第二話:甘口と毒
19:00。
壮一郎が自宅に着いた時、紡はまだ帰っていなかった。
壮一郎は、自分のコートを椅子にかけ、シャツの袖を肘までまくり上げる。
玄関のドアが開く音。
「帰りましたー」
紡の声。
壮一郎は、振り返った。
「おかえりなさい、紡さん」
紡が、荷物を抱えたまま、立っている。
そして、壮一郎を見て――目を見開いた。
「…あ、ただいま? …スーツ、萌える」
壮一郎は、鼻先で短く笑った。
思考が、漏れている。
こういうところが、彼女らしい。
ネクタイに指をかけ、少し緩めた時。
ふと、視線を感じた。
紡の視線が、壮一郎の手元にある。
珍しい。
普段はすぐに、目を逸らすのに。
壮一郎は、薄い笑みを口元に浮かべた。
落選の痛みをどう紛らわせるか、考えていたが。
丁度いい。
さらにネクタイを引き。
第一ボタンも緩めた。
紡の口から、意味をなさない言葉が零れ落ちた。
「この程度で止まるほど、今日は脆くなっているわけですか」
「普通に破壊力えぐい仕草だよね…?!」
「首元を緩めただけですが?」
壮一郎は真っ赤な紡の頬を軽くつついた。
「…今日のあなたの頑張りに対して、ご褒美が必要ですね」
「ごほうび」
「食事とお風呂をすませて、いつもの時間に」
壮一郎は短く笑った。
紡は、今日は何を望むだろうか。
だが、その前に。
「命令です」
壮一郎は、紡の目の前で指を一本立てた。
「一つ。深呼吸をしなさい」
二本目。
「二つ。手洗いうがいをして、荷物を片付けること」
三本目。
「三つ。速やかに食卓へつくこと」
紡が、すーはー、と深呼吸する。
「今日の夕食は、カレーです。さぁ、早く行きなさい」
「はいっ!!」
パタパタと走り去った紡を見送り。
壮一郎は深く、長いため息を吐き出した。
「…紡さん。『がんばる』のは、今日はもうおしまいです」
壮一郎は、首に手を当てた。
ノートに一行書き加える。
『19:00 — 夕食。メニュー:カレー』
食卓についた紡は、機嫌よくスプーンを口に運ぶ。
少し上気した顔。
壮一郎は目元を和らげ、辛口カレーを口に運ぶ。
半分ほど食べた時、紡の動きが止まった。
スプーンを持ったまま、一点を見つめている。
僅かに微笑み、小さく呟いた。
「…闇バイト、実行」
柊の目から柔らかさが消えた。
現代社会の歪み、命の安売り、そして引き返せない境界線。
物語の、救いのない「毒」の断片。
紡が、はっとした顔になり、わたわたと両手を動かす。
「ち、違います! 実行しようと、してません!」
「…わかっていますよ。私はあなたの倫理観を疑ってはいません」
柊は懐からメモを取り出し、「闇バイト 実行」と書き留めた。
「その物騒なネタは、私が預かりました。
命令です。
頭からその文字を消し去りなさい。
そんな血生臭い想像を抱えたままでは、まともな食事にならないでしょう」
「はーい」
素直に返事をしたものの。
視線が、時々止まる。
まだ物語と現実を、往復している。
「紡さん」
「…はい?」
「お味は、いかがですか?」
紡が笑顔を浮かべる。
「あまあまです!」
「…甘口カレーですからね」
「甘いもの、大好きです!」
思考が食事に戻ったことを確認し、息をついた。
毒を抱えながら、甘さを求める。
彼女の思考回路は、いまだ理解が及ばない。
預かった「毒」は、軽くて重い。
明日メモを渡さなければ、溶けて消えてしまうだろう。
壮一郎は、ノートのカレーという文字に、(甘口)と付け加えた。




