第10章-1
――― なかないで。ぼくがそばにいてあげるから
幼くも優しい声が聞こえる。
――― ほんとに?
涙声の少女が、そう尋ねている。
――― うん。ずっといっしょにいてあげる。だからなかないで
そう言って優しく少女の髪を撫でる小さな手。透き通るような綺麗なとび色の瞳。
遠い昔、どこかで見た光景………。
「あれ、起こしちゃったかな」
髪を撫でられる心地よい感覚に、私の意識は引き戻された。
ぼんやりとした視界に、スーツに身を包んだ人の身体と清潔感のある白い壁が目に入る。
もたれ掛かっていたらしい逞しい肩が、ぴくりと動いた。
「あれ…私、寝ちゃってたんだ」
ゆっくりと、思考回路が現実を捉えていく。
そう、今は病院にいるのだった。
エキドナやその部下の連行は母達の部下達に任せ、父様と共におじい様の知人の病院に大地を運び込んだのだ。
私や空も多少の怪我をしていたので処置をしてもらったのだが、大地の治療を待っている間に、どうやら眠ってしまったらしい。
「そりゃ眠りもするさ。あんな事に巻き込まれて、身体も心もくたくただろう」
そう言って気遣うように微笑んだのは、いつのまにかスーツ姿に着替えた父様。
先ほど髪を撫でていたのも父の手だろう。
横を見ると、透き通るようなとび色の綺麗な瞳が私を見つめていた。
「空…」
どうやら、空の肩にもたれ掛かって寝ていたらしい。
覗きこむその瞳に、何故かデジャヴのような感覚を覚える。
「…平気、か?」
「うん。私は大丈夫。空は?」
休んだ様子が見られない空に尋ねると、空は静かにこくりと頷いた。
「…慣れている」
その答えに、胸がちくりと痛んだ。
あんな事を、空は小さな頃から何度も体験してきたのだ。
私がただ、両親と放れて暮すのが寂しいと嘆いている時に…。
「大地くんも眠っていたけど、ついさっき目を覚ましたよ」
押し黙った私を励ますような、父の報告。
思わず、ぱっと顔が輝く。
「ほんと!?」
「羽美ちゃんも病室に行く?」
「もちろん!」
そう言って椅子から勢いよく立ち上がると、一瞬くらっとしてよろめく。
と、すぐさま支えてくれる腕。
「…大丈夫か?」
「ありがと。ただの立ちくらみだよ」
気遣うような空を、父様は何らや妙に嬉しそうに見つめていた。
「羽美!」
病室に入ると、思ったよりも元気そうな大地が笑顔でベッドに横になっていた。
「大地、具合はどう?」
「骨折自体はたいした事じゃないし、内臓損傷もなかったから問題ないってさ。ま、念のために今日は泊まってけって言われたけど」
めんどくさそうに小さくため息をつきつつも、穏やかな微笑を浮かべる大地。
ベッドサイドの椅子に座った私の顔に、そっと腕を伸ばす。
「傷、残んなきゃいいけど」
多少あった傷を、心配げに見つめる大地。
「みんなに比べたら、こんなの傷のうちに入らないよ」
「俺達は男。羽美は女の子だろーが」
呆れたようなそう言った大地は、ふと怪訝そうな顔になる。
そして、私達が入ってきた入り口を見つめて首をかしげた。
「あれ、あいつは?」
当然、私達の後に続いてレイが入ってくると思っていたのだろう。
現われない事を不思議に思ってか、きょとんとした顔で私を見つめる。
「お母さんと別行動中だよ。後でくるんじゃないかな」
監禁されていた場所から移動する時から、レイだけは別の車だった。
それから、二人の姿を見ていない。
「ふーん」
大地が気の抜けたような返事をした時、病室の入り口付近に立っていた空の視線がふと動いた。
父様の口元に、僅かな微笑が浮かぶ。
「ふふふふふふふ」
廊下から聞こえてくる不気味な笑い声。
そして、勢いよく病室の扉が横に開く。
「俺がおらへんと寂しいとは…。ようやっと俺の愛に応えてっ…うぶっ」
満面の笑みで表れた金髪の美青年は、ベッドに横になる愛しい人に駆け寄ろうとした次の瞬間、踏み出した足を見事に払われ床に突っ伏した。
美しい金色の髪が、さらりと床に流れ落ちる。
「セ…セイラ…」
「相手はけが人でしょ、騒ぐんじゃないの」
足を払った人物を恨みがましく睨んだレイの視線の先には、ベージュのスーツに着替えた母の姿。
笑顔で床に突っ伏したレイを見下ろしている。
「あと、時間は厳守。ふざけてる間にも減ってくわよ?」
「…わかっとる」
呟くように答え、ゆっくりと立ち上がったレイは青い瞳を僅かに伏せていた。
切なげな光が水紋のように広がっていく。
「レイ、時間って…」
「お別れまでの時間や」
なんでもない事のように言ったものの、レイの笑顔は無理しているように見えた。
寂しそうな、悲しそうな笑顔。
説明を求めるような三対の視線を受けて、母は小さく肩をすくめた。
「どんな理由があっても、法を犯したらそれなりのけじめをつけなきゃいけないの。この子の場合、不法入国もろもろ、フォローしきれないものがたくさんあるのよ」
「でも…」
言い返そうとして、私はそのまま言葉を飲み込んだ。
どんな感情論を言ったところで、覆されるものではないだろう。
今は母としての顔ではなく、誇りを持って仕事をしている人間の表情。
凛とした揺ぎ無い瞳には、何を言っても仕方がない気がした。
「ええねん。ここに連れてくるだけのわがまま聞いてくれただけで十分や」
深刻な空気を払拭するかのように、明るい声を出すレイ。
ふざけて病室に入ってきたのも、寂しさを隠すためだったのかもしれない。
大切そうに空を見つめたレイの優しげな青い瞳は、悲しいほど美しかった……。