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クラスで一番明るい親友が推している美少女配信者が、実は女装しているボクだとまだ気づいていない〜眼鏡を外しただけでなにかが始まりそうなんですが秘密は守れますか?〜

作者: Ciga-R
掲載日:2025/12/13



 春の光は、校舎の窓ガラスを通ると少しだけ現実味を失う。


 それはまるで、世界が一段階やさしくなる合図みたいだった。


 黒瀬くろせ 心音(しおん)は、その光を真正面から受けないように、いつも少しだけうつむいて歩いている。


 分厚い黒縁メガネの奥、目元は長めの前髪に隠れている。


 背は平均。


 けれど体格は、男子にしては華奢で、肩幅も狭く、少しなで肩気味なのが心音の密かな悩みだった。


 制服のブレザーをきちんと着ているはずなのに、肩のラインは角が立たず、どこか柔らかい。


 胸板も厚くなく、全体の輪郭が曖昧で、遠目には性別の主張すら薄れてしまう。


 だからこそ――人混みに紛れると、心音は驚くほど簡単に“背景”へと溶け込んだ。


 目立たないし、主張しない。


 そして、本人が一番気にしていることに、誰も気づかない。


(そもそも……男らしくない、よな……)


 心音がそう思った、その瞬間。


「おーい、シオン! また靴紐ほどけてるぞ!」


 やけに明るい声が、春の空気を跳ねさせ、振り返る前に、肩をぽん、と軽く叩かれる。


 朝倉あさくら 陽翔はると


 クラスの中心に自然と立ってしまうタイプの、いわゆる陽キャ男子だ。短く整えた髪に、人懐っこい笑顔。


 運動もできて、誰とでも気さくに話せて、先生からの信頼も厚い。


 普通なら――心音みたいなタイプは、からかわれる側になっていてもおかしくない。


 でも、陽翔は違った。


「ほら、じっとしてろって。……よし、これで完璧」


「……ありがとう」


 心音の声は小さい。


 それでも陽翔は、ちゃんと聞こえたみたいに満足げに頷く。


「相変わらずだなぁ。気づかないところがシオンらしい」


「それ、褒めてないよね……」


「褒めてる褒めてる。親友ポイント加算中」


 何がどう加算されているのかは分からない。けれど、陽翔は心底当然のように「親友」と言う。


 心音はそれを否定しない。


 否定しないけれど、どこか夢の中みたいに感じていた。


 ――もし、この眼鏡を外して。


 ――前髪を整えて、ちゃんと顔を上げたら。


 鏡の中の自分が、まるで別人みたいに整っていることを、心音は知っている。けれどそれは、誰にも見せない“もう一つの可能性”だった。


(今のままでいい)


 陽翔が隣にいてくれるなら、それでいい。


 校舎の影を抜けると、風が少しだけ冷たくなる。


 その風の中で、心音はふと――胸の奥が、わずかにざわめいた気がした。まるでこの平穏が、長くは続かないと知っているみたいに。


 春は、まだ始まったばかりなのに。


 教室に入ると、まだ朝のざわめきが残っていた。椅子を引く音、窓際で誰かが笑う声、スマホを机の下でいじる気配。


 心音が自分の席に着いた、その瞬間だった。


「なあシオン、聞いてくれよ」


 横から、やけに真剣な声。嫌な予感がした。


「……なに?」


 振り向くと、陽翔がスマホを両手で構え、こちらにずいっと差し出してくる。


TickTackiaティックタキア観てる?」


「……なにそれ」


「え!? マジ!? 今一番来てる短尺動画アプリだぞ!?」


 声がでかい。周囲の視線が一瞬、こちらに集まり、心音は思わず肩をすくめた。


「俺さ、最近どハマりしててさ……特にこの子!」


 画面に映っていたのは、制服風の衣装を着た女の子。柔らかく揺れる髪、くるっと回る動き、最後に指でハートを作って微笑む。


「こころちゃん。本名非公開、毎日投稿、表情管理が神。しかもダンスが微妙にズレてるとこがとんでもなく可愛い!」


「……」


 どう返せばいいのか、分からない。


 というか。


(陽翔……こんなキャラだったっけ……?)


「この前の『春風ステップ』の回、見た? あれさ、右足の入りが一拍遅れてて――」


「ま、待って……」


 心音は小さく制止を入れる。


 だが陽翔は止まらない。


「あと声な! 地声ちょい低めなのに、笑うと一気に甘くなるの! あれ反則だろ!」


「……」


 完全に推し語りだった。それも、想像以上に熱量が高い。


 心音は視線をさまよわせる。


 前の方の席の女子が、ちらっとこちらを見て、ひそひそ何か言っている。


(お願いだから……やめて……)


「なあシオン、どう思う?」


「……どうって……」


 困った末に、絞り出す。


「……人気、あるんだね」


「そこ!?」


 陽翔がズコッと効果音でも付きそうな勢いで崩れた。


「もっとこう、『可愛い』とかさ!」


「……可愛い、とは思うけど……」


 本音ではある。ただし、それ以上踏み込む気はない。だが陽翔は満足そうに頷いた。


「だろ!? 分かるよな! お前はセンスいいからさ!」


(センスの問題なのかな……)


 心音は内心で小さくため息をつく。とはいえ、陽翔が楽しそうなのは、悪くない。 


(……なんでボクにこの話を……)


 心音が困惑しているのを知ってか知らずか、陽翔は最後に一言付け足した。


「ちなみに俺、こころちゃんの配信、全部アーカイブ保存してる」


「……それは……言わなくてよかったと思う」


「え? そう?」


 心底不思議そうな顔。


 教室の空気が、ほんの少しだけ騒がしくなった。


「こころちゃんは、マジで可愛いんだって!」


 陽翔は、相変わらず遠慮という言葉を知らない音量で言い切った。


 その瞬間。


「……えええっ」


 心音は、思わず素で声を漏らしてしまった。


「陽翔みたいな……その……」


「ん?」


「……陽キャでも、そういうの観て推すんだ」


 言い切る前に、語尾が逃げた。


 陽翔は一瞬きょとんとしてから、すぐに笑う。


「観るだろ! 逆になんで観ないし推さないと思った!?」


「いや……その……」


(やめて、その話題の広げ方やめて……!)


 心音の胸の内とは裏腹に、陽翔は机に肘をつき、完全にスイッチが入った顔だった。


「最近さ、クラスでも見てる人多くて――」


「え、こころちゃんの話してる?」


 先ほどの前の席の方から、女子の声が飛んできた。その子は、クラスでも明るめグループの女子、佐倉あかねだ。


「観てる観てる! ていうか、あたしも普通にフォローしてるし!」


「えっ」


 心音の喉が、ひくりと鳴る。


(え、え、ちょっと待って)


「分かる〜! 同じ女子から見ても、あの子めっちゃかわかわじゃない?」


 今度は隣の席の女子も会話に乗ってくる。


「分かる! あのナチュラル感、作ってない感じが逆に罪!」


「表情がさ〜、いちいち柔らかいんだよね!」


 ――やめて。


 ――分析しないで。


 ――そんなに細かく見ないで。


(それ実は……全部……ボク……)


 心音は必死で表情を保ちながら、内心では叫んでいた。


(前髪の角度とか! 目線の落とし方とか! 姉さんが「そこが一番盛れる」って言ってたやつだから!!)


「な? 男女関係なく刺さるタイプだろ?」


 陽翔が得意げに言う。それを心音は、乾いた笑いで応じるしかなかった。


「……そ、そうなんだ……」


(まさか……バレないよね……?)


 脳裏に、嫌な想像が浮かぶ。


 ――もし、声が似てるって言われたら。


 ――もし、仕草を真似してるって思われたら。


 ――もし、名前に『心』って漢字が入ってるのに気づいたら。


 背中に、冷や汗が伝う。


「黒瀬って、ああいう子好きそうじゃない?」


 あかねが、悪気なく言った。


「え!?」


 心音の声が裏返る。


「いや、なんとなく! 静かな感じだし!」


「分かる〜! 癒し系好きそう!」


(やめてやめてやめて!! あれ本人です!!)


 心音は、心の中で全力で土下座した。


 陽翔はそんな心音の様子に、首を傾げる。


「どうした? 顔色悪くね?」


「い、いや……」


 必死に取り繕う。


「人が多いの、ちょっと苦手なだけ……」


「そっか。無理させて悪かったな」


 陽翔はあっさりと引いた。その無神経さと優しさの同居が、今は逆に怖い。


(お願いだから……これ以上、話題にしないで……)


 心音は、机の下でぎゅっと拳を握った。


 絶対に。


 絶対に。


 この学校で、「こころちゃん」の正体が自分だなんて――バレるわけにはいかない。


 春の教室は、今日も賑やかだ。


 そして、心音の平穏は。


 姉の「こころの天使配信、続けよ? てかっ女装ってまずバレないって」という一言から、確実に――綱渡りになっていた。


(……学校と配信、同時進行は……無理ゲーでは……?)


 春は、まだ始まったばかり。


 そしてこの秘密は、笑えないくらい、綱渡りだった。


 帰宅して玄関のドアを閉めた瞬間。


 心音は、深く息を吐いた。


(……生き延びた……)


 学校という名の地雷原を、今日もどうにか無傷で生き延びた。


 靴を脱ぎ、廊下を進むと――


「おかえりー!!」


 まるで太陽のように明るすぎる声が、真正面から飛び込んできた。


「……ただいま」


 リビングの中央に立つのは、エプロン姿で腕を組んだ姉――黒瀬 明日香あすか


 職業はフリーのスタイリスト。

 性格は、常時フルスロットル陽キャ。


「今日はねぇ〜、光がいい感じだからさ!」


 もう、嫌な予感しか残らない。


「帰ってきた瞬間で悪いんだけど、今日どんな衣装で撮る?」


 心音は、そっとカバンを床に置く。


 小さく息を吐きながらも、言葉ははっきりしていた。


「……やめたいんだけど」


 明日香は一瞬、動きを止める。


 空気が止まったような気がしたその次の瞬間――


「……はぁ?」


 低く響く声。

 しかし妙に明るく、驚きと好奇心が混ざったような音色。


「なに? もう一回言って?」


 心音は視線を逸らす。

 床の木目を見つめながら、小さく、でも確かに告げる。


「だから……その……」

「……配信、やめたい……」


 数秒の沈黙。


 部屋の空気が、微妙に張りつめる。


 そして――


「あっ!!」


 明日香が、ぽんっと手を叩いた。


 思わず心音の胸に希望の芽が生まれかける。


「なるほどなるほど!」


 彼女は満面の笑みで続ける。


「男をやめたいって話ね!!」


「ちがう!!」


 即ツッコミ。 しかし姉の目は楽しげで、全力で楽しんでいるのが伝わってくる。


 心音は顔をしかめ、思わず小さくため息をついた。


 しかし明日香は、心音の小さな告白など耳に入っていないようだった。


「うんうん、分かる分かる〜! 思春期だしね〜! しおん、最近ますます可愛くなってきたもん!」


「それは褒めてない……!」


「褒めてる褒めてる! 才能の話!」


 心音は心の中で小さく舌打ちする。


(才能って……それで片づけないで……)


 明日香はすでにスマホを取り出し、指で何やらメモをスクロールしていた。


「今日はさ〜、清楚系でいく? それとも無自覚あざとい系?」


「どっちもやめたい」


「オッケー、清楚寄りね!」


「話聞いて!!」


 明日香はにこにこと笑いながら、肩に手を置く。


「大丈夫大丈夫。こころちゃん、今日は“透明感”の日にしよ?」


(名前で呼ぶのやめて……!)


 抵抗も虚しく、心音はずるずると豪華なドレッサーの前まで引っ張られる。逃げ場は、もうなかった。


「さ、まずはベースからね〜」


 鏡の前に座らされ、背筋に軽く緊張が走る。


「……あ、ちょっと待って」


 小さく手を上げ、声を潜めるように言う。


「……眼鏡……」


「あー、はいはい」


 明日香は即座に察したように頷く。


「度、きついもんね。そのままだと自分の顔、ほぼ見えないでしょ」


「……うん……」


 眼鏡を外すと、鏡の中の自分はまるで輪郭を失ったかのようにぼやける。色も線も曖昧になり、まるで水の中を覗き込んでいるようだ。


「ほら、コンタクト」


 差し出された小さなケースに、心音は息を呑む。


「……もう、用意してたんだ……」


「当然でしょ」


 明日香は自然に笑う。


「見えないまま可愛くされても、本人が実感できないと意味ないじゃん?」


(意味……?)


 観念した心音は、深く息を吐きながら眼鏡を外す。重たかった日常の壁が、一瞬だけ柔らかく揺れる感覚。


 一瞬、世界がぐらりと歪む。


「……っ」


「大丈夫大丈夫、落ち着いて」


 明日香の声を頼りに、そっとコンタクトを入れる。


 瞬き。


 もう一度、瞬き。


 ――世界が、戻ってくる。


 はっきりと。


 鏡の中に映るのは、久しぶりに“ちゃんと見える”自分の顔。


「……」


 心音は、思わず黙り込んだ。


(……こんな顔……してたんだ……)


「はい、準備オッケー」


 明日香が満足そうに言う。


「ここからが本番ね」


 逃げ場は、もうなかった。


「……学校でさ」


 ぽつりと、心音が呟く。


「……クラスの人たちが……こころちゃんの話してて……」


 明日香の手が、一瞬止まる。だが、すぐに楽しそうに笑った。


「え、マジ? もうそんなとこまで来た?」


「来てないでほしい……」


「いや〜、順調順調!」


「全然順調じゃない……」


 明日香は、コンシーラーを手に取りながら言う。


「身バレ? しないしない!」


「なんでそんな自信あるの……」


「だって心音、自分がどれだけ“変わるか”分かってないしょ」


 鏡越しに、姉の目がきらりと光る。


「ほら、目閉じて」


 拒否権はなかった。


 冷たい感触が、頬に広がる。


「まずはクマ消して〜肌トーン整えて〜今日ちょっとチーク入れよっか!」


「……どこに向かってるの……」


「頂点!」


「やめて!」


 明日香は楽しそうに笑う。


「大丈夫。心音は、可愛いんだから」


 その言葉が、冗談なのか、本気なのか。心音には、もう分からなかった。


 鏡の中で、少しずつ。“黒瀬 心音”が、消えていく。


 代わりに現れるのは――


(……こころちゃん……)


 絶対に、学校には連れていけない存在。


 そして今日もまた、秘密の準備が、念入りに進められていくのだった。


 最後の仕上げは、リップだった。


「はい、軽くん〜ってして」


「……ん」


 明日香が満足そうに一歩引く。


「よし。完成」


 その言葉と同時に、ドレッサーの横にある――スタンドミラーの前に、心音は立たされた。


「…………」


 一瞬、言葉が出なかった。そこに映っていたのは――


 肩までの髪をふんわりと内巻きに整え、白を基調にした清楚なワンピース。


 露出は控えめなのに、シルエットがやけに柔らかい。


 伏し目がちにすると儚げで、少し首を傾げるだけで、無意識に距離を詰めてくる


 ――無自覚あざとさ全開の小悪魔系。


(……誰……)


 分厚かった黒縁の眼鏡は外され、視界を遮っていた前髪も、目元がほんのり覗く程度に整えられている。


 伏せたときに長い睫毛が影を落とし、顔を上げれば、柔らかな輪郭がそのまま露わになる。


 視線を隠すものは、もう何もない。


 それなのに、目元の印象は不思議なほど強く、そして儚かった。


 作られた可愛さではない。


 整えられただけで、最初からそこにあったものが、ようやく表に出ただけ。


 ――誰が見ても、そこに立っているのは「男の子」ではなく、少女と見間違われてもおかしくない存在だった。


 そしてどう見ても。どう足掻いても。


 美少女だった。


「……ね?」


 明日香が、後ろからそっと肩にアゴを乗せてくる。体温が、じんわりと伝わる。


「完璧でしょ?」


 耳元で囁く声が、やけに楽しげで、心音は、返事ができなかった。


 喉が、きゅっと詰まる。


(……これ……学校で見られたら……もう、普通には戻れない……)


 鏡の中の“誰か”が、じっとこちらを見返してくる。


 そのとき――


「お、もう撮影タイム?」


 リビングから、弾むような声が飛んできた。


 母――美佐子。


明日香と並ぶと、まるで親子というより姉妹のような、明るくてノリのいい人だ。その美佐子が、ひょいっと姿見を覗き込んだ瞬間。


「……あら」


 一拍の沈黙。


 そして、にやりと口角が上がる。


「はいはいはいはい、なるほどね〜?」


 まるで答え合わせでもするように、指を鳴らしながら近づいてくる。


「心音じゃん」


「な、なんで分かるの!?」


 心音は反射的に振り向いた。声が裏返る。


 美佐子は、くすくす笑いながら、指先で心音の頬をつついた。


「その照れ方、完全にあんたでしょ〜?」


「……っ」


 心音は、言葉を失う。顔が熱い。逃げ場もない。


「それにね〜」


 美佐子は楽しそうに続ける。まるで観察日記でもつけてるかのように。


「いくら可愛くなっても、“気まずそうな目線の泳ぎ方”は変わらないのよ〜」


「や、やめて……分析しないで……!」


 心音は思わず顔を背けた。なのに、母のテンションは上がる一方。


「いや〜でもほんと、明日香、やるじゃない!ちゃんと“女の子”になってるわよ〜。可愛い可愛い!」


「ち、ちゃんと男です……!」


 心音の声は、もはや風に流される小波のように、か細かった。


 一方、少し遅れて、廊下の影からそっと顔を覗かせた人影があった。


「……?」 父――恒一。


 物静かで、声も小さく、どこか心音に似た雰囲気をまとっている。


「……あの……」


 おずおずと声をかけながら、姿見の前で固まった。目をぱちくりさせて、鏡と心音を交互に見比べる。


「……明日香……?」


「なに?」


「……この……」


 言葉が出てこない。喉がひくついて、視線が宙をさまよう。


「モデルの……お、お客さん……?」


「ちがうよ。心音」


「…………」


 沈黙。


 父の目が、もう一度鏡に戻る。そして、もう一度、心音に。


「…………」


 ぷいっと、顔を背けた。


「……あの……」


 耳まで真っ赤になって、ぽつり。


「……あんまり……じっと見ていいものじゃ……ない気がして……」


「ちょっとお父さん!?」


 心音が思わず声を上げる。


「それ、どういう意味!?」


「いや、その……」


 父は視線を泳がせながら、しどろもどろに言った。


「……き、綺麗……だと……思って……」


 その瞬間。


「きゃーーー!!」


 明日香と美佐子の歓声が、見事なハモりで炸裂した。


「お父さん照れてる〜!」


「レアすぎて泣ける〜!」


「やめてぇぇぇ!!」


 父は顔を覆いながら、そそくさとリビングへ退散。


「……し、仕事の続き……してくる……」


 足音が、逃げるように遠ざかっていった。


 心音は、椅子に崩れ落ちる。


「……もう無理……」


「何が?」


 明日香は、まるで他人事のように、楽しげに笑った。


「身内全員に効いてる時点で、こころちゃん、完全に仕上がってるってことじゃん」


「喜ぶところじゃない……!」


 だが、鏡の中の“少女”は、困ったように眉を下げながらも――


 確かに、可愛く微笑んでいた。


(……絶対……この姿では、外には出られない……)


 そう思いながら。


 心音は今日もまた、“こころちゃん”としての人生を、一歩、進められてしまったのだった。


 そしてこの家では、もう誰も、止める気がなかった。



 翌日の教室は、朝から妙に騒がしかった。


「ねえ観た!? 昨日のこころちゃん!!」


「観たみた! あの最後の手振りやばくない!?」


「分かる〜! あれ絶対分かっててやってるよね!」


 完全に、話題の中心だった。


 心音は、自分の席でできるだけ存在を薄くしながら、机の上の教科書を意味もなくめくっていた。


(落ち着いて……昨日の配信で……ボクと思う人いない……声も……加工してるし……)


 そう、自分に言い聞かせる。


 だが。


「なあシオン!」


 来た。


 陽翔が、勢いよくこちらに身を乗り出す。


「昨日の配信みた? もち観たよな!」


「…………」


 心音は、視線を上げないまま答えた。


「……なんの話……?」


「とぼけんなって! こころちゃんだよ、こころちゃん!」


 その名前を出さないでほしい。だが陽翔は止まらない。


「最後のさ、ちょっとだけ照れた感じで手振るやつ!」


 説明しながら、身振り手振りがどんどん大きくなる。


「こうやってさ! ちょい前屈みで――」


「ちょ、ちょっと……!」


 止めようとした、その時。


 ――カンッ。


 乾いた音が、教室の床に跳ね、視界がふっと揺らぐ。


「あっ……!」


 心音の黒縁メガネが、陽翔の手に軽く当たり、弧を描いて宙を舞った。


 カラカラと音を立てて、床を転がっていく。


 その瞬間、教室のざわめきが、まるで水の中に沈んだように遠のいた。


 時間が、止まった。


 心音の心臓が、ひときわ大きく脈打ち、反射的に顔を伏せる。


 けれど――


 もう、遅かった。


 ずれた前髪の隙間から、眼鏡のない素顔が、陽翔の視界にさらされていた。


「……っ、ご、ごめん!!」


 陽翔が、慌てて声を上げる。


 椅子を引く音も忘れて、勢いよく立ち上がった。


「悪い! 大丈夫か!?」


 その声が、やけに大きく響き、心音はうつむいたまま、ぎゅっと唇を噛んだ。


 見られた。よりによって、陽翔に、眼鏡をはずした素顔を。


 胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。


 どうしよう。どうすればいい。


 教室の空気が、じわじわと動き出す気配がした。


 誰かが、こちらを見ている。いや、きっと、みんな見ている。


 心音は、落ちたメガネを拾うこともできず、ただ、俯いたまま、固まっていた。


「…………」


 陽翔の動きが、ぴたりと止まった。


 まばたきすら忘れたように、ただ、目の前の“それ”を見つめている。


(……え?)


 頭の中で、言葉にならない声が、泡のように浮かんでは消える。


(……誰だ……?)


 そこに立っているのは、いつもの地味で、静かで、目立たない――あの心音じゃなかった。


 少し伏せた睫毛が、長く影を落とす。化粧なんてしていないのに、輪郭が妙に整って見える。


 それに光を受けた目元は、どこか儚げで、やわらかい。


 息を呑む。


(……こいつ……)


 胸の奥が、どくん、と跳ねた。


(……こんな顔、してたのか……?)


 まるで、知らない誰かを見ているような。でも、確かにそこにいるのは、心音だった。


「……拾う……」


 かすれた声が、足元から聞こえた。


 心音が、そっとしゃがみ込み、転がった眼鏡を拾い上げる。


 その手が、ほんの少し震えていた。そして、眼鏡をかけ直す。


 カチリ、と音がして――世界が、元に戻った。


 いつもの、静かな心音が、そこにいた。


 けれど陽翔の胸の奥には、さっき見た“何か”が、まだ、くっきりと残っていた。


「……ほんと、ごめん……」


 陽翔の声は、どこかぎこちなく、いつもの軽やかな調子が、すっかり影を潜めている。


 言葉を選ぶように、慎重に、でもどこか戸惑いを含んでいた。


「……怪我、してない?」


 心音は、わずかに首を振った。


「……大丈夫……」


 けれどその声は、かすれ、メガネの奥で、視線が揺れる。陽翔の目を、まっすぐ見ることができない。


(……見られた……)


(……気づいた……?)


 胸の奥が、ざわざわと波打つ。


 けれど。


「なに? どしたの?」


 近くの女子たちが、何気なく振り返る。その表情に、特別な色はなかった。


「メガネ飛んだだけでしょ?」


「陽翔、騒ぎすぎ〜」


 笑いながら、すぐにそれぞれの話題へと戻っていく。


 教室の空気は、何事もなかったかのように、いつもの日常を取り戻していた。


 ――気づいたのは。


 陽翔だけだった。


(……今の……)


 陽翔は、ちらりと心音の横顔を盗み見る。メガネの奥に隠れた瞳は、伏せられたまま。


 表情も、声も、仕草も、いつもの“静かな友達”そのものだった。


 けれど――


(……でも……)


 確かに、見た。


 あの一瞬の、光。誰にも知られていない、心音の“素顔”。


 それが、胸の奥に、静かに焼きついていた。


 あの一瞬が、まだ胸の奥に残っている。


(……可愛い……いや、普通に……美形……?)


 そんな言葉が浮かぶたび、心臓が落ち着かなくなる。


 視線を向けるのも、なんだか気まずい。けれど、気づけば目で追ってしまっていた。


「……シオン」


 名前を呼ぶ声が、いつもより少しだけ低く、慎重だった。


 心音は、ぴくりと肩を揺らす。


「……なに……?」


 できるだけ平静を装って返すが、声が震えないように、必死だった。


 陽翔は、一瞬だけ言葉に詰まり、それから――いつものように、少し照れたような笑顔を作った。


「……いや。ほんと、悪かったなって」


 その言葉に、心音は小さく頷く。


「……うん……」


 それだけで、会話は終わった。


 けれど。


 陽翔の中では、何かが確かに、始まっていた。それは、胸の奥に、ふわりと残る違和感。


 不快ではなく、むしろ、妙に気になって仕方がない感覚だった。


(……あれ……こころちゃんに……似てた、よな……?)


 教室の窓から差し込む春の光が、机の上をやわらかく照らしている。


 昨日と同じはずの景色が、なぜか少しだけ違って見えた。


 春は、まだ始まったばかり。


 そしてこの秘密は、そっと、誰かの心に触れてしまった。


 静かに、でも確かに――なにかが、動き出していた。


 夜。


 部屋の明かりはつけず、カーテンの隙間から漏れる街灯の光だけが、ぼんやりと床を照らしていた。


 陽翔はベッドに仰向けになり、手元のスマホを見つめていた。


 画面の中では、柔らかな照明の下、女の子が微笑みながら小さく手を振っている。


 ――こころちゃん。


 陽翔の“最推し”。


 その笑顔は、いつも通りだった。可愛くて、癒されて、見ているだけで元気が出る。


 ……はずだった。


「……」


 再生を止める。


 少し巻き戻して、もう一度……また、止めて……何度も、何度も、同じ場面を繰り返す。


 それでも、答えは出ない。


(……なんでだよ)


 昨日までは、ただの“最推し”だった。


 画面の向こうの、遠くて、安心して見ていられる存在。


 それが――


 今日、教室で見た、あの一瞬。


 伏せた睫毛。戸惑いを隠しきれなかった、あの表情。


(……似てる)


 いや、違う。


(……似てるとかじゃない)


 胸の奥が、ざわつく。


 あの目を、あの輪郭を、あの空気を――


(……重なる……)


 スマホをそっとベッドの脇に置き、天井を見上げる。


 静まり返った部屋の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく響いた。


 深く、息を吸って、吐く。


「……気のせいだろ」


 そう呟いてみる。


 けれど、言葉は空気に溶けていくだけで、胸のざわめきは、少しも静まってくれなかった。


 気がつけば、陽翔は玄関にいて、ジャケットに袖を通し、靴を履いていた。


 夜の空気が、ひやりと肌を撫でる。


「……行くか」


 自分でも、なぜこんな行動に出たのか分からなかった。


 ただ――


 今、会わなきゃいけない気がした。理由なんて、あとで考えればいい。


 夜道を歩きながら、ふと我に返る。


(……俺、なにやってんだよ……)


 男友達の家に、夜に突然押しかけるなんて。


 別に、特別な意味があるわけじゃない。


 ――ない、はずだ。


 けれど、インターホンを押す指先が、ほんのわずかに震えていた。


 ピンポーン。


 しばらくして、玄関の向こうから足音が近づいてくる。


「……はーい」


 聞き慣れた声。


 ガチャリ、とドアが開いた。


「……陽翔?」


 そこに立っていたのは、風呂上がりの心音だった。


 濡れた髪が、首筋に張りついている。


 眼鏡をかけていて、服装はラフな部屋着。


 それだけ。


 それだけなのに――


「……っ」


 陽翔の胸が、どくん、と大きく鳴った。


 喉が、ひとつ鳴る。


(……やば……)


 変だ。


 何も変わっていないはずなのに。


 そこにいるのは、いつもの心音のはずなのに。なぜか、視線を逸らしたくなるほど、まぶしく見えた。


「こんな時間に、どうしたの……?」


 ドアの隙間から覗く心音の声は、いつもより少し低くて、眠たげだった。


 陽翔は、とっさに言葉を探す。


「……いや……」


 一拍、間が空く。その沈黙が、やけに長く感じられた。


「……ちょっと、顔見たくて……」


 言った瞬間、自分の口から出た言葉に、脳内で警報が鳴り響く。


(顔見たくて!? 俺、なに言ってんだ!?)


 心音は、きょとんとした顔で小さく首を傾げたあと、玄関の段差を降りてこちらに近づいてきた。


「……寒くない?」


 その問いかけに、陽翔は反射的に答える。


「だ、大丈夫!」


 勢いが強すぎて、声が裏返りそうになる。


 その直後――


「……くしゅっ」


 小さなくしゃみが、夜の静けさを破った。


 心音は、恥ずかしそうに鼻を押さえながら、目を細める。


「……ご、ごめん……」


 その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも無防備で。


 陽翔の脳内で、何かが弾けた。


(……か、かわ……)


(いやいやいや、待て待て待て)


 頭の中で、理性が必死にブレーキをかける。けれど、心臓は言うことを聞かない。


「春とはいえ……夜は冷えるよね……」


 心音が、ぽつりと呟く。


 その声が、やけに近く感じた。


「……部屋、上がる?」


 その一言に、陽翔の心臓が跳ね上がる。


「――っ!?」


 意味は、分かっている。


 ただの男友達の部屋に行って、少し話すだけの誘い。


 それだけのはずなのに。


「……あ、いや……」


 言葉が詰まり頬が、じんわりと熱を帯びていく。


 夜風が吹き抜ける中、陽翔は自分の感情の行き先を、まだ見つけられずにいた。


(なんでだよ)


(なんで俺、こんな……)


 胸の奥で、答えの出ない問いが、何度も反響する。


 ただ男友達の部屋に行くだけ。それだけのはずなのに、足が重い。


 心が、ざわついて仕方がない。


「……無理なら、いいけど……」


 心音が、そっと言った。声には、ほんの少しだけ、不安がにじんでいた。


 その表情を見た瞬間、陽翔はふっと息を吐いて、観念したように笑った。


「……いや。行くよ」


 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頷く。


「……ただの……友達の部屋だしな」


 靴を脱ぎながら、胸の高鳴りをごまかすように、わざと軽口を叩いた。


 けれど、心臓の鼓動は、ますます速くなるばかりだった。


(……変だろ、俺)


(男友達の家に上がるだけで……)


 でも。


 心音の背中を見た瞬間、その考えは、静かに崩れていった。


 濡れた髪が、首筋に沿って揺れている。細い肩。柔らかなシルエット。


 何気ない後ろ姿なのに、目が離せなかった。


(……でも……)


 ただの友達なら。


 こんなふうに、胸が騒ぐはずがない。


 こんなにも、意識するはずがない。


 夜の静けさの中、ふたりの足音だけが、廊下に響く。


 春の気配は、まだ空気の中に残っていた。


 そして陽翔は、もう気づき始めていた。このざわめきが、気のせいなんかじゃないことに。


 春は、確かに――


 彼の心にも、そっと入り込んでいた。


 靴を脱ぎ、心音の後ろについて、廊下を静かに進む。


 足音が、やけに響く。


 ――静かだ。


 テレビの音も、話し声も聞こえない。まるで、家全体が息を潜めているようだった。


「……なんか、静かだね」


 陽翔がぽつりと呟くと、心音は少しだけ振り返った。その横顔は、どこか気まずそうで。


「……あ、うん」


 短く返して、また前を向く。


「明日香ねぇさんは?」


 その名前を出した瞬間、心音の肩が、ぴくりと小さく跳ねた。


「……母さんと二人で、映画を観に行ってる」


「あ、なるほど」


 陽翔は、少し笑ってみせた。


「あはは。だから家の中、こんな静かなんだね」


「……うん」


 リビングの前で、心音が立ち止まる。振り返らずに、ぽつりと続けた。


「父さんは……いるけど」


 少し間を置いて、言葉を足す。


「……僕と一緒で、騒がしくないから……」


 その声は、どこか遠くを見ているようだった。


 そして、ほんの一瞬の沈黙のあと――


「……今日は、ねえさんいなくて……助かった……」


 その言葉が、ぽろりとこぼれ落ち、言った瞬間、心音の表情がわずかに強張る。


 しまった、とでも言うように、視線を逸らした。


「……助かった?」


 陽翔が、その言葉に引っかかる。


 問いかけは優しかったけれど、その奥には、確かな違和感があった。


 静かな家の中で、ふたりの間に、ふわりとした緊張が漂い始めていた。


 陽翔の声のトーンが、わずかに低くなった。


「……どういう意味?」


 その一言が、空気を変え、心音は、はっとして口をつぐみ、視線が、泳ぐ。


「……いや、その……」


 声がかすれて、言葉にならない。


(……やばい)


(今の、完全に……)


 陽翔は、じっと心音を見つめていた。その沈黙が、問いかけよりも鋭く、心音の胸を突く。


 そして――その様子が、ふと重なった。


 今日の昼。


 メガネが外れた、あの一瞬。


 戸惑いと、恐れと、隠そうとする気配。


(……まただ)


 胸の奥が、ざわりと波打つ。


(……こころちゃんが、“何か隠してるとき”の顔……)


 陽翔の口から、自然と名前がこぼれた。


「……シオン」


 その瞬間――ふと、引っかかった。


(……シオン)


(……心音)


 頭の中で、音が重なり、違和感が、形を持ち始める。


(……あれ……?)


 心音。しおん。


 こころちゃん。――こころ。


 ふたつの名前が、脳内で並ぶ。


(……漢字……)


 思考が、急激に加速する。


(確か……“心”の、“音”……)


 喉が、かすかに鳴った。


(……まさか……)


 そんなはず、ないし、名前が似てるだけ。読み方が近いだけの偶然だ。


(偶然……だよな?)


 けれど。


 目の前の心音は、今にも「まずい」と言い出しそうな顔で、ぎこちなく視線を逸らしていた。


 その仕草が、何よりも雄弁だった。


(……否定できない)


 胸の奥が、ぞわりと、はっきりと波打つ。


 静かな夜の中で、陽翔の世界が、少しずつ形を変え始めていた。


(……名前まで……こんなに、繋がるか……?)


 偶然にしては、できすぎている。けれど、確信にはまだ届かない。


 陽翔は、喉まで上がってきた言葉を、そっと飲み込んだ。


 ここで口にしてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。


 だから――


 代わりに、ほんの少しだけ声を落として、名前を呼ぶ。


「……心音しおん


 さっきよりも、ずっと慎重に。まるで、触れてはいけないものに手を伸ばすように。


 その瞬間、心音の肩が、わずかに揺れた。


 ほんの一瞬の反応。


 けれど、それが陽翔には――答えのように見えてしまった。


 静かに、深く息を吸う。


(……まだだ)


(……まだ、確かめる段階じゃない)


 そう思おうとする。


 けれど。


 もう、戻れないところまで来てしまっていることだけは、はっきりと分かっていた。


「……なに……?」


 心音の声は、かすかに震えていた。それでも、平静を装おうとしているのが分かる。


 けれど、陽翔はもう、目を逸らさなかった。


「……さ」


 一歩、踏み出す。


 距離が、縮まる。


「……一回でいいからさ」


 心音の正面に立ち、まっすぐに見つめる。


「……メガネ、取ってみせてくれない?」


 その言葉が落ちた瞬間――


「……え」


 心音の声が、かすれた。


 空気が、ぴたりと止まる。


 部屋の中の音が、すべて消えたようだった。


 ただ、ふたりの間にある沈黙だけが、重く、静かに流れていた。


「……どうして……?」


 心音の声が、かすかに震えていた。問いかけというより、呟きに近い。


 陽翔は、少しだけ目を伏せてから、正直に答えた。


「……分かんない」


 苦笑いのように、口元がゆるむ。


「でも……どうしても、ちゃんと見たくて」


 その声には、誤魔化しも、冗談もなかった。ただ、まっすぐな気持ちだけが乗っていた。


「……心音の顔」


 その言葉が落ちた瞬間、空気がぴたりと止まる。


 心音は、ぎゅっと唇を噛み、胸の奥が、ざわつく。


(だめだ)


(ここで外したら……)


 何かが、戻れなくなる気がした。


 けれど。


 陽翔の目は、真剣だった。


 からかいでも、興味本位でもない。ただ、確かめたいという、静かな決意の色。


 その視線に、心音は目を逸らせなかった。


「……無理なら、いい」


 陽翔が、そっと一歩引く。


「……ごめん。変なこと言った」


 その声は、どこか寂しげだった。


 その瞬間――


「……」


 心音は、ゆっくりと手を上げた。


 メガネのフレームに、指をかける。指先が、ほんの少し震えていた。


(……なんで……)


(なんで、こんな目で見られると……断れなくなるんだ……)


 胸が、早鐘のように鳴って、息がうまく整わない。


 それでも。


「……一瞬だけだよ……」


 小さな、小さな声が、夜の静けさに溶けていった。


 そして。


 ――すっと。


 心音の指が、メガネのフレームを持ち上げ、ためらいがちに、けれど確かな動きで、それを外す。


 カチリ、と小さな音がして、手の中に収まる。


 廊下の明かりが、ふたりの間に落ちる。


 その光の中に――


 眼鏡に隠されていた、素の心音が、静かに現れた。


 伏し目がちの睫毛。整った輪郭。どこか儚げで、けれど確かにそこにいる“彼”。


 陽翔の呼吸が、ふと止まった。


「…………」


 言葉が、出てこない。


 喉が動くのに、声にならない。


 ただ、見つめることしかできなかった。


(……やっぱり……)


 確信が、静かに、でも確実に胸の奥に落ちていく。


 今日、教室で見たあの一瞬。


 スマホの中で笑っていた、こころちゃん。そして今、目の前にいる心音。


 すべてが、一本の線で繋がった。


 迷いも、疑いも、もうなかった。


「……」


 心音は、耐えきれずに視線を逸らす。その頬が、ほんのり赤く染まっていた。


「……もう、いいでしょ……」


 小さく呟きながら、メガネを戻そうと手を動かす。


 けれど――


 陽翔は、その手を止めなかった。


 止めることが、できなかった。


 ただ、見ていた。そこにいる“心音”を。


 そこにいる“こころ”を。まるで、初めて出会ったように。


「……なあ、心音」


 陽翔の声が、夜の静けさに溶けていく。その一言だけで、心音の肩がわずかに揺れた。


 廊下の明かりは淡く、ふたりの影を長く伸ばしている。


 陽翔の胸の奥で、心臓の音がやけに大きく響いていた。自分の鼓動が、相手に聞こえてしまいそうなほどに。


「……お前さ……」


 一拍、間を置く。


 言葉を選ぶように、慎重に。


 でも、もう引き返せないと分かっていた。


「……俺の“最推し”に……すげー、似てるよな」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。


 春の夜は、静かだった。


 虫の声も、風の音も、すべてが遠くに感じられるほどに。


 その静けさの中で――


 ふたりの間にあった秘密は、もう隠れきれないところまで来ていた。


 言葉にしてしまえば、もう戻れない。


 でも、それでも。陽翔は、目を逸らさなかった。


 心音もまた、逃げなかった。


 春は、まだ始まったばかり。


 けれどこの夜は――


 確かに、何かを変えようとしていた。


 ふたりの関係も。心の奥にしまっていた、名前のない感情も。


 沈黙は、思ったより長くならなかった。


「……似てる、よな」


 陽翔のその言葉に、心音は一瞬だけ固まってから、ふっと息を吐いた。


「……それ、よく言われる……」


 メガネをかけ直し、少しだけ肩の力を抜く。


「……世の中、似てる人、いるから……」


 苦しい言い訳。


 それでも。


 陽翔は、それ以上踏み込まなかった。


「……そっか」


 そう言って、少し照れたように笑う。


「でもさ」


 一拍置いて。


「今日、ここ来てよかった」


「……え?」


 心音が顔を上げる。


「なんか……変なこと考えて、変な気持ちになって、変なまま突っ走ってきたけど」


 頭をかく。


「……答え、ひとつじゃないって分かった」


 心音は、何も言えなかった。


 言えなかったけれど。


 胸の奥が、少しだけ、あたたかくなる。


「なあ、心音」


「……なに……?」


「こころちゃんも好きだけどさ」


 一瞬、間を置いて。


「……俺は、心音の方が……近くて、落ち着く」


 それは告白でも、宣言でもない。


 ただの、本音。


 心音の頬が、わずかに熱くなる。


「……それ……」


 小さく呟く。


「……ずるい……」


 陽翔は笑った。


「だろ?」


 玄関の時計が、静かに時を刻む。


 外では、夜風が春の匂いを運んでくる。


「……もう、帰る?」


 心音が聞く。


「うん」


 靴を履きながら、陽翔は振り返る。


「……あ、そうだ」


「……?」


「次の配信」


 さらっと言う。


「……見逃したら、怒るからな」


 心音は、一瞬目を丸くして――


 そして、くすっと笑った。


「……それは……推しに言うべきことだと思う……」


「じゃあ、両方に言っとく」


 軽い言葉。


 でも、確かに。


 玄関のドアが閉まる。


 一人になった心音は、見の前に立ち、そっと前髪を整えた。


(……まだ、バレてない……)


(……でも……)


 胸の奥のざわめきは、いつの間にか、怖さよりも――


 やさしさに近いものに変わっていた。


 春は、まだ始まったばかり。


 秘密も、推しも、友情も、全部そのままで。


 世界は今日も、少しだけ、やさしいままだった。



――fin                                                                 

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