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第一話:帰宅命令

彼女は、毎朝忘れる。

だから私は、彼女の記憶になる。

目覚めた彼女の中に、私がいなくても。



夕暮れの編集部。

窓の外は茜色に染まっているが、室内は相変わらず蛍光灯の白い光に支配されている。


まばらになったデスクの間で、柊壮一郎は一人、パソコンに向かっていた。

蛍光灯の光が、眼鏡に冷たく反射する。

画面には、担当作家――白雨紡からのメッセージ。


『はいっ✨』


柊はわずかに目を和らげ、手元の資料に目を落とした。


今日一日で彼女が提出してきた、三度目の改稿原稿。

朝のボツ、昼のボツ、そして夕方になってようやく合格点に達した修正の跡。


その約二時間前には、新人賞の最終選考落選の知らせを受けて、深海の底に沈んでいたというのに。


おそらく泣いて、泣き疲れて1度眠ったのだろう。

眠ることで、感情は薄れるらしい。


柊は深く息を吐き、ゆっくりとキーボードを叩いた。


『元気でよろしい。その無駄に輝かしい記号から、あなたがようやく元に戻れたことが伝わってきます。』


送信。


柊は時計を見た。

18時33分。

定時は過ぎた。

つまり、これ以上は「業務」ではない。


眼鏡を外し、デスクの端に置いた。

少しだけネクタイを緩める。

デスクライトの明度を、一段階落とす。


編集者・柊壮一郎から、恋人・壮一郎へ。

そして、再びキーボードに手を置いた。


『定時を過ぎました。今からは、あなたの恋人として話します。


命令です。

今日の出来事は、すべてその場に置いて帰宅しなさい。

家についたら、執筆用デバイスの電源は、入れないこと。

お風呂に浸かって、身体を解くこと。

いいですね?』


送信ボタンを押し、壮一郎は椅子に深く背をもたれた。


彼女の記憶の特性を考えれば——今朝の出来事を、ゆっくりと思い出しているはずだ。


今朝。

紡は、壮一郎の作ったノートを読んだ。


『今日は新人賞の最終選考結果が発表される日です。

結果がどうであれ、あなたは今日一日を全力で生きてください。

夜、また会いましょう』


その「夜」が、今だ。

壮一郎は、デスクの引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。


『紡の記録 — 2026年2月16日』


すでに、今日一日の出来事が、時系列で記録されている。


7:00 起床。ノートを一緒に確認。

8:30 お弁当を作る(鮭のおにぎり、卵焼き、ブロッコリー)。私に持たせてくれた。

10:00 新人賞結果発表。最終選考落選。電話口で泣いていた。

12:10 原稿修正第一稿。読者の倫理的ストレスが許容範囲を超えている。ボツ。

15:30 原稿修正第二稿。まだ重い。再考を指示。

15:45 同調実施(事前連絡あり)

17:30 原稿修正第三稿。ようやく掲載レベル。承認。

18:33 定時後。帰宅を指示。



見返りは、必要ない。

自分がしたくて、している事だ。


弁当の行を、指でなぞった後。

壮一郎はノートを閉じた。


手早くデスクを片付け。

紡を迎える準備をするため、足早に退社した。

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