第10章-3
二人が去って少しすると、病室の時計を見上げた父様は置いてあった鞄を手に取った。
そして、大地の傍に座って話をしている私達を見つめた。
「それじゃ、僕もこっちでやらなきゃいけない仕事があるからそろそろ行くね。何かあったら、僕の携帯に連絡して」
「はい」
短く返事をした私の横で、空がぺこりと頭を下げる。
「…事後処理、お願いします」
「任せておいて」
父様は柔らかく目を細めて空を見ると、そのまま踵を返して病室を出て行った。
今回の事件を極秘裏に収めるべく、日本で奔走するのだろう。
普段は無理をしているような明るさで接してくる父様だが、立ち去る時の横顔は毅然としていて、これが本来の父様なのだと少しドキッとした。
「朝宮も、ずいぶんとまともな事言えるようになったよな」
呟くように言った大地の声に、父様に向けられていた意識が二人の方へと戻る。
大地の言葉に、小首を傾げる空。
「…微妙に、失礼?」
「いや、結構失礼じゃない?」
「なんだよ、褒めてやったのに」
思わぬ反撃だったのか、私達の言葉に少々不服そうな大地。
だが、次の瞬間には互いに微笑みあう。
それを、空が不思議そうに見つめている。
「よかったよね、笑えるようになったし」
「だな。いい方に変われてる気がする」
空の変化が私も大地も嬉しかった。
その気持ちをわかってくれたのか、空はなんだか納得したようにこくりと頷いている。
穏やかな微笑が病室に満ちる中、廊下の方からこつこつとヒールの音がだんだんと近づいてきた。
大地の笑顔が瞬時に消え去り、瞳には怯えが現れる。
そんな大地に、空が怪訝そうに首を傾げた。
足音が大地の病室の前で止まると、ノックもせずに扉が開く。
ふわりと香水の匂いが運ばれてきた。
「お母…さん…」
立っていたのは高いヒールに短いスカートをはいたスタイルの良い美女。
大地の母親だった。
彼女の浮かべる表情を、空は理解できないというように数度目を瞬いた。
長いまつげでふちどられた大きな綺麗な目は、凍るように冷たい視線を大地に向けている。
どうみても、怪我をした我が子を心配するような表情ではなかった。
「何やってんのよ、ホント、使えない子ねっ」
吐き捨てるような言葉に、布団の上で握り締めている大地の拳が僅かに震える。
「何?私への嫌がらせ?あんたに何かがあると、私があの人に怒られるの知ってるでしょう!」
思いやりのかけらもない、身勝手な言葉。
私は震える大地の手を、そっと握り締めた。
大地の敵に向かう勇敢な心も、どんな穏やかな気持ちも、この人の前では打ち砕かれる。
「ごめん…なさい…」
ぎゅっと唇をかみ締め、震える声で答えた大地に返されたのは、憎しみにも似た冷たくも熱くもある視線。
大地の怪我の心配は、かけらもしてないようだった。
「ホント、ダメな子。あんたなんか、産まなければよかった」
「そんな事はない」
大地の母親の胸の痛くなるような言葉に、即座に言い返したのは空だった。
彼女も、大地も驚いたように空を見つめている。
「な…誰よ、あんた」
見覚えのない体格のいい少年に厳しい視線を向けられ、少し怯んだような彼女。
私ですら空の凛とした声に驚いたのだ。
珍しく怒ったような表情を浮かべる空を、皆呆然としたように見つめた。
「…俺やレイは、出会って救われた。存在しなかったほうがいいなど、決してない」
空は質問には答えず、大地によく似た彼女を真っ直ぐに見つめながらそう言った。
怒っているようで、でも、瞳の奥には大地を想う優しさが宿っている。
「…大切な…友人だ。ダメなんかじゃ、ない。良い所を、貴方が知らないだけ」
「朝宮…」
空を呼ぶ大地の声は、少し震えていた。
でもそれは母親への恐怖からではなく、空の言葉の驚きと嬉しさから…。
「あんた、私へ説教する気?大地は私の子よ?親が子供をどうしようと、他人に言われる筋合いないわよっ」
「…子供と親は別の人間だ。親の持ち物ではない」
「なっ…」
淡々とした口調だが意志の強い言葉に、ただ短く声をあげた母親。
ぎゅっとルージュの塗られた唇をかみ締めると、何か言い返してやろうと空を睨んでいる。
だが、その表情は次の瞬間に戸惑いに変わる。
空が穏やかな笑みをふわりと浮かべていた。
「…だが、親がいなくては存在しない。だから、貴方がどう想おうと…大地を産んでくれた貴方に、俺は感謝する」
「………」
驚いて空を見つめていた彼女は、しばらくすると足もとに視線を落とした。
唇をかみ締めているものの、それは怒りからくるものではなくなっている様だ。
空の言葉で自分が感じた事を、戸惑いながら理解しようとしているようだった。
「大地を産んで、感謝されたのなんて…はじめてよ…」
力なく漏れた声に、大地は悲しげに自分の母親を見つめた。
自分に向けられる心ない言葉も、容赦のない暴力も、大地は自分を責めつつも、満たされない母の心からくるものだと気づいている。
だからこそ力で敵うようになった今も、ただされるがままでその痛みに堪えているのだ。
母自身も傷ついているからと……。
「俺は…ずっと感謝してるよ」
「…バカじゃないのっ!?」
精一杯の勇気を振り絞って言った大地の言葉に、うつむいたままの彼女はそう言い捨てる。
そして、そのまま長い髪で表情を隠したまま身を翻して病室を出て行った。
まるで泣きそうになった表情を隠すかのように……。
大地は見えなくなった母親の背中をまだ見つめているかのように前方を見つめたまま、私の肩にそっともたれ掛かってきた。
形のいい唇から、ため息が零れ落ちる。
「お母さんも、変われるよ、きっと」
「うん」
大地は短く返事をするとそっと瞳を閉じ、それから姿勢を戻すとベッドサイドに立っている空を見上げた。
「サンキュ、朝宮」
「…思った事を言っただけだ」
「それでも、嬉しかった」
辛い時に支えあえる友人。
誰にも心を開こうとしなかった大地に、そんな大切な人が増え始めた事が、すごく嬉しかった。