最終話:付箋
翌日、早朝。
目を覚ました白雨紡は、スマホで日時を確認した。
「きんようび」
呟きに、特に意味はない。
声を出しただけ。
十分ほど、ぼんやりと過ごした後。
ゆっくりと起き上がる。
牛乳を飲むため、キッチンに向かう。
マグカップは…シンクの中に、2つ――2つ?
まぁいいか、と洗ったマグカップに牛乳を注ぐ。
電子レンジで、1分。
ぬるめの牛乳を、立ったまま口に運んだ。
いつもすることは、問題なくできる。
やるべきことは、付箋で管理している。
時々見落とすけど、それでも何とかなる。
「今日は何を書くんだっけ…」
マグカップを持ったまま、パソコンへ。
「……ん?」
見慣れない付箋が2枚。
一つは、わたしの字。
『柊さんが来た。記憶のこと話したら、「あなたの記憶になりましょうか」って。とても嬉しくて、少し泣いちゃった。』
「柊さん――担当編集」
一瞬、ドアの外に誰かがいた記憶が流れた。
それから。
『向かい合って、話をした』
『記憶力が悪いことを話したら、覚えてくれるって言われた』
昨日なら、『事実』はだいたい確認できる。
「嬉しかった、かぁ…」
一晩眠ると、気持ちは遠くに行ってしまう。
泣くほどの嬉しさ。
よかったね、昨日のわたし。
…ちょっと、うらやましい。
付箋に言葉を書いていてよかった。
会話は、詳しく思い出せなくなる。
あ、もう一つ思い出した。
『コーヒーの匂いがしていた』。
続けて、向かい合う席に置いてあった、2つのマグカップが浮かんだ。
人の影がうっすらあるような気がするけど、見ようとしたら消えてしまう。
どんな表情をして、言ってくれただろう。
なんとなく、温かい気持ちがするような。
「柊さん。いいイメージ」
もう一つの付箋をそっと押さえた。
几帳面ですと主張するような文字。
『11:00 編集部で打ち合わせ』
あれ、と首を傾げる。
「昨日、打ち合わせなんて、話したかなぁ…?」
付箋があるならそうなんだろう、と。
紡は公共機関で行く予定を立て始めた。
スマホの案内に従い、電車とバスを乗り継ぎ、到着したテナントビル。
手元のメモを確認する。
「5階、右、一番奥」
エレベーターを降りると、受付カウンターが目に入った。
奥にガラス張りの部屋が少し見える。
「白雨紡です。11:00に、柊さんと、打ち合わせ…だと思います」
受付に声を掛けると、入口スペースでお待ちください、と案内された。
ソファー、観葉植物、雑誌。
コーヒーの匂い。
わずかに聞こえる人の声。
「忙しそう…」
ソファーに座って、ぼんやりと眺めていると。
一人の男の人が、近づいてきた。
「お待たせしました」
立ち上がって、会釈をした。
顔を上げて、じっと見る。
知っている、と思った。
でも、何も出てこない。
声を掛けられた、だから。
たぶん、この人は「柊さん」。
「…打ち合わせ、11時から、合ってますか?」
「はい。昨日の件を踏まえて、現在の進捗と今後の方針について確認させてください」
瞬間。
ぱちりとはまる感覚。
情報が、頭の中を走った。
目の前が、クリアになったような。
つながった。
――柊さんだ。
わたしの担当編集さんで。
昨日、家を訪ねてきた人。
マグカップの向こうに座っていた人。
嬉しい言葉をくれた人。
「わかりました!」
少し大きくなってしまった声に、柊さんが目を細めた。
「…元気そうですね」
「はい、病気はあまりしません!」
「……そうですか。では、こちらへ」
柊さんに案内されたデスク。
簡易の椅子に座り、机の上を見る。
整然と並んだ資料の、背表紙の文字。
家にあった付箋と、一緒。
ちょっぴり不思議な気分。
ふと柊さんを見ると、目が合った。
「…昨日、あなたが『体験』されたこと」
躊躇いがちに、柊さんが言葉を続ける。
「つらくなったりすることはありませんか?」
ひとつ、目を瞬いた。
「体験。えっと、同調のこと、ですか?」
「…そうです。少し、調べまして。感情が残り、メンタルヘルスに影響が出ることがある、と」
「今日は大丈夫です!」
「……今日は」
柊さんがわずかに目を細めた。
圧が強くて、視線を泳がせる。
「えっと。引っ張られることもあります……時々」
「時々の頻度は」
「えぇ…? あんまり意識してないから、分からないです……」
「……そうですか」
柊さんはため息をついて、眉間をほぐした。
「今回が大丈夫というなら、とりあえず信じます」
「えー、本当に大丈夫なのに…。ちゃんと戻れてますし」
「……私と、約束して下さい」
「やくそく?」
首を傾げると、目をじっと見られる。
今日は、なんか圧が強い。
「あなたのいう『同調』を行う場合、事前に連絡をください。一言で構いません」
「今日、同調しますってこと?」
「そうです。昨日は、非常に心臓に悪かった」
『同調して、メッセージを送ってしまった』から。
たしかに、紛らわしい内容だった、かも?
「…ご迷惑をおかけしました」
「結果的に、あなたのことを知れて良かったです。危険な創作方法なら、管理が必要です」
「べつに、危険では……なんでもありません」
おかしいな、さっきから圧が強い。
担当編集と作家って、こういうものだっけ?
「約束、していただけますね?」
「ええと、忘れなければ…?」
「今すぐメモを取りなさい!」
「はいいっ…!」
ゆるく躱そうとしたけど、失敗した。
慌ててメモを取っていると、視線が刺さってくる。
「…命令したほうが、素直に聞きそうですね」
「わたしの習性、把握するの早くないですか」
「…当たっていましたか」
「なぜか、言うことを聞かないといけない気になるんです…!」
「それは良いことを聞きました」
柊さんはわたしのメモを確認して。
作品内容の打ち合わせへと話題は移っていった。
打ち合わせ終了後。
ゆったりとした空気が流れる、午後の街。
送ってくれるという柊さんと一緒に、駅までの道を歩く。
「地図アプリがあれば、駅まで迷いませんよ?」
「…迷子になることを心配しているわけでは、……いえ、少し心配ですね」
「えぇ…?」
ちゃんと編集部に、時間通りにきたのに。
げせぬ。
並んで歩きながら、柊さんが口を開いた。
「昨日、私は覚えていると約束した。それだけで、あなたは非常に喜んだ」
「いまも、とても、嬉しいです」
忘れるのはずっと、当たり前だった。
大人になって、人より記憶が少ないと知った時。
納得した――普段から『忘れやすい』のに、理由があったんだって。
それでも、日常生活は送れるし。
古い記憶がなくたって、問題ない。
そう、思っていたから。
『あなたの記憶になりましょうか』
静止画の中に、人がいないこと。
寂しかったって、自分でも知らなかった。
あの付箋の言葉を知るまでは。
でも、知っても何も変わらない。
記憶はこれからも、これまでと同じ。
「うれしかった」事実を、大切にするだけ。
柊さんを見上げると。
わずかに目を細めた後、視線を前に向けた。
「……私は、あなたの、担当編集です」
「? そうですね?」
なぜか、担当の宣言。
大丈夫、それは覚えてますよ?
柊さんは目を合わせないまま。
歩く速度が、ゆっくりになる。
「だから」
柊さんが止まったのに合わせ、わたしも止まった。
「……たまには、編集部に顔を出しなさい」
合わない視線。
覗き込もうとしたら、顔ごと逸らされた。
胸の中がくすぐったくなって。
俯いて、「はい」とだけ、口にした。




