第6章-3
電話の向こうから、楽しげな笑い声が響く。
「笑い事じゃないから」
ふてくされる私に、母・星良は明るい声で答える。
「あら、だってその空くんのもてっぷり、空くんのお父さんの学生時代にそっくりなんだもの」
「そうなの?」
「そうよ。かっこいいし、頭いいし、運動神経いいし、おまけに優しいし。いい男だったのよ。しかも、お母さんも容姿端麗・頭脳明晰、さらには性格もいいって、完璧なカップルだったわ」
懐かしむその声に、すこし寂しげな響きが混じる。
お母さん達の親友…空のご両親は、もうこの世にはいない。
「その二人の子だもの、そりゃーいい子に決まってるものね!」
「確かにね。空はすごくいい子だよ」
そう答える私に、ふふふっと嬉しそうに笑う母。
「なによ、その笑い」
「ん?よかったなーっと思って。羽美なら大丈夫と信じてよかったわ」
「は?」
「ほら、空くん色々あったでしょ?すんなり受け入れるとは、さすが我が娘!」
すんなりでもないけどね、と苦笑いを浮かべる私の耳に玄関の呼び鈴の音が入る。
「お客様?」
電話越しにも聞こえたらしく、母が尋ねる。
「みたいだね」
「じゃ、またね。またしばらく出張だから、帰ってきたら連絡するわ!」
「了解。気をつけてね。お父様にもよろしく」
そう言って受話器を置こうと耳から話した時、明るい声が響く。
「愛してるわよ、羽美!」
「…私もだよ、お母さん」
もう一度受話器をあてそう言うと、母は嬉しそうに笑うと電話を切った。
昔から、この回線一本が私たちをつなぐものだ。
肌に感じる温もりはほとんど覚えていない。
ただ、母の紡ぐ言葉から愛情を探し出すだけだった…。
「っと、やば」
一瞬呼び鈴がなった事を忘れかけ、思わず独り言を呟いてから玄関に向かう。
こんな夜更けに来客が来るのも珍しかった。
「どちらさ…」
言い終える前に、私は裸足のまま玄関に飛び降りて急いで戸を開けた。
我が家の玄関は磨りガラスで、開けなくても戸の向こうにいる人影が見える。
「大地…」
「ごめん…やっぱ泊めて」
光を失った眼差しの大地が、そこにはいた。
いつのまに降りはじめたのか、秋雨に濡れている。
目の前にいるのに、消えてしまうんじゃないかと不安になるほど儚げな大地。
頬が僅かに切れ、既に一度固まった血が雨で再び滲んでいた。
「大地…頬…」
そっと手でその血を拭うと、冷え切った大地の体温が伝わってきた。
「あぁ…割れた皿…よけそこねたかも…」
ぼうっと呟くように答える大地。
「…とりあえず、お風呂はいって温まろ。それから、手当てしてあげる」
そう言って家の中に入ろうと半身を返した私の手を、大地の冷たい手が掴んだ。
再び大地に向き直った私の肩に、大地がとんっと頭をのせる。
「大地?」
「ちょっとだけ…このままで……」
私まで濡れないように気を使っているのか、震える手は力なく拳を握るだけで触れようとはしなかった。
いつもの笑顔も、不敵な表情も、自分自身を守る仮面すらつける事のできない、傷ついた大地。
何度となく見てきたけれど、胸に走る痛みは増すばかりだ。
私は、ぎゅっと大地を抱きしめた。
「…濡れるよ、羽美」
大地は力なく呟いたが、抵抗する気はないらしい。
素直に私の腕の中におさまっている。
「別に、濡れたって平気だよ」
私の肩の上で、大地は僅かに微笑んだようだった。
それでも、大地の体の震えは止まらない。
雨に濡れた寒さからじゃない、心の震え。
「なんで…なれないんだろうな」
ぼそりと、大地が呟く。
「何度も…何度も言われて、もう、わかってる事なのに」
「慣れるもんじゃないわよ」
「慣れたら…楽なのにな」
「大地……」
名前を呼びながら、泣きたくなった。
でも、私が泣いたらよけい大地は落ち込むのがわかっているから、ぐっとこらえる。
かわりに、大地の頭をそっとなでる。
「私は、大地がいてくれて嬉しいよ」
「…うん」
小さく、でも少し生気の戻った声で答える大地。
それでも、実の親から浴びせられる心ない言葉の呪縛は解けるものではない。
『あんたなんか、産まなければよかった』
大地は、幼い頃から何度その言葉を浴びせられてきただろう。
機嫌が悪いと、心無い言葉と暴力が大地を襲う。
武道を習いどんなに強くなっても、大地は抗う事をしない。
いや、出来ないのかもしれない。
幼い頃からの心の傷は、未だに癒えることを知らない。
自分の事しか興味がなく、いらついては傷付ける母親。
世間体しか気にせず、お金以外なにも与えてはくれない父親。
誰も、幼い大地を守ってくれる人はいなかった。
「羽美がいてくれれば…いい」
震える大地を、自分の温もりで心まで温まる事を祈りながら、私は抱きしめ続けた。