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君のツバサ  作者: 水無月
第八章
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第8章-2

 見えないドアの向こうで、ベッドのきしむ音がした。

 どうやらレイが座ったらしい。

「俺は覚えとらんな。それが、あの女に関係しとるんか?」

「羽美に出会うまで、俺は必要のない存在だったんだ」

 興味深げなレイに、大地は穏やかな声で話し始めた。

「俺、両親に愛されてないからな。祖父や祖母もほとんどあった事ないし。ただ、世間体のために死なない程度に面倒みてもらっただけ。おかげでガキの頃は感情が乏しいし、泣きはしないもののいつも薄ら笑い浮かべてる気味の悪い子供だったらしい。それに加え、保育園では女みたいな顔だって苛められるし、扱いづらい子供と親で保育士にも嫌がられてた」

「ハニー、そこは笑顔でさらっと言う事じゃないで?」

「別にたいした事じゃない。よくある事だろ?」

 あっさりと突っ込みをかわされ、レイは大人しく口を閉じたようだった。

 深い心の傷を大した事じゃないと言い切る大地の気持ちを思って、私はぎゅっと膝を抱きしめた。

 世間でよくある事だとしても、本人にとっては大きな出来事だ。

 今だって、ずっとその傷を抱えて生きているのに…。

「同情してくれる人間もたまにはいた。羽美と出会ってからは、この道場に来るようになって、優しくしてくれる人も沢山いたしな。だけど、それでも俺は抜け殻のようだった。いじめっ子から必死に守ってくれる羽美も、俺一人残して帰りたくないと駄々をこねてくれた羽美も、きっと救いにはなっていたけど、でも、やっぱり心は動いてなかった」

 幼い頃の大地が脳裏に蘇る。

 女の子のような可愛い顔で、小さくて華奢で、おとなしい子だった。

 いつも部屋の片隅で、虚ろに笑っている子だった。

 今にも壊れそうな大地を、私は放っておけなかった。

 それは別に、正義感とかそんな大したものじゃない。

 きっと、自分と大地を重ねてみていたから。

 強がっている自分の中に、大地と同じような自分がいたから……。

「何か、あったんか?」

 促すように、レイが静かに問う。

「羽美がさ、泣いてたんだ。たった一人で、自分を優しく見守ってくれる人たちから隠れて」

「そりゃ、あんなんでも泣くやろ。子供やし」

「そう。きっとよくある普通の出来事なんだろうな。だけど、あの時の事は俺にとっては特別だった」

 大地の言葉に、私は記憶の糸を辿った。

 両親から離れ、一人日本に戻ってきた私は隠れて泣く事はよくあった。

 良い子じゃないから一緒に居られないと思っていた私は、大人の前では良い子であろうとしていたから。

 泣いている所をはじめて大地に見つかったのは、いつだったろう…。

「いつもと違う羽美を見ても、どうしていいかなんてわからなかった。ただ、羽美がいつもしてくれているように、そっと手をとってずっと隣に座ってただけだった」

 静かだけど、とても優しい大地の声。

 過去の私と大地を見つめているのだろうか。

「そしたらさ、羽美が笑ってくれたんだ。とびきりの笑顔で。俺が傍にいてくれたから、悲しいのがどっかに行っちゃったとか言ってさ」

「それが、嬉しかったんか?」

「ああ。初めて人のために何かできたんだ。俺がいただけで、喜んでくれる人がいたんだ。与えられるだけじゃない、自分も何かできるんだと、初めて知ったんだ。嬉しかった。初めてそう思った。何も感じなかった心に、闇の中にいた俺に、初めて光が差し込んだんだ」

 穏やかな大地の声の後、しばらく静寂が漂った。

 小さな吐息がそれを破り、レイが呟くような声を出す。

「だから、守りたいんか。あの女も、昔の自分に似たソラも」

「理由にならないか?」

「アホやなぁ、ハニーは」

 そう言いつつも、レイの声はいつになく穏やかで優しかった。

「アホにアホと言われたくねーな」

「だって、アホやん。自分の幸せは考えんのか?」

「羽美が笑顔なら、俺は幸せだ」

 じわりと、涙が込み上げてきた。

 いつだって、私の事を一番に考えてくれる大地。

 幼い頃の小さな出来事が、そんな想いを生んでいたとは知らなかった。

「…ハニー!!」

「抱きつくなっ!!」

 擦り寄ってきたらしいレイに、反撃しているらしい大地。

 大地のひたむきな心は、レイに何かを与えてくれるだろうか。

 じゃれつく二人の声を聞きながら、私はレイの心にも光が差し込む事を祈りつつ、部屋に戻ったのだった。

 



 翌朝、気合を入れるために私はジョギングに出かけていた。

 大地の優しさに包まれた気がして、昨日はあの後よく眠れたからだ。

 去っていった空も、迷っているレイも、なんとかして助けたかった。

 その為に気合を入れるべく早起きをして、町内を走って汗を流した。

 家の門の前まで戻ってきた所で、今起きたらしい大地が部屋の窓からこちらを見ているのに気づく。

「おはよ!」

「…元気だな、羽美」

 レイがいつまでいたのか、寝不足らしい大地は窓を開け、あくびをしながらそう答えた。

「気合入れてきた!」

「体育会系だよな、ほんと…」

 呆れつつも優しく笑う大地に笑顔を返した時、大地の視線が私の背後に移ったのがわかった。

 何かと思って振り向く。

「羽美っ!!」

 叫ぶような大地の声。

 音もなく背後に止まった車から、見知らぬ男が降りてくるのが視界に入った。

 私に向かってくるその男の嫌な雰囲気に反射的に逃げようとしたが、既に遅かった。

 手を捕まれ、乱暴に引き寄せられる。

「羽美ぃっ!!」

 無理矢理口元にハンカチをあてられた私は、薄れ行く意識の中で大地の悲痛な叫び声を聞いたのだった。


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