↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「学校では話しかけないで」と頼んだのは、私だった。

作者: ぽんちょ。
掲載日:2026/10/12

『明日から、メールやめよっか』


 23時2分。自分の部屋の机で、宿題を広げたまま、私はフミヤから届いたメールを3回読んだ。


 フミヤは、同じクラスの男子だ。6月から毎晩、だいたいこの時間にメールが来る。いつもなら、『数学のプリント、3枚目どこ』とか、『今日の購買のパン、まずかった』とか。返信しなくても困らない話ばかりだった。


 なのに毎晩、私は携帯を充電器につないで、震えるのを待っていた。


 学校では、私たちは話さない。目も合わせない。「学校では話しかけないで」と頼んだのは、私のほうだった。


『なんで?』


 そこまで打って、親指が止まった。


 聞かなくても、思い当たることはあった。今日の昼休みのことだ。


 お弁当を食べながら、リカたちは、3組の子がフミヤに告白したらしいという話で盛り上がっていた。「えー、フミヤ?」「意外と人気あるよね」。私は卵焼きを口に入れて、黙って聞いていた。胸の奥がざわざわして、それが顔に出ていないか、そればかり気になった。


 そのとき、フミヤが私の机まで来た。10月の席替えで離れてから、初めてだった。


「これ。借りてたやつ」


 隣の席だったころに貸した、私の消しゴムだった。


 リカたちの話が止まって、みんなが私を見た。今ここでフミヤと普通に話したら、毎晩メールしていることまで、全部見抜かれる気がした。


「そこ、置いといて」


 私は、顔を上げなかった。消しゴムが机の端に置かれる小さな音がして、フミヤの上履きの音が遠ざかっていった。


 机の端の消しゴムは、昼休みが終わる前に、黙って筆箱にしまった。


 携帯の画面に目を戻す。『なんで?』は、まだ消さずに残っていた。


 これを送ったら、私も聞かれる。どうして昼、顔も上げなかったのか。その答えを、メールで打てる気がしなかった。


 私は『なんで?』を消して、打ち直した。


『うん、いいよ』


 送った瞬間、訂正したくなった。


 折りたたみの携帯を閉じて、また開く。新着メールは、なかった。


 机の上の筆箱を開けた。昼に返された消しゴムが入っている。貸したものと同じ種類なのに、角がちゃんと残っていた。



    



 フミヤと初めてちゃんと話したのは、6月の、雨の日だった。


 6時間目の途中から降り出した雨は、放課後になっても弱くならなかった。昇降口は、傘を探す人と、親に迎えのメールを打つ人でごった返していた。


 その隅で、フミヤが空を見ていた。部活は雨で中止になったらしく、ジャージの上着を肩にかけたまま、ぼんやりと。


「フミヤ、傘ないんじゃん。ウケる」


 リカが笑った。リカは、誰にでもこういうふうに話しかける。


「ウケんなよ。カッパ、家に忘れた」


「自転車なのに?」


「自転車なのに」


 フミヤが真顔で言うので、リカたちはまた笑った。私も、少し遅れて笑った。


 カバンの中には、お母さんに持たされている折りたたみ傘がある。教室のロッカーには、置き傘もある。


 貸せばいい。2本あるんだから。


 頭ではそう思ったのに、口が動かなかった。ここで傘を差し出したら、リカたちが何を言うか、わかる気がした。


 中学2年の冬、黒板に描かれた相合傘を、私はまだ覚えている。傘の下に並んだ、私と、好きだった男子の名前。その男子は「マジ迷惑なんだけど」と言って、黒板消しで乱暴に消した。白い粉だけが残って、それから卒業まで、私は彼と1度も話さなかった。


「あ、教室にプリント忘れた」


 私は、靴を履きかけた足を止めた。


「えー、待ってよっか?」


「いい。バスの時間あるし、先行ってて」


 リカたちは駅のほうへ歩いて帰る。私だけ、反対方向のバスだ。校門で別れるのは、いつものことだった。


 階段を駆け上がって、ロッカーから紺色の置き傘を出す。持ち手には、お母さんが貼った名前シール。剥がしておけばよかった、と思ったのは、次の日の朝だ。


 昇降口に戻ると、フミヤはいなかった。廊下の奥で、自販機の缶が落ちる音がした。


 出席番号の書かれた下駄箱を探して、フミヤの段に、傘を立てかけた。


 それから折りたたみ傘を開いて、私は走らずに、いつもどおり歩いて校門を出た。振り返らなかった。


 次の日の朝、フミヤが私の机の前に立った。


「これ、昨日の」


 紺色の傘だった。


 隣でリカが「え、ナオの?」と言った。前の席の子も振り向いた。


「……違う。私のじゃない」


 フミヤは、傘の持ち手を見た。名前シールのところを。それから、私を見た。


「……あ、そ」


 それだけ言って、フミヤは傘を持ったまま、自分の席に戻った。


「なにあれ」とリカが言った。


「知らない」と私は言った。


 その日は1日中、フミヤの席のほうを見ないようにしていた。


 放課後、バス停に着くと、自転車が1台止まっていた。


 ハンドルに、紺色の傘が掛かっている。


「いつもここで待ってるじゃん」


 フミヤは、自転車にまたがったまま言った。帰り道に、毎日この前を通るらしい。


「ここなら、いい?」


 差し出された傘を、私は受け取った。


「……ごめん」


「別に」


 フミヤはペダルに足をかけて、それから、外した。


「メアド、聞いていい?」


「え」


「また傘忘れたら、借りるかもだし」


 冗談なのか本気なのか、わからない顔だった。


 私たちは、携帯の赤外線の窓を向かい合わせた。受信中の画面が、やけに長く感じた。バスが角を曲がってくるのが見えて、私は慌てて『登録しますか』の『はい』を押した。


 その夜、私は初めてフミヤにメールを打った。


『今日はごめん。お願いがあります。学校では、話しかけないで』


 何度も打ち直して、結局、冷たい文にしかならなかった。送信してから、布団の中で携帯を握っていた。


 返事は、23時を少し過ぎたころに来た。


『わかった』


 それだけか、と思って閉じかけたとき、もう1通届いた。


『じゃあ、メールならいい?』


 理由を聞かれるものだと思っていた。なんで、と聞かれたら、うまく答えられないこともわかっていた。


 フミヤは、聞かなかった。


 断ったはずなのに、指はもう、次の返事を探していた。


『いいよ』


 送ってから、もう少しだけ話したくなって、もう1通打った。


『昨日、あの傘で自転車乗ったの?』


『押して帰った。片手運転、先生に見つかるとうるさいし』


『家まで?』


『40分かかった』


 雨の中を40分、私の傘をさして、自転車を押して。想像して、申し訳なくなった。でも、傘が役に立ったのなら、貸してよかった。


『昨日、傘ないのに、なんで自販機行ったの』


『雨やむまで、ジュース1本ぶん待とうと思って』


『1本で何分』


『3分』


 私は布団の中で、声を出さずに笑った。



    



 フミヤのメールは、だいたい23時に来た。


 部活のあと、夜にもう1回、近所を走っているらしい。風呂から出て、髪も乾かさずに打つから、23時。そう教えてくれたのは、メールを始めて1週間たったころだった。


『乾かしなよ。風邪ひく』


『乾かしてる間に寝る自信ある』


 メールの中身は、本当にくだらなかった。


『今日の数学、チョーク何回折れたか数えてた?』


『5回』


『6回。最後のは黒板消しの下で折れてた』


『そこまで見てるなら授業聞きなよ』


『ナオもな』


 走っていたら、知らない猫についてこられた話もあった。


『家の前までついてきた』


『名前つけた?』


『つけない。情が移る』


『もう移ってるじゃん笑』


『移ってない。明日も来たら考える』


 次の日の23時、『来た』とだけ届いて、私は布団の中で足をばたばたさせた。


 しりとりは、1週間続いた。1日1往復しか進まないから、「る」で止まった日は、次の夜まで「る」のことを考えていた。


 メールの最後は、いつも同じだった。


『おやすみ』


『おやすみ』


『寝ろ』


『そっちが寝ろ』


 どっちが最後に送るかで、だいたい午前1時近くまでかかった。


 7月の初めの夜、23時を過ぎても、メールが来なかった。


 23時20分。23時40分。私は、自分から打った。


『今日は走らないの』


 送ってから、恥ずかしくなった。待っていたのが丸わかりだ。


 返事は、日付が変わる少し前に来た。


『走ってた。いつもより遠くまで』


『なんで』


『記録会、タイム悪くてむかついたから』


 その日が記録会だったことを、私は知らなかった。


『何位だったの』


『聞くな』


『聞いた』


『後ろから2番目』


 頑張ったね、は違う気がした。何回も打っては消して、結局こう送った。


『後ろから2番目でも、走るのやめないんだ』


『やめない。前のやつの顔、覚えたし』


『それ、かっこいいと思うけど』


 返事は、なかなか来なかった。もう寝たのかと思ったころ、1行だけ届いた。


『もっかい言って』


『言わない』


『保護した』


『なにを』


『さっきの』


 私は布団をかぶって、しばらく出られなかった。


 学校では、決まりどおりだった。


 フミヤは、私に話しかけなかった。廊下ですれ違っても、私の落とした消しゴムが彼の足元に転がっても。拾って、黙って机の端に置いて、行ってしまう。私も、フミヤを見なかった。


 それなのに夜になると、フミヤは昼の私のことを知っていた。


『英語で当てられたとき、声ちっちゃすぎ』


『聞こえたならいいでしょ』


『1番後ろまで聞こえたから、ギリ合格』


 夏休みのあいだも、23時は変わらなかった。


 お盆前の花火大会の夜は、『人多すぎ』とだけ来た。誰と行ったのかは聞かなかった。聞いたら、自分が家で花火の音だけ聞いていたことまで話してしまいそうだった。


 2学期になって、私は帰りのバスを1本遅らせるようになった。


 バス停から、フェンス越しにグラウンドが見える。陸上部の長距離は、いつも外周を走っている。フミヤは、たいてい後ろのほうにいた。


『バス停から見てたっしょ』


『見てない。バス待ってただけ』


『バス、1本見送ってたじゃん』


 どうして知ってるの、と打ちかけて、やめた。走りながら、こっちを見ていたことになる。


 それからは、見てない、とは言わなくなった。


 9月の席替えで、フミヤが隣になった。


 くじを開いた瞬間、心臓が変な音を立てた。リカは「隣フミヤじゃん、うるさそー」と言って、自分のくじを見せてきた。リカは1番前の真ん中で、そっちのほうが大事件だった。


 フミヤは、本当に忘れ物が多かった。1日目に教科書、2日目に消しゴム。授業中、机の下で、私は自分の消しゴムを差し出した。フミヤは前を向いたまま受け取った。指が、少しだけ触れた。


 その夜、『消しゴムありがと』と来た。


『返してないよね』


『明日も使うから』


『自分の買いなよ』


『ナオのがよく消える』


 そんなわけない、と思いながら、私は筆箱の中の、消しゴムのない場所を見た。


 フミヤが、ときどき変なメールを送ってくるようになったのも、そのころだった。


『今日、廊下で目合ったのにそらされた笑』


『ごめん笑』


 別の夜には、こう来た。


『記録会、来たりする?』


『無理。誰かに見られる』


『だよな笑』


 「笑」がついていたから、私も笑って返した。それで済むと思っていた。


 好きだと気づいたのが、いつだったのかはわからない。猫の名前が「ミケ」に決まった夜かもしれないし、隣の席で、フミヤが私の消しゴムを使って、自分の答えを消しているのを見たときかもしれない。


 10月の席替えで、私たちの席は離れた。フミヤは窓際の1番後ろ。私は廊下側の、前から2番目。


『窓際、寒い』


『ずるい。外見れるじゃん』


『見るもんない。グラウンドしかない』


 消しゴムは、返ってこないままだった。


 『明日から、メールやめよっか』が来たのは、それから2週間ほどたった夜だった。



    



 メールが来なくなって、最初の朝。


 目が覚めて、まず携帯を開いた。新着メールは0件。問い合わせても、0件だった。


 教室に入ると、フミヤはもう席にいた。窓際の1番後ろで、男子と何か話して笑っていた。私が入っても、こっちは見なかった。


 6月に私が頼んだとおりのことだった。


「ナオ、なんか顔死んでない?」


 1時間目のあと、リカが私の前の席に、後ろ向きに座った。


「寝不足」


「わかる。昨日ドラマのあと、友達と電話してたら夜中の2時だった」


 リカはポケットからチョコを1粒出して、私の机に置いた。


「あげる。糖分」


「ありがと」


 リカはこういうことを、何でもない顔でする。そのリカに、私はフミヤのことを1度も話していない。


 3時間目は、理科室への移動だった。


 廊下で、フミヤたちの後ろになった。理科室のドアを、フミヤが押さえて、男子を先に通していた。私の番になっても、ドアは押さえられたままだった。フミヤは、廊下の掲示板のほうを見ていた。


 ありがと、と言えばよかった。言えないまま、私はその腕の下を通り過ぎた。


 その夜、23時になっても携帯は震えなかった。


 23時10分、充電器から外して、また挿した。23時半、新着メールを問い合わせた。0件。午前1時近くまで『おやすみ』を待って、待っている自分に気づいて、携帯を閉じた。


 メールが来なくなって2日目の昼休み、リカが購買の焼きそばパンを半分に割りながら言った。


「そういえばさ、フミヤ、3組の子、断ったらしいよ」


 箸が止まった。


「好きな人いるんだって。誰だろうね。部活の子かな」


「……さあ」


「ナオ、フミヤと話したことある? 隣の席だったじゃん」


「ない。ほとんど」


 言ってから、卵焼きを口に入れた。味がしなかった。


 窓際を見ないように、私は弁当箱の、ご飯の白いところばかり見ていた。



    



 その夜、私は受信BOXのフォルダを開いた。


 「F」。フミヤの名前を入れるのが怖くて、頭文字だけにしたフォルダだ。


 最初から読んだ。


『わかった』


『じゃあ、メールならいい?』


 チョークの数。猫。しりとりの「る」。『寝ろ』『そっちが寝ろ』。


 7月の夜の、『保護した』。


 読みながら、何度か笑ってしまった。笑ってから、もう来ないんだと思った。


 9月のところで、指が止まった。


『今日、廊下で目合ったのにそらされた笑』


 あの日、私はリカたちと並んで廊下を歩いていた。向こうからフミヤが来るのが見えて、窓の外に目をやった。それだけのことだった。私にとっては。


『記録会、来たりする?』


 私は、何て返したんだっけ。送信BOXを開くと、1行だけ残っていた。


『無理。誰かに見られる』


 受信BOXに戻って、そのあとの1通を開く。


『だよな笑』


 この「笑」を打つまでに、フミヤはどれくらい画面を見ていたんだろう。


 私は、自分が笑われるのが怖かった。好きな人まで笑われるのが怖かった。だから教室では、フミヤを見なかった。それで2人とも守れていると思っていた。


 でも、教室で目をそらされていたのは、フミヤのほうだった。消しゴムを返しに来て、顔も上げてもらえなかったのも。


 夜には、あんなにメールをしていたのに。


 新規作成を開いた。


『中学のとき、』


 打ち始めたら止まらなかった。黒板の相合傘のこと。白い粉のこと。6月の傘のこと。廊下のこと。昼休みのこと。ごめん、を3回書いた。


 画面を何回スクロールしても、終わりが見えなくなった。23時を過ぎた。


 送信ボタンの上で、親指が止まった。


 これを送ったら、フミヤはきっと優しい返事をくれる。『そっか』とか、『気にすんな』とか。そして明日も、教室では他人のままだ。


 夜のメールの中だけで謝って、許してもらって、また隠れる。


 私は、全部消した。


 窓の外で、雨の音がしはじめた。さっきテレビで見た天気予報では、明日は1日中雨だった。



    



 3日目は、朝から雨だった。


 昇降口で、カッパを脱いでいるフミヤを見かけた。フードから雨が垂れて、前髪が濡れていた。


 おはよう、と口の中で言った。声にはならなかった。フミヤはカッパを丸めてコンビニの袋に押し込み、私に気づかないまま、階段を上がっていった。


 1時間目のあと、席を立って、窓際のほうを見て、そのままトイレに行った。


 3時間目のあと、フミヤの席へ歩きかけて、途中で引き返した。自分の机の中をのぞいて、何かを探すふりをした。


 フミヤは、1度もこっちを見なかった。


 昼休み。リカたちが机を寄せはじめる。


「ナオ、こっち」


「ちょっと待って」


 自分の声が、変に高かった。


 教室の真ん中を横切る。窓際の1番後ろまでが、こんなに遠いと思わなかった。上履きの音が、自分にだけ大きく聞こえた。


 フミヤは、パンの袋を開けようとしていた。


「フミヤ」


 声に出して名前を呼んだのは、初めてだった。


 フミヤの手が止まった。顔を上げる。まわりの話し声が、少しだけ小さくなった気がした。


「……傘、持ってる?」


「持ってない」


 フミヤは窓の外を見てから、付け足した。


「カッパある」


「……じゃあ」


 喉が詰まって、1回、息を吸い直した。


「バス停まで、一緒に帰ろ」


 フミヤは、パンの袋を持ったまま、しばらく私を見ていた。


「……おー」


 それだけだった。私はうなずいて、くるっと向きを変えて、来た道を戻った。


 リカたちの机に戻ると、リカが身を乗り出していた。


「え、なに今の。なに今の」


「……別に」


「別にじゃないでしょ。いつから?」


 リカの目が、きらきらしていた。悪気がないのは知っている。知っているのに、背中に汗がにじんだ。


 後ろのほうで、男子の誰かが「え、ナオとフミヤ?」と言うのが聞こえた。


「……6月から。メールしてた」


「6月!? なんで言わないの」


 リカの声は、半分笑っていて、半分怒っていた。


「ごめん」


「えー……」


 リカは唇をとがらせて、焼きそばパンをかじった。それから、もう半分を私の弁当箱の横に置いた。


「……あとで聞いていい?」


「……うん」


 断れなかった。リカの目はまだ笑っていて、それが少し怖かった。


 私は弁当のふたを開けた。指が冷たくて、箸がうまく持てなかった。


 5時間目のあと、私は黒板を見た。


 6時間目のあとも、見た。


 日直が書いた明日の時間割があるだけだった。それでも、見るのをやめられなかった。



    



 放課後、私はロッカーから紺色の置き傘を出した。朝さしてきたビニール傘は、傘立てに残しておいた。


 昇降口で、フミヤが待っていた。


「……行く?」


「うん」


 昇降口を出たところで、私は紺色の傘を開いた。


 フミヤは、駐輪場まで走って自転車を出してきた。朝、カッパを丸めて入れていたコンビニの袋は、かごに押し込んである。


 自転車を押すフミヤと並んで、校門まで歩いた。そこで、駅のほうへ帰るリカたちが振り返った。


「ナオ、また明日ね」


 リカは、にやっと笑って手を振った。まわりの子たちも、こっちを見ていた。私は手を上げかけて、少し止まって、それから振り返した。


 校門を出ると、フミヤは片手でハンドルを持ったまま、かごの袋に手を伸ばした。


「カッパ着る」


「……バス停まで、すぐだから」


 私は、さしていた傘をフミヤのほうへ差しかけた。言ってから、顔が熱くなった。フミヤは袋から手を離して、何も言わずに傘の下に入ってきた。


 背の高さが違うので、腕を上げていないと、傘のふちがフミヤの頭に当たる。


「低い」


「腕つる」


「俺、持とうか」


「……いい。私が持つ」


 いつもの5分の道が、長かった。


 バス停の屋根の下に入って、私は傘を閉じた。フミヤは自転車を止めた。ほかに、誰もいなかった。


 時刻表を見る。次のバスは、10分後。


「6月の傘じゃん」


 フミヤが、私の手元を見て言った。


「……うん」


「名前、書いてあったし。あれ見て、ちょっと笑った」


「なんで」


「ひらがなだった」


 お母さんの字だ。私は、傘の持ち手を手のひらで隠した。


 雨が、屋根を叩いていた。


「中学のとき」


 言い始めたら、思っていたより声が出た。


「好きな人の名前、友達にだけ言ったら、黒板に相合傘描かれて」


 フミヤは、何も言わなかった。


「その人、『マジ迷惑』って言って、消して。それから、話さなくなった。だから、学校で、好きな人と話してるとこ見られるのが、怖くて。私だけじゃなくて、相手まで笑われるのが」


 フミヤは、自転車のハンドルを見ていた。


「……そっか」


 しばらく、2人とも黙っていた。


「告られたとき」


 今度は、フミヤが言った。


「付き合ってる人いるって聞かれて。いないって返した」


 フミヤは、少しだけ笑った。


「ほんとにいないし。でも、じゃあ俺って、ナオの何なんだろって」


 私は、傘の持ち手を握った。


「メールは楽しいのに。学校だと無視されんの、きつかった」


 フミヤは、ハンドルの上で指を組み直した。


「メールやめよって送った日、消しゴム返しに行ったじゃん。顔くらい見てくれるかなって思ってた。……で、なんか、もういいかって」


 机の端に消しゴムが置かれた、小さな音を思い出した。あのとき私は、自分の顔を隠すことしか考えていなかった。


「……ごめん」


「謝ってほしいんじゃなくて」


 フミヤは、そこで止まった。言葉を探すみたいに、ブレーキを1回握った。


「3組の子には、断った」


「……リカに聞いた」


「広まんの早っ」


 フミヤは、困ったように笑った。それから、笑うのをやめた。


「で、俺は」


 フミヤが、こっちを見た。教室で、私が見なかった顔だった。


「学校でも話したい」


 バスが来た。私は乗らなかった。運転手さんが少しこっちを見て、ドアを閉めた。


「……乗んないの」


「次のにする」


 排気ガスのにおいが、雨に混ざった。


「好き」


 自分の声が、思ったより小さかった。雨の音で消えたかもしれない、と思った。


 フミヤは、私の顔を見たまま止まった。


「……え」


 それから、確かめるみたいに言った。


「まじで」


 私がうなずくと、フミヤはサドルに手を置いて、下を向いた。


「……俺も」


 耳が赤かった。


 私は何か言おうとして、何も出てこなくて、傘の留め具を、とめたり外したりした。


「明日、リカにいろいろ聞かれる」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。


「俺も、たぶん聞かれる」


「……なんて言うの」


「嘘はつかない」


「……言いふらすのは、なしね」


「しないって」


 フミヤが、やっと顔を上げた。


「でも、怖くなったら言って」


「どうやって」


「メールでいいよ」


「夜しか送れないかも」


「23時なら起きてる」


 私は、少しだけ笑った。


「記録会って、いつ」


「11月」


「見に行っていい? フェンスの外じゃなくて」


「……遅いよ、俺」


「知ってる」


「知ってんのかよ」


 フミヤが、声を出して笑った。こんなふうに笑う顔を近くで見るのは、初めてだった。


 次のバスのライトが、雨の向こうに見えた。


 バスに乗って、後ろの窓から見た。フミヤはカッパをかぶって、自転車にまたがるところだった。手を振ろうとしたときには、もう走り出していた。少し先で、片手だけが上がった。



    



 23時2分。


 枕元で、携帯が震えた。


『明日、おはようって言うから。無視すんなよ』


 私は、それを3回読んだ。


 『うん』と打ってから、少し考えて、『私から言う』に直した。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


画面の中では言えるのに、目の前にいると言えなくなる。

そんな2人の恋を、少しでも身近に感じてもらえたらうれしいです。


心に残った場面があれば、感想で教えてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。