水の音・番外編『いっしょに帰ろう』
『ヒロ君、今日は少し遅くなりそうだから洗濯物取り込んでてくれない?』
「わかりました」
『お願いね。七時前には帰れると思うから』
昼休みが終わった辺りから何だか頭が痛くて、保健室で熱を計った。微熱だったけれど、念のため、と家に帰された。家の人に知らせようかと先生に言われたけれど心配をかけるのも面倒だった。首を横に振って、クラスメイトに見送られて教室を出た。
帰って少しの間寝ていたけれど、だいぶ頭痛も治まったからテレビでも見ようとリビングに下りてきたところで電話が鳴った。
電話を切って裏庭から空を見上げたら、真っ赤な夕焼けが空いちめんに広がっているのが見えた。思わず見とれて、ほう、とため息を吐く。
秋は夕暮れがいちばん綺麗なんだよ。昨日隼人が学校帰りに教えてくれた。日本には四季というものがあって、それぞれにいちばん綺麗な時間があるんだと言っていた。
綺麗だなあ。そう言って真っ赤な空を見上げた隼人の横顔が何だか妙に寂しそうで、僕は思わずその手を取って歩いたんだ。
隼人は僕を見下ろして、小さく笑った。それが嬉しくて手に力を込めたら、いたい、と文句を言われてしまったけれど。
ソファーの上で洗濯物を畳んでいたら、リビングの隅に置かれたサイドボードにどこか見覚えのある冊子が収められているのが見えた。畳み掛けのタオルを膝に置いて、サイドボードに目を凝らす。あれは、まさか。
洗濯物を放り出して、小さなガラスの扉を開けた。ぐ、と息を飲み込んでから、それを引っ張りだした。色んなノートや電話帳なんかに挟まれていたそれは引っ張りだすのに苦労した。
やっとの思いで手に収まったそれは、確かに僕の家のものだった。
布のカバーがかけられた、小さなアルバム。ささやかな想い出がこの一冊に収められている。日本に来る時に父が、全部は持っていく訳にいかないけど、と大きなアルバムから目についたものを選んで入れていた。ここに来てからすっかりその事を忘れてしまっていたことに何だか不安になる。
僕は母のことを、忘れてしまうんだろうか。いつかきれいに忘れてしまって、それでも僕はまた、作り笑いを浮かべることが出来てしまうんだろうか。
胸の奥にじわりと浮かんだ痛みを飲み込んで、アルバムを開く。そこには懐かしい笑顔がたくさん、たくさん詰まっていた。
お気に入りのワンピースに身を包み、まだ小さな僕を抱っこして笑う母。スーツにネクタイの父がぼんやりとした顔の僕の手を握り、幼稚園の門の前で緊張した顔をしている。これは、入園式か何かだろう。
動物園で大きなゾウに見入る僕と、楽しくて仕方がないといった顔の母。泣きべその僕と、困り顔の父。
ここに写っているものの多くは、記憶なんてないくらい小さな頃のもので。覚えていないけれど、あの頃の暖かさがゆるゆると蘇って幸せな気分になる。あの頃はまだ母がいて、父がいて。笑っていた。幸せ、だった。
なにか小さな物音がして、はっとする。サイドボードの前から裏庭に繋がる大きな窓を見たら、一羽のカラスが物干し竿に止まってじっとこっちを見ていた。
そのカラスと窓枠の影が白い壁に長く伸びている。セピアにくすんだ景色がやけに寂しい色に見えて、泣き出したいような気分になった。
――寂しい。帰りたい。でも、どこへ。
夕陽の金色の光が木々を照らす。きらきら、きらきら。
綺麗だなあ。隼人の声で再生されたその言葉に、心の中で返事をする。うん、綺麗だね。本当に、綺麗だ。
だけど、寂しいと思ってしまった気持ちが消えてくれない。
ここにはまだ僕の想い出は少ない。日本のどこにいたって、母との想い出に繋がったりはしない。まるで身を切り離されたような感覚に、頭の隅がきりきりと痛む。
寂しい。
寂しい。
帰りたい。
――あの家に帰りたい。
気付くと、一枚の写真を握って家を飛び出していた。
どこに行くというんだろう。どこへも行けないし、どこに行ったって母はもういないのに。
だけど。だけど。
勝手に溢れてくる涙を、腕で拭う。ごしごしと目を擦って空を見上げたら、山の端っこに残った金色がゆっくりと消えて行くところだった。遠くでカラスがひと声、鳴いた。
ぽてぽてと、乾いたアスファルトに靴音が響く。日はすっかり沈んでしまった。
少し靴が小さくなったわねえ。嬉しそうに言って笑い、新しいスニーカーと上履きを買ってくれた涼子さん。
通り過ぎる車のヘッドライトに、胸につけた名札が反射してきらりと光る。
俺が書いてやるよ、と、買ってきた新しい名札に「篠崎ヒロ」と書いてくれた隼人。芹川の姓が書いてある名札を、大事そうに両手で持って手渡してくれた。
帰りたい。大切にしてくれているのに、こんなふうにひどく子どもじみたことを願ってしまう僕が嫌いだ。
ポケットから写真を取り出して、外灯の下で眺める。優しい笑顔の母と父。そしてどこか嬉しさを噛み締めているような顔の僕。三人並んだ写真は、この一枚だけだった。
「お母さん」
小さな声で写真の母に呼びかける。返事なんかない。わかっている。当たり前だ。
「おかあさん」
喉の奥が詰まって、痛い。絞り出した声は震えて、言葉にならなかった。
どこをどう歩いたのかわからない。気付くとどこかの橋の上に立っていた。外灯に照らされた欄干に手を置いて、下を覗いてみる。暗くて何も見えないけれど、小さな水音が聞こえてくる。
さらさら、さらさら。
どこかで魚が跳ねたような音が耳に届いた。
いつか母とふたり、この音を聴いた気がする。小さな橋の上で母と手を繋いで、さらさらと流れる小川の水の音を聴いた。
帰ろうか、と母が言った。頷いた僕の髪を撫でて僕の手を取った、やさしく柔らかな手の感触が蘇る。
帰ろうか。帰りたい。でも、どこへ。
「ヒロ!」
橋のむこうから、誰かが僕を呼ぶ声がする。あれは、隼人。
ぼんやりとした頭でゆっくりと振り返ったら、隼人が息を切らせて僕に駆け寄り、手を握った。額には汗が浮かんで、どこを探したのか制服のシャツが汚れてしまっている。
「おま……、どこ行ってんだよ、こんな時間まで!」
「あ……。どこって」
隼人は眉を下げて僕を覗き込み、怪我はないか、と顔に触れた。首を横に振ったら安心したように笑い、全身の力が抜けたのか、その場に座り込んでしまった。
「……隼人」
「はああ……、つ、疲れた。ほんともうお前、心配させんなよ」
「……ごめんなさい」
頭を下げたら、隼人は僕の頭を優しく撫でる。暖かくて、大きな手だった。
隼人はポケットから携帯を取り出してなにやらボタンを押す。耳に押し当てて、すぐにスピーカーから飛び出してきた割れた声に耳を遠ざけ片目を瞑った。
「いたよ。うん、図書館の近くに橋あるだろ。大丈夫、怪我してない」
怪我してない。良かった。そう口にして笑った隼人の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えて、思わず目を逸らした。
隼人は本当に、僕を心配してくれている。ごめんなさい。心配かけて、ごめんなさい。帰りたいなんて思ってしまって、願ってしまって、ごめんなさい。
泣きそうになるのをぐっと堪えて、下を向く。川から吹き上げる風が、欄干に寄りかかる隼人のシャツを揺らした。
「よし、帰るぞ。引っ張れ」
「え、無理」
「無理じゃねえよ。ほら」
隼人はそう言って僕を見上げ、笑う。差し出された手を掴んで、力を込めた。思い切り引っ張りあげたら、隼人はふらふらしながら立ち上がって僕の肩に手を置いた。
「アルバム。出しっぱなしだったぞ」
「……うん」
「……帰りたくなった?」
「……少しだけ」
「そっか。……ごめんな」
歩き慣れない道を隼人にくっついて歩いていたら、すこし先を行く隼人が立ち止まった。どうして謝るんだと首を傾げた僕に、隼人はただ小さく笑ってみせた。
家に帰り着いた僕は涼子さんにしこたま怒られた。涼子さんは目に涙をためて鬼の形相だった。だけど僕は何だか嬉しくて、始終緩む口元を隠そうと必死だった。心配してもらう事がこんなに嬉しいなんて、知らなかった。
遅くなった夕食を半分残してしまった僕は、そのままぐったりとソファーに横になった。隼人の持ってきた体温計で熱を計ったら、微熱とはいえないくらいに上がっていた。お陰で今日の家出騒動は熱のせいだということになった。
「このアルバム、ヒロ君が持ってたほうがいいわね」
「え……いいんですか」
隼人に担がれて部屋のベッドに入った僕の所へ、涼子さんがあのアルバムと薬を持ってやってきた。
「でも今見るのはだめよ。熱が下がってからね」
涼子さんはそう言って、僕の額につめたいシートを貼った。気持よくて、目を閉じる。やさしい手が髪を撫でて、おやすみなさい、と聞こえた声に僕は返事を返すことが出来なかった。
真夜中に目を覚ますと、ベッドに寄りかかって眠ってしまっている隼人が目に入った。まだ熱が下がっていないのか、視界がどことなくぼうっとしている。ふわふわとした感覚に酔いそうになりながら、その手を握る。隼人は一瞬だけ目を開けて僕を見て、うん、と頷いてまた目を閉じた。
翌朝は熱も下がって、無理はしないでと心配顏の涼子さんに見送られて家を出る。授業を終えて校門を出ると、学生かばんを手にぼんやりと空を見上げている隼人がいた。
「隼人」
声をかけると、隼人は僕を見て小さく笑う。そうしてまた、空を見上げた。つられるようにして視線を上げたら、薄いオレンジに染まった細長い雲がゆるゆるとその形を変えて行くのが見えた。そのむこう、飛行機が夕陽を反射してきらきらと光った。
「春はあけぼので、秋は夕暮れだね」
「え、なにそれ」
隼人は中学生だからとっくに知っているものだと思って口に出した。だけど隼人は首を傾げ、眉を顰める。
「……隼人ってさ、たぶんもう少し勉強しないとほんとに後で大変だと思うよ」
「は、なんで。春は、なんだって?」
「春はあけぼので、秋は夕暮れ。こないだ隼人が言ってたでしょ。季節のなかでいちばん綺麗な時間があるんだって」
「俺そんなこと言ったかあ?」
呆れた。知らないで口にしたのか。日本に来たばかりの僕でもこのくらいの事は知っているというのに。だけど本能で季節の移り変りの繊細さを感じ取って言葉にした隼人が何だかすごいと思ってしまった。知らないというのは、ある意味貴重な事なのかもしれない。
「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり」
「日本語喋れ」
「……日本語だし」
くすくすと笑う隼人につられて、笑う。不意に隼人が立ち止まって、公園に寄って行こう、と僕の手を引いた。
普段は通らない商店街のアーケードを通って小さな公園に入った。真ん中に設置してある、花畑に囲まれた噴水がきらきらと夕陽に反射している。
ベンチに並んで座って、夕陽にその輪郭を溶かしてゆく町を眺めた。隼人は腕組みをして何やら考え込んでいる。そのうちになにか思いついたのか、僕を見下ろして少し、息を吸い込んだ。
綺麗だと、思った。綺麗な、何の曇りもないふたつの目が僕を捉えて、やさしく光る。
「……帰りたいか?」
一瞬何と言ったのかわからずに、首を傾げたところでその意味が理解できた。隼人は昨日のことを気にしているんだ。それもそうか。あんな写真を見て家を飛び出した僕が考えたことなんて、筒抜けに決まっている。
「帰りたいか?」
隼人はもう一度、言った。僕は、隼人に嘘はつけないと思った。嘘をついてもきっと、その曇りのない目にはきっと見破られてしまう。
「帰りたいと、思ったよ。昨日はね」
「昨日は……」
「でも隼人が迎えに来てくれて、涼子さんに叱られて。帰りたいと思える場所がもうひとつ出来たって、気付いたんだ」
ただいまとお帰りを言える場所。それがもうひとつ、できた。あの場所には母との思い出があるけれど、ここには隼人がいる。涼子さんも。笑って僕にお帰りを言ってくれる人たちが、ここにいる。
夕暮れの空を教えてくれる人が、ここに。
「昨日は、ごめんなさい。でも時々これからも寂しくなっちゃうことがあるかもしれない。だけど、もう逃げたりしないから。だから」
「うん。そっか。でもな、ヒロ」
隼人は僕の頬に指先を置いて、僕を覗き込む。やさしい、やさしい目をしている。
「お前にとって大事な人だったり場所だったり、そういうものは俺にとっても同じように大事なんだ。だからこんど寂しくなったら言えよ。一緒に行こう。ちゃんと連れてってやるから」
「……隼人」
「それで、一緒に帰ろう」
隼人はそう言って、眉を下げて笑う。鼻の奥がつんとして、思わず咳払いで誤魔化した。隼人は僕が風邪をひいていた事を思い出したのか、慌てて立ち上がり、帰ろう、と言った。
「うん、帰ろう」
「腹減ったな。今日メシなんだろ」
「今日お鍋にするって言ってたよ」
「鍋かぁ。お前ちゃんと肉食えよ。もう少し肉つけねぇと、風邪だって早く良くならねぇぞ」
「隼人はもう少し頭の良くなるもの食べないとね」
「は! 余計なお世話だ!」
◇◇◇
「篠崎、なにぼーっとしてんだよ」
校舎の玄関先でぼんやりと夕陽を眺めていたら、懐かしい日のことを思い出した。こんなふうにいつも、ふとした事で隼人と過ごした僅かな日々のことを思い出す。
「うん、なんかちょっと色々思い出してた」
「へぇ。なに、隼人のこと?」
アキラは自転車のハンドルを握って、意味深に笑う。苦笑いを返して、乗れよ、と顎で差された後ろに跨った。
「帰りたい、か」
「あん? なんか言ったか?」
「いや……、なにも」
荷台の根元を掴んで空を仰いだら、アキラがバランスを崩して転けそうになった。
「うわっ! お前あぶねぇだろ、転けたらどーしてくれんだ!」
「あはは、ごめんごめん。空が綺麗だなと思ってさ」
「はぁ!?」
アキラはバランスを立て直しながら、空を睨み上げる。茜色の空に、真っ直ぐな飛行機雲。隼人もあの空を見ているんだろうか。
「そりゃ空は綺麗だけどさあ。……まあいいや、明日俺ん家で数学教える約束忘れんなよ。俺ぜんっぜんわかんねーんだからな」
「そこ、いばって言うとこじゃないだろ。頭が高い。控えて控えて」
「釣り教えた交換条件だろ! ちっと頭いいからってえらそうにするな!」
ねえ隼人。僕はまた、帰りたいと思える場所が増えたよ。
ただいまとお帰りを繰り返す、大切な場所。いつか隼人にも見せたいな。僕の大切な、きらきらした思い出たちを。
それまで幾つの季節を越えるのか僕にはまだわからないけれど、いつか会えたその時に、隼人が笑っていてくれるといいな。
「お昼ご飯は出るんだろうね」
「……コンビニ弁当で手を打て」
秋は、夕暮れ。
茜色の空は滲んで、空高く舞い上がる枯葉の旅を見送る。そのずっと先に、僕の大好きな君の笑顔がありますように。