第8章-3
ひんやりとした肌の感触に、徐々に意識が戻り始める。
頭がぼぅっとして、すぐには今の状況を理解できなかった。
ゆっくりと記憶の糸をたどりつつ、今の状況を確認する。
記憶の最後は、私を羽交い絞めにして何かをかがせた男の姿。
そして、現在。
視界は何か布のようなもので閉ざされている。
上半身はどこかにくくりつけられているのか、身をよじる事もできない。
足は踝と膝の辺りで縛られているようだ。
幸い、拘束されている以外は体に痛みはない。
両足を少し持ち上げ、床を鳴らす。
反響する音。
この肌から伝わる冷たさやこの音の響きからすると、コンクリートで作られた広い空間のようだ。
おそらく、どこか廃墟となったビルや倉庫の類だろう。
周りに人の気配はない。
口が塞がれていないという事は、声を出しても無駄な場所という事に違いない。
私は、小さくため息をついた。
まさか誘拐されるとは思いもしなかった。
家族や身辺の人の職業を考えると、逆恨みされる可能性がある人ばかり。
武術を習ったのは身を守る意味もあった。
あっさり連れ去られては、おじい様に怒られそうだ。
どうしたものかと考えあぐねていた時、ふわっと風が流れ込んできた。
運ばれてくる、香水の匂い。
そして、ヒールの音があたりに響く。
この空間の扉を開け、数人が入ってきたようだった。
つい最近嗅いだ気がする香水の香り。
そして、足音。
すぐ傍に、それらはやってきた。
「空を連れて行ったのに、まだ何か私に用があるんですか?」
私の言葉に、彼女はふっと笑ったようだった。
「思ったよりも賢いのね」
その声と共に何か合図をしたのか、他の人間が私の元に歩み寄り目隠しをとった。
一瞬眩しさでよく見えなかったが、徐々に目がなれると腕を組み、楽しげに私を見つめている空のマスターの姿が見えた。
「それに、意外と冷静じゃない。あの子が私を選んだ時みたいに、取り乱すと思っていたけど」
「空はどこですか。会わせてください」
「あら、強気な子ね。あなたの命、私が握ってるとわかってるのかしら?」
挑むように見つめた私を、彼女は嘲笑う。
彼女の脇に控えている冷たい瞳をした青年が二人、静かに私に銃口を向けた。
私を連れ去った人物とは違うという事は、彼女の手駒はレイだけでなく他にも沢山いたということか…。
「私を殺して、何の意味があるんですか?」
怯む事無く問うと、彼女はおかしそうに笑い始める。
そして、きっと私を睨んだ。
「そのふてぶてしさ…あの忌々しい女とそっくりね」
「………」
なるほど、と一人心の中で納得する。
ふてぶてしくて忌々しい女で母を思い浮かべるのはどうかと思うが、どうやら組織をつぶした両親への復讐らしい。
「私の狙いは最初からあなたの方。その為に日本へ来たのよ。たまたま空も日本にいるらしいと情報が入ったから、ついでにレイに探らせていたの。ついでの方が先に見つかった上に、本命のおまけまでついてきてラッキーだったわ」
「ついでなら、空を返してください」
「あら。これから死ぬ子が何を言ってるのかしら。いなくなる子に返してどうするの」
「だったら…」
嘲笑う彼女を、私はまっすぐに見つめた。
私たちのためを思って去っていった空の最後の笑顔を思い出す。
「せめて空を自由にして。空のおかげで目的が達せられるんでしょう。だったら、目的を達する代わりに、空だけでも開放して」
この人の下にいたら、きっと空はまた笑えなくなる。
ようやく感情を出せるようになってきたのに、また心を閉ざしてしまう。
空なら私だけじゃない、きっと他の人だって幸せにできはずだから、せめて空だけでも助かって欲しかった。
だけど、彼女は私の言葉に冷たい笑みを浮かべるだけだった。
「本当におかしな子ね。私になんのメリットもない話、受けるわけがないじゃない。あなたはあなたの両親への見せつけのために殺され、空はそれを知らずに私の下で働くの。世の中、あなたが思ってるほど甘くないのよ」
くすくすと笑うと、彼女はすっと片手を上げた。
何かの合図に違いなく、引き金を惹かれると思った私は静かに目を閉じる。
「……?」
しかし、しばらく経っても銃声は鳴らなかった。
ゆっくりと目を開けると、小さく笑みを浮かべた彼女と目が合う。
青年達は銃を下ろしていた。
「ずいぶんと潔い子ね。普通は命乞いするなり、パニックに陥るものよ。でもまだ殺さないわ。その時がくるまで、死の恐怖に怯える事ね」
そう言うと踵を返し、ヒールの音を響かせながら去っていく彼女。
お供の青年と共に部屋から出て行き部屋の扉が閉まると、私は深く長く息を吐いた。
今頃になって、体中が震えてくる。
心臓がうるさく感じるほど脈打っている。
「平気なわけ、ないじゃない…」
全身から吹き出る冷や汗を感じながら、思わず呟く。
肌で感じた命の危険。
撃たれなくてよかったと、心底ほっとした。
時間があるなら、助かる可能性はある。
連れ去られる所を大地が目撃しているのだ。
私はもう一度冷静になろうと、深呼吸を繰り返した。
そして、ようやく落ち着きを取り戻し始めた時だった。
「なんでこんなとこにおんねん」
「!?」
何の音も気配もなく、突然ふってきた声に驚いて顔を上げると、括り付けられた柱に思いっきり後頭部をぶつける。
「アホか?」
「びっくりしたのよっ!」
痛みで涙目になりつつも、高く積み上げられた荷物の上にいるレイに言い返す。
呆れた眼差しのレイ。
たとえ彼女の部下だとしても、知っている顔に会えて私は少しほっとしたのだった。