が、その通りだと能弁に告げている。
「あれから何日も経ってるんだ。もういないよ。それに今のシェイドじゃ、きっとまた返り討ちにあう。だから今は……」
少しでも体を本調子に取り戻して欲しいルアスは、引きとめようとした。
けれど逆効果でしかなかった。シェイドの拳が、ルアスの頬に叩きつけられる。
さすがに予期しておらず、まともに受け、衝撃で床に座り込んだ。
「貴様になにがわかる!」
なにをするんだと言う前に、シェイドの怒声が飛んだ。
「貴様になにがわかる。俺の大切な場所も、家族も、友も、皆あいつに奪われたんだ!」
「俺だって、攫われた姉さんや、あそこに残されたエルが心配だ。だけど……」
「躊躇うくらいなら、貴様の身の内に宿る炎の精霊長を俺によこせ!」
シェイドはルアスの襟首を掴み、壁際と押しつけた。
瞳の奥には怨嗟の炎が揺らぎ、闇のように深いなにかが色濃く宿っていた。本気であるのは間違いない。
だが強いられても、ルアスは諾とは応じられない。
「渡せない。だってこれは、姉さんやエルを助けることができるかもしれない力だから」
またしても拳が、ルアスの顔へと叩きつけられる。
「なぜ貴様なんだ。俺がもっとも手に入れたかった炎を宿し、アーサーの力さえ容易に手に入れる。なぜ選ばれたのが俺ではなく、貴様なんだ!」
シェイドの拳が再度振り上げられた。
けれど喧騒に気がつき、室内に押し寄せたリフティア達の手によって未遂に終わった。
あとから駆けつけたフィニアは、頬を赤く染めて座り込んでいるルアスの身を案じて膝をついた。
「放せ! 俺はこいつと話をしているんだ。貴様達には関係のないことだろう!」
フィニアは、彼の悲痛にも似た怒声に顔を上げる。
けれどなにも言葉を掛けることができなかった。
誰からも強く止められたけれど、シェイドは本調子ではないことも相まって、半ば強引に寝床へと押し込める。出られないよう、扉を硬く閉めた。
「貴様達、ここを開けろ! 俺は行くんだ。行かなくてはいけないんだ!」
魔法を使えば簡単に出られるというのに、そうしないのはよほど頭に血が上っているか、体力の回復が芳しくないのか、扉をひとしきり叩いていた。
諦めたのだろうか、やがて収まり、不気味なほどに静まり返る。
彼を除いたルアス達は、重苦しい雰囲気を携えながらテーブルについていた。
「よほどその魔族に、ご執心のようね。差し支えないなら、教えてはくれないかしら」
暗い雰囲気を打ち消すように、フロリスミアは問うた。
一応一通りのことはルアスから聞かされた二人ではあるが、予想以上の反応に驚きを隠せなかったのだろう。
過去の出来事を知らないルアスは、無言で応じることしかできない。
フィニアのほうも、軽く首を左右に振った。
「私も、詳しくは知らないのです。憶測ですが、たぶんにあの魔族は家族の仇なのだろうと思います」
「仇?」
「襲われて、よくあの子一人無事だったわね」
「当時の状況はわかりません。ルアスさんの町ができる以前、戦災孤児や、人間に追われてきた妖精達が身を寄せて住んでいたのです。私もユーイも、例に漏れてはいませんでした。その頃はケティルさんのご家族も健在でした。ですが……」
それ以上は言葉を詰まらせる。
(仇、か)
ルアスは心中で呟いた。
ともすれば、これまでの激情も頷ける。
一歩間違えれば、ルアスも同じ道を進んでいたかもしれないのだ。
けれど、とも思う。
恨み辛みの感情だけに囚われてしまうのは、あまりにも哀しくて、儚いものでしかない。
シェイドを見ていて、感じずにはいられなかったことである。
「あの子も目を覚ましたし、これから君達はどうするんだい」
「もしご迷惑でなければ、ケティルさんの容態がもう少し良くなるまで、ご厄介になっても構わないでしょうか」
向けられたリフティアの言葉に、フィニアは即答した。
話がまとまると、ルアスはそっと自分の胸を押さえる。
そうすればアーサーが応じてくれる、というかのように。けれど、音沙汰はまるでない。
「だったらその間に、ここからもう少し南下した一軒家に行ってみるといい。君達を先に見つけてくれたのは、そこに住むフェザーフォルクの青年なんだ」
「フェザーフォルク? こんな偏狭に住んでるってことは、ハーフかなにかなのか」
「どうやら純血であるのは確かみたい。ただいつもなにかに怯えているようで、名前も、どうしてそこにいるのかも教えてくれないのよ」
フロリスミアは、首をひねりながらも答えてくれた。即座に、ルアスは席を立つ。
「俺、その人に会ってお礼を言ってくる。フィニアはシェイドを見ててよ」
言うが早いか、ルアスは家を飛び出した。背中に鳥のような羽を持つフェザーフォルク族と聞いて、図らずもポーアのことを思い出したのだ。途端に、会わずにはいられなくなった。
フィニアは彼の姿を目で追った後、シェイドの休んでいる部屋の方角へと顔を向けた。
(ケティルさん。私はあなたに、なにをしてあげられるのですか)
直接問いたい思いもあったが、けれど酷く躊躇われた。
道とも呼べない道を歩き続けていたが、やがて小さいながらも木造の建物が見えた。
一階建てであり、窓らしい窓はなく、通気口のような所には柵が取りつけられている。
家というよりは、物置という呼称のほうが似つかわしい。ルアス達が身を置いている家の、以前の持ち主が造ったものだろうか。
とにかく進んでいくと、タイミングよく中から一人のフェザーフォルクの青年が出てきた。
長寿である妖精の年齢は見た目に比例しているわけではないが、シェイドやフィニアより、いくらか年上のように見えた。
外見的なものだけなら、水の神殿で出会った人間と同じくらいだろうか。
首の付け根辺りの長さまである淡い紫色の髪と、忙しなく動く気弱そうな眼差し。
それらが青年の容姿を、どことなく頼りないものにさせている。
「おーい」
呼びかけると青年は、ビクリと体を震わせてルアスを顧みた。
すると見るからに怯えはじめ、家の中に舞い戻ってしまった。
「ちょっと、なんなんだよ。俺はお礼を言いに来ただけなのに!」
ルアスが悪者であるかのような青年の行動があまりに不可解であると同時に、不快さが込み上げて交じり合う。
初対面であるだけに、それが困惑という形で声を荒げた。
「あんた達は神の使いの従者なんだろう。僕を罰しにきたんだろう。帰ってくれ!」
扉の向こうで、震えながらも強い拒絶が返ってきた。
ルアスはなおさら訝しく、怪訝にならざるを得なかった。神の使いというと、今までの周りの反応から察するに、アーサーのことだろう。姿を見られたに違いない。
だがそこまで言われる理由がわからない。
「なにを言ってるんだよ。俺はただ……」
「嘘だ! 僕が戦争の引き金になったから、ここまで来たんだろう。なんと言われようと、僕は話をするつもりはないんだ。帰ってくれ!」
とりつく島のない青年に、とくに戦争の引き金になったという言葉に、ルアスはただただ唖然とするしかなかった。
*
「容態はどうだ」
ゲオルグは、薄い布を敷いた上に横たわるエルフォーネに寄り添うエレノアに声をかけた。
エレノアは力なく、首を左右に振る。
「今のところ、変化はないわ」
横たわる彼女に目を向け、小さく息を吐く。
エルフォーネは先の水の神殿でルアス達に取り残され、魔族ザルバードとの抗争に巻き込まれて傷を負った。
彼女のケガとザルバードの退却により戦闘離脱は余儀なくされ、水の神殿を後にした。
応急処置はすませ、必要な手当てをするために人里へと向かう道中、エルフォーネは高熱を出して倒れてしまったのである。
応急処置は万全ではない。
酷い傷ではないが、手持ちの薬などでは限界がある。
加えてルアスと共に行くことができなかったという精神的な衝撃もあるのかもしれなかった。
旅の目的は、ルアスと再会することだったのだから。
幸い足止めされた近くには川があり、山菜や果物が少なからずある。
魔物が少ないようで、荒らされた様子はあまりない。探せば薬草に使える植物もあるかもしれないと、腰を落ち着けるに至った。
風や雨をさけるために蔓を木々の枝につるし、幾重にも編みこんでいく。
その上から木の葉や枯れ草などをかぶせる。万全とは言いがたかったが最低限の寝床を確保し、持ち合わせていた簡素な寝具を敷き、そこにエルフォーネを寝かせたのである。
「気にしなくていいから、先へ急ぎましょう」
エルフォーネは荒い息を漏らしながら、上半身を起き上げる。
「まだ横になっていた方がいいわ。急ぎたい気持ちはわかるけれど、下手に動けば悪化しかねないのよ」
「そうだぜ。今は体を治さないと、ルアスの坊やが心配するぞ」
あまりに軽く促す彼等に、エルフォーネは即座に反発心が込み上げる。けれど言い分はもっともだった。
言い負かされたようで不服だったが、これは不調によるものだと、あえて自分の胸に押し込めて再び横になった。
寝静まった頃を見計らい、二人は外へと出ると、ある程度離れた。
話し声で起こしてしまうのは憚られ、しかもあまり聞かれたくはない内容だったのである。
先に口を開いたのはゲオルグだった。
「ルアスに会わせるという約束は守ったんだ。やはり俺としては、病が治り次第、あいつを住んでいた場所へ帰すべきだと思う」
「私もそれには賛成よ。けど、あの子が素直に聞くかしら」
「そんなの百も承知だ。それに俺達は普通じゃない。追っている相手も、あのザルバードだ。これ以上行動を共にしていたら、命が危ういんだぞ」
「わかってる。できることなら、これ以上関わらせたくないわ。けどあの子は、もう一度会うことを切望してる。手掛かりになりそうな私達から、きっと意地でも離れないわ」
「だから多少強引にでも、やるしかないだろう」
「それで本当に帰ると思うの? それに短い時間だったけれど、互いの身を案じあう二人の再会を見たでしょう。彼女を説得して、たとえ上辺だけは頷いても、きっと一人でも行くわ。それにあの子になにかあったら、ルビナスと最悪同じ状況になるかもしれない」
「アーサーは、あいつとは属性の違う神だろ。そんなこと、起こるわけがない」
「だからこそよ。歪んだ真理や秩序に身を委ねて、父親と同じように精神を犯されるかもしれない。そうなったら、あのとき私達の命と引き換えのように助かった、あの子も殺さなくてはいけないのよ」
エレノアの断言に、反論しつつも心の片隅で同じようなことを感じていたゲオルグは、反撃に詰まってしまった。
渋い顔をすると、矛先を失った苛立ちをぶつけるように、自分の髪をかき乱した。
「これじゃあ、八方塞がりかよ!」
「あるとすれば、もう一度二人を会わせることくらい、かしらね」
思案を巡らすために、かすかに目元を伏せながら口にする。
眉をひそめながら、ゲオルグは彼女を見下ろした。
「なんだってそうなるんだ。会えば今度こそエルは、必ずあいつ等についていくぞ。あいつ等もザルバードに狙われてるんだぞ」
「エルの目的は彼に会うこと。でも逆に言えば、彼の説得になら耳を傾ける可能性は、私達より高いんじゃないかしら」
「……なるほど、あの坊やを丸め込むんだな」
「言葉は悪いけど、そんな感じかしらね。できればルアス君達も一緒に帰ってくれると、ありがたいのだけれど。そうでなくとも彼等よりも早く、すべてを終わらせないとね。だって、ルビナスをあんな目にあわせてしまったのは……」
言い終えずに、エレノアは言葉を切った。
そこから先の想いを馳せるように、青くくすんだ空へと視線を上げた。
応じるように、彼も顔を上げる。二人は頷きあうように、空を見つめ続けた。




