第9章-2
「やだ」
少しの静寂の後、ようやく言えた言葉は何の捻りも飾り気もない一言だった。
体を少し離し、空の顔をじっと見つめる。
「命なんて懸けちゃだめ。絶対、駄目なんだからね」
私の言葉に、困ったように僅かに眉根を寄せる空。
空は私のためを思って言っている。
それはわかっている。
だけど、空が無事じゃなければ、自分だけ助かったって嬉しくもなんともない。
空にも幸せになってほしい。
その想いを伝えたくてじっと空の瞳を見つめる私に、空は静かに首を振った。
「…助けるには、そうしなければ無理だ。終わらせるには…この手を再び血に染めるしか、ない」
「血に…染める?」
言葉を繰り返した私に、目を伏せる空。
「マスターを…。そうしなければ、終わらない」
言葉を濁した空だが、それは、あの人を手にかけるという意味なのだろう。
組織が壊滅した今、私を狙うように指示を出しているのは彼女自身。
彼女が生きている限り、復讐のために命を狙われるかもしれない。
空は、命がけでそれをも終わらせようと考えているのだろう。
「じゃあ、逃げない」
「……」
子供のように駄々をこねているだけとわかってはいるが、このままだと空は、マスターの下へ去っていった時のように、本当に再び二度と会えない場所へ行ってしまいそうだった。
そう思ったとき、ふと気づく。
「また気を失わすのは無しだからね!」
先手をとってそう言うと、いつのまにか振り上げていた手を静かに下ろす空。
危なかったと内心冷や汗をたらしつつ、素直に言うことを聞いてくれた事にほっとする。
まだ、ためらいはあるらしい。
このまま強引に押していれば、無理に自分の考えを通そうとはしなさそうだった。
「ねぇ、空。二人とも無事に逃げ出す方法を考えようよ。また追われるかもしれないけど、そうしたらきっと、父様やお母さんが助けてくれる。まだ、諦めるのは早いよ」
「……」
私の言葉に、空はただ静かに瞳を閉じただけだった。
子供のころから刻み込まれた心の傷は、そう簡単に前向きに考える事などさせてくれないのだろうか。
それとも、私が何もわかっていないのか…。
「空…」
「わがまま娘相手は大変やな。オレが変わりに話したろか?」
「え?」
呆れたような声とともに、上からふわりと何かが降りてくる。
空は自分の横に降り立ったレイを静かに見上げた。
「…忘れ物?」
忘れ物ってこれの事ですかと言いたげな空の視線を受け、レイはニヤリと笑う。
私がいると空に伝えるのは裏切り行為だからと、ついてくれた優しい嘘。
「ありがと、レイ」
「何がや」
お礼を言う私に、とぼけた顔をする。
そして空を大事そうに見つめると、真剣な眼差しを私に向けた。
「ソラ困らせてどないすんねん」
「だって、命懸けるとか言うからっ」
言い返す私をじっと見つめてから、小さくため息をつくレイ。
「そんなにこないな女が大切か、ソラ…」
ため息のような言葉に、空は小さく頷いた。
レイは一度ぎゅっと目を閉じ、そして再び私を見つめる。
「誰かを連れて逃げるのは、簡単なことやない。命を懸けても無理な事もあるんや」
そう言う瞳の奥には悲しみが見えた。
そして、レイの言葉に項垂れる空。
二人の過去に何かあったと思いつくのは、容易な事だった。
「昔…何かあったの?」
「マスターが空に言った言葉、お前にわかったか?」
「え?いや、全然」
尋ねた私に、答えではなく質問をしてきたレイに、戸惑いながら答える。
あの時聞こえたのは、知らない異国の言葉。
あの後から空の様子がおかしくなったのは確かなので、何か関係あるのだろう。
「ロシア語で『あの子を忘れたの?』」
淡々と述べたレイの言葉に、空はびくっと肩を震わせた。
そんな空を少し悲しげな瞳で見つめるレイ。
「あの子?」
「昔な、同じ組織の仲間におったんや。オレ等よりだいぶ年上の、ロシア人の姉さんがな」
きゅっと唇をかみ締めた空の手を、私はそっと握った。
レイが語ろうとしているのは、きっと悲しい過去。
感情を殺してしまった空に刻まれた、大きな傷の一つ…。
辛い過去に飲み込まれてしまわないように、手をつないで心を繋ぎとめておきたかった。
「その人は俺らよりもずっと優秀で、強い人やった。組織の訓練で潰れそうになる子供らを、励ましてくれるような人やった」
感情を殺したような、レイの声。
空は冷たい手で、私の手をそっと握り締める。
「簡単に死ぬような人や無かった。どんな危険な仕事も、容易にやり遂げる人やった。せやけど、あっさり殺されたんや。ソラとオレを逃がそうとして…」
「え…」
絶句した私に、冷めた笑みを浮かべるレイ。
目を僅かに細め、唇の端を上げ笑っている顔を作っているのに、それは泣いているかのようにも見えた。
「オレもソラも、この仕事には向いてないって言ってな…。組織の手の届かない所まで逃がそうとして、それで…」
「…目の前で、殺された」
言葉を飲み込んだレイの代わりに、静かな声で空が続けた。
そして、顔を上げ私を見つめる。
悲しみの中にも、凛とした光を湛えた瞳。
「…あの人の方が、強かった。それでも…駄目だった。だから…」
「だから、命を懸けるって言うの?」
「………」
静かに頷く空。
決意したようなまっすぐな眼差し。
昔自分を助けようとしてくれた人のように、私を助けるつもりなのだろう。
「組織は壊滅し、今はあの時よりも危険は少ないかもしれん。せやけど、お前を連れて逃げるんは、やっぱり危険や。それをわかった上で、お前はどうするんや?」
空のことを大切に思っているレイの問いは、真剣な眼差しと共に私に向けられた。
私の思う以上に悲しく、辛い過去を背負った二人。
まだ私が知らない事も沢山あるのだろう。
冷たい部屋の中で、空の手を握りながら、私はぎゅっと唇をかみ締めた。