最終章-6
大地が眠るまで優しく手を握っていてくれたからか、翌朝までぐっすり眠れた私の頭はずいぶんとすっきりしていた。
昨日、突然の事で不安に揺れ動いた心が、落ち着きを取り戻している。
私はベッドから降りてカーテンを開け、眩しい朝日を浴びながら大きく深呼吸をし、それから両手で頬をぱあんと叩いた。
一人そうやって気合を入れる。
ちゃんと気持ちを伝えようと思った。
もしこのまま空が行ってしまったら、きっと後悔するだろう。
実際に傍にいなくなるという事は、想像するよりもずっと寂しくて辛いから。
その時、もし言っていれば何か変わったかもしれないと思うのは嫌だった。
本音を言ったら、空を迷わせるかもしれない。
だけど、空が進もうとしているのは厳しい道。
私の我侭で迷うくらいの決意じゃ、進める場所じゃない。
素直に気持ちを伝えても揺らがないほどの強い意志ならば、私も本当に心から応援できるはず。
「よし!」
自分を奮い立たせるように短く声を上げ、それから部屋を出る。
一緒に住んでいると、心の準備をする時間が短いのがちょっとした難点だ。
でも、それ以上にいい事の方が多いからいいのだけど。
「おはよ」
身支度を整えて居間に行くと、そこにいたのは昨晩泊まっていった大地。
テーブルに並べられた和朝食には手をつけず、お茶を飲んでいる所だった。
「羽美らしい顔に戻ったな」
私の顔を見上げ、表情を和らげる大地。
「ありがと。大地のおかげだよ」
「どういたしまして」
湯飲みをトンっとテーブルに置いた大地の隣にすとんと座り込む。
ふわりと漂う美味しそうな朝食の香り。
「大地が用意してくれたの?」
「いや、朝宮」
私にもお茶を注ぎながら答える大地。
空がどこにいるのかと視線を彷徨わせる私に、急須を置いた大地は一枚のメモを私の前に置く。
そこには、綺麗な文字で一行書かれていた。
『レイの所へ行ってくる。学校は休む』
「え…?」
言葉の意味がわからず呆然とした私の頭を、大地はコツンと小突いた。
視線を大地に向けると、軽く眉根をよせ小さく息をついている。
「あのな、深い意味はないと思うぞ、それ。あいつらと一緒に行くって決めたわけじゃなく、ただ話しをしにいっただけだろ」
「そう…かな」
「そうだよ。だいたい、あのバカだけが迎えに来たならともかく、羽美の母さんが仕切ってんだから、いきなりいなくなったりしないさ」
「だよ…ね」
「あーもう!」
大地は苛立たしげに声をあげると、ぐしゃぐしゃっと私の髪を乱暴に撫でる。
驚いて見つめる私に、ふんっと息を吐く大地。
「ちゃんと話す機会はまだあるんだから、とりあえず飯でも食って元気だしとけ!わざわざ朝宮が早起きして朝食用意してから出てったんだからな。あいつなりに、気を使ったんだと思うけど?」
私は並べられた朝食に目を向ける。
何でもの見込みの早い空は、今や料理の腕も私を超えていた。
そして、私の好みもよく知っている。
彩りも栄養バランスも整っている、美味しそうな朝食。
そして、デザートに空が好きなプリンが添えられているあたり、メモだけ残して出て行くことに対して、勝手な事してごめんなさいといった気持ちが現れている気がする。
一人いそいそと朝食の支度をしている空の姿が思い浮かび、思わず微笑が浮かんだ。
「そうだね。せっかく用意してくれたんだから、楽しく美味しく食べなきゃね」
「そうそう」
笑顔になった私に満足げに頷くと、箸を手に取る大地。
一緒に食べようと、私を待ってくれていたのだろう。
「いただきまーす」
一口食べると、口に広がるのは優しい味。
空らしい味付けだった。
美味しい朝食をぺろりと平らげ、学校への道を二人で歩きながら、私は小さく息をついた。
「大地のほうが、空のことちゃんとわかってるよね」
「そうか?そうでもないけど」
横顔を見つめた私に、そっけなく答える大地。
「今回の事で、つくづくそう思った」
空がまだ迷ってる事とか、メモの事だってそう。
いちいち不安になってる私と対照的に、大地は空を信じて揺らがなかった。
「今は羽美が動揺してるだけだろ?朝宮がいい方向に変わってきたのは、羽美があいつを信じてきたからだ。今不安になったくらいで、落ち込むことでもないさ」
「…ありがと」
私の事を、いつだって信じてくれる大地。
誰かが信じてくれるという事は、こんなにも心強いものなのだといつも気付かせてくれる。
弱い自分もまるごと受け止めて、受け入れてくれる人がいるのは、なんて幸せなのだろう。
「私も、もっと強くなれるように頑張る!」
「いや、それ以上強くならんでええやろ」
どんな時も揺らがない強い気持ちを持ちたいと思って宣言した私に、上から降ってきたのは呆れたような声。
とたんに、大地が思いっきり顔をしかめる。
「可愛い顔でそんな表情したらあかーん」
「だったら俺の前に顔を出すな」
目の前にふわりと降り立ったレイに、冷たい笑みを向ける大地。
レイは拗ねたように口を尖らせる。
「じゃあ、会いたいときはどうしたらええねん…って、まぁ、そんな冷たいところも好きやからええのやけど」
「用はなんだ?」
後半は人懐っこい笑みを浮かべたレイに、大地は相変わらず冷めた口調で尋ねる。
レイも大地を女の子扱いしなければ、もうちょっとちゃんと友達扱いしてもらえるのだが、今のやり取りが楽しいのだろう。
口元に笑みを浮かべながら、大地を見つめている。
「レイ。空は?朝早く会いに行ったでしょ?」
「ん?あー。そうそう、その話や。思わず見惚れてしも…ぐほっ!」
最後は大地が振り下ろした鞄で一撃を受け、しゃがみこむレイ。
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのだろうか。
「だから、用は?」
小さくなったレイを黒いオーラをまとって苛立たしげに見下ろす大地。
レイは恐る恐る見上げながら、おずおずと答える。
「えーと、一週間ほど空を預かることになったという報告をやな」
「え?」
「こっちでちょっと仕事があってな。手伝ってもらう事にしたんや。もちろん、セイラも承諾済みやで」
突然の事に言葉も出なく固まっていると、レイはゆっくりと立ち上がった。
大地は私を気遣うように見つめている。
「ま、何とかさんの結婚式には戻る予定や。それまで学校は休むからよろしく言うといてや」
「あ…うん」
それはどういう経緯で、どんな意味があるのか、まるで大した事ではないように話すレイに、聞くことはできなかった。
ただ、頷くしか出来ないでいた。
「じゃ、俺も合流せなあかんから。またな、ハニー」
不意打ちで頬にキスしようとしたレイは、あっさりと大地に反撃をくらい、残念そうな顔を浮かべつつ姿を消した。
「帰ってくるんだから、大丈夫だろ?」
きゅっと唇をかんだ私を、慰めるような優しい大地の声。
「うん」
大和さんの結婚式には参加するつもりなのだろう。
だから、ちゃんと会って話せる機会はある。
だけど……。
「明日とか今度とか…、大切な事は先延ばししちゃダメだね」
「羽美…」
気持ちを伝えるのに、タイミングも大切な事だと思った。
同じ言葉や同じ気持ちでも、遅すぎる事もある。
でも…。
「怪我しないで無事に帰ってきてくれるように、お祈りしとかなきゃね」
結果がどうなろうと、一番大事なのは大切な人の幸せ。
だから今は、自分の抱える不安よりも、空の無事を祈りたかった。