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最終話:記録ノート

白雨紡は、ぼんやりと目をあけた。


男の人が、眠っている。

知っている人だ、と思った。

でも、つながらない。

この人は、だれ、だろう。


いつもの部屋じゃない。

そうだ、『引越しをした』んだった。


『一緒に暮らそうと言われた』

『嬉しかった』


思い出せる「事実」を、あつめる。


『柊さんにプロポーズされた』

『柊さんの家に引っ越した』

『一緒に夕食を食べた』

『夜、お話しながら眠りについた』


一瞬、浮かんで消えた、記憶の静止画。

ダンボールを持っていた。

ふわっとして、細部は見えなかった。

その人の顔も。


男の人を、観察する。

この人はたぶん、「柊さん」。

まだ、「つながる」感じは、しない。


ぼんやりと見ていると、目が合った。


「…おはようございます、紡さん」


低くて、掠れた声。

ちょっと、どきどきする。


「…おはようございます、」


名前を呼ぶのを、迷って、やめた。

違和感、みたいな。


男の人の目が、少し細くなった。


「…また、分からなくなってます?」

「えっと…。すみません」


また。

――『誰ですかって聞いたことがある』んだった。


「柊です。柊壮一郎。あなたの、…恋人のつもりです」


すっと一筋の光が通るみたいに。

記憶と、目の前の人が、つながった。


「はい、柊さんです!」

「……思い出していただけて、良かったです」


へへ、と笑ったら、柊さんはため息をついた。



柊さんが、朝ごはんを用意してくれた。

ごはん、味噌汁、焼き魚――和食。

そういえば。


「いつか、連れて行ってもらった定食屋も、焼き魚でしたね」


ふと、視線を感じた。

柊さんが、じっと見ている。


「…どういう感じですか?」

「何がでしょう?」

「…あなたの、記憶について」


ちょっと、考える。

わたしにとっては、ずっとそうだったこと。

でも、他の人とは違うこと。


「事実として思い出せるのと…、近い記憶のほうが、たくさんあります」

「なるほど、焼き魚は事実の分類ですか。…私は、近い記憶かと」

「あー…」


朝、つながらなかった時のこと。

なんて説明したらいいんだろう。


「人は、知っているって思うんですけど。つながりにくくて」

「つながりにくい…。つまり、記憶との結びつきが切れている?」

「たぶん…」

「そして、古い記憶は少なくなると」

「ですー」


柊さんは、黙ってご飯を食べ始めた。

何か考えているようなので、わたしも黙ってご飯を食べる。


しばらくして、柊さんが口を開いた。


「ノートを作ってみましょうか」

「ノート?」

「日記のように、…いえ、時系列のほうがいいでしょうか」


時系列に、記録する。

わたしを。

それはまるで。


「観察記録? アサガオみたいな……?」

「……成長の様子を観察するのではありません」


柊さんが立ち上がって、手帳を持って戻ってきた。

たくさん書き込まれたカレンダーを見せてくれる。


「私は、メモからその時の状況を、ある程度思い出せます」

「すごい」

「それでも、数年前になると厳しいです」


カレンダーの中に「白雨」がたくさんある。

たくさん、残っている。


「記録をつければ、詳細に残る。ふたりで振り返れるのでは、と…」


見上げた柊さんとは、目が合わない。

柊さんの耳が、ほんのり染まっている。


ノートパソコンの右下。

データを移動する時に、見た付箋。


『「あなたの記憶になりましょうか」って。とても嬉しくて、少し泣いちゃった。』


いいなぁ、ただそう思った。

もう感じることのない感情だと思ったのに。


笑いながら。

すこしだけ、鼻の奥がツンとしていた。

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