【短編】悪役令嬢、仮面を被る~突然異世界に行ったら悪役になりました。思い通りになると思うなよ~
次の新作にどうかな?と思っているネタの前日譚短編です。
ここから異世界恋愛に発展してハピエン目指して頑張りたいので応援お願いいたしますー!
目が覚めたとき、知らない天井があった。
高い梁がむき出しで、天井にはシャンデリア。寝起きのように霞のかかった頭の端で「豪華だけど、成金くさいなあ」なんて考える。
微かに薬草と埃が混ざった匂いが鼻を突いた。布団は重く、身体はだるい。
私はしばらく、すっきりしない頭で、ぼーっと天井を見つめていた。
「……どこ?」
小さく呟いてみても、返事はない。
けれど、自分の声に驚いた。掠れて、聞き慣れない響きが混じっている。
まるで別人の声みたいだった。
最後に覚えているのは、夜の帰り道。
宅飲みの途中で追加でお酒を買い込んで、コンビニの袋を片手に歩いていたら、視界が真っ白になって、それから――
「お目覚めになりましたか、ヴィクトリア様」
その瞬間、私は飛び起きた。
いつの間にか部屋の隅に、燕尾服の男が立っていた。
静かな目と、整いすぎた所作。歳は五十ほど。
物語から飛び出してきたロマンスグレーの執事そのものだった。
「申し遅れました。わたくしは館の執事、バルドと申します」
名乗りながら、男は優雅に頭を下げる。
戸惑う私をよそに、言葉は滑らかに続いた。
「本日より、こちらアークリード領――通称“忌み領”の領主として、貴女様には我が国にお仕えいただきます」
「……は?」
突然のことに声が裏返る。何を言われたのか理解できなかった。
忌み領? 私はただの会社員で――
「ちょ、ちょっと待ってください。私、鷹宮更紗って言って――」
「ええ。貴女様より正確に現状を把握しております。ですが本日より、“ヴィクトリア・アークリード”として振る舞っていただきます」
知らない名前。知らない世界。しかし男は、当然のように告げてくる。
「異邦より訪れた者である貴女は、忌み領を導くにふさわしい“器”として、王都より任命を受けました」
「任命……? 何それ……意味わかんない……!」
私はベッドの上で声を張り上げた。
意味がわからない。何一つ納得できない。
けれど、男の表情は変わらない。冷えた目がこちらを見据える。
「ご安心を。必要な身分、衣服、住まい、従者、全ては既に整っております。貴女にはただ、“悪役令嬢”、ひいてはこの領の当主として、役を演じていただくだけです」
その言葉に、私は凍りついた。
――悪役令嬢?
「……それ、どういう意味?」
震える声で尋ねると、男は少しだけ微笑んだ。
その笑みは、優しさとは無縁のものだった。
「忌み領は、あらゆる責任と罪を背負う地。かつて魔王が支配した魔境を切り開いて作られた地です。都合の悪い存在は、すべて“この地の悪女”に押しつけられるのです。そして、貴女はその“仮面”をかぶるに、ふさわしいお方」
「冗談じゃない……!」
私は思わず、毛布をはねのけて立ち上がった。
足がふらつく。でも、叫ばずにはいられなかった。
「なんで私がそんなの……! 悪役ってなに!? 令嬢ってなに!? 勝手に連れてきて、勝手に押しつけて――!」
言葉は涙に変わった。
けれど、バルドと名乗った男はただ冷静に、無慈悲に言った。
「それが、貴女に与えられた――“新しい人生”です」
「新しい人生って……そんなの、勝手に決められて、私が納得すると思ってるの……?」
私の声は涙で震えていた。
でも、それが通じる相手じゃないことも、執事の様子を見ていればわかった。
バルドは、まるで壊れた人形のように丁寧に、無機質に頭を下げた。
「申し訳ございません、ヴィクトリア様。ですが、現実には抗えません。貴女は既に、“忌み領の令嬢”として、王都に届けが出されております」
「届け……?」
「貴女の存在は、政治的に必要とされたのです。覆すには、王命か、それ以上の権威をもってしか叶いません。貴女は、そのどちらもお持ちではない」
私の中の何かが、ぴしりと音を立ててひび割れていくのがわかった。
逃げ道はない。ここから出られない。抗う術も、持っていない。
「じゃあ、黙って言いなりになれって……そう言いたいの?」
「いえ。演じていただきたいのです。“忌み領の悪役令嬢”という、立場を」
バルドは机の上から、金の縁取りがされた本を取り出して私に手渡した。
ずしり、としたそれが、私に課せられた運命のようで冷や汗が滲む。
「それは、王都から送られてきた“貴女の役割”を記したものです。つまり、対外的には秘匿され続けた我が主“ヴィクトリア・アークリード”という人物像。噂、逸話、過去の所業――すべて、作り込まれています」
開いた瞬間、私は息を呑んだ。
“悪名高きアークリード家の令嬢。権力を得るためには手段を選ばず、婚約者を裏切り、召使いを虐げ、隣国の貴族に媚を売る女。先代当主を殺害したとの噂も――”
身に覚えのない“過去”が、まるで実際に私が生きてきたかのように記されている。
「こんなの、私にはできない!」
私は叫んだ。けれど、バルドは静かに言う。
「そうでしょう。ですが、これが“令嬢、ヴィクトリア・アークリード”です。王家は、すでにこの“あなた”を知っている」
私は震えながら、その冊子を抱きしめた。
偽りの記録。捏造された人生。
「……こんなことが許されるの?」
「それが、“悪役令嬢”というものです」
そう言って、彼はゆっくりと語り出した。
王国には、責任を背負う“仮想の悪”が必要なのだと。
政策の失敗、外交の失態、王族や有力貴族の失策――
本来罰せられるべき者が罰せられない代わりに、誰かが“悪者”として吊し上げられる。
それが、“悪役令嬢”。
元は王家の分家の娘が、その役を担っていた。
しかし世襲では綻びが生じ、いまは“異世界人”――つまり、私のような人間がその穴を埋めることになったのだという。
「それって……ただのスケープゴートじゃない……!」
「はい。まさしくその通りです。ですが、貴女がそれを引き受ける限り――この領地は生き延び、忌み嫌われる”魔物の退治屋”たちが仕事を得ることができます。領民は生き延び、国は富む。貴族たちは、安心して野心を育てられる」
「そんな……勝手な……!」
私は、椅子に崩れ落ちた。
背中に、重すぎる現実がのしかかる。
「……じゃあ、もし私が、こんな茶番に付き合わないって言ったら?」
バルドの目がわずかに細まる。
「そうなれば、貴女は“制御不能な悪役”として処理されます。忌み領ごと、焼かれることもあるでしょう。火をつけるための理由は、いくらでもありますから」
私は思わず口を押えた。吐き気がした。
それが、この世界の“常識”。
なら、私は――
逃げることも、拒むこともできない。私の一言に、私自身の運命も、この領に住む人々の運命も委ねられている。
他の貴族のことはどうでもいい。この世界のことはもっとどうでもいい。
――だけど、私の一言で人が死ぬのは、どうでもよくない。
「……わかった。 やってやる。私が“悪役令嬢”だって言うなら――その仮面、きっちり被って見せるわよ」
目の奥に、じわりと熱いものがこみ上げていた。
悔しさも、恐怖も、怒りも、全部――自分の芯に変えるしかない。
その瞬間、心の中で何かが軋んだ気がした。
私はもう、戻れない。
翌朝目が覚めて、私は泣くことをやめた。
涙を流す場所なんて、ここにはない。
私がこの屋敷で演じるのは泣きわめく女じゃなく、“忌み領の悪役令嬢”――
そう振る舞うしかない。
弱い自分は、今日からいない。
「本日より、令嬢としての所作と話術を覚えていただきます」
開口一番、執事――バルドはそう言った。
朝食は一人きりの広間。食器も、テーブルも、やたらと豪奢。
食べ物は、味がしないほど上品で、どこか空虚だった。
「……これ、全部“演技指導”ってこと?」
「ええ。貴女が失敗すれば、領民の命が危うくなりますからね。仮面は、徹底して磨かねばなりません。まずは慣れていただかないこと、何も始まりませんから」
バルドの言葉は、もう驚くほど冷静で、何の悪意もない。
ただ機械的に、私に“従え”と告げていた。
午前は礼儀作法。
午後は領地の概略と貴族社会の慣習。
夜には、“忌み領の悪女”として振る舞うための台詞の稽古。
「愚民どもに、少しは働くことを教えてやりなさい」
「下賤な者の言葉など、何の価値もございませんわ」
口にするたび、胃の奥がざらざらする。
けれど、これが“演じなければならない仮面”なら、私はその稽古も受け入れるしかなかった。
「本日は、お披露目です」
三日目の朝のことだった。
私が館の中庭で訓練に励む騎士たちを視察し、“悪役令嬢”として彼らの働きを嘲笑う――
そんな茶番が回ってきた。
「……本当にやるの?」
まだ、三日目。いくらなんでも早すぎる。
「ええ。噂の“忌み領の令嬢”として、まずは館の者たちに“演技”を通じて印象を焼きつけましょう。失敗すれば、侮られます。侮られれば、命を狙われます。幸い、ヴィクトリア様は素質があるようですから、短時間なら見破られることはないでしょう」
つまり、“嫌われる覚悟”がなければ、この役は務まらないということだ。
悪役令嬢の素質――そんなものあっても嬉しくないし、なんなら侮辱されている気分になる。
「……いいわ」
私は深く息を吸って、足元のドレスの裾をつまんだ。
まだ慣れないコルセットが苦しい。でも、姿勢は崩さない。
背筋を伸ばして、胸を張る。
視界の端にある鏡の中では、生まれてから今まで見たこともないほど、張り詰めた空気を纏った私がいた。
絶対に失敗できない。その事実が、私の目尻を釣り上げた。
視察として練兵場に足を運ぶと、すぐに十数名の視線がこちらに集中した。
若い騎士たち。中年の使用人たち。メイドらしき人々。
皆が私の出方を、静かに見ている。
ヴィクトリア・アークリードの本によると、私は、生まれてからずっと王都の屋敷にいたことになっている。
バルドと部屋付きのメイド以外は、私がどんな人物か姿形すら知らないのだろう。この役割のことすらも。
ただ知っているのは、自らの主がヴィランであると言う事だけだ。
私は一歩、二歩と進み――目の前の騎士に口を開いた。
「随分と無様ね。その槍の構え、田舎の農夫の方がまだましじゃなくて?」
その場に、冷たい風が吹いたようだった。
騎士が顔をこわばらせ、使用人の一人が肩を震わせる。
私は、胸の奥を押し殺して続けた。
「それでもこの私を守るつもりなら――精々、犬のように忠誠を尽くしなさい。まあ、与えられた仕事すらまともにこなせない上に、飼い主の手を噛む雑種はいらないのだけど」
その瞬間、バルドが目配せし、騎士はどこかに連れていかれた。言い争う声と、私への暴言が聞こえる。
この騎士には、横領と密通の疑いがかかっていて近々解雇する予定だったと聞いている。
タイミングがいいから、私の踏み台として断罪させたのだ。
嫌な役。でも、演じきってやる。
それが、この命を繋ぐ唯一の術なら。
「よく演じられました、ヴィクトリア様」
部屋に戻るなり、バルドが淡々と告げた。
「貴女は、間違いなく“悪役令嬢”としての第一歩を踏み出されました」
「……そう」
私はため息と一緒に返事をして、背を向けた。
バルドから見えない角度で、拳を握る。
手のひらに長い爪が刺さってギチギチと音を上げたが、力を緩める気にはならなかった。
本当の私は、あんなセリフ吐きたくない。
けれど、ここで生きるには、それしかなかった。
今はまだ仮面。でもいつか――
この仮面を、自分の意志で選べるようになるその日まで、私は一人で唇を噛み締めるんだろう。
アークリード領の主な収入源は魔物の素材の売買で、農作物はあまり期待できない。魔境だった影響か、土地が痩せていて思うように農業ができないのだ。
だから、農家はいつも飢えていて、領地からの補助で日々を繋いでいる。
名目上は、魔境の開発のため国から補助があることになっているけど、実際は半分以上がアークリード家からの持ち出しだ。
先々代の国王が、移民を募った際に配給を餌にして、アークリード家に丸投げしたらしい。はた迷惑な話だ。
「収穫期の不作により、村人たちが訴願を出しております。今から会う農民は東地区の代表です」
「訴願?」
「食料配給の再交渉を求めております。本日はその交渉の場に、貴女が“悪役令嬢”として臨んでいただきます」
私は、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
まだ演じ始めたばかりの“仮面”。
心は未熟なままで、罪悪感に引きずられている。
「わたし……うまく、できるのかな……」
「上手くやるしかありません」
バルドは静かに言った。
「心の迷いを仮面の奥に押し込められるかどうか――貴女が“悪役令嬢”として生きる残れるかどうかの境目です」
バルドがドアを開けて、廊下に出る。
私が続くと、完璧な歩調で前を歩き、数ある離れの中でも一番小さな建物の中に入った。
村人代表の男は、粗末な衣を着た四十代ほどの農夫だった。
土の匂いが染みついた手を、ぎこちなく前に組みながら、頭を下げる。
「申し上げます、ヴィクトリア様。昨年の冷えもあり、今年は作物が不作です。どうか、配給を少しでも……」
「黙りなさい」
口を開いた瞬間、自分の声がひどく冷たく響いた。
“台本通り”のヴィクトリアらしいセリフと表情。
「貴方たちが働かずに口を開くのは、いつものこと。報告書は見ているわ。対策のしようがあったんじゃなくて? 不作だろうと、餓死者が出ようと、それは“努力が足りない”からでしょう?」
男が、顔を上げて私を見る。
その目には激しい怒りや恨みは見えない。
ただ、虚しさだけが浮かんでいた。疲弊している様子に心が痛んだ。
「はい……仰る通りでございます。それでも、子らには生きていてほしいのです。どうか……」
私は、その言葉に、思わず唇を噛みそうになった。
――演技。これは、ただの演技。
私は彼らを守るために、仮面をかぶっている。
でも、それでも。
「誰かが生きるために、私が私を殺すのね……」
呟いたつもりだったのに、言葉が口をついて出ていた。
村人は、はっとしたように目を見開いた。
しまった――仮面が、ズレた。
「何でもないわ」
私は冷たく言い直した。
「わたくしに楯突いた罰として、配給を減らすわ。それと、各村から三十名を寄越しなさい。その者たちの農地は取り上げよ。異議があるなら、領を出て森に行くことね。どうせ死ぬなら餌になって、退治屋の獲物を集めたほうが役に立つわ」
嘘だった。罰を与える気なんて最初からない。
配給を減らすのだって、形だけに過ぎない。減らしても食い扶持が減ったことで、一人あたりの配給は約二倍になって十分行き渡るはず。
この百年で東地区は特に農業に向かないことはわかり切っているから、今年から農業を捨てて、順次別の仕事を与えることが決まっていた。
だけど、世代を跨いで百年住んだ土地から離れ、家業から離れるのは簡単なことじゃない。
これは、彼らに“悪女が統べている”という物語を植えつける茶番なのだ。
”無理やり移住させられる”には理由が必要でしょう?
村人は、深く頭を下げた。
「かしこまりました……我らがアークリード領に幸あれ」
そうして去っていく背中を、私は黙って見送った。
部屋に戻ると、バルドが静かに言った。
「……仮面が揺らぎましたね」
「……わかってるわよ」
私は椅子に座り込んで、顔を覆った。
「でも、あの目を見て、何も感じないのは無理」
「仮面は、誰のためにあるとお思いですか?」
私は答えられなかった。
「ご自身のためですか? 領民のため? それとも、他の何かのためですか?」
「……たぶん、全部」
私はようやくそう絞り出す。
「まだ、ここに来たばかりだけど、バルドの指導が正しいことは分かるよ。理不尽だし、何で私なのって思うけど。国のことは許せない。てまも、領地の安定を合理的にやれそうだって思ったの。この土地に歩み寄らなきゃ。そうしないと私はお払い箱でしょ?」
バルドは曖昧に笑った。つまり、肯定だ。
今は耐え忍んで、仮面を被る。
だけど、いつまでも見たこともない貴族や王族に振り回されるつもりはない。
それが、私がこの世界にいる“理由”で、野望だから。
訴願から数週間、屋敷に一人の若いメイドが泣きながら駆け込んできた。
彼女は村の出身で、私の“冷酷な噂”を信じて怯えていたはずだ。
けれど、誰にも解決できるような話ではなく――ついに私のもとへやってきた。
「無礼をお許しください、ヴィクトリア様! 村の子どもたちが、熱にうなされて……!医者も薬も手に入らず、このままでは……!」
私は胸が締めつけられる思いがした。
でも、顔は決して動かさない。
「私は、“忌み領の令嬢”よ。助けを乞うなら、それなりの“代償”を払う覚悟があるのかしら?」
メイドは顔を上げ、唇を噛んだまま必死に頷いた。
「何でもいたします、どうか、どうか……!」
私は執事のバルドを呼び、冷たく命じた。
「今すぐ館の薬箱を。それから、村の広場に臨時診療所を用意しなさい。ついでに村中の子どもを集めて、必要な予防策を“お触れ”として出しておくこと。――“タダで何の見返りもなく施された”と思われたくはないからね」
バルドは微かに目を見開いたものの、すぐに頭を垂れた。
「畏まりました」
夕暮れの村は静かだった。
私は“仮面”を外すことなく、診療所に現れた。
「この忌み領の子どもを救うのは、私の慈悲――だけど、それは“従順であれば”の話。言いつけを守らぬ者には、二度と手は貸さないわ」
大人たちは、息を呑んで私の言葉を聞いていた。
医者の手配、薬の配布、清潔な水と布の確保――
すべてを「悪役令嬢への大きな貸し」として押し通した。
本当は、恐ろしくてたまらなかった。
失敗すれば、“悪女の失態”として、また領民の恨みを一身に背負う。
でも、誰かがやらなきゃ――
ここには“正義の味方”なんていないのだから。
診療所の裏で、私はそっとメイドに声をかけた。
「……ありがとう。勇気を出して、来てくれて」
メイドは、信じられないという顔で私を見つめた。
「ヴィクトリア様……?」
私は小さく微笑む。
「ここだけの話よ。貴女から対価はしっかりもらうわ」
村の子どもたちは一命をとりとめた。
診療所を出るとき、村の人々は私の背中に深々と頭を下げた。
その敬意は、恐怖と感謝が入り混じったものだったけれど――
私は初めて、「この仮面にも意味がある」と思えた。
ただの一般人だったら、こんなに迅速に行動して、疫病を抑え込めなかったから。
夜、館に戻った私をバルドが迎えた。
「見事でした、ヴィクトリア様。仮面のまま、我が領の民衆に救いをもたらす――それが“悪役令嬢”の本分にございます」
私は黙ってうなずいた。
――この道は、きっと孤独だ。
でも、誰かの命をつなぐことができるなら。
私は、もう少しこの役を続けてみようと思った。
夜の忌み領は、静かだった。
窓の外に広がる闇は深く、星の光すら地上に届かない。
館の廊下を歩く足音が、しんとした空間に吸い込まれていく。
この場所には、沈黙こそが日常だった。
噂と恐れで塗り固められた“悪役令嬢”の棲家。
私はその中心に、仮面を被って立っていた。
最初は、それを“押しつけられた”と思っていた。
誰かの都合で仕立てられた役。
逃げ場も拒否権もないまま、背負わされた鎧。
でも今は――ほんの少しだけ違う。
「悪役令嬢として生きることに、覚悟は必要です」
初めて悪役令嬢として立った日の夜、バルドが言った言葉が、頭の中に甦る。
「けれど、仮面は“強制”ではありません。過酷な道を行けば、もしかしたら逃げ延びることができるかもしれません。失敗すればどちらにせよ待っているのは死。最後に選ぶのは、貴女自身です」
私は選んだ。
この仮面を、自分の手で被ると。
悪役であってもいい。
誰にも好かれなくても、罵られても、憎まれても。
それでも、守れるものがあるのなら。
誰かが地を這って、泥をかぶらなければ、
この世界で弱い人間が生きていく余地なんてない。
私は鏡台の前に立ち、自らの姿を見つめた。
荘厳なドレス。高く結い上げた髪。冷ややかな琥珀の瞳。
どれも、紛れもなく“忌み領の悪役令嬢”ヴィクトリア・アークリードのもの。
でも、その奥には――
かつて通勤帰りの夜道で立ち止まっていた、“ただの鷹宮紗和”が、まだ息づいている。
私は、弱さを抱えたまま強くなる。
傷つくことを恐れながら、誰かを守る仮面を選ぶ。
それが、私にできる、唯一の生き方だから。
「バルド」
呼びかけると、執事はすぐに姿を現した。
「はい、ヴィクトリア様」
「準備を。……私はそろそろ“外”に出るわ」
「……社交界、でございますか?」
私は、はっきりとうなずいた。
「外に出て、“悪役”としての存在を刻まないと――私がここにいる意味が、なくなる」
「……承知いたしました」
彼の声音は、わずかに揺れていた。
そう。
“忌み領の悪役令嬢”は、まもなく王都の社交界に姿を現す。
“謎の女”、
“悪の令嬢”、
そして、“悪の領主”との運命的な出会いへ――
そのすべては、これから始まる物語の中で語られることになるだろう。
でも、今はただひとつ。
私は、私の意志で、この仮面を被ると決めた。
それだけは、誰にも奪わせない。
――私が悪役であろうと、この命で守るものがあるのなら。
笑いたい者には、笑わせておけばいい。
嘲りも、罵声も、恐怖も、全部この身に引き受けてやる。
その代わりに。
私という“悪”がある限り、誰かが救われるなら――
私は、“悪役令嬢”でいることを、誇りに思う。
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