十回
〇二章,水の神殿/十一回
ルアスはフウラ達を逃がすための囮役を買って出てから走り通しだった。
「潔く来てもらおうか」
妖魔の声が追ってくる。
ルアスは引き離すために、更に速度を上げる。
完全にというわけではないけれど、少なくとも声が聞こえなくなる範囲までは遠ざかることができた。
水の神殿内の構造をある程度知っているということが関係しているのかもしれない。
内心安堵しつつ更に駆けていくと、外からではなく内部から破壊音がした。
しかも限りなく近い。
魔物が近くまで侵入したのかと思い巡らしたとき、聞き慣れたシェイドの声が耳に届く。
「ザルバードはどこにいる!」
先程より広がる安堵感を胸に、シェイドの姿を見つけるために先を急いだ。
容易に見つけることができたが目の前に広がる光景に、ルアスは一瞬思考が止まった。
なぜならそこには神殿の妖精達に対して、闇の精霊を駆使していたぶる姿があったためである。
今までシェイドは誰彼かまわず相手を傷つけることはなかった。分別は持ち合わせていた。
ルアスやポーア等に対して手痛い忠告はあったが、それ以上はなかった。
だからこそ四肢を切り裂き、男女見境なく襲い、返り血を浴びながらも冷め遣らぬシェイドが信じられない。目にしている光景は、嘘ではないかと思えてしまう。
「ザルバードはどこだ。どこにいる!」
シェイドが掴む相手は、傷だらけて呻いている。
見るからに、まともに話せるだけの状態ではない。
「言わないか!」
捜している相手の名がフィニアではなく魔族ザルバードであることも関係し、ルアスは目が滲んだ。
業火の炎のように揺らめく黒いなにかを魔法によって作り出し、傷だらけの相手にぶつけ、無理にでも聞き出そうとしているシェイド。あまりにも居た堪れなくなったルアスは、シェイドの腕を掴んだ。
「もうやめろよ。真先に牢から出たのは、フィニアを捜すためじゃなかったのかよ」
「俺の知ったことか!」
「シェイド!」
傷の痛みで呻いている相手を壁際に押しつけたまま、シェイドはルアスの手を振り払う。
振り返ることも、耳を傾けようともしない、あきらかな拒絶。
手を伸ばせば届く範囲にいるというのに、心はとても遠くに感じる。
もともとシェイドは誰一人として心を許していなかったのではないか。とそれが脳裏に浮かび、ルアスは目元が潤んだ。
「教えろ、ザルバードはどこだ!」
なおも問うシェイドだったが、息も絶え絶えで答えるだけの体力もなにもないことをようやく知ると、小さく舌打ちして放り捨てる。
価値はもはやないと踏んだのだろう。
先程までの異常な執着はどこへやら、微塵も見向きもせず新たな標的を捜し始めた。
「……シェイド!」
ややあってルアスは引きとめようと、懇願に近い声を発した。
けれどシェイドは微かにさえ反応しない。ことさら胸を締めつける。
「一体どこまで逃げるつもりなのだ。人と妖精との間に生まれし貧弱な子よ」
ルアスの背中へと、妖魔の言葉が突き刺さる。
「妖魔……」
逃げ切れたわけではない。道も限定されている。そもそもは逃げている最中だったのだ。
一つの場所に立ち往生していれば、いつかは見つかるのは当然といえる。
ルアスも危惧はしていたが、目に余るシェイドの行動によって失念していた。
微かに声が上擦り、掠れる。
囁くように洩れる呟きにシェイドは過剰に反応し、得意げに薄っすらと口元を吊り上げる妖魔へと、怨恨を漲らせながら向き直る。
容姿はシェイドそのままだというのに、身にまとう雰囲気が陰気を帯びているのは闇の精霊を取り込んでいるだけではないようだ。
ルアスはシェイドの過去になにがあったかなど知らない。
今の彼を突き動かしているものが、なにかを知らない。尋常ではない趣に、ただ足が竦んだ。
「妖魔か、ちょうどいい。貴様なら知っているはずだ、ザルバードの下へと案内しろ」
睨み据えながら命令口調で語り掛けるシェイドを、妖魔は鼻で笑い、一蹴した。
「私はお前などに興味はない。あるのはそこにいる混血児の小僧だ」
「そうか、なら力づくで聞き出させてもらおう」
言うが早いか、シェイドは素早く呪文を詠唱する。水しぶきが、その手に終結していく。
水の神殿なだけあった水の加護が強いため、下級精霊でも通常より強い力が発せられる。属性の傾向は、そのことにも影響している。
シェイドが水の精霊を扱う魔法を選んだのも無理からぬ話である。
けれどルアスは眉間にシワを寄せ、口元をわななかせ、瞳は激しく動揺を映し出している。
シェイドが扱ったのは水の下級精霊だったから良かったものの、今ウンディーネを呼び出せば危険である。
不用意に呼び出せば、本当にフィニアの意識は崩壊してしまうかもしれない。
フィニアなど気に掛けていないのだと、実感せざるを得なかった。
「やめろよ。そんなことしたらフィニアが……!」
危ないと続けようとするルアスだったが、完成した水の魔法の影響により遮られる。
シェイドの手から放たれた水の魔法は蛇のようにうねり、妖魔へと襲い掛かる。
たいして妖魔は障壁を作り出し、なんなく遮った。
その隙を縫うように短剣を引き抜くと、シェイドはすかさず斬りかかる。
それさえ見抜かれていたようで妖魔の放つ障壁が、衝撃波となって拡散する。
シェイドは反撃によって、受身をとる暇もなく吹き飛ばされた。荷物の運搬もするため普通に行き交うには充分な広さだったが、こういった争い事をするには狭すぎた。
容赦なく壁際に叩きつけられ、小さく呻いている。
「他愛もない。この程度で私と組みしようなどとは、とんだ自惚れだな」
「……闇よ。我がシェイドの名において命じる」
嘲るように失笑すると、妖魔は本来の目的であるルアスへと向き直る。
妖魔が別の者に目を向けている間に、シェイドは闇魔法を詠唱した。
妖魔は一瞬驚いたように目を剥いたが、含むような笑みを浮かべる。
「闇の精霊長シェイドを使役することができるのか。だが完全に御しきれてはいないな。そのような状態で使い続ければ、いづれ闇に呑み込まれることになるぞ」
ルアスは妖魔の言葉にギクリとした。
なぜ思ったのかはわからない。そんなわけがないと思いつつ、納得している部分もあった。
なぜ両極端の思いが存在し、自分がそのように感じるのかは知れないけれど、なにか言わねばとルアスは口を開きかけた。
けれどシェイドの方が数瞬早く、ルアスの言葉は紡がれることなく終わってしまう。
「呑み込まれようと呑み込まれまいと、俺の知ったことか。目的が果たせればいい。そのための力だ。さあ言え、ザルバードはどこだ。言わねば貴様を殺す!」
「ほう、やってみるがいい。もしできたなら教えてやろう」
「シェイド、こんなところで……」
止める間もなく、シェイドは闇魔法の詠唱を終えていた。
直後、以前ガースに向けたものと同様の闇の業火が辺りに炸裂する。
業火の中心から爆風が吹き荒れ、ルアスは否応なく後方に吹き飛ばされる。
ようやく収まった頃、たたきつけられて痛む体を起こすと建物は半壊していた。
隙間からシェイドの姿が見える。声をかけようとするも、うっすらと口元を三日月に歪め、ただ一点を見つめる狂気染みた眼差しに息を呑んだ。
今シェイドを止めようとしても、きっと声は届かない。強く痛感させられる。
無理に捻じ伏せ、やめさせるだけの力もない。
実際は力だけならあるのだろうが、扱うには、ポーア達をこの手で殺してしまったのだという想いや記憶が鮮明にあり過ぎる。
根底にあるのは恐怖。込み上げる不安や歯痒さは、それを含めた不甲斐なさ。
(情けない……)
今浮かぶ最善の方法は、フィニアの存在である。フィニアはシェイドの昔馴染み。
彼女の声ならば、届くかもしれない。
ただでさえフィニアは水の精霊の加護を受けようと闘っている最中である。頼るべき人が他に見つからない己の力不足に酷く苛まれる。
けれど元のシェイドに戻ってもらうには、フィニアの存在は必要不可欠である。
ルアスは即座に決断すると立ち上がり、身を反転させて両足を交互に突き動かす。
妖魔に対して吐き出されるシェイドの高らかな激しい物言いと、逃げるような自分の行動に負い目を感じながら、ひたすら駆けた。
*
牢の残骸である蔦や蔓が土塊の上に置き去りにされた中で、フウラは小刻みに震えている。
ナリスは傍で今にも倒れてしまいそうになる彼女を支えている。
「フウラ様、お気を確かにお持ち下さい」
声をかけるも、フウラには一向に気分が優れる様子はない。
「フウラ様!」
「もう嫌!」
一喝するナリスに、フウラも同様の威勢を伴なって返した。
それほどまでに狼狽する姿を目にすることは珍しく、ナリスは一瞬面食らった。
「いつかは魔族が来るかもしれないといウンディーネに知らされていたけれど、一体いつまでこの地を守らなければいけないの!」
フウラは戸惑っているナリスに向けて、この神殿に捕らわれ続けている自分に向けて怒りや悲哀をぶつけるように癇きり声を撒き散らしていた。
ナリスはフウラがどのようにして生まれ、多くの期待を受け、人一倍の重荷を背負い生きてきたかを知っている。どれだけ両親の愛情に、神殿の者達の期待に応えようとしていたかを知っている。
今まで傍で見ていたからこそ、ナリスの目に哀愁が宿る。
「では今まで巫女となるべくして育てて下さった、両親や神殿の方々の想いを裏切るおつもりですか」
「なにを言うの、そんなことできるわけないでしょう。けれど敵わぬ相手に、どうしろというの!」
射抜くようなフウラの視線が、ナリスに向けられる。瞳の奥には義務感、虚栄心が見え隠れしている。
他の者達ではただの強がりとしか映らなくても、幼い頃から共にいたナリスだからこそ知れる。
「ならば水のウンディーネを奴等に、お渡しになりましょう」
一糸乱れぬ切り替えしと、冗談ではない真剣な面立ちに、フウラは言葉が出ない。
義務や任務を放棄できずにいる問いに対して、そのような返答がなされるとは思いも寄らなかったのだろう。
「……どういう、おつもりなのですか」
囁くような乾いた声が、閑散とした洞穴に、転がる小石のように投じられる。
いつもの凛とした態度ではなく恐々と問うたのは、ナリスの生真面目さに気圧されたからなのか、不安げに見つめている。
ナリスは口元をきつく結ぶと、既に切り出してしまった己の言葉に覚悟を決めた。
「言葉の通りです。歴代の巫女と同じくウンディーネを守り神殿と共に朽ちるか、もしくはすべてを捨てて魔物側にウンディーネを差し出すのです。幸いにも水の長は現在、フィニアという娘の身の内においでです」
魔物達が水の神殿を襲うのは、精霊長の一人であるウンディーネを狙っているため。
魔物を率いてやってくる妖魔が、幾度も示唆している。
水の神殿を住処としている者で、知らぬ者はないといっても過言ではない。
「なにを言っているのです。そんなことをしては今まで何度魔物や妖魔と戦い、撃退してきたのかわからないではないですか」
今まで積み重ねたものを否定されているような衝動に駆られたのだろう。
全身をわななかせながら激怒する。
たいしてナリスは怯むことなく、冷ややかと思えるほどに憂う瞳を向ける。
その様に、逆にたじろいたのはフウラである。
「フウラ様、妖魔達がなぜ神殿をお襲いになるか存じておいででしょう」
「……精霊を封じ込める、なにかを持っている。ウンディーネを呼び出す条件下として、もっとも相応しい神殿にやってくるのでしょう。今まで対峙したとき、妖魔はそのような思わせる口振りでした」
「そうですが、けれど少し違います。妖魔ともなれば精霊を扱うことができる。だというのに自ら呼び出さず神殿を狙うのは、ウンディーネと強く交信できる者が必要だからです。たぶんに長を封じる、いくつかの制約の一つなのでしょう。ここまで仰れば、もうおわかりですよね」
フウラは戦慄した。
ただひたすらに妖魔達は神殿を奪おうとしていたのではなく、巫女をも手に入れようとしている見解に。
けれどそう考えれば、今まで何度も歴代の巫女達が攫われ、魔物の手ではないなにかによって命を落としていたということも頷けた。
邪魔であれば、その場で殺されてもおかしくはない。わざわざ攫う必要などないのだ。
そこまで考えて、フウラはすべて知り尽くしているような、断定的な物言いをするナリスに小さな疑問が浮かぶ。
「それが真実であるなら、なぜ貴方はそのようなことを知っているのです。それにあの娘を差し出すということは、人身御供とするということですよ!」
「当然です、だからこそ申し出ました。差し出せば一時的にせよ停戦条約を執り行う旨を、既に先程の妖魔に話を通してあります。生きてさえいれば、精霊長を取り返す機会も窺えましょう。どうかご決断下さい」
「手を組んだ……そういうことなのですか!」
「本当は順当に招き入れるつもりだったのですが、この際構いません。すべての罪、責任は私が負います。貴女をお救いするには、これしか方法がないのです。さあ一刻も早くご決断を!」
直後、ナリスの頬に激烈なまでの平手打ちが飛んでいた。
誰によって受けたものかは容易に知れたが、とっさに対処できずにいた。
フウラへと目を移すと、ほんのりと涙を浮かべながら敵愾心を前面に押し出して睨み上げている。
「たとえ危機的状況だったとしても、引けません。私は生まれてから今まで、この神殿の巫女として相応しいとされて育てられてきたのです。弱音を吐いたとしても、最後まで戦わずしてどうしろというのですか!」
「フウラ様、ここにいらっしゃいましたか」
息巻くフウラになにか言いたげに口を開くのと、使者が傷を負いながらも知らせに入ったのとは、ほぼ同時だった。
「どうしたのです」
「どこから進入したのか魔物の軍勢が押し入り、神殿内は混戦状態となっております。どうかお指示を!」
「わかりました、参りましょう」
ナリスから視線を外し、フウラは使者の元へと踵を返した。
留めるためにナリスは彼女の手を掴み、強く握り締める。
僅かに眉をひそめる姿には困窮が滲み出し、必死さが溢れていた。
「今までの巫女様達のように、命を粗末にするおつもりなのですか。これは貴女様のためなのですよ」
「私のためを思うなら、行かせて下さい。この神殿の主なのです」
言い終えるや、魔物の甲高い声が響く。続いて使者の、よじれるような悲鳴が上がる。
二人はとっさに振り返ると、使者は人の大きさほどの鳥の魔物に襲われ、啄ばまれ、喰われている。
恐怖のためか、痛みのためか、抗おうとしているが最初の一撃が効いたのだろう。
血塗れの海の中で、ろくに手足を動かせずにいる。フウラは戦慄し、表情を引きつらせながら凍りついていた。
「見てはいけません、フウラ様!」
ナリスは短剣を引き抜いて構えつつフウラを背中に押し隠し、凄惨な光景が終わると鳥の魔物へと斬りかかる。振り上げた一閃が喉元を捉え、鳥の魔物は甲高い声を発した。
そこから反撃をされる前に囁きながら素早く呪文を詠唱し、なおも斬りかかる。
「地の精霊よ、今を持ってこの異形なる者の体を貫き通せ!」
言い放つと、土が剥き出しとなっている地面から岩のような頑丈な突起がいくつも盛り上がり、鳥の魔物の体を貫いた。
鳥の魔物は断末魔を上げ、のた打ち回っていたが、やがて小さくなり動かなくなった。
無事に倒すことができたためにナリスは気を緩めて、小さく安堵の息を漏らす。
フウラは魔法を繰り出した名残である、岩のような土塊の突起の影から虎のような姿をした魔物が瞬時にナリスに向かう姿が見えた。
魔法の詠唱をして払いのけるには、既に近くにい過ぎていた。どう対処しようと間に合わない。
思いながらも、フウラは叫ばずにはられなかった。
「ナリス、後ろ!」
ナリスは言葉に従い、振り向いた。ナリスの目から見ても、もはや逃げ切れる距離ではない。肩を噛みつかれ、苦痛に表情を歪める。
牙が深くくい込む前に、ナリスは短剣を魔物の喉元目掛けて斬りつける。危機感を感じた虎のような魔物がようやく離れた。フウラの一言が一歩遅ければ、肩の肉が容赦なく抉られていたに違いない。
それでも肩からは大量の血が溢れ、額からは幾重もの脂汗が噴き出している。
息も荒いが、瞳だけは闘争心を失わず、無傷のほうの手で短剣を構える。
魔物の方もそれを感じ取ったのだろう。小さく呻き、間合いを取ったまま動こうとはしない。
フウラは膠着状態の今ならばと呪文の詠唱をするが、その気配をナリスは肌で感じ取った。
「おやめ下さい、フウラ様。それよりも早くフィニアさんの下へと急ぎ、ウンディーネが留まっているうちに妖魔に差し出して下さい。そうすれば一時的にせよ、停戦条約が成されます」
「まだそれを言うの。それに貴方は今、傷を負っているのですよ!」
「私の命など、貴女様に比べれば安いもの。ウンディーネを封じられ、持ち出されたとしても、扱う者がいなければ結局使えないのと同じこと!」
「ですが!」
「生きてもらわねば困るのです。これから先もずっと!」
「たった一人で、それを成したところでなんになりましょう」
「行って下さい、フウラ様。あなた様は亡きご両親により望まれ、育てられた、この神殿の巫女なのですよ!」
ナリスの言葉が、フウラの胸を強く打った。言いたいことはあるというのに、声となって返すことができなくなってしまった。それほどまでに巫女であらんとする重圧は大きかった。
けれど目の前で傷を負いながらも戦っているナリスを置いていくことも、非常にためらわれる。どちらを選んでも、きっと後悔が押し寄せる。
そんなときナリスは背を向けたまま顔を半分振り向かせ、優しく微笑した。
フウラは息を呑み、喉を詰まらせる。
隙を狙い、魔物はナリスへと襲い掛かる。
その横を、フウラは疾走した。あの微笑のよって、ナリスは本気で自分の命を投げ出すのだと自覚した。
微笑には決断を促す以外に安心させるため、なにより隙を作り、魔物を完全に自分に引き寄せる意味合いもあったのだろう。
たった一度の微笑みによって、フウラは察してしまった。
この世に生を受けて以来、物心つく前に精霊を扱う資質が群を抜いて高いことを多くの者に見抜かれ、巫女となるべく教育されてきた。そのときには既に、いつでも傍にいてくれたナリス。
だからこそわかる。
振り向かない。振り向いてはいけない。
前を向いて走るのみ。己が巫女であろうとしているように、ナリスは従者としての使命を果たそうとしているに過ぎないのだから。
この胸に宿る迷いを振り払いながらも、フウラはひたすら駆ける。
途中魔物に遭遇し、魔法を使って逃げ道を確保しつつ、ようやくフィニアのいる小部屋へと入ると重厚な扉を静かに閉めた。
肩で息をしながら、安堵のために伏せていた顔を上げる。
目の前には祭壇にも似た台があり、その上にフィニアが横たわっている。
最初のように魘されている様子はなく、傍から見ると安眠しているだけのようだ。
フィニアの体には、薄い水の膜が張っている。二週間飲まず喰わずだというのに一向にやせ衰えた感がないのは、水の膜が魔法でできており、体を保管保湿するという影響を与えているのだろう。
フウラは足音をたてずにフィニアへと歩み寄り、見下ろした。
あまりに安らかである寝顔に、またしても迷いが生じる。
相手は魔の者である。
ナリスが妖魔と掛け合ったという、ウンディーネを渡せば停戦となる条約が、はたして信じられるに値するのか。
なにより巫女のようにウンディーネを呼び出す、もしくは留めておく存在があったこと、妖魔よりランクが上の魔族が現れたこと、今回の停戦条約の提案。
まるで計ったような都合が良すぎる展開に、不安が込み上げる。
ナリスも、少なくとも一度は感じたに違いない。
それでもなにが最善の策かを考え抜いた上で相手と誼を通じ、機会を窺っていたのだろう。
(私はなにを選び取れば良いの?)
最後まで巫女としての役割を演じるか、それともフウラ自身としての気持ちに従うか、二つの想いの中で揺れ動きながら服の上から懐にある短剣に手を置いた。
そんなとき頭上から爆発音がしたかと思うと、天井が一部崩れ落ちてきた。
フウラは短剣に手を添えたまま険しい面持ちで振り返る。舞い上がる瓦礫や塵の中から、紅い鱗に覆われ、コウモリのような羽を持つ異形の者が立っていた。
先程出会った妖魔と似通って入るが、あきらかに別人である。
「…ザル、バード……」
「ほう、俺の名を知っているのか。しかもそこにいる娘は見覚えがあるな」
身を震わせながらもようやく名を紡ぐと、ザルバードは不敵に薄く口端を歪めた。




