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日常が壊れた日

四話目



 

 目の前に広がる炎をぼーっと眺めながら、中心にあるアルミホイルに唾液の量が増えたのを感じた。アルミホイルの中のさつまいもに、隣に座っている炎備くんも嬉しそうにしていた。

 部屋の中心で燃え続ける炎が辺りを巻き込むことはない。完全に炎を制御してくれている炎備くんのおかげで宙に浮く炎に恐怖心はなかった。

 炎備くんはアルミホイルへの火力は落とさず、炎でジョンや私を作って遊んでいる。消防の人が見たら卒倒するかもしれない。


 全開のカーテンも久々で、調子に乗って開けた窓から刺すような冷たい風が吹き込んできた。さすがに調子に乗り過ぎたかと体を震わせれば、目の前に出てきた炎と肩に掛けられる毛布が体を温め始めた。

 二人に礼を言うが特に気にした様子もなく、二人とも目を逸らすことなくアルミホイルを見つめ続けていた。


 大食いが二人になって大変だ。なんて他人事の様に思いながら、近くを飛び回る小さな炎の鳥に頬を緩ませた。

 二人の奈落の様な黒い瞳が細まっている。オレンジキャロットも真っ赤なそこも、綺麗に光を反射しているのに、黒い部分は穴が開いているように光を吸収して見えた。

 不思議な目だな。と、観察すれば、視界の端で炎の鳥が大きくなった。ビクッと体が跳ね上がるのは染みついた条件反射のせいだろう。


「炎備。火力落とせ。お嬢が怯えてる」

「美味いもん食える間は燃やさねえよ」

「そういう問題じゃねえんだよ」

 

 視線を外していても私の反応を確認するのはジョンの癖なのだろう。炎備くんを説得しようとするが、二人は当たり前のように口論に発展していく。ジョンの言葉に段々と炎が膨らみ始め、寒さで縮こまっていた体は別の理由にすり替わっていった。

 ガチッ、と、一度奥歯が鳴れば、炎備くんは勢いよくこちらを見て、少し申し訳なさそうに炎を小さくしてくれた。

 

「ごめん」

「……平気だよ、炎備くん」

「お嬢。コイツに気を遣うな。てか、必要ねえ嘘は吐くな」

「ジョン」

「お嬢が我慢する必要ないデショ。あっ! どうせならぁー、コイツ、使役しちゃえば?」

 

 へらっと笑いながら告げてきたジョンに、私と炎備くんの心が冷めて遠のいたのを感じた。

 季節は冬。炎備くんと出会ったのは秋だったから、もうすでに数ヶ月は共に過ごしている。和解は済んだと思っているのだが、ジョンは一週間に一度は必ず使役すればと笑う。それこそ飽きるほど言われ続け、私と炎備くんは既に反論をやめた。

 

「あ、炎備くん。もういいよ」

「ん、分かった」

「ちょっ、俺ちんを無視しないでっ!」

 

 バチバチと火花を散らした炎が炎備くんの手に収まった。すると炎はすぐに消え去り、彼の手には高温であるはずのアルミホイルが六つ収まった。

 

「ちょっ、炎備くん!? 熱いから置いて!」

「ん? ああ、俺は平気だよ」

 

 と、表情の変わらない炎備くんに慌てて濡れ布巾を用意するが、彼はアルミホイルを置く気配がない。


「お嬢ー? コイツ、腐っても火炎の死神だから。熱には強いって話したでしょー?」

 

 炎備くんの手が心配で、ジョンの言葉の意味が分からなかった。

 

「そういうこと。火ってのは熱だから。熱中症とか感電死も俺様の担当なんだよ」

「脱水症状の場合は氷水の死神担当だけどねー」

 

 日常会話の様に放たれた二人の言葉に、体から力が抜けて座り込んでしまった。

 

「よ、よかったぁ」

 

 と、そのまま肩の力が抜ければ、二人の笑い声が部屋に響いた。

 楽しそうに笑う二人は私を馬鹿にしてきて、視界がぼやけていく。

 

「ご、ごめんねっ、お嬢! 分からないって忘れてた」

 

 笑いを堪えながら視線を合わせて謝ってくるジョンだが、馬鹿にされているのは明白で涙の膜もそのままに眉が寄った。ゲッ、と、ようやく焦り出したジョンは目の前で手を慌ただしく動かす。

 俯いて黙っていた炎備くんは、私たちのやり取りを見てか、突然笑い声を響かせた。

 

「っぁー、もうっ、ほんっと面白いよなー」

 

 と、初めて、見た目年齢相応な笑顔を浮かべ、炎備くんはジョンを蹴り退けて目の前に座った。可愛らしい笑顔を浮かべたままの炎備くんの手が頭に乗っかった。

 ジョンに比べると小さいが、ジョンよりも暖かいそれに涙が引っ込んだ。

 

「もっとはやく話してれば良かったなあ……。な、――お嬢はどう思う?」

 

 彼の問いかけに時間が止まった気がした。

 もっとはやく話していれば良かったと言う意見には同感だ。数ヶ月だが彼も加わった生活は飽きないし、とても楽しかった。

 時間を止めたのは”お嬢”という言葉だ。

 

「クソガキ。お嬢って呼んでいいのは俺だけだぞ」

「……は?」

「あ?」

「……~~っ!? ご、ごめんっ!!」

 

 自分で言った言葉を理解していなかったのか、突然顔を真っ赤に染め上げて謝罪の言葉を怒鳴るように吐き出した。その姿を見て、ジョンに引っ張られただけか。と、緊張が解けるのを感じた。


 

 お嬢。そう呼ぶのはジョンだけだったし、この先も彼以外が呼ぶことはないと思っていた。

 ジョンが笑って。ジョンが怒って。ジョンが不服そうに。いつもジョンは偽りの感情と共にそう呼んできた。人間ではない彼が私の名前を呼ぶのは抵抗があったのだろうと、深く追及はしなかった。だが、それよりも、追及したら、彼が私との縁を求めていないことが突き付けられるのは分かり切っていた。だから、逃げたのだ。自分を守るために。

 

 それでも、ジョンにお嬢と呼ばれ続ければ、それはジョン・ドウと同じで私の名前になっている気がした。おかげ様で赤の他人の会話にお嬢さんなんて出てきたら振り返ってしまう様になっていた。

 完全に自分の名前だと錯覚していたからこそ、炎備くんにそう呼ばれて、少しだけ恥ずかしくて、心臓が変に高鳴っていた。


「まってお嬢。どういうこと? なんで? 俺にはそんな反応してくれなかったじゃん!! 赤くならないで! そんな顔コイツに見せちゃダメでしょ!」

「ジョンのは極道みたいだったから」

「いやいや、なんでフェニックスには乙女になるんだよ! クソガキじゃん! 俺の方がカッコいいじゃん!」

「……炎備くんは――」

「――あーっ!! やっぱり聞きたくない無理!!」

 

 叫びながら耳を塞いだジョンに首を傾げるが、

 

「あ、冷める前に食べよっか」

 

 と、固まっている炎備くんに声を掛ければ、彼は小さく頷いてくれた。

 

 椅子に座り、濃い湯気が揺れるアツアツの焼き芋を手にするが、あまりの熱さに噛り付く勇気は出なかった。隣に座った炎備くんを盗み見れば、彼は常温の物を食べているかのようにガツガツと胃の中に収めていた。その姿に、本当に熱に強いんだなあ。と、感心していれば、私の足元に座ったジョンが犬の様にガツガツと食べていた。

 

「……人ならざる者になりたい」

「お嬢!?」

「何言ってんの? アンタは人間が丁度いいよ」

 

 熱いものは熱いまま食べたいし、冷たいものは冷たいまま食べたい。それでも限界があるのが人間で、目の前で勢いよく流し込んでいく二人が羨ましかった。

 

「あ、そういやさ」

 

 と、アルミホイルを置いている私を横目に炎備くんは口を開いた。

 

「グシオンからケーキ貰った」

「……ぐしおん?」

「それから、ペネムエルが新作だって」

「ぺ、ぺねむ、える?」

「日向未来と早乙女はじめな」

 

 ジョンが告げてきた名前に、ようやく誰を指し示す名前なのか理解した。

 

 日向未来。ジョンのせい……というより、二人のせいで定期的にお世話になっているエッグイースターの制作者だ。海外からも声が掛かるほどで、パティシエ界の天才と評される彼は、この街に居座っている人ならざる者。

 幼い頃に公園で転んだ私に駆け寄ってきてくれたのが彼で、それ以来友人として関係を続けてきた。余談だが、最近人ならざる者か問うたら、彼は同様一つ見せず『そうだけど、やっと気づいたの?』なんて言ってきた。元より隠す気なんてなかったのだろう。

 

 早乙女はじめ。歴代最高の文豪と称される彼は現役の小説家だ。片手間にシナリオやアニメや漫画の原作者としても名を売っている。彼もこの街から動く気はないようだ。

 高校時代に指を切った私の手当てをしてくれて、それ以来友人として過ごしてきた。あの時は『女の子なんだから、怪我には気を付けて』なんて平然としていたが、彼も人ならざる者らしい。たった今告げられた事実に頭痛がするが、よく二人して襲い掛かってこなかったなと心の中で謝罪した。

 

「お嬢? もしかしてー、アイツらのこと聞きたいのぉ?」

「……勝手に聞いちゃダメでしょ」

「気にしないデショ。アイツら、隠す気ねえもん」

 

 ケラケラ笑うジョンは、炎備くんが持ってきた箱の中からエッグイースターを取り出した。悪魔二人は頬を緩め、上の球体を叩き割って口に運び始めた。

 

「日向未来。真名はグシオン。あいつは過去、現在、未来の知識を持ってんだよねん」

「こんな摩訶不思議なモン作れるの、あいつかロノウェくらいだしな」

 

 ジョンの言葉を補足するように炎備くんが続けた。

 二人とも食べる方が重要なのか、口に運ぶスピードは変わらず、その合間に口を開いていた。

 

「早乙女はじめ。真名はペネムエル。間違いなく、作家は全員コイツに憑りつかれてるデショ」

「書き物を通じて人間を堕落させてんだよなー。魂集めるにしても、陰気臭いやり方だろ?」

 

 赤いラズベリー味のチョコを舐め取って笑う二人の言葉に、改めて自分の周りに人間はいないのだとため息をつきたくなった。

 

「お嬢も大変だよねー。俺にフェニックス、グシオン、ペネムエル」

「堕天使ホイホイかよお前」

「あ、堕天使なんだ」

「まあ、数ヶ月あんたといるけど、ほとんど堕天使に囲まれてんな。ジョンがいなかったら今頃道行く堕天使に襲われてたと思うぜ?」

「ほんとそれねー。俺ちんチョー頑張ってる。あ、ちなみに、近付いてるのは悪魔としても有名な奴らばっかりだよー。さっすが俺のお嬢だね!」

 

 彼らの言葉にげんなりして、現実逃避の様に冷えてきた安納芋に噛り付けば、舌が痛んだ。

 炎備くんが貰ってきたはじめ君の小説を本棚に入れれば、笑いあっていたジョンと炎備くんの声が止まった。

 急に訪れる沈黙は不幸の始まりだ。ジョンと過ごしてから嫌というほど味わってきたので、大きなため息が飛び出した。

 

「俺様の獲物だ。三下が家に入ろうとしてんじゃねえよ」

「えー? お嬢の血肉はぜーんぶ俺ちんだけのモノだよ?」

「……炎備くんのお家じゃないし、ジョンの物でもない」

 

 二人の言葉に正論をぶつけながら振り返ってしまい、窓を埋め尽くすヘドロに鳥肌が立った。

 ヘドロ。誇張しているわけでも例えでもなく、本当に嘔吐物の様な気色悪いスライムの様な相手だった。

 

「あ、お嬢が吐きそう」

「水分多いし、俺パス」

「えー、炎備が来てから毎回俺が汚物担当じゃん」

「適材適所だろ」

 

 二人の言葉はどちらも正しい。水分が多い人ならざる者は炎備くんとの相性が最悪で、戦えないわけじゃないが本領発揮ができない。結果的にジョンが水分担当で炎備くんが乾燥担当になった。

 そして、水分が多い敵というのが毎回ヘドロや汚物。形状は大抵虫であることが多い。そのせいか、最近ではジョンに近づくのを躊躇してしまう時があって、そのたびにジョンは無駄に上手い泣きそうな顔を作っている。

 

「んもー! またお嬢に避けられんじゃん!」

 

 いつの間にか飛び出したようで、外から怒鳴り声が響いてくる。

 炎備くんはジョンの声を無視して、おやつに作っておいたクッキーをつまみ出した。もぐもぐと美味しそうにクッキーを頬張る炎備くんを眺めながら、自分もコーヒーを飲みつつ時折クッキーを食べる。

 テーブルに置かれた二つの箱にはどちらもクッキーが入っている。赤い箱には甘めのクッキーを、青い箱には一般的な物を。

 炎備くんが来て以来、上白糖とグラニュー糖の消費が激しい。最近では週に一度、未来くんに砂糖を貰っている。

 

『稼いでるからいらない』

 

 と、彼はお金を受け取ってくれない。わざわざ業者の人から直接買ってくれているのだから、素直に受け取って欲しい。が、この先も拒否られることは幼馴染だから嫌でも分かる。

 ああ、砂糖と言えば、そろそろ受け取りに行かなきゃ。と、予定を頭の中で整理していく。

 

「あ、そういやグシオンに持たされてたわ」

 

 と、炎備くんが玄関から大きな段ボールを持ってきて、テーブルに置いた。音からしてだいぶ重量があるだろうに、軽々と持った彼に驚きつつそれを開ければ、いつも通りの砂糖。

 未来くん。ありがとう。と、思わず手を合わせ、店がある方を拝んでしまった。

 

「……ジョン、大丈夫かな?」

「問題ねえよ。アイツが負けるなんてありえないからな」

 

 口は悪いが信頼している言葉に頬が緩んだ。

 仲がいいのは知っていたし、信頼しあっているのも知っている。ジョンがいなければ炎備くんはこれほど素直になれるのかと思うと、嬉しかったし、たまにはこういう時間もあって損はないなと思えた。 

 コトッ、と、音を立てて、炎備くんはマグカップをテーブルに置いた。空っぽになったそれに新しくコーヒーを淹れれば、嬉しそうに礼を言って飲み始めた。

 

 炎備くんは甘いものが好きだ。だが、コーヒーだけは豆の味がするからとブラックを好む。好きな料理はグラタンとハンバーグ。飲み物はブラックコーヒー。意外と静かな時間の方が好みで、好きなのは太宰治作品。本棚に並んでいるそれを気が付いたら読み漁っていたのが記憶に新しい。

 

 ジョンは特に好き嫌いなく何でも飲むし、何でも食べる。だが、私の作る料理の方が好きなようで、よく強請られる。他所で口に運ぶとしたらほぼ生のステーキだけだ。素材の味を感じられるものは比較的口に合うようで、フルーツも好んで食べる。飲み物はブラックコーヒー一択。その時面白いと思ったものに飛びついていく子供の様な無邪気な姿を見せながら、次の日には飽きている事が多いので、おそらく本気でハマれるものには出会っていない。

 

 そんな対照的な二人との過ごし方は、やっぱり対照的な物で、ジョンと二人の時はとにかくジョンが五月蠅い。だけど、それに心地よさを感じているのも事実で、友人や恋人の様な時間だと思っている。だが、炎備くんとは意外にも静かな時を過ごしていることが多い。それこそ時間を共有しているだけ。と、いった感じだ。ジョンがそれなら炎備くんとは、熟年夫婦のそれに類似しているだろう。

 

「ねえ、炎備くん。今日は何食べたい?」

「あ? ……ぁー、肉じゃが」

「分かった。お肉多めが良いんだよね?」

「うん」

 

 頷いた炎備くんの少し甘えた目に頬が緩んだ。数ヶ月前では信じられない光景だ。だけど、その目が、今は亡き弟と被る時があって胸が痛む。

 

「あのさ」

「ん? どうしたの?」

「……ごめん」

「……また何か燃やしたの?」

「ちげーよ。……今までさ、飯とか、満足に作れなかったろ?」

「……そうだね。沸騰したら爆発するし、火を使ったら爆発するし、暖房器具でも爆発してたし。ジョンが来てからはマシになったけど、一人だと不可能だったかも」

「ごめんって」

「……でもね、楽しかったよ?」

「は?」

「普通の生活はできなかったし、今でも弟を失ったのは最悪だけど……ジョンと炎備くんに会えたから」


 あの事故から、もうすぐ一年。それほどの時が流れても、あの時ストーブを使って弟を死なせてしまった自分への恨みは消えない。火事になって弟を抱えて逃げなかった自分を恨まない日はない。きっとこの先も、そんな日は訪れないだろう。

 それでも、そのおかげで新しい生活を得た。その生活は一般的とは言えないが、とても賑やかで……少しだけ、楽しいものだった。

 

 ジョンが笑って駆け寄ってくるのも、炎備くんが素知らぬ顔で手助けしてくれるのも、ジョンが嬉しそうに呼んでくれるのも、炎備くんが美味しそうにお菓子を食べてくれるのも。全て、あの日がなかったら実現しなかったものだろう。

 大きな変化に戸惑いがないとは言えない。それでも、私は、ほんの少しだけ――幸せを感じている。

 

「やっぱり馬鹿でしょ」

「うん。そうなんだろうね」

「……ヴィーナ」

「……え、なんて?」

「アルヴィナ。だからヴィーナ。で、どう?」

「ごめん、なにが?」

「人間と真名で呼び合うのは、まだ慣れないんだ。だから、仮名で呼ばせてくれ。アイツと一緒はダメみたいだしさ」

「……どうして、アルヴィなの?」

「……別に。深い理由はねえよ。ただ、あんたに、似合う……から」

 

 と、顔を逸らした彼の耳は髪の毛で誤魔化せないぐらい真っ赤に染まっていて、彼のその反応に、深く追及することはできなかった。

 

 数分前まで轟いていた怒鳴り声は既に止まり、コーヒーを飲む音だけが鼓膜に届く。外を見れば青い空にピンク色の雨が降っていた。

 ピンクの雨なんて、まともな物じゃないだろう。と、思いながらもそれを観察していた。

 窓についたピンク色の雨は流れ落ちることなく、へばりつき、間違いなく人ならざる者の血か肉だと悟った。

 ダンッ、と、音を立ててマグカップを置いてしまった。炎備くんは不思議そうにこちらを見てきているのが分かるが、私は窓を見たくなくて口を押さえ、俯いた。

 

「……うっわ、最悪だな」

 

 と、炎備くんが溢した。まさにその言葉通りだ。

 降っているそれは雨なんかではなく、ピンク色の大量の蛆だった。吐き気が込み上げるが、何とか耐え、体を震わせる私に炎備くんが見ないようにと告げてきた。もう手遅れだとは言えず、深呼吸を繰り返す。

 

「お嬢ぅ」

 

 と、甘えた声と共に背中の重力が増した。先程まで外にいたジョンで間違いない。

 

「お嬢、もうやだぁー。俺ちん頑張ったから褒めてぇ」

「……蛆の雨、見たんだけど」

「家はいる前に、ちゃーんっと綺麗にしたよ! 俺ちん偉いもん!」

「……ならいいや」

「ヴィーナ。クッキーまだある?」

 

 空っぽになった箱を見せながら問いかけてきた炎備くんに頷き、保管していたクッキーを箱の中に移し、彼に差し出せば、それをまた嬉しそうに食べ始め、

 

「こっち来いよ」

 

 と、私を引き寄せた。突然腰を抱かれ近くなった距離に驚き、少し下にある彼の大きな目を見つめた。間近で見るのは初めてだが、彼もまた端正な顔をしていると見惚れる。

 

「ジョン。連れ帰ったら、ヴィーナが発狂するだろ」


 目の前の炎備くんの言葉を理解するより先に震え上がった。

 可愛らしくも綺麗な顔から視線を動かし、恐る恐る後ろの方に立つ漆黒の悪魔を見れば、ジョンの肩に生きの良いピンクの蠢く物体がいた。

 何とか悲鳴を我慢し、炎備くんの首に手を回せば、炎備くんは腰を抱く力を強めてくれた。

 

「ま、まって、お嬢。え?」

 

 絶望したような声にそちらを向けば、変わらず飛び跳ねる蛆。その横のジョンの顔に影が差していた。

 

「お、俺だけのお嬢なのに……」

「……私、物じゃないってば」

 

 そう言えばジョンは項垂れて外に出て行った。騒がしい音が響き渡り、彼の怒鳴り声も響く。音で判断するに、その辺の人ならざる者に八つ当たりしているのだろう。

 

「ほら、ヴィーナ。もう大丈夫だ」

「……ジョンきらい」

「本人に言ってやれ」

「ん」

「あの一匹以外入り込んでねえから、コーヒーでも飲んで喧しい奴が満足するの楽しもうぜ」

「……暫くジョンに近づきたくない」

「はいはい。んじゃ、俺のそばにいろよ。ヴィーナ」

 

 クスクスと笑う彼の顔は少年のそれとは違って、大人の男性に見えた。

 炎備くんにエスコートされ、椅子に腰掛ければ、彼は当たり前のように隣に座った。

 

「……今回は長そうだね」

「だろうな。喧しいし、面倒だから怒らせたし」

「……ん? ジョン、怒ってたの?」

「……あれで気付かねえの?」

「だって、ジョンは人間の感情なんて持ち合わせてないでしょ?」

「……悪魔っつっても感情はあるよ。怒りもするし、喜びもする。嬉しいとか、悲しいとかも、もちろんある。ただ、人間とは少しずれているだけだ」

「……ズレ、てる?」

「そ。仲間が死んだところで俺達の感情は動かない。弱いから死んだ。ただそれだけだ。……ただ、俺達の執着心は舐めない方がいい。欲しいと思ったら何を犠牲にしても手に入れるし、お気に入りが自分以外に懐くとか、双方共に殺したくなる」

 

「……ジョンは、契約でいるだけだよ」

「……あのジジイが、本契約でもない契約を律儀に守ってるなんて、俺達からしたら信じらんねえよ」

「……ジョンって、そんな冷たい人なの?」

「アイツさ、昔ヴィーナと同じ契約したんだよ。んで、次の日に相手を殺した。その十年後、別の人間と契約した。その一ヶ月後、相手を殺した。そんなん繰り返してんだよ」

「……理由、は?」

「……ヴィーナなら、分かるだろ?」

「……飽きたから、とか?」

「正解。飽きたから殺した。コイツつまんねーんだもん。俺を愉しませられるって言ってたのに。とか、色々言ってたな」

「……そっか」

「そんなアイツが仮名を貰うのはまだしも、お嬢なんて呼んでんだ。アイツの中じゃ、十二分に特別扱いしてんだよ」

「え、でも、ジョン、すぐにそう呼んできたよ?」

「……はあ!?」

 

 炎備くんがパクパクと口を開閉し、その顔は驚きに包まれていた。

 あの日、ジョンは契約すると決め、契約内容を定めてすぐに”お嬢”と呼んできた。その日の事は忘れるはずもない。弟を失い、全てが変化した日なのだから。

 

『よろしくね、お嬢』

『お、じょう?』

『俺ちんは悪魔だからさー、お嬢の名前は知りたくない。んで、お嬢は俺をジョンって呼ぶんでしょ? だから、俺ちんもそれに倣ってお嬢って呼ぼうと思って』

 

 なんて、すごくいい笑顔で言っていた。それはそれはゾッとするようなものだ。

 だからだろう。炎備くんの話しがどうにも信じられなかった。私が今までの契約者より圧倒的に面倒なのは間違いない。そんな相手を一年近く飽きることなく守り通すなんて、できるのだろうか?

 私の知っているジョンはやってくれているが、炎備くんに言われてみれば、確かにジョンの性格とは合わない気がしてきた。

 隣の炎備くんを盗み見れば、彼は頭を抱えて大きなため息を吐いた。

 

「……まあ、その、アイツなりに、大事にしてんだからさ。少しは分かってやって欲しいんだ」

「分かった、けど……ジョンって、感情あるんだね」

「あったり前でしょー。お嬢、ちょっと酷くない?」

 

 と、不貞腐れた声で割って入ってきたのは、綺麗なジョンだった。服の汚れや皺ひとつ見当たらない服装に、彼を見上げる。

 

「お嬢が嫌がるから、ちゃーんと綺麗にしてきましたー」

 

 ぷくっと頬を膨らませた彼をジッと観察するが、確かに虫は付いていないし、問題はなさそうに見えた。

 ちらりと炎備くんを見れば、彼は小さく頷いて、合格のサインだと察する。

 前に仁王立ちするジョンを手招けば、目の前に座り込んだ。下から少しだけ恨めしそうに見つめてくる彼に、これは本当の感情なのか分からなくなる。どうせ探っても、彼のことを理解できる日はないだろう。と、勝手に結論付け、彼の頭を撫でれば嬉しそうに頬を緩ませた。

 ジッと見上げてくる彼に戸惑いながらも、奈落の黒が少しだけ光った気がして思わず顔を近づける。

 突然の接近に驚いた二人だったが、ジョンは変わらずすぐににんまりとした意地の悪い笑顔を浮かべた。

 

「なあに? お嬢。俺ちんとちゅーしたくなっちゃった?」

「……いや、気のせいだったみたい」

「ん? なにが?」

「虫はいないだろ?」

「あー、えっと、二人の瞳孔? っていうのかな? 奈落の底を見るみたいに光を反射しないのに、今ジョンのは光って見えたから?」

「……ヴィーナ、それいつ気付いた?」

「え? 結構前から? ジョンが特別なのかとも思ったけど、炎備くんもそうだったから、悪魔ってそういうものなのかなって」

「お嬢。よく気付いたねー。……この目は特別だよ。人ならざる者の特徴の一つだ」

 

 さすが俺のお嬢。なんて笑うジョンから告げられた事実に、驚きを隠せなかった。もっと早く言ってよなんて、彼に言っても無駄だから口を閉ざす。

 実際、奈落の底に通じているという都市伝説もあるようで、二人は抵抗なく黒い瞳を見せてくれた。だが、間近で見ても深い黒一色で、特に変化は起きない。やはり先程のは見間違いだったのだろう。

 

「……お嬢。俺ちんもコーヒー飲みたい」

「あ、うん。今淹れてくるね」

 

 ジョンの言葉に立ち上がってキッチンに向かえば、背後の二人は黙っていた。重苦しい沈黙に何があったのか振り返ろうとしたが、

 

「お嬢。今度こそ、絶対。こっち見るな」

「そのまま静かにしてろよ、ヴィーナ」

 

 と、二人の鋭い声が告げてきた。その声が、人ならざる者に向けるものより何倍も威圧感があって、何とも言えぬ強い恐怖が体中を走った。

 二人は物音ひとつ立てない。立ち上がった気配もない。ただジッと外を見ているのだろう。それにたくさんの疑問が浮かぶが、恐怖で動かない頭では満足にまとめられすらしなかった。

 

「二人で独占するのは、少し意地悪じゃない?」

 

 痛いほどの沈黙を破ったのは凛とした男性の声だった。呟く様な声なのに、嫌でも鼓膜を揺らすそれは、まるで脳に直接響いているみたいで、底知れぬ恐怖があった。

 普段なら浮かぶはずのどんな相手なのかという疑問を持つことすら恐ろしくて、彼らに背を向けたまま体を震わせた。

 

「ねえ、炎備? 人間相手に何してるの?」

 

 優しく問いかけているのに、刃物で何度も刺される感覚がした。

 

「人間に情けは無用。死神としても、悪魔としても、堕天使としても。それは共通している考えだよね?」

「わ、かってる」

「分かってないから、わざわざ僕が来てやったんだろ」

「ご、めん、なさい」

 

 背後から炎備くんの荒い呼吸が聞こえた。それでようやく、怯えているのは自分だけではないのだと察した。

 

「あーのーさー。……お嬢は、俺が最初に目を付けたんだけどお?」

 

 私と炎備くんが怯えているのに、ジョンの声は変わらなかった。むしろ怒りが滲んだような声色で、いつものジョンと何かが違う気がした。

 

「何言ってるの? 一番初めは炎備だろ?」

「俺の事、お前が把握してるわけないだろ?」

「調子に乗るなよ、たかが悪魔風情が。その子がこの世に生を受けたときから、俺は知ってんだよ」

「へー。それで? 死神サマはいつも通りストーキング行為に熱中だったワケ?」

 

 ケラケラと馬鹿にしたような笑い声を漏らしたジョンに、相手は声に怒りを含ませていった。

 

「他物病刃サマも、お暇なんですねー」

 

 ジョンの言葉に相手が誰なのか、ようやく分かった。

 死神トップの人ならざる者。他物病刃が今、後ろにいる。どうして来たのか分からないが、私を殺しに来たのだろう。そうでなかったら、わざわざここに来る理由はない。

 

「ヴィーナ。振り返るな」

 

 何とか、きっかけでもいいから、帰る理由を与えたかった。彼に帰って欲しかった。私が怯えていないと感じれば、彼は帰るかもしれないと無に等しい可能性に賭けたかった。

 振り返ろうとした私に、炎備くんの鋭い声が投げられた。

 

「お嬢。平気だよ」

 

 優しく響く声は、いつも恐怖を取り払ってくれるものだった。それでも、カタカタと震える手は止まる気配すらなかった。むしろ震えは大きくなっていった。

 

「へー。世も末だね。お前がそんな声を出せるなんて。知らなかったよ」

「ほら。お前なんかに把握される俺じゃないんだよ」

「悪魔の中でも邪悪と言われ続けるお前が、人間相手に情を見せるなんて……」

「……うるせえよ」

「独裁者らしく自分の考えを押し付けて、地球を何度も滅ぼそうとしたお前が? 笑わせてくれるな」

「やめろ」

「たった一人の人間の為に、周期をずらして地球を滅ぼすか? 今のお前ならやりそうじゃないか」

「……病刃。いい加減にしろよ。俺のお嬢にンな話聞かせんな」

「……へー。ま、今日は帰るよ。挨拶に来ただけだからね」

 

 と、楽しそうに笑った彼の声に、今日一番の恐怖が襲ってきた。

 何故、優しい声なのにここまで威圧されている気がするのか、分からなかった。

 ガチガチと奥歯が音を鳴らした。

 

「またね。人間のお嬢さん」

 

 その言葉が言い終わるや否や私の視界は反転した。ドサッ、と、音を立てて、背中が痛み始めた。目に映るのは天井で、誰かに引っ張られたのだと理解した。視線を動かせば、私が立っていた場所に大量のナイフが突き刺さっていた。

 

「あの野郎……。お嬢、怪我は?」

「……ぁ、ない」

「ん、ならよかった」

「ありがとう、ジョン」

「気にしないでー。だって、――契約だもん」

 

 くすっと笑った彼に、頭が真っ白になった。

 今更、どうして、そんな突き放す言い方をしたのだろう?

 分かり切っていることを改めて告げてきたジョンは、作られた笑顔を浮かべていて、他物病刃の訪問で全てが壊れてしまった気がした。

Nola、カクヨムにて多重投稿してます

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