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最強の死神様

五話目



 

 雪がちらほらと姿を見せ、外では子供たちの遊ぶ声が響いてくる。

 部屋の中は重い沈黙に包まれていた。

 

 他物病刃が現れた日から日常は激変した。今まで炎だったものが色々なものに変化したのだ。歩けば看板が落ちてくる。座っていれば木が倒れてくる。家にいれば包丁が飛んでくる。唯一の救いは二人が離れなくなったからか、人ならざる者の襲撃がないことだろう。

 

 あの日を境に炎備くんは炎出すことに躊躇いがなくなった。私の前では控えていたのに、飛んでくる物を消すために炎を解禁した。

 

 ジョンが、一番変わってしまった。笑わなくなった。炎備くんと喧嘩もしなくなった。楽しそうな声も出さなくなった。作られたモノしか向けてこなくなった。

 そして、極めつけは、

 

『お嬢、忘れたの? 俺は、悪魔だよ?』

 

 という、突き放す言葉だった。

 

『契約なんだから、心配しなくてもいいよ』

 

 なんて、私を拒絶するように話すようになった。

 例えようのない喪失感が広がった。日常になった明るい日々はすっかり姿を消してしまった。

 ジョンは、契約がなければ私を殺す。側にいてくれない。そんな当たり前のことが突き付けられるようになった。

 優しくない漆黒の悪魔が、優しいふりをしてくれていたことを、今更ながら痛感した。

 

 部屋にいても、クッキーを食べる音がない。そんなのは初めてだった。重い腰を持ち上げて冷蔵庫を開けば、中にはエッグイースターが二つ並んでいた。大好きだったはずのこれを、二人は食べなくなった。

 

「……外、出ていい?」

 

 最近では、こうやって問いかけるようになった。昔より命を狙われている私は申し訳ない気持ちしかなくて、昔の様に、出るね。と、言い切れなくなった。

 私の言葉に二人は腰を上げた。

 外に出れば冷たい空気が肺に広がった。その瞬間、目の前で炎が舞った。音を立てて落ちていく液体に、今度は釘が飛んできたのかと理解した。

 

「……ヴィーナ」

「なに?」

「……怖いなら、無理するな」

 

 炎備くんの言葉に、ようやく体が震えていることに気付いた。ああ、本当に情けない。

 

「炎備。余計な事言うな。……お嬢。どこ行きたいワケ?」

 

 冷たい声に視界が歪むのを感じた。わざわざ俺達の苦労を増やしてまでの価値があるのか。と、問われている気がした。

 気付いたときには、走り出していた。

 

 限界だったのだろう。

 彼らといることを拒絶するように廊下を駆け、街に出て、障害が降りかかってくるのを無視して、とにかく走っていた。逃げ出したかった。涙が止まらなかった。

 

 信号を無視して渡った。そうしないとより危険だから仕方なかった。人ごみを避けて走った。そうしないと、人を巻き込んでしまうから仕方なかった。

 とにかく逃げたくて堪らなかった。

 流れていく景色に人ならざる者も紛れているが、前の様に襲ってこない。それが、何故か心臓を締め付けていた。


 

 呼吸ができなくなって立ち止まったのは、結局家の前だった。

 逃げ出したのに、人が巻き込まれていくのを見て、怖くなって、戻ってきてしまった。怒られるのは決まっているのに、居場所はここしかないと理解するには十分だった。

 

 ガチャッ、と、音を立ててドアを開けた。金属が軋む音が響き、下を見ながら中に入った。

 ただいま。なんて呑気な言葉を発せなかった。

 

「……じょん? 炎備、くん?」

 

 部屋に入ってすぐ違和感があった。部屋の中を見回して、膝から崩れ落ちた。

 二人は家にいなかった。何処にいても居場所が分かるような二人が、私の帰宅を知らないはずがない。それなのに二人が家にいた形跡すらなく、彼らの温もりもなかった。

 見捨てられたと気付くには十分だった。

 勝手に逃げだしといて、それでも守ってもらえるって勘違いをして、本当に、自分という存在を許せなかった。

 

「見捨てられちゃったの?」

 

 クスクスと笑う甘い声が部屋に響いた。顔を上げるが、その人物の姿はなく、後ろでクッキーを食べる音がした。

 

「……ころしに、きたの?」

 

 死そのものが背後にある感覚。相手が誰か分かり、問いかけた。

 

「……どうしよっか? ねえ、君はどうして欲しい?」

 

 逆に問いかけてきた彼の声は初めて聞いたとき同様優しく甘いものだった。彼の質問を聞いて思わず鼻で笑った。

 

「……今、私の命を握ってるのは、あなたでしょ?」

「そうだね。なーんだ、そこまでの馬鹿じゃなかったんだ」

「……二人は?」

「僕は知らないよ」

「何かしてない?」

「してない。好き好んで二人に危害を加える気はないよ」

 

 あ、コーヒーも貰うね。と、部屋の中を歩き回る音がする。

 姿を見なくても、声と圧倒的な存在感で分かってしまう。相手はあの他物病刃だ。

 恐怖がないわけじゃない。実際、彼の位置を勝手に耳が追いかけている。本能ではソレを感じているが、二人が無事ならどうでもいいとも思えた。

 

「それで、何の用?」

「ん? 一人ぼっちになってるから、お話しようかなって」

「なにを?」

「んー……、僕のコト?」

 

 その言葉に振り返ってしまった。パチリと目が合えば、彼はようやくこっちを見たとふんわりと柔らかい笑みを浮かべ、目の前の席に座るよう促してきた。

 金のサラサラな髪が彼の動きに合わせて揺れる。その下には赤と青のオッドアイ。量産型大学生の様な服装で、害のなさそうな笑顔を浮かべている美丈夫。ただ、初めて見た彼に得体の知れぬ恐怖が体中を駆け巡った。

 

「……そんな警戒しないでよ。殺す気なら、とっくにやってる」

「……」

 

 彼の言葉に、体を震わせながら目の前に着席すれば、彼は満足そうに頬を緩めた。

 

「それじゃあ、改めて。君を狙うようになった他物病刃だよ」

「……どうも」

「人間は名乗るのが普通だったはずなんだけど……まあ、いっか。僕に見覚えはある?」

「……は?」

「んー、なさそうだね」

「……あの、」

「ん? なに?」

「えっと、その……」

「ああ、安心してよ。あの二人は確かに僕の手で壊すことは可能だけど、そうしない理由もちゃんとあるから」

「……え?」

「一人は面倒だから。一人は同じ死神だから。だから、二人を壊す予定はない。邪魔をしない限りね」

「邪魔って……」

「君を守ることだよ。ずっと、今日までの間二人をこき使ってくれたね。僕はそれを許していないし、僕たちが人間に従うなんてあってはならない。だから、君を殺すことで二人を正気に戻したいんだ」

「……」

「だからね、僕の手で死んでくれる? 今日はそれをお願いしたかった――」

「――勝手言ってんじゃねええ!!!」

 

 他物病刃の言葉を遮って、彼を外に蹴り飛ばしたのは漆黒の悪魔だった。

 驚きを隠せず彼を見つめれば、彼は少し安心したように頬を緩ませた。

 

「お嬢。俺から離れちゃダメ。何かあったら俺を呼ぶ。って、教えてたはずなんだけど?」

「……ご、めん」

「……でも、お嬢が無事でよかった。アイツのせいでお嬢を追えなかったからさ。ごめんね」

「……へ、いき」

「ん。それじゃあ、俺ちんはちょっとお出かけしてくるから。家で大人しく待っててね」

 

 ジョンは前と同じ声で、前と同じ表情で、前と同じように頭を撫でて、他物病刃を追い出した窓から出て行った。

 彼が出ていくなり、外では今までの比にならないくらいの音が響いてきて、微かにその振動で家が揺れていた。

 

「ヴィーナ。大丈夫か?」

 

 部屋の中で空を見上げる私に声を掛けてきたのは炎備くんだ。彼の頬には汗が流れているが、怪我は見当たらなくて安心した。

 

「なあ、ヴィーナ。これからさ、病刃と争わなきゃならねえんだ」

「うん、ごめんね」

「それはいいよ。ヴィーナいない方がつまんないし。……ま、それで、お願いがあるんだ」

「……なに?」

「俺と、主にジョンと、本契約を結んで欲しい」

「……ぇ、」

「多分、病刃に壊される。ジョンもさ、強いのは確かだけど、病刃の方が力があるんだ。だから、病刃が飽きて、遊びを終えたら、ジョンは死ぬ」

「……なん、で?」

「俺はジョンに死んでほしくない。だから、ジョンと契約してよ」

 

 炎備くんの言葉に、いつかの様に首を横に振った。それに炎備くんは呆れたように笑い、「ま、考えといて」と、窓から出て行った。





 

 二人が他物病刃を連れて部屋を飛び出して、一週間は経った。

 二人がいないせいか、まともな日付感覚すら失っていたが、一週間、空から響いてくる声が減らないか確認を続けていた。いつか帰ってくると待っていた。

 それももう終わりだ。ジョンの言葉を借りるなら、待つことに”飽きた”のだ。不安で胸が張り裂けそうになるのも、もう十分すぎるほど味わった。

 

 窓を開ければ、遠くの方で雲が散っていくのが見えた。あんなに遠くにいるのかと思いながら、一度も出たことないベランダに足を踏み入れた。

 朝日を浴びながら、これだけで彼らが気付くかもなんて少し期待していたが、当然争う音は止まなかった。

 

「ジョン・ドウ」

 

 彼を小さく呼んでも、彼は戻ってこない。おそらく聞こえていない。

 

「炎備くん」

 

 小さな彼も笑顔を見せてくれない。

 必死な二人は気付かない。それでも、私は言葉を続けた。

 

「こんなに待たされて、疲れちゃった。ねえ、炎備くん。私を守ってくれるんでしょ? ねえ、ジョン。私の血肉は全て、あなたの物なんでしょ?」

 

 当たり前だが返答はない。

 両手をベランダの外に出し、下を覗き込めば、人ならざる者がこちらを意識しているのが分かった。

 この状況だと、危険かもしれない。なんて思いながらも、持っていた包丁で腕を切った。

 ボタボタと血が流れる。焼けるような痛みが走る。下から、雄叫びが響いてきた。壁を登ってくる音が大きくなっていく。

 

「ジョン。炎備くん。はやく来ないと、食い散らかされちゃう」

 

 静かになった空に投げ掛ければ、空を飛ぶ人ならざる者が目の前に来た。オオスズメバチ、カラス、鷹、姿はそれぞれだ。彼らに驚きはするが、恐怖はない。目の前に迫る彼らが辿り着く前に、二人が来ることを信じているから。

 

「お嬢から離れろ」

 

 目の前まで迫った人ならざる者が消えた。どくどくと脈打つ傷も、跡形もなく消え去った。

 声の方に視線を動かせば、彼は眉を寄せながら目の前に来て翼を羽ばたかせた。

 

「ジョン。おはよ」

「……はあ。おはよう、お嬢」

 

 呆れた声で、少し腹立たし気な顔で、彼は挨拶を返してきた。

 そんな彼に笑いながら、いつもの声で、

 

「一週間、どこ行ってたの?」

 

 と、聞けば、彼もまた、

 

「そりゃ、病刃の執着がエグいからねー」

 

 と、いつもの声で返してくれた。

 それに、日常を取り戻すのは簡単だったのだと今更気づいた。私が二人を信じて、いつも通り過ごしていれば良かった。私が怯えるから、私が不安だったから、彼らの警戒を解せなかった。

 

「どっかの大食いたちのせいで、作った物、全部余っちゃってるんだけど」

「へー、なに作ったの?」

「辛さマシマシのカレー」

「えー、お嬢。それ先に言ってよー。そしたら、ちゃーんと帰ったのにい」

「嘘つき」

「……ま、悪魔だからね」

「そういえば、そうだったね」

 

 と、笑えば、彼はふにゃりと笑顔を浮かべてベランダに入ってきた。

 

「ちょっとごめんね」

 

 と、正面から彼に抱きしめられ、彼は私の首筋に顔を埋めて深く息を吸った。

 

「……あー、もう、疲れたよ。お嬢」

「うん」

「俺ちん、虐殺とかは得意だけど、戦闘は苦手なんだよねー」

「お疲れ様」

「お嬢の血、貰ってもいい?」

「……変なの」

「なにが?」

「まだちゃんと助けられてないし、お願いを聞いてもらってないよ?」

「えー、助けたじゃん」

「他物病刃って最難関をどうにかしなくちゃ。結構怒ってるんだから」

「……じゃあ、お嬢。お願い言って?」

「……」

「お嬢の血が欲しいから、お願い言ってよ」

「……」

「でも、先延ばしにされるんだから、お嬢の口から貰いたいな」

「……ジョン・ドウ」

 

 彼の名前を呟けば、彼は私を離して跪いた。頭を垂れ、表情を隠し続ける彼に、

 

「絶対に死なないで、帰ってきなさい。私だけのジョン・ドウ」

「……お嬢の、仰せのままに」

 

 と、彼は顔を上げて、本心かと勘違いするほどの幸せそうな笑顔を浮かべた。

 ジョンは髪をかき上げ、靴を脱ぎ捨てた。ついでに脱いだジャケットを私に被せ、背を丸めて手すりに座った。犬のお座りの様な体制で止まった彼は、すぐに空に飛びあがっていった。

 それからまた争う音が響き始めた。

 

「ヴィーナ」

 

 音が始まってすぐ、今度は目の前に炎備くんが現れた。鶏冠の様なアホ毛を失った彼は、ボロボロの姿でベランダに入ってきて室外機に腰掛けた。

 

「炎備くんもお疲れ様」

「ん」

「無事で良かったよ」

「あの他物病刃が手を抜いてくれてるからね。まだまだ遊び足りないみたいだし」

 

 欠伸をしながら答えた炎備くんはジッと私を見上げて、ボロボロの手を差し出してきた。

 その手にクッキーの箱とコーヒーが入ったマグカップを乗せたトレイを置くと、嬉しそうに口に運び出した。つかの間の休息を楽しむ彼が、また食べれてよかった。と、呟き、死を覚悟していたことを悟った。

 何とも言えぬ感情を胸に彼が幸せそうに食事をしているのを眺めていると、突然耳の横で風を切るような音が聞こえた。同時に窓ガラスが粉々に砕け散り、そこにはギラリと光るナイフが刺さっていた。

 

「ヴィーナ。こっち来い」

 

 と、炎備くんに手を引かれた。

 

「ジョンより痛いかもしんねえけど、我慢してな」

 

 手を伸ばしてきた炎備くんの言葉に戸惑っていれば、耳元で爆発音がして痛みが走った。何故、私を焼いたのか分からなかったが、痛みで触れた耳はパックリと割れていた。

 

「後でジョンに治してもらえよ」

「うん、ありがとう」

「……ジョンと俺に何かあった時のために、伝えとくな」

「ん? なに?」

「ジョンの真名は――ソラトだ」

「そ、らと?」

「そ。まあ、人間たちの間ではアイツのシンボルである666だけが有名だけどな。周期って話も、アイツ特有のもの。誰も真名を教えてなかったら、いざって時に使役できないだろ?」

「……しないよ」

「はあ? アイツと一週間、病刃と争ってようやく分かったけどさ、アイツ相当ヴィーナのこと好きだよ?」

「……」

「アイツ自身、ヴィーナと離れることを拒絶してる。アイツにとって、ヴィーナは唯一無二の存在になってんだ。だから、使役しても、アイツは変わらない」

 

 と、炎備くんはジョンに関して話してくれた。

 それでも、私の意志は固まっていた。契約は、したくない。

 

『ま、悪魔だからね』


 そう言って度々突き放すのは、側にいたくないという意味だと思った。

 

『契約だからねー』

 

 そう眉を寄せて嘲笑うような彼は、本当は自由に生きたいんだと思った。

 

『俺の獲物』

 

 迷わずに私を物扱いする彼の言葉は、本心だと思っている。

 いずれ彼は私を食べる。彼に取って食べ物でしかない。初めて会った日から何一つ変わらない。

 私の顔を見て、炎備くんは諦めたように溜め息を吐き出した。私の意志が今は強いのだと理解してくれたのだろう。

 

「んじゃ、その時が来たら、ソラトって呼んでやれよ」

 

 と、来るかもわからない契約の時のために言い聞かせて、彼は再度クッキーを口に運んだ。


 

 ガチャンッ、と、激しい音が鳴ったのはそのすぐ後だった。

 私達の間を何かが通り過ぎ、窓ガラスを破って部屋に入ってきたそれは、全長五メートル以上の真っ黒な犬だった。

 犬は血まみれで、徐々に小さくなっていく。鋭かった爪や牙は縮み、耳が縮めば毛に埋もれて消えていく。手足が人間の物に変わり、飛び出ていた口も人間のそれに代わり、着ていた黒いスーツはボロボロに破けていた。

 

「……じょん?」

 

 部屋の中で虚ろな目をしている彼の名前を呟くが、彼はか細い呼吸音を発するだけだった。

 

「ヴィーナ。ジョンを頼む」

 

 炎備くんの声が鋭くなり、バサっと翼が動く音が聞こえた。ひらひらと舞い落ちる彼のオレンジの羽を目で追えば、そこに影が落ちた。

 

「そろそろ飽きたんだよね。その人間、僕に頂戴」

 

 影の主が表情無く告げてきた。

 

「……他物病刃ともあろうアンタが、なんでヴィーナにそこまで固執すんだよ」

 

 売り言葉に買い言葉が織りなされているのを横目に、私はふらつきながらジョンに近づいた。薄っすらと開いている目にゾッとしながら、再度彼の名前を呼ぶが、返事はない。

 彼の目の前で座り込みながら、もう一度彼の名前を呼んだが、虚ろな瞳が動くことはない。

 今に至るまで、たくさん迷惑をかけた。足手まといだった自覚しかなかった。無理難題を何度も彼に押し付けていた。

 殺すな。傷つけるな。見逃してやれ。そんな言葉ばかり彼に発していた。殺しに来る相手にそうしろというのだから、彼は毎度頭を抱えていた。ダメだと叱るように告げてきても、最終的には、

 

『んもー、お嬢はしょーがないなあ』


 と、笑って従ってくれた。

 どんな相手にも楽に勝利を掴んできた彼なら、今回も飄々とすぐに終わらせてくれると信じていた。それが当たり前だと、錯覚していた。

 私が死ぬその瞬間まで、彼が側にいてくれると、確証もない約束を信じ込んでいた。

 

「じょん、……ねえ、おきて」

「……」

「ねえ、じょん」

「……」

「……っ、起きなさい! ジョン・ドウ!」

「……」

 

 いつも笑顔を見せてくれた彼が起きてくれない。歪み視界にグッと唇を噛めば、口内に鉄の味が広がった。

 足が彼の血で濡れていくのを感じる。彼の血は止まることなく流れ続けている。このままでは彼でも死ぬのかもしれない。

 ありえないと思っていた目の前の現実に、これしかないだろうと深呼吸をした。

 

 

 ジョン・ドウ。

 あなたが死ぬことは許さない。契約を途中で投げ出すなんて悪魔の恥なんでしょ?

 だから、今からすることを、あなたが怒るのは許さない。

 目を閉じれば、ジョンとの思い出が脳内を駆けまわった。

 

『病刃と争ったら、俺ちんも破壊されちゃうよー。だからぁ、お嬢はぜーったいアイツに目を付けられないでね』

 

『えー、お嬢の血があれば百人力だよ? だから、こーんな三下が何千って集っても、お嬢の血があれば、俺は絶対負けない』

 

『お嬢。おはよ。……また、クマ酷くなってんねー』

 

『あー、お嬢。ほら、ごめんねっ! 俺ちんが悪かったから、そんな怒らないでー?』

 

『……ぁー、もうっ、お嬢ズルくね?』

 

『俺、こう見えても、お嬢との生活は結構気に入ってるよ。毎日飽きないからねん』

 

『ねえ、お嬢。俺から、勝手に離れていかないでね。お嬢の居る場所が、今の俺の居場所なんだ』

 

『お嬢の素直なところは好きだよ。でも、その分厄介ごとを持ってくるところは、ちょーっとねえ』

 

 一年ほどの記憶はこんなにも濃密なものだっただろうか。なんて頬が緩むのを感じた。

 彼と出会って、彼と過ごすようになって、約一年。それでも、彼から与えられたものは多かった。彼との時間は楽しかった。幸せだった。例え契約ありきの関係で、彼にその気が一切なかったとしても、私はジョン・ドウと過ごせて、大切な思い出が出来た。

 彼の全てが嘘でもいい。彼の全てが本音でもいい。私にとって、ジョンと過ごしたという事実が、何よりも大切なモノになっていた。

 虚ろな目をする彼を仰向けに転がし、彼の口を開いた。

 彼の口の上に左腕を持ってきて、その腕に包丁を当てがった。

 

「許してね。――ソラト」

 

 自分の腕を切り裂くことに迷いはなかった。

 背後では炎備くんと他物病刃の争う声が聞こえる。仮に他物病刃がこのまま私を殺しに来ても、今の私なら仕方ないと諦められるだろう。ジョンがいない人生など、もう考えられない。

 

「ワガママなジョンは、まだお願い叶えてないから……これはご褒美じゃないからね」

 

 ジョンの顔と口内が赤く染まっていくのを見ながら、名前を呼ぶ為に深呼吸をした。

 

「名前を呼べヴィーナ!」

 

 炎備くんの怒鳴り声が響いた。

 

「……いつまで寝てるの? はやく起きなさい」

 

 と、呟くが、彼は動かない。

 背後から炎備くんの詰まった声が聞こえてきた。同時に大きな水音が響き、心臓が張り裂けそうになった。炎備くんが殺されたのだろうと察するには十分な情報だ。

 この先は他物病刃と私の競争になった。

 頭の中に私を呼ぶ小さな彼の笑顔が浮かんで、視界が歪んだ。

 ごめんなさい、炎備くん。ここで全滅しても、また一緒に過ごしてね。人間で、戦う術のない私には、これしかできないから。それでも、間に合わなくてごめんなさい。

 

「あなたは、私だけの悪魔――」

 

 腹を貫く鉄の塊に、言葉が詰まった。

 

「ソラトから離れろ小娘がァ!」

 

 他物病刃の言葉に重なってしまい、私の声は掻き消された。

 もし契約の【真名を呼ぶ】が本人に聞かせるの意味だったら、不成立になってしまうなと、ジョンの体の上に倒れこんだ。

Nola、カクヨムにて多重投稿してます

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