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さた遊紀

魔女と息子とその娘

作者: さた遊紀


 母の前歯には幸運の星がある。

 下前歯の一本が歯並びの中に収まりきらず右側に傾いで飛び出ているために、顎を出して上下の前歯を噛み合わせると、歯の隙間が実に上手い具合に星形になるのだ。母はそれを『ラッキー・ヘキサスター』と呼んでいた。「母さんはこれがあるから幸せを吸い込めるの」なんて笑いながら、何かいいことがあった時には必ず、母はその星を見せてくれたものだ。得意気に眉を上げ、下顎を少しつきだして笑う顔は、まるで幼い子供が誇らしげに笑う顔のようで、愛嬌に溢れていたと思う。



 両親は常々、息子のわたしに、自分達はその幸運の星のお陰で出逢えたのだと言い聞かせていて、幼いわたしはうっかりそれを信じていた。

 そんな、陽気で少し幼げな母と連れ添っていた温厚な父は、五十四歳というまだ少し早いだろうという年でこの世を去ってしまい、その時わたしはまだ二十代も半ばで、終ぞ子供好きだった父には孫の顔を拝ませてあげることは出来なかった。わたしは今でもそれを少し口惜しく思っているが、母によくなついていたわたしの娘は、ひょっとするとわたしより父のことに(とりわけ、わたしが産まれる前のまだ若い頃の父に)ついて、余程詳しかったかもしれない。それはわたしの持つ、細やかな気後れを、和らげてくれる一つだった。


 母と嫁との仲は悪かったわけではなく、寧ろ円満な方だったのに、母はわたしたちとの同居は受け入れなかった。湖の畔の、まるで別荘のような小さな家に、古い市営アパートで父とわたしと暮らしていたとき同様……いや、収納場所が出来たぶん、前以上に、本に埋もれて静かに生きた。

 湖に面した大きな出窓の脇にロッキングチェアを置いて、やわらかなクッションと膝掛けを置けば、そこが老いた母の特等席だ。

 膝掛けはなんと父のお手製で、本来寒がりな母が、読書に励むと一切身の回りのことに頓着しなくなる癖があることを心配して、何かの記念に贈ったのだと言っていた。

 毛糸の膝掛けはもうずいぶんとくたびれてしまっているが、父の愛情と、両親の思い出、幼いわたしの思い出と、娘の祖母との思い出が一身に詰まったその膝掛けが、わたしたちは大好きだった。



「ばぁちゃんはね、じぃちゃんの『仕方ないなぁ』って言う声が大好きだったって言ってたよ。でも秘密ねって言われたから、パパだけに教えてあげるね」

 手を引く娘が、わたしを見上げて呟く。

 大切で重大な秘密を本当にこっそり教えているのだ、という様相で、そっと、ふっと。

 わたしは少しだけ首を傾げて、娘の声がよく聞こえるように耳を下に向けた。

 周りに、人の声がそう響いていたわけではないのだが、抜けるように青い空の下では、蝉がいつも以上に騒いでいる。娘の小さな小さな囁き声は、その蝉の大合唱にすら呑み込まれそうなほど本当に小さかった。

「ばぁちゃんがフミだけ特別よって」

 そう言って、抱えていたお気に入りの絵本をギュッと強くその身に押し付ける。

 小さな唇が、堪えきれないとばかりに震えた。

「ばぁちゃんの持ってる本は全部フミにくれるって。でも、まだちゃんと読めないだろうから、ばぁちゃんの、家を、あげるって。フミが大きくなるまでは、そこに置いてて、たまに読みたいって、言ってくれる人に、貸してあげてね、って」

 最後の方は泣きじゃくって、娘はわたしの手を握る力をキュッと強くした。

 空は本当に青くて、水平線の入道雲が、眩しくて、少し目に痛かった。

「……そうか」

 わたしも囁くように返して、娘を見下ろした。上手く笑えた自信はまったくなかったけれど、それでも、例えへしゃげた笑顔でも、見せなければと思った。

「じゃあ、ばぁちゃんの言う通りにしないとな」

 頷いて、視線を正面に戻す。



 骨壺は、思ったより小さく軽く、父の時、母はどんな思いでこの箱を抱えていたのだろうかと考えた。

 美しい湖の畔の、小さな小さな母の居城は、主を失ってなお、現離れした不思議な空気を失ってはおらず、庭先のハーブが、夏の風に微かにそよぐ。

 まだ若すぎると言えなくもないが、あの母なら、もう充分過ぎたと肩を竦めてため息をつくだろうと思う。

 母はその生涯に何を思ったのだろう。

 わたしは答えを聞けず終いだったが、隣で泣きじゃくる娘が、母の大切な想いを、全部受け継いでいるような気がした。



 夏に産まれたわたしの母は、耀く夏にこの世を去った。




      暑い、暑い、昼下がりのことだ。



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