第8章-1
カップをテーブルに置くと、静まり返った室内にコトンと音が響いた。
時は深夜。
眠る事ができなくて飲んだホットミルクも、高ぶった神経を落ち着かせてはくれないようだ。
あの後、気づいたら自分のベッドで横になっていた。
空が家の敷地の中まで運んでくれたのか、そこで先に気づいた大地が私をベッドで休ませてくれたのだ。
私が気がついたときには、既に大地はおじい様や大和さんに報告し、空とマスターと呼ばれた女性の行方を追ってもらうよう頼んでくれていたが、依然としてその行方はわかっていない。
そして、頼みの綱の両親は一向に連絡が取れないでいた。
仕事柄そんな事はしょっちゅうあるのだが、何もこんな時にまでと恨み言をいいたくなる。
「空の…バカ」
思わずそう独り言をいって机に突っ伏す。
周りに迷惑かけないためにあんな人の下に戻ろうなんて、優しさの使い方を間違ってる。
そんなの、ちっとも嬉しくなんてないのに。
空の笑顔を最初で最後になんて絶対にしたくない。
国外に出る前に、絶対に居所を突き止めて連れ戻してやる。
とは思うものの、どうしていいのか正直わからなかった。
きっと、ただの女子高生でどうにかできる問題ではない…。
「戻ってきなさいよ…バカ……」
自分の言葉が、むなしく響く。
今できることは、とりあえず眠って英気を養う事しかないとわかっていた。
ちゃんと休んで、明日からどうするべきか考える方が、今悶々と考えるよりずっといい。
だけど、やっぱり眠れないのだ。
目を閉じると、空と過ごした時間が思い浮かぶ。
それが、苦しかった。
「……あーーー、もうっ!!」
じっとしていてもしょうがないと悟り、一人唸るとパジャマのまま道場へ向かおうと居間を出た。
と、一瞬、視界の端に月に輝く金髪が目に入る。
「!?」
驚いて見上げると、ふわりとなびいた金髪が窓の中に消えていった。
あれはおそらくレイ。
そして、入っていったのは大地が寝ている部屋…。
私は足音を立てないように気をつけながら、二階へ急いだ。
部屋の前まで行くと、中から聞こえてきたのはゴンッという何かがぶつかる音。
「いきなりご挨拶やな、ハニー」
大地に何か投げられてよけたらしいレイの声が部屋から漏れてきた。
「まだ俺たちに何か用があるのか?」
「いや、ただ少しハニーと話がしたかっただけや」
敵意むき出しの大地の声に、レイは静かに答えた。
その声に、すぐにドアを開けて空がどこにいるのか問い詰めたい衝動をぐっとこらえる。
レイがふざけてやってきたような気がしなかった。
表情は見えないが、声の雰囲気がいつもと違う。
何かを求めてこんな夜中にやってきたなら、それを今止めるべきではないと思った。
「何の話だよ」
大地もそれを感じ取ったのか、適当にあしらわずに話を聞くつもりのようだ。
ドアの向こうから聞こえた衣擦れの音は、きっとちゃんと話をするべく座りなおした時のものだろう。
こっそり話を聞くのはずるい気もしたが、私はそのままドアの横にひざを抱えて座り込んだ。
「なんであないに必死にソラをとめたんか、ようわからんくてな」
「その疑問が俺にはよくわからんが」
即答する大地に、レイは苦笑したようだった。
「行くべきじゃないと思ったから止めた。ただ、それだけの事だろ?」
「せやけど、ソラがおらへんほうがハニーには都合ええはずやろ?」
「は?」
大地の疑問の声と共に、私も首をかしげる。
いまいち、レイの質問がよくわからない。
「あの女を守りたいんやったら、闇の世界におった人間がそばにいない方がええはずや。俺らみたいな人間に関わることなく、今まで通りの生活が送れる。その方がええやろ?元にもどるだけや」
「あのな…」
「それに、あの女が大切なんやろ?ソラがいたら、ソラにとられるかもしれへん。いない方が独占できると違うか?自分だけを見て欲しいとは思わんのか?」
「やっぱアホだな、お前」
心底呆れたような大地の声。
「なんでや?大切なもん自分のものにするためやったら、何でもするもんやろ?」
「そんな人間も山ほどいるだろうな」
はーっと深くため息をついている大地の言葉の続きを、レイは待っているようだった。
大地は言葉を選んでいるのか、少しの間静寂が流れる。
「自分の物にするとか、誰かにとられるとか、そんな事はどうでもいいんだよ」
穏やかな、大地の声。
「だいたい、俺しか見てない羽美なんて、羽美じゃねーし。誰のためでも必死になるのが、羽美なんだ。俺のためにも、朝宮のためにも…お前のためにでも、な」
「別に、俺は頼んでへんっ」
むっとしたようなレイに、大地はクスっと笑ったようだった。
「悪い気はしなかったくせに」
「そんなことあらへんっ」
「ま、いいけどな」
ムキになるレイをさらっとながし、大地は言葉を続ける。
「大切な人が安心して自由に羽ばたける場所を守る。それが、俺の生き方だ。羽美が朝宮を守りたいんなら、危険が伴おうがそれを支えるさ。たとえ、自分が一番じゃなかったとしても…。泣き顔じゃなく、笑顔が見たいからな」
「……ほんまに、そんだけでええんか?男やろ、自分」
「へー、男だとちゃんとわかってたんだな」
からかうような大地の声に、レイが不服そうに唸る。
「お前さ、自分が生まれた瞬間って覚えてるか?」
「は?」
突然の大地の質問に、真の抜けた返事をするレイ。
「俺は、覚えてる」
愛しむような、大地の声。
「自分の心が生まれた瞬間を、な」