第7章-15
「ふざけんじゃねーぞ、朝宮」
レイに殴られた腹部が痛むのか、顔をゆがめながら絞り出すような声で大地はそう言った。
私に支えられるようにして体を起こしながら、大地は睨むように空の背中を見つめている。
「羽美を泣かしといて、逃げるんじゃねー」
大地の言葉に空の歩調が緩まり、車の少し手前でその足を止めた。
でも、振り向きはしなかった。
「自分のもとへくれば、羽美には手を出さないとでも言われたか?奴のいうことを聞く事で、守れるとでも思ってんのか」
空はなんのリアクションもせず、ただ静かに背中で言葉を受け止めていた。
大地は思いの丈を込めるように、痛みをこらえて声を振り絞る。
「お前が行く事でどれだけ心が傷つくかわかってんのか?犠牲になるような真似して、羽美が平気なわけねーだろ。それぐらい、お前にだってわかるはずだ」
「…元に、戻るだけだ」
「アホか。お前と一緒に過ごした時間がなくなるわけじゃねーんだ。同じ状況に戻ったとしても、心は同じじゃない」
大地にすぐに切り返され、空は向こうを向いたまま首をかしげた。
そんな空に苛立たしげな視線を向けながら、大地は深く息をつく。
約束の時間は過ぎているが、レイも車の中のあの人も何も口出しはしなかった。
レイは興味深そうに大地を見つめていた。
「人は強欲なんだよ。一度得た心地よいものを手放すのは、それを得る前より辛い。お前はもう、必要な存在なんだ。行くな、朝宮」
空はしばらくそのまま佇んでいたが、やがてゆっくりと振り向いた。
その瞳に悲しげな光を湛えて…。
「空…」
思わず名を呼んだ私と、強い眼差しを向ける大地を順番に見つめると、空はゆっくりと首を振った。
「どうしても、行く気なのか」
「…お前がいれば、大丈夫…だと思う」
「ちょっと自信なさげなのが、若干むかつくぞ」
小首をかしげながらの空の言葉に、大地が半眼で嘆息する。
それがいつもの二人らしくて、どうしようもなく切ないのに、なんだか微笑ましかった。
ずっとこのままでいられると、これからもっと空の色んな表情が見れるようになると、疑う事などなかったのに……。
「…何があっても、守るだろう?」
「ああ、当然だ。だけど朝宮、勘違いするな。オレとお前じゃ与えられるものは違うんだよ。守れるものも、違う。それは力とか能力の差とかじゃない」
再び首をかしげる空に、大地は真摯な瞳で言葉を続ける。
「誰も、誰かの代わりになんてなれないんだよ。たとえ多くの人の優しさや愛をもらったとしても、それである程度自分自身が満たされたとしても、たった一人の愛情が得られないだけで、どうしようもなく心が空虚になる。俺は、それを知っている」
お母さんの事だと、そう思った。
求めても、得られない愛情。
代わりのものでは、けっして満たされない心の穴。
今は笑う事が出来るようになった大地でも、未だにその傷が癒える事はない。
「だから、俺だけじゃダメなんだ。お前を失った心の傷は、俺じゃ癒せない。ごまかすことは出来てもな。だから、俺に任せようなんて甘い考えするんじゃねーよ」
悲しげな大地の微笑み。
戸惑うような空の瞳。
私は二人の間に口を挟むことが出来なかった。
「お前の翼が血で穢れてるんなら、俺と羽美が洗ってやるよ。それに、羽美はちょっとやそっとじゃ穢れねーぞ。だいたい、既に浄化されかかってたじゃねーか。新たに汚そうとする奴がいるなら、傍にいて一緒に守れ。離れたら何もできないんだぞ。あきらめなければ、手立てはあるはずだ。恐れずに戦え。自分自身をあきらめるんじゃない。人に踊らされるな。運命は自分の手で描くんだ!」
揺ぎ無い瞳と力強い言葉。
空はじっと耳を傾けていたが、しばらくして私たちに向かって歩を進め始めた。
足音もなく静かに、私と大地の前にやってくる。
そして、未だに地面に座ったままの私たちを、空は片膝をつくと二人丸ごと優しく抱きしめた。
「そ…ら?」
予想外の行動に、私も大地も驚いていた。
だけど、一緒にいてくれる事を選んでくれたのかと、嬉しかった。
「…出会えて、よかった」
空の言葉に、心がふわりと温かくなる。
だけど、意識がはっきりしていたのはそこまでだった。
とんっと首に何かが当たったと思った瞬間には、すぅっと意識が遠のいていった。
それは、空の手刀だったのだと、後でわかった。
その時はただ薄れ行く意識の中で、たとえ悲しみに満ちたものだったとしても、初めて空の笑顔を見れたことが嬉しかった。