表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

星、落ちる夜に

 カーテンを開き、埃がキラキラと反射する音楽室に、雪の反射を重ねて。彼はピアノ椅子に腰掛け、音楽の話ばかりしていた。

 誰とも心を通じ合わせることのない自分にとって、初めての友人。

 静かに移り行く部屋の影を視線で追いながら、音楽室に響く彼の声と、ピアノの旋律を聞く時間は、夢のようだった。

 ピアノの音色だけで、彼は世界を作り出す。時には滴る雨の陰りを嘆くように。いたずらがバレないよう声ひそめて、走り回る無邪気さを装いながら。

「ねぇ、星良さんはなんでハルがピアノを弾くと怒るの?」

 ハルはまるでこの世界から、俺を消してしまったように見向きもしない。けれど、それでも答えてはくれた。

「星良は、ピアニストを目指していたんだ」

「だったら、余計喜ぶもんじゃない? 血が繋がらないとはいえ、息子に才能があってさ」

「自分より秀でる奴が、仮にも息子だったら俺は嫌だな」

 折れてしまいそうな細い指をピアノに置くと、静かな溜息を吐いた。透き通る彼の存在。息をひそめるだけで何もかも幻影のように、粉々に砕かれてしまう現実感。

 そうじゃないだろ、お前は。握りしめた拳が痙攣するように震える。

 才能に恵まれたハルが、環境に恵まれないことが腹立たしい。背筋を伸ばし、凛とした雰囲気をもつハル。それなのにどうしたことか、俺の前では色素が薄まる。

 淡い光の白に負け、眩しさに目を細めた瞬間、消えてしまいそうな儚さ。きっと跡形も残りはしない。

 ハルがいなくなることが怖い。優しい奴は早くいなくなるから。

 窓の外の校外には、世話しなく誰かが行き来をしている。汗をかきながら、死んだような目のサラリーマンがハンカチで額を抑えていた。

 笑えない冗談だろう。これがあと数年後の俺の末路だ。眺めるのも嫌になれば、俯くしかない。そうやって出来上がる、後ろ向きな人生。RPGゲームであったっけ? 「返事がない、まるで屍のようだ」ってセリフ。

 三万回、目を閉じて眠り、同じ日々がリピートされて終わる。そうやって俺は卑下している。夢中になれるほど好きになれること一つだってない。

「お前はいいよ。才能があって。親に期待されなくても、ほかの誰かに将来に期待されてて。俺はやりたいことまだわからない」

 俺には癖がある。髪を抜く癖だ。嫌な時、むかつくとき。将来にやりたいことが見つからなくて、息苦しい時。そんな時、つい頭を掻きむしって毛を抜く。

「明菫、それやめろ」

「ハルにはわかんないよ。俺のことは。星良さんだってハルの頑張りを見ていれば絶対」

 許してくれるのにと言おうとして、遮るようにハルは言った。

「どうせ、死んでしまうのに?」

 ぞくりと、背中が震えるのが分かった。冷たい声色は静かな怒りを露わにし、曇らせた表情には、ギラつく憎悪の眼光が嫌になるほど美しかった。形のいい唇、中世的な顔立ち、優しい顔立ちの彼が、不意に見せる凶暴性。鳥肌が立つ、そんなハルに。

「死ぬ……ってなに?」

 呆然と聞き返しても、ハルはその表情を崩さなかった。

「さぁ、なんだろうな。死ぬって」

 はぐらかす気などないのか、聞かれたくないのか、わかるかわからない以前の話だ。俺はハルのことを何も知らなかったのだから。



第一章 出会い


 俺と両親は最低限の食事と会話だけをする。預けられた保育園で常識を学び、家族としてのコミュニケーションをほとんど取らなかった。足りないことばかりを見て学ぶ。繰り返せば、真っ当な人間の形に見えてくる。

 けれど、他人と比較すれば、浮き彫りになる小さな歪み。

 いつも俺は「楽しい」がわからない。

 わからないなりに不格好に似せて笑顔を作った。冷や汗をかきながら、バレやしないか心臓が張り裂けそうなほど怯えていた。完璧な笑顔とは程遠い表情を鏡で見る度、気落ちし、ぞわりと恐怖が膜をもって包んでいくようだった。

 けれど、それも数をこなせば完成度は増していくようで、ちゃんとみんな騙されてくれた。でもきっと、子供の間だけだ。みんな幼稚だから騙されてくれるんだ。そんな焦りはぬぐい切れない。

 目元を腫らし、ぽたぽたと涙を流す女の子の弱さ。誰かのせいにして、先生の怒りの矛先を必死に逸らそうとする狡さ。そういった行動の意図を理解できても、本能的になぜそんなことをする必要があるのかを、理解することが俺には難しかった。

 人と比べれば感情の未発達さは明白で、指をさして「こいつはおかしい」炙り出されることばかりに怯えていた。

 だって俺にはわからないから。

 なぜ大きな声を上げて走り回って、相手を追い回すのか。それが遊びだと言われたところで、納得がいくほど俺は人間を理解していなかった。その時はうっすらと希死念慮が芽生えていた。

 年を増すごとに、他人がひたすらに高性能のマシンのように思えた。差異は開くばかりなのに、上手に騙されてくれるのが何より怖い。その仕組みもその無関心さも、本当は気づいていて、騙されているのは俺なんじゃないかと猜疑心ばかり芽生えていた。

 臆病さから、発育の本を読み漁れば、生後五歳までに様々な経験をさせなければ、感情の神経が広がらず、感情が発達しないことを知った。

 恨めしい。こいつらが真っ当に俺を育てなかったから、俺はこんなに怖い思いをしているのか。

 人の輪の中で生きるしかない絶望。かごめかごめで、囲われた中で後ろの正面誰だ! と閉め出されるその時を待つしかない。

 しかし、ひょんなことがきっかけで、そんな俺の臆病さは崩壊する。どこにでもある同級生のいじめがきっかけで。

 臆病なしぐさと丸まった猫背が印象的で、どこか虚ろな目をしたその彼女、嘉村 沙月は、いじめの標的にされた。いつも口をぎゅっと結んで、目元が痙攣するように震えているイメージしか今もない。

 最初は、ものを隠される。私物を捨てられる。無視される、なんて典型的ないじめだったのに、だんだんとその悪意はエスカレートしていく。

 悪意に染まる人たちの目は、新興宗教で狂った隣のおばさんに似ていた気がする。何かに快感を覚えて、いけないとわかっていても自身さえ騙して、酔狂していく様。

 他人事だ。いじめをするクラスメイトも、傍観する俺も。堕ちていく様は哀れに思えるのに、俺は彼女を救おうとはしなかった。一番、閉め出されることに怯えているのに、友人でもない彼女を助けるなんてできなかった。

 正義感ってなんだ。それで自分が満たせるのか。満たす正義感は偽善なのか。何もわからないし、知りたくなかった。

 次第に、彼女はトイレを使うことを禁じられ、いじめる女子たちにトイレに行くことを邪魔されるようになった。トイレに駆け込もうとするたび、邪魔されて突き飛ばされて、彼女は限界を迎えた。

「あっ、ううっ」

 冷や汗をかき、耐えるような呻きを上げ、彼女は座り込んでしまった。頬には汗をかき、赤らんだ頬がどんどんと青くなっていく。

「トイレにいかせ……て」

 息も絶え絶えで、長い前髪の中の瞳が揺れる。潤んだ眼が、悩まし気な眉が、上がる息がどこか色っぽく、来るものがあった。

 彼女の色白の肌が赤く染まって、悩まし気な息遣いにドキドキした。それは俺だけではなく、その場にいた全員がそうだった。彼女がいじめられる原因になった一つに、その目を引く容姿も一因としてあったのだ。彼女の目は大きく、真っ黒な瞳は澄んだ夜の色をしていた。静かに笑う声はどこか上品さもあり、その指先の動きまで目で追ってしまうほどに、洗練され、お淑やかだ。

 それでも彼女はいつも自身がなさげにうつ向きがちで、その隙が余計に嗜虐心をくすぐっていた。

「おね……がい……。お願い……そこをどいて」

 苦し気な吐息。赤い頬、蒸気の上がるような肌の質感。周りの変な息遣いと人間の熱気が、じとりと肌にまとわりつく。うめき声が、その赤らんだ頬が、その煽情的に潤む目が。

 俺は静かに彼女の道に立ちはだかるいじめっ子たちを、突き飛ばした。

「ほら、早く行きなよ」

「……うん」

 うめくような声で返事し、顔をゆがめても、それすら美しく、どこから見えても心が震える。

「何するのよ」

「女子トイレにまで入ってきて、変態」

「何が変態だよ。お前らの方がよっぽどやってること変態だろ」

 その時の俺は、憎悪が渦巻いていた。

 まともな家族とまともな教育を受けて、恵まれているくせに、どうしてこれほどまでに歪むのか。俺が正しくあろうとする、苦しみも知りもしないくせに、不平不満を口にして偉そうにほざくその姿に、俺は「死ねばいいのに」と声に出していた。

「気持ち悪い!」

「あんたが死ねばいいのよ」

 そういった瞬間、俺は目の前の女子を本気で殴った。拳とほほ骨がゴツンと当たる音が響いて彼女が口から血を吐き、その血の中に白い歯が混じっているのが見えた瞬間、悲鳴が聞こえた。

 一人が叫んだかと思うと、悲鳴は伝染し、殴った女子をかばうように立たせると、みんな逃げていく。

 何が怖いんだか。今まで俺に散々、秀でたものの、優遇されて、愛されたものの幸せを見せつけてきたやつらが。

 その時、初めて気づいたのは、俺が感じていた恐怖は激しい憎悪と怒りだったこと。恨めしい、初めから用意されていた、幸せになるための列車に乗れる切符。それを持っている奴らが、人からそれを略奪して、奪うさまが。憎かったのだ。

 怒りで頭が沸騰しそうになりながらも、自分の顔を抑えた。

 口元は醜くゆがみ、頬に伝う涙が止まらない。奥歯がカタカタと鳴り、恐怖で膝が笑っていた。

 俺は今、無茶苦茶な表情をしている。

 心の奥底に何一つ、理解してあげられない虚しさが、面積を増していく。どこかの本で読んだことがある。生きていない人間の話だ。この世の中には魂のない人間がいるという。オーガニックポータル。まるで都市伝説のような話だ。魂のない人間は自分の生まれた意味が分からないんだそうだ。

 その話を聞いたとき、真っ先に自分がそうだと思った。自分が生きている理由どころか、自分は周りの人間の行動のすべてが本能的に感じることができても、何一つもわからないのだ。

 それが恐ろしく、まるで自分を含めた人間すべてが、魂のない機械のように感じた。それは一人ゾンビ映画の中に閉じ込められるより、恐ろしく身震いの絶えない事実だった。そう、俺はいずれ死ぬつもりだった。勧められた小説を読んで、この部分が面白かった。この主人公に共感したと話されたところで、俺にはおおよそ共感なんてないのだ。

 俺が欠陥品だから、俺が恐ろしく壊れた人間だから、何も感じない。何も得られない。何もかもが嘘で埋め尽くされ、心を刺すのは羨望と嫉妬。

 死んでしまいたかったんだよ、もうずっと前から。この嘘ばかりつくこの口が。思ってもないのに、この目に見える景色を、綺麗だという口が。本当のことを何一つ語ろうとしない。受け入れられないと決めつけて、この恐ろしい無感情に一人で立ち向かわないといけない孤独と悲しみが。誰か一人でいいから、俺の心を動かしてほしかった。全部、それは自分本位で他人に対する優しさなど一つもないのに。

「気持ち悪い……」

 トイレから出てきた嘉村さんがポツリと、そういった瞬間、俺はもう戻れないのだと悟った。


 次の日から、いじめの標的は俺に変わった。

 私物を隠され、無視をされる。でもその頃の俺は、私物を探したりなんかしなかった。こそこそと陰で笑うクラスメイト達に近づいて、手をひねり上げ、壁に押さえつけた。

 淡々とした作業、何も感じない。悲鳴を上げるクラスメイトたちと、青い顔をして押さえつけられる主犯格の女子、田部。

「骨を脱臼させるのって、どうするか知ってる?」

「えっ」

 主犯格の女の子の肩を強く外側に引っ張りながら、俺は話し続けた。骨の継ぎ目をあとは思い切り――。

 その刹那、悲鳴が教室に叫び声がこだまする。高すぎる声に耳を傷めながら、俺は彼女の脱臼させた方の肩を足で、汚物みたいに踏んでみる。

 女の子はじたばたとひきつけを起こし、口から泡のようなものを吐き出し始めた。苦痛をごまかすためなんだろう、動く足だけをバタバタと動かして、激痛を逃がすようにもがいている。

「肩をひねった状態で、外側に強く引っ張るんだ。今の状態ならやりやすいね」

 冷静にそう言っても聞きやしない。呆れて、俺はそっと主犯格の女の顔をこちらに向かせる。

「ばーか」

 その有象無象の中で、一人だけ俺を違った目で見る人がいた。佐倉 ハル、その人だった。

 のたうち回っている主犯格が、気絶したのか動くのをやめ、浅い息を繰り返すようになってから、俺は我に返ってその場を逃げ出した。

 別に先生に怒られるからとかじゃない。両親に怒られるとかでもない。

 彼女にあれ以上、見つめられるのが怖かったからだ。心臓よりも心よりももっと奥の方に眠る。知りたくない感情がずるりずるりと引きずり出されて。

 苦しくてたまらない。

 孤独には慣れている。ガラス戸に雨が吹き付けて、なでるように落ちていく様をみていた。一人が寂しいと思ったことはない。雨粒を叩きつける窓に背を任せ、うつむいたまま立っていた。

 水滴の青い影が、流れ落ちるのが映る。寂しいと思うのは、この世界で指をさされてお前は異常者だと弾き出される時だけだ。

 他は寂しくない。誰の目にこの姿が映らなくても、きっと寂しくない。

 遠くの方から誰かが走ってくる足音が聞こえる。長い廊下で足音が反響して、複数人が俺を囲むように近づいてくる。

「先生、いた! あいつがやったんです」

 クラスメイトが指をさした。いつだってそうだ。ドブ色の眼をしたクラスメイトが攻めるように囲って黙っている。

「どうしてこんなことをしたんだ」

 教師は静かにでも、確かな威圧感を放って言った。

「むかついたから」

 俺は静かにそういうと、俯いた。

「むかついたら、クラスメイトを傷つけていいのか?」

 俺はすべてを話してしまおうかと少し躊躇し、口を開こうとした瞬間。

「違います。八坂くんはやり返しただけです」

 庇うような言葉を発した相手は、佐倉ハルだった。

「いじめようとしてきた人にやり返して何が悪いんですか?」

 ハルはさらに言葉を加える。

「本当なのか?」

 真偽を問うように、先生は俺の方を見た。その目は少し歪んで、面倒なことになったと揺らいでいた。

 俺は黙ったまま、視線を逸らす。

「でも、どう考えたってやりすぎだ」

 クラスメイトの三坂が非難の声を上げる。それは波紋となって同調を生み、他のクラスメイトたちもまばらに声を上げる。同調圧力に屈するように、ためらいながらも白は黒にひっくり返る。

 いつも自己保身に走りたがる。自身でさえそうだった。保身しか見えていないその目で正しいを何度見落としてきたのか。一瞬、目を閉じて虚しさを抱く。

「多勢に勝つには、圧倒的な力でねじ伏せるしかない」

 呼吸を繰り返し、落ち着いてから瞼を上げた。目に映るすべてに吐き気がする。夕闇が近づいている。クラスメイト達の表情が見えず、口元だけがせわしなく動いているのが不気味だった。

 眉を吊り上げた有象無象は悪霊のようだ。

 荒い呼吸の凶暴な自分を、必死に隠す飼い犬。けれど、それも理性を失えば、獰猛な野獣でしかない。

「お前ら、俺があそこで生ぬるい威嚇でもしようものなら、嘉村さんみたいにいじめをエスカレートしてないか? それにお前らのいじめは、集団暴行だっただろ」

 俺はそっと三坂に近づき、耳元で告げてやる。

「お前、さっきから口が笑ってんだよ」

 そういった瞬間、三坂はとっさに口を隠した。隠した瞬間、顔に血が上っていく。赤く染まるその顔は恥を自覚したのだろう。

 三坂は濁った怒声を上げ、俺を殴りつけた。

 不意を突かれたことで、よろけた。けれど、殴られてやる。やり返すことはない。わかりやすいんだ。最初に手を上げたやつが悪で、最後まで手を上げなかった奴が善だと。

 きちんとレールを敷いてこちらに引き込みやすい下地を作る。だから多少の痛みを受け入れてやる。

 鼻血が三坂の拳についたところで、三坂はハッとした表情を浮かべる。拳についた血がまざまざと事実を突きつける。自分が悪いことをしたと。

 この後に起こることに怯えたのだろう、唸り声をあげて、現実を否定するように俺を突き飛ばした。

 廊下の壁に腰を打ち付けた俺は、痛みによろめく。ハルはそんな俺のそばまで来ると肩を貸してくれた。

「大丈夫か?」

「ああ。大丈夫」

 助けてくれたハルを見上げると、少しこそばゆい感じがした。その中世的で整った容姿の彼が、周りににらみを利かせた。吊り上がった眉、恐ろしいほどに冷徹に見える眼光にぞわりと鳥肌が立った。

 ハルは先生に向かって言い放つ。

「なぁ、先生。あんた、生徒が殴られているのに、何ぼんやり見てんだよ。みんなそうだよな? 嘉村さんがいじめられた時も、いじめていた主犯格の田部さんが殴られていても、お前らいつもそうやって、見ているだけじゃないか」

 傍観者は黙るしかない、事実だからだ。言い返す隙などない。

「なぁ、明菫。お前、本当は寂しいんだろう。誰とも気安く関われなくて、心の内を誰にも言えなくて」

 そういわれた瞬間、頬に熱を感じた。これは恥ではない。この感情は何か俺は知らない。言葉を紡ごうとすればするほど、舌がから回る。

 熱い血をこぼしているのかと思った。喉の奥が痛い。肩が震えて、噛みしめて嗚咽を殺すのに必死だった。俺の頬からは涙がこぼれていた。

 ハルは何も聞かないし、言わなかった。肩に優しくおかれた手だけが、彼の感情のすべてだったように思う。

「悪かった」

 教師が言った言葉で、事態は収束へ向かった。


 そんな出来事があってから、俺の両親は学校に呼ばれた。

 さすがに無罪放免とはいかず、親に今回の詳細については報告された。

 学校に呼び出され、教師から事情を聞いてた両親は無表情に「きつく言って聞かせます」とだけ。

 氷漬けの表情。この親はいつもそうだ。人間の面の皮を張り付けただけの人形。

 教室を出た瞬間、両親は話し出した。

「忙しいのに、迷惑だわ」

「そうだな」

 抑揚のない声の人形劇の芝居を見ているようだった。彼らは俺を視界に入れない、話しかけもしない。

「いいさ。時間がたてばいなくなってくれる」

「そうね。育ち切れば消えてくれるわ」

「どうせ、期待なんかしていないし」

 二人の会話を、遥か後ろから聞いていた。問題を起こす子供はSOSを出すために、家族を困らせるんだとテレビで言っていた。視線がこちらを向くことは、これから先もないのだろう。

 お互いしか視界に入らない、腹話術のような気味の悪い家族。窓ガラスに映る学ランの自分は、表情の固まった人形に見えた。なんだ、俺はちゃんとこの家族の一員なのか。失望が心に根差して、虚しさが破裂しそうだった。

 その瞬間だった。

「明菫! 今日、俺んち来ない?」

 ハルの声が聞こえた。あたりを見渡し、声のする方を探る。どこだ? とあちこちを探したけど、見当たらなくて汗をかいていると、ハルは「ここだよ」と声を張り上げる。

 声を上げた瞬間、ハルは俺のところまで息を上げて走り寄ってきた。

「俺んち、今日ピザなんだ。食べに来いよ」

 そういったハルを縋るような目で見ていたと思う。

「うん、あ」

 ありがとうと言いかけて、言葉が詰まった。喉の奥から出そうでない言葉に戸惑いながら、指で触れる。その瞬間、なぜその言葉を言えないか分かった。

 両親がここにいるからだ。恐る恐る怯えながら、視線を両親に向ける。真顔のまま、俺の見る視線はどこか侮蔑に似ていた。無表情なのに、その一瞬の表情だけで声が奪われる。表情が凍り付く。

 ああ、同じになれってことか。この両親はきっと俺と同じように育てられたのだろう。なんとなくわかる。彼らはきっと、自分たちの子供時代の恐怖を同じように俺にも擦り付けて、俺を同じ不幸に陥れたい。

 それは毎日のように触れ続ける両親の悪意。

 震える声帯が声を出せずにいると、ハルは俺の手首をつかんで「マリオカートやろうぜ」とすべてを吹き飛ばしてくれる笑顔で言った。

 そして走り出し「おばさん、おじさん、明菫借ります!」と叫ぶと走り出す。その時まで、俺はハルとはただのクラスメイトで、ただの通行人だったのに。

 握られた手首が温かい。その体温が自分に移し、熱を持って生を与えた。ハルの後ろ姿は背筋が伸びて、細い短髪から汗が滲んでいた。振り返るハルの安心させるような、柔和の笑みと、すべてを薙ぎ払ってくれる強引な行動に。

 しわくちゃに顔をしかめてこらえるのに、無駄だと言わんばかりに頬を伝う涙が熱い。ああ、こんなに熱があったんだ。生きている体温が俺にもあったんだ。そう感じれば、涙はとめどなく、みっともなくあふれて止まらない。

 いうしかない。前なんか見えないほど涙で歪んでいるのに、この手を信じていれば、目をつむったって大丈夫だって信じられた。

「……連れ出してくれて。ありがとう」

 声が歪む。かすれたお礼だった。耐えられなかった。目につながる神経の線が切れて、とめどない雨に滲む。

 気づかないはずがない。乱れた息遣いは涙で濡れているのに、ハルはその口をかたく閉ざしたまま。

 彼のその沈黙が心を刺した。痛みを遠ざける麻酔の針をハルが刺してくれた。優しさに他ならないそれが今を耐えるだけの、一時の誤魔化でもかまわない。

 今日を越えられるだけの心が欲しかった。ハルが耐えるだけの心をくれた。熱を与えてくれた。笑顔を、喜びを初めて与えてくれた。

 俺はハルが好きになった。

 それは恋愛や友愛なんて戯れたものとは、ほど遠い。深い執着。愛してるなんてほど重苦しくもない、誰かの幸せを祈ることしかない奥ゆかしい好意だった。



  二章  ピアノの旋律



 ハルの家は何処かのジブリ映画に出てきそうな、古いけれど小じゃれた洋館だった。白い壁はくすみ、色褪せた赤い屋根と窓の多さに驚く、口ごもる。

「お前ん家って金持ちなのか?」

「古いだけだよ」

 興味なさげにハル言ったけれど、こんな大きい家を叔母と二人でどうやって切り盛りしているのかが気になった。

「掃除とか、どうしてるの? っていうか、ここでマリカするの?」

「なに? マリカ、嫌なの?」

「これならバイオハザードの方が雰囲気出そうだなって」

「バイオのリメイク出てたし、そっちする?」

 少しふざけながら、ハルは答えるけど、少しも笑っていなかった。きっと何かあるんだろうけど、俺は聞かなかった。

 大きな扉を開いて、広い玄関を上がる。靴を玄関でそろえて、スリッパを貸してもらうと広い洋館の中を歩きだした。暗い家の中には、誰一人いない。

 白い壁が長く続き、思い出したように部屋の扉が時々現れる。木製の扉は深い緑に塗られ、金色の取っ手が高級感を出していた。

 白い壁と、緑の扉、あとはおしゃれな黒い窓枠に曇りガラス。この家は何かにとっていちいちおしゃれだった。

「なぁ、ハルはどうして俺を助けてくれたの?」

 ハルは何も答えず、少し困ったように唸っていた。

「明菫って、人と関わるの下手だろ?」

「ああ」

「俺も下手なんだ。思ってることが、言えないんだ。お前と違って、ちゃんと言えないんだ」

 暗く口を閉ざした彼に、それ以上何も聞けなかった。押し黙ると、静けさと共に不気味さが押し寄せる。

 薄暗がりの廊下は、先があまり見えない。フィラメントが点灯する微小な音を聞き、廊下に明かりが点滅しだす。今までと雰囲気ががらりと変わり、それを境にハルの声のトーンも元に戻る。

「明菫って、音楽とか聴く?」

 長く続く廊下の終わりが見えていた。そこにあったのは、サンルームに置かれたグランドピアノだった。

「邦楽ロック、たまに洋楽のニルバァーナ聞くぐらい」

「へぇ、かっこいいのが好きなんだ」

 ハルは少しだけ笑いながら、グランドピアノにかけてあったカバーを外す。

「じゃ、聞いてよ。俺のピアノ、かっこいいからさ」

「バイオは?」

「あとでな」

 そこからのハルは常軌を逸していた。滑らかに激情的に動く指。か細いのに、荒々しい音色を奏でる。かと思えば、急にじっとりとした情感を奏でる。ピアノはきっと彼のアイデンティティなのだろう。ハルは楽しそうだった。自分とは違い、情熱をもって何かに向かうその姿は、あまりにまぶしい。

 少し寒いサンルームの中のピアノは、彼に弾かれて幸せだろう。様々な顔を見せてくれる。楽器なんて誰が演奏したところで変わらないのだと、見下していた自分はバカだった。

 ハルが弾くから、こんなにも音が弾み、感情を表し、心を打たれるのだ。白い吐息の霧を放ち、彼は額にうっすら汗をかきながら、暗闇の中ライトアップされるその空間で、疑いようもない主人公だった。

 気づけば、何時間そこにいたかわからない。

 サンルームに打ち付けていた雨はやみ、次第に雲が破れていた。幕引きにお似合いの月明かりが差し込んで、彼を照らしていた。

 照らされる彼は深々とお辞儀をする。その所作の美しさから、このサンルームがどうしても、劇場としか思えなくなった。

 ピアノの旋律だけで、場所を選ばずその場の塗り替えてしまう圧倒的な才能。これが天才というんだと痛感する。ああ、こいつも持っている側の人間なのだと。

「聞いてくれてありがとう」

 俺はあっけにとられて、口をあんぐりと開けたまま、ただ一言。

「すげぇ」とつぶやいた。

「だろ」

 ハルは頬を染め、嬉しそうに俺の隣に座る。

「ピアニストになれるんじゃないか」

「簡単に言ってくれるなよ」

 ハルはそういうと、いつの間にか用意していたポテトチップスとコーラを皿に盛り、そのサンルームに居座って、ピアノと音楽の話をしていた。音楽の話なんかされたって、わかりゃしないのに、不思議と苦ではなかった。

「ピアノ好きなんだろ。なればいいじゃん。もったいないよ」

 そういうと、ハルは少し照れたように「なれるかな」とだけこぼした。

「お前が夜にコーラ飲んでポテチ食ってなきゃなれるんじゃないの? これはデブるだろ。デブのピアニストは人気でないと思うぞ」

 俺はそうふざけていうと、「今日だけだから」とハルは元の調子に戻って笑った。


 十二時を回った頃、さすがに眠くなり、トイレの場所を教えてもらい、広すぎるトイレの明かりをつけた。

 あまりにも洋館といっていいほどの、豪邸なのでは金の便器なのではないか? と疑いはしたけど、ちゃんと白い便器で安心する。

 便器金だったら、それはそれで品がないし。と妙な納得をして用を足し、手を洗って蛇口を閉める。しっかり閉めたけれど、ネジが緩い蛇口が水滴を止めきれずに、ぽたぽたと音を立てていた。トイレの扉も古いのか、悲鳴のような金具の音を聞いて、ぞくりと背筋を震わせた。お化けでも出るんじゃないだろうな。

「ねぇ、あんたハルの友達?」

 その声に思わず、びくりと身をすくめた。心臓がどくどくと大げさに動いて、息が荒くなる。でも、すぐそれはハルのご家族だと気づいて、無理やり呼吸を整えた。

「おじゃましてます……」

「ここ、不気味でしょ?」

 にやりと笑うその女性は、傷の入った眼鏡をしたモデルのような高身長。手足も長くスタイルがいいのに、服のセンスが壊滅的にダサい。芋臭さが抜けない女性だった。

「ハルのお母さんですか?」

「違うよ。あの子の両親は死んだからね。私は引き取った叔母に当たる人物さ」

 その少し風変わりな口調に、少し驚きながら「ああ、ハルのおばさんなんですね?」と恐る恐る聞いてみると、少し粗目の口調で告げられる。

「おばさんって言われるの嫌い。星良って呼んでちょうだい」

「……はい」

 よれた服、傷の入った眼鏡。この家とは不釣り合いな容姿に戸惑いながら返事をする。清潔感のあるハルとは、似ても似つかない。

「ハルと似てないでしょ?」

「……はい」

「あの子は、義姉似だから」

「へぇ」

 星良さんは少し考え込むような仕草をとってから、俺にちょっとおいでと手招きした。

「ちょうどいいや、悪いこと教えてあげる。ハルも呼んでおいで」

 悪だくみをした他人の表情というのは、身震いしてしまいもので。その夜、俺は初めて星良さんに悪いこと教えられた。

 悪いことといっても、深夜のピザパーティーと麻雀。

 屋敷の星良さんの部屋には、たくさんの難しそうな本に囲まれた洋風な図書室みたいだ。けれど、その静謐なる空間に、一つだけ異彩を放っているものがある。所帯じみた炬燵である。桜と猫の柄で、臙脂色をしたシックでかわいいデザインの炬燵布団の上には、麻雀の台が置かれていた。

「悪いことって」

「麻雀大会だよ」

 彼女は悪い顔で微笑んだ。

 まずはルール説明を受け、何もわからないなりに麻雀をやった。

 星良さんはげらげら笑って、初心者な俺をぼろ負けにしていくし、ハルもハルで負けん気が強いのか、容赦がない。

 気分がいいのか、涙目になって笑う彼女が、眼鏡をはずした。

 その素顔は、美人そのものだった。

 切れ長の目は、色素の薄いアンバーの瞳。外国の血を感じさせる白い肌には、シミ一つない。筋の通った鼻筋に、しずくの乗りそうな長いまつ毛、黒髪のビスクドールのような美人。

 こんな整った顔を見たことがなかった。とっさに頬に熱がこもったのを今でも覚えている。しかし、冷静になって思い返してみる。

 その首元のよれたTシャツ、ところどころ毛玉のできたスエットのズボン。美容院に行かないのだろう、髪も自分で切っているのかもしれない。ざんばら頭だった。

「なんで星良さん、きれいにしないの? 顔はいいのに」

 そうふざけて言うと、星良さんはふざけたように言う。

「ルッキズムが嫌いなの、私が綺麗だから好きっていうような男や、勝手に上下関係を決めつけて、ブスに疎まれるのもめんどいし、美人に絡まれて美容がどうこうの話したくない。お酒とつまみの話がしたいのよ、私は」

 そういって自身もビールをごくりと飲みほした。一番搾りが好きなのか、冷蔵庫には一番搾りが詰まっていた。空っぽになったグラスに、麻雀で負けた俺は、一番搾りの缶を取りに行く係に任命され、彼女のグラスに注ぐ。

「あんまり飲みすぎんなよ、星良」

 すかさず、ハルが咎めるけど星良さんは気にも留めずに、ハルの頬にキスをした。

「明菫。この人、キス魔だから気を付けて、気が付いたら、お前、貞操まで奪われんぞ」

 そう、冷静に言い放つハルを見て、俺はそっと星良さんから距離を置いた。麻雀大会は、いつの間にか野球拳になったり、大食い大会に変化していく。

「負けたから、これ飲んで」と初めて飲まされたのはレモンチューハイ。

 チューハイの味は意外とジュースみたいだった。それでも数え切れないほど、麻雀で負かされると俺は気づいたら、酔っぱらっていた。

 頬が赤く、心臓の音が心地よく聞こえてくる。頭がうつらうつらして、とても眠たい。

 酔いつぶれて寝ていると、ハルと星良さんが話しているのが聞こえてくる。

「あんた、あの子のことずいぶん、気に入ってるようだね。あんたが学校の子にピアノを聞かせるの、見たことないよ」

「うん。そうかも」

 星良さんはボロボロの眼鏡をまたかけて、煙草に火をつけた。

「ねぇ、死んだら元も子もないよ。手術受ける気ないの?」

「今はね」

 ハルは悲しい声色をしていた。低く、それでいて静かな口調だった。

「あんたは兄ちゃんと義姉さんの忘れ形見だから、失いたくないのよ。——でも、あんたから何もかも奪った責任を、私は取れないから。好きにすればいいと思ってるよ」

「……星良、ありがとう」

 そこまで聞くと、俺は深いまどろみの中に落ちていった。


 初めて友人の家に泊まった経験をして思ったのは、酒を飲ませる女がいる家には行くな。俺は初めて二日酔いを起こして、寝込んでいた。

 そのまま、ハルの家で。

「星良さん……。ハルは?」

「学校、行ったよ」

「俺を置いて?」

「人望ないねぇ」

 星良さんは時々、俺のもとにジャンクフード置いて仕事場にしている部屋に戻っていく。初めて来た家で、知らない部屋の中でずっと寝かされている。しかも、こういう時はシジミ汁とか、おかゆとかじゃないのかと不満が漏れるほど、ハンバーガーなのか星良さんらしかった。

「電話しとくよ。親御さんに」

「あ、俺からしますよ。スマホ持ってるし」

 そういうと、星良さんは少し怪訝そうな顔をした。

「あんたの親、もしかしてろくな人じゃないのか?」

 そう言われたとき、体がこわばった。

「いえ、そんなんじゃ……」

 必死に言葉を濁すけれど、上手くできない。どうしてだろう。こんなに上手く舌がまわらないのは。きっと酔いだけのせいじゃない。

「私も同じ穴の狢だから、気にすんな」

 少し優しい口調で星良さんに諭されると、ああ、この人も一応年上の包容力のある大人なんだって涙ができた。

 悲しくないはずなのに、上手く呼吸ができなかった。星良さんはただ黙って俺にポテトを一つ差し出してくれた。

「ポテトやるから、元気出して」

「慰め方、雑じゃないですか?」

 そう言って俺は笑った。

「明菫、知ってる? ハルはあんたのことだいぶ気にかけてたの。友達になる前からずっとね」

 意外な話を聞いて俺は目を丸くさせる。

「あんた、義姉さんに似てるから」

「ハルの? お母さん」

 星良さんは、黙ってうなずいた。

「花世ちゃんって言ってね。思ったことをはっきり言っては、自分の言った言葉に落ち込むようなめんどくさい女だったんだよ。あき、そっくり」

 俺は少し眉をひそめてそっぽを向いた。

「で? ハルはお母さんのこと好きだったの? だから、俺に構ってくれたんだ?」

 星良さんは少し困ったような顔をして、言った。

「花世ちゃんは、ハルのことを愛せなかったの。でもきっとハルは花世ちゃんのこと、好きだったと思うよ」

 それを聞いた瞬間、俺は飛びあがって星良さんの方に振り向いた。途端にズキっと頭が痛くなる。

「いったぁ」

「ほら、無理しないで寝ろって」

 そう言って星良さんは俺を無理やり寝かせようとしたけど、俺は気になって話の続きをせがんだ。

「なんで?」

「ん?」

「なんで花世さんは、ハルを愛せなかったの?」

 星良さんは困った顔をするだけで答えなかった。ただ、「私が止められていれば、ハルはきっとお母さんにもお父さんにも愛される子供でいられたの」とだけ。

「私は、花世ちゃんを責められない。責められるべきはこの家でくたばってるくせに、なかなか死なない諸悪の根源だから」

 そういうと、もう寝なさいと星良さんは部屋を後にした。



   第三章 逃避行



 ハルと親交を深めるうちに、いろんな話をするようになった。ハルは明るく活発な性格だったが、俺以外にピアノを聞かせようとしなかった。だから、ハルがピアノを弾けることを知る人すら、俺しかいなかった。

 美しいピアノの旋律の中にいる彼は、今この一瞬を凍らせて人を黙らせるほどの存在感を放つ。

 滑らかに動く細い指を目で追う。そうしているうちに、ハルに俺は飲まれていたのだ。ピアニストがどういうものかわからなかった。けれど、自分だけが、ハルのピアノを聞くのは、もったいなく感じる。

 才能をひけらかせと言っているわけではない。ただ知ってもらうことで、彼の人生が花開く気がしたのだ。

 音楽室で、息をひそめるようにピアノを弾く。それがただ、嫌だったのだ。

「なぁ、ハルの家って星良さんしかいないの?」

 なんとなく聞いた疑問だった。

「なんで、そう思うの?」

「星良さんしかみたことないから」

 ハルは少し卑屈な笑みを浮かべる。

「死にかけのじいさんが一人、自室から動けないで介護されてるよ」

 その口ぶりで察する。ああ、そのじいさんが星良さんの言っていたろくでもない親だったのかもしれない。

「ハルはそいつが嫌いなんだ」

「ああ」

 ハルは笑わずに言う。それが言葉よりも、強い肯定になってずしりと訴えてくる。これ以上、踏み込まれたくはないのだと。

「言わないと、フェアじゃないよな。お前の家庭のこと俺も首突っ込んでいるわけだし。俺は父さんと母さんの子じゃない。父さんとは腹違いの兄弟だし、星良ともそう……」

「なぁ。言いたくないことなら音で教えてよ。それで察するから」

 なんでそんな言葉が出てきたのかわからない。ただ、俺もハルも言葉が苦手なんだと思う。言い切ることで、固定され、自覚し、そこから逃げられない気がするから。

「わかった」

 ハルの荒ぶる心の音に耳を立てて、ああ、そうかなんてわかったふりをした。でも何よりもその音が、彼の心を知るきっかけになる気がしていたんだ。

「ハルはいいよな。何かに秀でていて。自分のアイデンティティを持ってて」

 ぼやいた声は、ハルには届かなかった。


 ハルと別れて自宅に帰った後、俺は自室のベッドに横たわった。家には誰もいない。母と父はいつも出掛けていて、俺が寝静まった後にこっそりと帰宅する。

 おそらく子供が嫌いなんだと思う。子供の扱いがわかっていないだけかもしれないが、時折交わされる言葉の端々から、感じ取れることもあった。

「自分たちより幸せな子供時代を送るなんて許さない」

 両親は共依存で、互いに依存して肯定しあう、気味の悪い関係を築いている。おそらく似た境遇、似た家庭環境にいたのだろう。

 そしてお互い僻みっぽい性格をしている。誰かのせいにしないと保てないほど、精神が未熟。そんな親に育てられた自分は、さっさと悟っているんだ。

 何かを求めたところでほしいものは、彼らからは得られないと。

 そんな自分でも、今はハルもいるし。星良さんも気にかけてくれる。たった二人が自分を心配してくれるだけで、世界は劇的に変わった。

 芽生えなかった感情が少しだけ、動くようになった。笑っても嘘くさかった笑顔が、真実味を帯びてきた。

 俺はよく笑うようになった。けれど、同時に苦しめられる。両親の侮蔑の表情に妬ましさが映ったその瞬間、ごめんなさいと口にしてしまうのだ。

 両親は愉悦の表情をし、それでいいと納得するのを見て、ああ。結局、俺はこいつらの操り人形でしかない。

 不気味で気色の悪い、腹話術人形の両親から、どうやって逃げられるのか。わからなくて、頭が痛くなった。ハルはいい。星良さんもいるし、才能もある。自分を導いてくれるものがたくさんある。

 俺にはない。自分を救ってくれた寄る辺に対して、こんなことを思う方がどうかしているのだ。羨ましいなんて。妬ましいなんて。

 そうやって今日も自己嫌悪に落ちていくのだ。愛してくれる人もいない人生を、干からびて死ぬ時を待っている。孤独なのかもしれないと、寒さに耐えるように自分を抱きしめた。

 孤独から自分を救うすべを知らず、延々と地獄を見ている。


 そんな初夏のある日のこと。

 ぼんやりとハルに向けていた妬みを口にしてしまった。

「お前はいいよ。才能があって。親に期待されなくても、ほかの誰かに将来に期待されてて。俺はやりたいことまだわからない」

 きっとハルは、あやふやに微笑んで流すと思っていた。

「どうせ、死んでしまうのに」

 そんなことを言われると思っていなかった。静まりかえる音楽室の秒針だけが大きく聞こえた。静かにゆっくりと、息を吸った。

「死ぬって何?」

 沈黙がより、自分の鼓動の大きさを否定してくれなかった。

「さぁ、なんだろうね」

「今更、ごまかしたって遅いよ」

 言葉が上手く口から出てこない。音楽室に入る西日の眩しさに目を細める。息がどんどん浅くなり、俺は膝をついた。

「死ぬってなんだよ」

 絞りだした声が、震えていた。ハルはそれでも俺に近づかなかった。どんな顔をしているかすら、よく見えなかった。

「明菫って、俺のこと好きじゃん。俺が死んだら、悲しい?」

 ハルは屈託もなく笑う。でもそれは笑顔ではないんだ。口の端がわずかに震え、息遣いにわずかな乱れがあった。

「……悲しいよ」

 そういった瞬間、ハルも同じように膝をついて、深く息を吐いた。

「よかった」

 うつむいた顔は見れない。けれど、鼻をすする音が聞こえる。

「ああ、俺。死にたくないな」

 雫が、ハルの座った床に落ちる。

「死にたく……ないなぁ」

 秒針が音を立てて、時間を進めるのに。止まった時間の中で、俺とハルは見つめあっていた。互いの言葉にしなかった気持ちを探るように。目を見て、口の動きを見て、そして悲しい表情を見て、探るしかなかった。

「死ななきゃいい。手術すればいい」

 つぶやいた声に反応して、ハルが顔を上げる。

 涙で濡れた頬、赤く腫れた目には、彼のすべてが詰まっていた。笑っている。ボロボロに泣いてるのに、彼は嬉しそうだった。

「無理だよ。俺、手術したらまひが残るって言われるんだ。ピアノ、弾けなくなるんだ。ピアノは俺の価値だよ。俺のすべてだよ。だから、生きながら死ぬか、死んで何もなくなるか、どっちかしか、選べないんだよ。助けてよ……、明菫。なぁ、助けて……」

 突然肩をつかまれて、泣き縋られた。

 ああ、こういう時、俺はどうやって人を救えばいいかわからない。家族に教えられなかった。自分で学ぶことができなかった。

 いつだってそうだ。こうやって、心の内に入り、自問自答を繰り返すだけで何もできちゃいない。

 俺はそっと立ち上がって、一言だけ。

「じゃんけんしよう」

 ハルは呆気にとられ、口を開く。

「は?」

「前か後ろ、選ばせてやるよ」

「なんの?」

「自転車の」

 そういうと、最初はグーと口にした。慌ててハルもグーを出す。そしてハルはチョキを出し、俺はグーを出した。

「じゃ、俺が決める。俺が漕ぐから、お前は後ろに乗れ」

「はぁ? 俺に漕がせるんじゃないのかよ」

 ハルは焦ったように立ち上がると、俺も構わず歩き出した。

「どこ行くんだよ」

「ピアノから遠いところ」

 そういった瞬間、ハルは足を止めた。何かを考えるようにして、地面を見つめたあと「いかない」と一言だけつぶやく。

「……いかないのか?」

「い、かない。ピアノから離れたくない」

 ハルは考え込むように黙った。

「明菫、お前は何を考えているんだ?」

「何も」

 本心だった。もう、考えることに飽きた。だから、考えることを放棄した。

「遊ぼう。もう、気が済むまで」

「……わかんないよ。お前が何を考えているか、わかんないよ」

「俺もわかんない。でも、お前ってピアノを弾くだけの機械なの?」

「……」

 ハルは何も言わなくなった。

 俺は無理やり手を引いた。嫌がっているはずのハルは大人しく手を引かれた。

「明菫、俺、どうしたらいいかわからない」

 珍しく素直に言葉を吐くハルに俺は言う。

「俺ずっと、ハルが羨ましかった。俺は本当は感情が薄いし、喜びも上手く感じ取ることができない。秀でているところも何もない。何しても楽しくない」

「嘘つけ。お前よく笑うじゃん」

「だから、お前と出会ってからなんだよ。楽しいがわかるようになったのは。もしかしたら、お前があの時俺を助けなければ、歪んで後戻りできなくなってたかもしれない」

 そういうと、ハルは黙り込んだ。

「なぁ。俺はハルのすべてがピアノだなんて思わないよ。ハルはハルじゃないか。仮に何もかもなくしたとしても、お前が俺を助けた親友だってこと、何か変わるのか? お前がピアノを弾けなくなったら、俺とお前は親友じゃなくなるのか? 教えてくれよ」

 俺は頑なに、振り向かなかった。ハルのすすり泣く声が聞こえていたから。振り向いちゃダメだって思った。

「友達だろ。何があっても。お願いだから、そういってくれ」

 ハルは消え入りそうな声で、うんとだけつぶやいた。手のひらが強く握られる。

「なぁ、一緒に逃げてくれないか」

「いいよ」

 何からとか、何処までとか、野暮なことは聞かなかった。ただハルを乗せて、俺は自転車をこぐと宛てもなく、ただ黙って自転車をこぎ続ける。

 地平線が見える。海の波の音を聞きながら、俺はハルの心が穏やかであればいいと願う。幸福をこいつに与えてやってくれ、神様と。信じてない神様に祈る。

 呆然と、神様が本当にいる気がした。何でも願いを叶えてくれる存在ではなく、人の誰かの幸せを祈る感情の向かう先に神様がいる。そんな気がしたのだ。

 ハルの心が病気と向き合えるまで、俺は自転車を黙って漕ぎ続ける。二人の間には沈黙より重い空気が立ち込めている。お互い言葉を交わさない。ただ、覚悟を決めるその時を黙ったまま待っているのだ。

 国道906号線を荒い息を整えることもしないで、漕ぎ続ける。

「あ、」

 薄紫の雲がたなびく空に、血のような赤が滲んで夕闇が迫る。いろんな色のせめぎ合いを眺めて、日が落ちそうになる空を睨んだ。

 俺はペダルを漕ぐ足を止める。

「海だ」

 ハルがそう、つぶやいたから。

「ハル、休憩。もうだめだ」

 息も絶え絶えな俺を見て、ハルは自転車から降りた。

「ポカリ買ってくる。今日のお礼」

「はぁ? こんなに自転車漕がせて、ポカリで足りると思ってんの?」

 俺はふざけてハルを小突いた。

「ははっ。じゃ、ファミチキもつける」

「おにぎりもつけろ。ツナマヨな!」

 そう言って、ハルはコンビニに出かけた。ハルが戻ってくるまでの時間、俺は星良さんに電話をかける。

「どったの。珍しいね、あきから電話なんて。てか、ハル帰ってこないんだけど」

「……星良さん、ハルから聞いた。病気のこと」

「あ、なるほど。それで青春の逃避行ってわけか」

「からかわわないでよ」

「からかってないよ。逃げたかったんでしょ。逃げればいいじゃん。気が済むまで、わかってて逃げてんでしょ?」

「……うん」

 俺は苦し紛れに声を濁した。星良さんは悟ったように豪快に笑った。

「いいじゃないの。そういうの、青春っぽくて好きだよ。それにあの子の自由にさせたいのも嘘じゃないけど、……私だってハルに生きててほしい。死んでほしいなんて思うわけないでしょ。仮にも、あの子の親なの」

「うん。ねぇ、星良さん。俺、死なないでほしいって言えないよ。ハルに生きててほしいのに」

「うん」

「死にたくないって言ったんだ。ハル。それなら生きればいいのに、なんでそんな簡単なことなのに、こんなに難しいんだろ」

 星良さんは黙っていた。黙って何も言わないで。少しかすれた声で泣いていた。

「なぁ、なに泣いてんの?」

 そうハルの声が聞こえた瞬間、思わず電話を切った。

「ツナマヨのおにぎりは?」

 ぶっきらぼうに俺はハルに手を差し出す。わずかに震える指先に力を入れて、必死にごまかしていた。

「ポカリもファミチキも。ツナマヨも買ってきたよ」

「ハルは食べないの?」

 ハルは少し考え込んで、ファミチキはもらうよとコンビニの袋からファミチキも奪った。

「なぁ」

 喉の奥が震えて上手く声が出せないのが、もどかしい。

「何?」

 ハルはいつもの調子に戻って話しかけてくる。こういうことを言うと、俺はきっと恨まれるかもしれない。生きててほしい。その一言を言わない方が薄情かもしれない。葛藤はいつだって正解を選ばない。正解にしていくのはいつも、未来の自分だからだ。だから、その気のない人間は後悔するしかない。わかっている。わかってて俺はわがままを言う。

 もう日は落ちてしまった。俺たちは暗闇の中を帰るしかない。

「死なないでよ。俺、ハルがいないと寂しいよ……」

 掠れた声は、次第に涙声になり、滴る涙と一緒にハルを縛る呪いになる。わかってて言った。恨まれる覚悟も、ハルがこの先、直面するであろう様々な苦悩も背負う気もないのに、そう言った自分にがっかりした。それでも、言うしかない。俺はまだ、ハルを失う覚悟ができないのだ。

 手に持ったツナマヨおにぎりにかぶりついて、肩の震えをごまかす。それでも、堰き止めていたはずの本心を止めることはできなかった。

「なんで手術受けないんだよ。お前のすべてはピアノだけじゃないだろう」

「うん……」

「くそ馬鹿野郎」

 ハルはそれでも「うん」としか言わなかった。

「もう帰ろうか」

 泣き止んだ俺を自転車の後ろに乗せて、ハルは漕ぎだした。海のにおいを初めてその時、自覚した。流れる景色にさざ波の音。真っ暗でうっすらとしか見えない海は、なんだか恐ろしく感じる。

 こんなに大きい音を立てて波が立っていたのに、どうしてそんなことにも気づかなかったんだろう。

 いっぱい、いっぱいで何も見えてなかった。

「なぁ、無理していいのか?」

 なんとなく気になって俺は聞いてみる。

「これぐらい大丈夫」

「そうか」

 俺は泣き疲れてぐったりしていた。ハルの背中のシャツがうっすら、汗ばんで透けている。

「全部、夢だったらいいのに」

「そうだね」

 ハルは何処か他人事のようだ。

「ハルは手術を受けるの?」

「どうだろうね」

 ハル自身も迷っているのだろう。どうしたいのかわからないみたいだった。

「なぁ。ハル。俺が死んだら悲しい?」

「なにそれ? 仕返し?」

 ハルはおかしくなって笑っている。

「そうだよ」

 俺ははっきり言ってやった。

「明菫、俺ね。お前のこと大好きなんだよね」

 そういった瞬間、ハルは悲しそうに微笑んで振り返った。

「お前のこと、襲ってやりたいぐらい。結構好きなんだよ」

「マジかよ。俺のケツ、あぶねぇじゃん」

「あははっ」

 ハルは心底楽しいみたいに大声で笑った。

 帰宅後、俺とハルは、星良さんに大目玉を食らった。

「馬鹿じゃないの! 青春するのは悪くないけど、こんな遅くまで! どんだけ心配したと思ってんだ!」

 星良さんは珍しく、大声で怒鳴ってから、俺たちを抱きしめた。

「馬鹿野郎、あほ、たこ」

 星良さんは泣いていた。泣いて、震えていた。

 その時初めて、この人も女性だったことを思い出して、俺とハルは一緒になって抱き合って泣いた。

「大っ嫌い。私を置いて死のうとするやつは、みんな嫌い」

 そう言って号泣する星良さんに、ひたすら謝ることしかできなかった。

 朝起きると、つきものが落ちたような顔をしたハルがリビングにいた。

「おはよう」

「ん。明菫。俺、手術するよ」

 そういったハルの顔を見た瞬間、俺は顔が溶け出したように泣いた。

「よか……た。本当に、よかった」

 そう言って座り込んだ俺を見て、「ごめん、心配かけて」と呟いたハルは、「きっとこれでよかったんだよ」と自分を納得させているようだった。

「星良さんには言ったの?」

「うん。朝一で」

「なんて?」

 ハルは腫れた方の頬を見せて、にかっと笑った。

「当たり前じゃボケって、殴られた」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ