火炎の死神
三話目
激しい音を立てて揺らめく炎を見つめた。秋の少し冷えた風のせいで勢いを増していく炎は当然のように目の前に迫ってきた。このまま焼き殺されるのだろうと他人事のように考えれば、腹部が力強く後ろに引かれた。
「お嬢。炎には近づくなって」
「……おはよう。ジョン」
眉を寄せたジョンは私を抱き寄せたまま炎に向かって手を伸ばした。燃え広がっていた炎は、それだけでみるみる勢いを失っていき、悔しそうに小さな爆発を見せて消えた。
「ったく。俺のお嬢に手を出すなっての」
「ありがとう、ジョン」
「なーにやってたの? 珍しく火なんて使っちゃってさ」
「虫眼鏡の原理で布巾が燃えちゃったみたい」
「……お嬢。カーテン開けんの禁止。特に俺がいないときは絶対開けちゃダメ。……ちょっと、不貞腐れないでよ。そんな顔してもダメなものはダメ。お嬢? お返事は?」
むすっと告げてくる彼に顔を背けるが、それは抵抗にもならず両頬を包んだ大きな手が強引に視線を合わせるように動いた。
鼻が触れ合う距離で「ほら。お返事」と、拗ねたように言ってくる漆黒の悪魔だが、いつまで経っても頷きもしない私に諦めたようにため息を吐き出した。
「ジョンが離れなきゃ良いでしょ」
「……んもー。許そうと思ったら、すーぐ反抗すんだから。この子は」
「どうせ可愛くないもん」
「そうは言ってないでしょーが。っま、お嬢の言うことも一理あるから、今回は許してあげる。……特別だかんね」
「……ん」
「そんなことよりさ、お嬢って本当に火炎の死神に愛されてるよねー」
「……求めてないし」
火炎の死神。父親を焼き殺した人ならざる者だ。弟を失ったあの日からジョンと行動を共にしてたし、私自身ジョンに迷惑をかけないようにと気を付けていた為、今回のはかなり予想外で、何より存在が薄れていたことに若干の申し訳なさもあった。本当に若干の。
ジョンが言うには永遠のライバルである火炎の死神を含め、死神と呼ばれる存在は五人いるらしい。
火炎の死神。氷水の死神。疾風の死神。大地の死神。そして、その他の死神。
火災事故は全て火炎の死神が、津波は氷水の死神が、ハリケーンは疾風の死神が、地震は大地の死神が。病死や殺人はその他の死神が。死神にはそういった役割があるのだと、ジョンは教えてくれた。
そのことに対して深く追及するような馬鹿なことはしていないが、いい加減火炎の死神は諦めて欲しい。
「いい加減、火炎の死神と和解しなよー」
と、ジョンが告げてきて、大きなため息が出た。
「出来たら苦労してないでしょ。ジョンが」
「うん、その通りだけど、その言い方はちょっとどうなの?」
「それに、なんで狙われてるのか分からない」
「……死神も俺の兄弟だから、お嬢の血に惹かれたのかもねー」
なんて、笑顔を保ったままのジョンが、少しだけ気に食わなそうに呟いた。拗ねている時とは少し違う。初めて見る表情と声色に、思わず「どんな感情なの?」と問いかけていた。
「……お嬢を知ってるのさ、俺だけが良かった」
「……はあ?」
「火炎の死神だったから良い。疾風の死神は人間が嫌いで関わりを拒絶するから良い。大地の死神は人間が好きだから、まだ良い」
「まだって何? ってか、死神事情は初耳」
「お嬢が興味持ったら嫌だったんだもん」
「かわいくない」
「ま、でもさ、四属性だったら、俺でもどうにかできるから良いんだよね」
どうにか。と言葉を濁しているが、それは間違いなく蹂躙や殺害だろう。平然と言った彼の眉が、キュッ、と、寄った。
「でも、アイツが……他物病刃が知ったら、俺でも――」
「ん?」
「……なんでもないよ」
悔しそうに、悲しそうに、一瞬だけ顔を歪めた彼だったが、すぐにニッコリといつもの笑顔になった。
そんな彼に話しかけようとしたが、距離を詰めた彼の鋭い歯が首に食い込んだ。痛みで言葉に詰まれば、ゴクゴクと彼から音が聞こえてくる。
「……ジョン」
私の呼びかけにも彼は応じることなく、ひたすら――それでもほんの少しずつ――血を飲み続けた。
「私、ジョンに会えてよかったよ」
「……」
「例え契約で繋がっている関係だとしても、ジョンが側にいてくれて、守ってくれて、生きられて、良かった」
「……」
「今更だけど、ジョン・ドウなんて名前じゃなきゃよかった」
「……」
「もっと、ちゃんと、あなたの名前を考えればよかった」
「……」
「あなたは、死体じゃないのにね」
「……お嬢」
顔を離したジョンが小さく呼んできた。その声に返事をすれば、彼は顔を上げた。
「いった!?」
バチンッ、と、彼の細長い指が私の額を弾き、反射的に額に手を伸ばせば、彼の手が私の両手首を掴んだ。
「んもー、お嬢ってば、くっだらないこと考えるよねー」
「……くだらないって、」
「くだらないよ。俺にとって、ジョン・ドウは短い時間の仮名だ」
「……」
「人間と俺たちの時間は違うんだよ。お嬢」
ジョンはいつもこうだ。定期的にハッキリとした線引きをしてくる。お互いが分かり合うことは不可能だと告げるように、彼は冷たい目で突き放す。
分かっていながらも、何度も教え込んでくる彼にムッと眉が寄るが不満を口に出すことはできなかった。
「……なあに? お嬢。そーんな拗ねた顔しちゃって」
「……ジョン嫌い」
「えー、俺ちんショックぅ!」
「ショックならもっと泣きそうな顔とかしたらどうなの?」
「俺ちん心で泣くタイプだから」
「……嘘つき」
「そりゃそうでしょ。だって俺ちん、悪魔だからねー」
ケラケラと笑うジョンに小さくため息を吐き出した。
「じゃあそんな悪魔さんにはエッグイースターはあげません」
「……ぁ、えっ!?」
「なに?」
「あ、いや、え? い、いつ貰ったの? 俺ちん聞いてない、よ?」
「……何動揺してるの?」
「し、してない!」
「してるじゃん。ま、あげてもいいけど、ジョンは上の卵なしね」
「ちょっ!? それズルくない!? 俺ちんが上好きって知ってるでしょ!? 俺ちん、あの卵だけで当分生きていけるって、まさに昨日話してたと思うんだけどぉ!?」
「大人しくアルコール摂取すれば?」
「だからっ! それも話したけどっ! あのチョコレートと――」
と、彼が卵の魅力を語り始め、ああ、確かに聞いてたなと既視感に口を閉ざした。
飽きもせずベラベラと話し続けるジョンを横目に、冷蔵庫からエッグイースターを取り出せば、真後ろを雛鳥の様に付け回していた悪魔は嬉しそうに目を輝かせた。
普段からこうだったら子犬みたいで可愛いのになあ。と、思いながら箱から取り出した。
目の前に鎮座している球体に今日はどう切り分けようか考えていば、突然世界がぐるりと回った。
世界の動きが落ち着いて、ようやくジョンの手によって背後に移動させられたのだと、目の前に広がる黒いスーツを見て理解した。
「ジョン?」
「……ごめん、お嬢。怪我してない?」
「う、うん」
「んじゃ、俺の後ろから動かないでね」
彼の声に部屋の中に人ならざる者が出たのかと察し、冷静に引っ越しを考え始めた。
今まで、侵入を許したことはなった。ジョン曰く、強者のマーキングを無視して侵入する者はいないかららしいが、今回は余程頭が足りない者か、無視をしても問題ないほどの実力者かのどちらかだ。そして、答えは恐らく後者だと、ジョンの声で気付いてしまう。
今まで苦戦したことないジョンがこれほど警戒をしなくてはならない相手。生憎ジョンの背中で姿は確認できないが、その奥では経験したことのない存在感を放つ者がいることは理解できた。
死という恐怖を突き付けてくるソレに、思わず後ずさりした。それが良くなかった。動いたことによってジョンの奥が少しだけ見えてしまった。
黒く蠢く謎の靄。だけど、ハッキリそれと目が合ったことは分かった。途端にゾワッと全身の毛穴に異常が起こった。
「……んもー、お嬢ってば。簡単に目を合わせちゃダメでしょー」
と、振り返らずに告げてくるお気楽な声だが、私はガチガチと奥歯を鳴らしていた。
「……お嬢に手を出すなって言ったろ? がきんちょ」
「じょ、ん、」
「お嬢、本当は怖がりなんだ。……お前が怖がらせてんだよ」
ジョンの言葉に、黒い靄は上下に動きながら何か音を発した。
「はあ? お前さあ、性格すらガキのままなわけ?」
黒い靄が再度静まれば、ジョンはそう言って嘲笑った。
それに怒ったのだろう。黒い靄は瞬く間に炎に包まれた。ジョンの黒炎ではなく、赤とオレンジの、父親の件から付き纏っているソレだ。だからこそ、気付くのは必然だった。この美しい炎に包まれた黒い靄こそが、私の永遠のライバル――火炎の死神だ。
炎が消えて姿を見せたのは、身長が百五十ほどの少年だった。真っ赤な大きな瞳で私達を睨み、羽毛の様なふわふわなオレンジの髪を揺らし、鶏冠の様なアホ毛と長い襟足はグラデーションで赤く染まっている。まさに炎を体現しているような見た目だった。
「あいっかわらず、ちっちゃいなあ、お前」
と、馬鹿にしたようなジョンの発言に、小さい彼はぷくっと頬を膨らませ、露出している横腹に両手を持っていって偉そうな立ち方をした。
「うっせーよ! てめえ、毎回毎回、俺様の邪魔すんな!」
と、ジョンに怒鳴った彼の声は成人男性のそれだった。見た目からは想像つかないその声に、驚きを隠せなかった。
「若作りが目立つぞチビ」
「若作りじゃねえよ、ジジイ!」
子供の様な怒りを露わにする彼と、親戚のお兄さんの様にからかうジョンを見て、私の中で何かが音を立てて引いていくのを感じた。
なおもジョンに向かって文句を続ける彼は、おそらく、というより間違いなくショタジジイだ。
「あ、そういや、クッキー食うか?」
「くっきー? あっ、あの人間が食ってるやつか! ありがとう!」
嬉しそうにジョンからクッキーを一枚貰った彼を見て、馬鹿なタイプのショタジジイかと冷静に分析していた。
偉そうで、馬鹿なショタジジイ。……ああ、厚底スニーカーで身長も盛っている。実際はもっと小さそうだ。と、私を庇うように立つジョンがチビと馬鹿にしている理由が分かった。
「……ねえじょん」
「ん? どうした?」
「お願いなんだけど」
「うん。なあに?」
「わたしの記憶消して今すぐお願い」
「うわあ。凄い切実じゃん。んー……でも、俺ちん、そんなことしたくないんだけどー」
「この俺様に惚れたか、人間!」
「ジョンはやくしてお願い」
「んもー。したくないってばー」
命を狙ってくる永遠のライバルが、こんな子だなんて認めたくなかった。もっと狡猾な、それこそジョンみたいな悪魔だったら今までの苦労が報われるかも知れないと喜んだのだろうが、この子相手では怒りも鎮火してしまう。
微かに、と言いたいが、実際はドストライクで母性本能を擽ってくるタイプの彼に、項垂れてしまった。
そんな私の心情を察したのだろう。ジョンは彼から庇うような位置取りで、頭を撫でてくれた。
「んでー? がきんちょはどーして、お嬢を狙ってるワケ?」
「なんで? んー、俺様の姿を見たから?」
「よし、お嬢。今すぐこのクソガキ殺すように命令して」
「はあ!? 俺様が何したってんだよ!」
「お嬢を狙ってんだから、万死に値するけど?」
「勝手すぎんだろクソジジイ!」
「それさー、病刃相手にも言えんの?」
「……やっぱ、お前なんか大嫌いだ」
「あ、そこは同感」
「お嬢!? 俺ちん、守ろうとしてんだけど!?」
「だよなー。このジジイむかつくよな」
「うん。人のこと勝手に評価して、勝手に決め付けて、それで最後には勝手に話し進めるんだもん」
「なんだよ、お前分かる奴だなぁ!」
「ありがとう。あなたと分かり合えるとは思ってなかったんだけどね」
「あー、それもそうだよなあ。あ、俺様、えーっと、ここ日本だから、火虐炎備ってんだ!」
「炎備くんね。よろし――」
「――俺ちんを省いて仲良くしないでくれませんかねえ!?」
長年の付き合い故か、思ったより話が合う彼と談笑をしていれば、ジョンが不服そうに口を挟んできた。
それに私と炎備くんは同時に溜め息を吐き出したが、案の定ジョンは騒ぎ続ける。
俺ちん以外と仲良くしないで。とか。お嬢は俺のでしょ。とか。お嬢が気を許していいのは俺だけなんだから。とか。とにかくめんどくさいメンヘラ彼氏の様な発言の数々。ヒステリック気味に叫ぶジョンを見て、私と炎備くんはかなり引いていた。まあ、実際はそう見せているだけなのは分かっているが、完成度の高さに顔が引きつる。
むっすー、と、拗ねて離れなくなったジョンの頭を撫でてやれば、炎備くんが汚物を見るような目でジョンを見ていた。それに乾いた笑いが漏れれば、ジョンは気に入らなかったのかさらに腕の力を強めて密着してきた。
「ジョン、苦しいから離して」
「いや! お嬢は俺のだもん!」
「すっごいめんどくさい」
「めんどくさいって言わないで! お嬢はどんな俺でも受け入れなきゃダメでしょ!」
「……お前、すごいな」
「嬉しくないけどありがとう。これでもボディーガードとしては一流なのが腹立つ」
「まあ、こんな状況でも俺様がお前に手を出そうとすれば、すぐ気づくだろうしな」
「当たり前でしょ! フェニックス風情に負けないもん!」
「……ふぇにっくす?」
「っんの、クソジジイ!!」
焦りと怒りが前面に押し出された顔でジョンに詰め寄る炎備くんと、私に引っ付きながらニマニマと気味の悪い、実に悪魔らしい笑顔を浮かべているジョンに首を傾げた。
「お嬢。覚えといてね」
かなり反抗的な炎備くんを、いつの間にか離れて片手で押さえつけたジョンが笑って告げてきた。
私とジョンが結んでいる契約ではない、一番力のある契約のやり方をジョンは楽しそうに話した。
血を飲ませて真名を呼ぶ。たったそれだけで、相手は主人に逆らえなくなるらしい。命令が全てで、主人が死ねと言えば命を絶つ。だが主人が名を呼べば即座に生き返る。
主人の命令一つで本人の意思とは別に動かなくてはならなくなる。そんな絶対的な契約方法があるらしい。
「まあ、俺達はそれを使役されるって言ってんだけどね」
「……ジョンは?」
「俺ちんは仮契約デショ? 本当の契約じゃあない。使役はされてないよ」
「ふーん」
「いくつかの契約方法の中で血と真名での契約は、まさに完全な使役だ。契約者の奴隷に成り下がる。だから、俺達はお嬢に決して真名を口走ることはないんだよ」
「……ん? 人ならざる者同士はできないの?」
「近しいことは出来るけど、そこまでの強制力はないよ。人間と人ならざる者の契約が、一番強固で、一番――残酷だ」
「残酷?」
「……っま、オベンキョーはこれぐらいにして! お嬢、この馬鹿使役する?」
と、ジョンは自分の下で苦しそうに暴れている炎備くんを指さした。ジョンの椅子になっている彼は悔しそうに、それでも必死に抵抗しようとバタバタと藻掻くが、力の差は歴然。
児童虐待で訴えられそうな光景を見ながら、迷うことなく口を開いた。
「しない」
「は?」
「契約はしない」
「……はあ? お嬢、なに言ってんのか分かってんの?」
「分かってる。けど、しない」
「……お嬢。いい加減にして」
「いい加減にするのはジョンでしょ」
「はあ? 俺が?」
「私の望みを叶えるのが、ジョン・ドウなんじゃないの?」
「……ねえ、お嬢。俺は従う必要がないって、もう忘れた?」
オレンジキャロットの中で、全てを見通すような真っ黒な瞳がキュッと細まった。まさに爬虫類の様なそれに怯むことなく、はあ。と、わざとらしくため息を吐いた。
それに、ジョンはより眉を寄せて、逸らすことなく睨んできた。
「ジョン・ドウ。私に従いなさい」
「……は?」
「あなたはジョン・ドウ。私の悪魔でしょ? だったら、黙って私に従いなさい、ジョン」
私の言葉にジョンは毛を逆立てて、いつかのようにもにもにと口を動かした。
「……ジョン。いい子だから、――従いなさい」
と、彼のネクタイを握って引き寄せ、再度お願いをする。彼は端正な顔を大きな手で覆った。
「……ぁー、もう、」
「……お返事は?」
「……お嬢の仰せのままに」
「小さい。ハッキリ言いなさい」
「んもー、分かったってば! お嬢に従いますー!」
ジョンは声を荒げて同意した。彼の言葉に満足して手を離せば、彼は変わらず顔を隠したまま細長い指の間からこちらを見てきた。
「一個だけ、教えて欲しいんだケド」
「なに?」
「なんで、フェニックスと契約しないの?」
拗ねたように問いかけてきたジョンに、一瞬何を聞かれているか分からなかったが、そういえばフェニックスって炎備くんの真名だったなと思い出し、頬が緩むのを感じた。
ジョンは不服そうに、わざとらしく唇を尖らせた。
「炎備くん、その契約をされたら、嫌だと思うから」
「……は?」
私の答えに口を開いたのは、意外にも炎備くんだった。
先程の私との口論のおかげで解放されていた彼は逃げることなく、私たちの会話を聞いていたのだろう。少し距離を取って警戒をしながら、顔を引き攣らせていた。
「命令はしないと思う。ジョン相手と同じで、契約しても命令はしたくない」
「まってお嬢結構俺に命令してる」
「ジョンは黙って。……契約しちゃったら、炎備くんが殺したい相手を、私の言葉がなきゃ殺せなくなるんでしょ?」
「……そう、だけど、でも、ソイツ以外に盾があった方が、楽なんじゃねえの?」
「そうだとは思うけど……。うん、でも、契約はしたくない。私が死を望まないとは限らない。勢いに任せてどっか行けって突き放しちゃうかもしれない。そうなったら、炎備くんは何とも思わなくても、私は、すごく、後悔すると思う」
「……そ」
「ねえお嬢。それ、俺ちんの苦労は考えてないってことでオーケー?」
「うん。ごめんね、ジョン」
「かっるいなあ、お嬢のばかあ!」
しくしくと下手くそな噓泣きをするジョンを放置して、炎備くんに視線を動かせば、彼は何とも言えぬ表情で立ち尽くしていた。
私の人生は人ならざる者に囲まれている。それは思い違いでもなんでもなく事実だ。家族以外、そうなんだから。
見えないものが見えてしまうせいで、友人なんて作れなかった。人間には拒絶されることが多かった。だからだろう。彼らにも拒絶されるのは少しだけ恐ろしかった。彼らに拒絶されたら、今度こそ私は一人になってしまう。
ちらりと腰にへばりつくジョンを見れば、彼はすぐに顔を上げて、不敵な笑みを浮かべた。奈落の様な黒い瞳がキュッと細まり、半年以上過ごしているせいで、彼が何を伝えてきているのか分かった。
自分だけは死ぬその瞬間まで味方だと告げてくるジョンの目が少し照れ臭く感じ、わしゃわしゃと犬猫の様に頭を撫でる。
「んもー、お嬢。俺ちんペットじゃないんだけどー」
なんて楽しそうに笑うジョンは、きっと尻尾が生えていたら全力で振っていた。そう感じるほどふにゃふにゃの笑顔を見せていた。
「フェニックスー」
「っな、なんだよ」
「もう二度と、お嬢と人間を一緒にすんなよ?」
「……人間なんて、一緒に決まってんだろ」
「お嬢はお嬢ってカテゴリーだから。その他大勢の人間とは違う存在だから。イイ子だから、言うこと聞け」
「……勝手に言ってろよジジイ。俺様は帰る」
「おー。もう二度と来んじゃねえぞー」
「炎備くん、またね」
「お嬢っ!? コイツ来たらまた面倒じゃん!」
背を向けた炎備くんがチラリとこちらを見てきたので小さく手を振れば、彼は勢いよく視線を戻して、小さな背中が窓から去っていった。
マゼンダ色の空をカーテンの隙間から確認し、窓を通して伝わってくる冷気にぶるりっと体を震わせた。
朝ご飯は鍋が良い。なんて、浅はかな考えに従って手を動かし始めた。
グツグツと煮える具材を見て、時計を確認すれば、時刻は朝の七時。
ジョンは温かい食事の方が好きだから、ガスコンロで温めながら食べようと準備を進めた。
「お嬢ー。おっはよー」
「おはよう、ジョン」
窓から侵入してきたジョンがスリスリとすり寄ってくる。動きづらいし、ここって四階だったよな、なんて今更な事が頭に浮かぶが、特に気にせず準備を続けた。
「おっ、今日は鍋かー」
と、嬉しそうな声が部屋に響いた。
ジョンが着席したのを確認し、ガスコンロを着火してから気付いた。大戦犯にもほどがある。火を使ってしまうなんて。
ボワッ、と、一気に燃え広がった炎と同時に、ジョンに抱え込まれた。
私を背に隠して火を警戒するジョンは、腹立たし気に「しつけーぞがきんちょ」と呟いた。
ジョンと私はお互いに炎備くんがまだ狙ってきているのだと思っていたが、現実はそうでもなかったようで、燃え上がった炎は徐々に小さくなっていき、宙でめらめらと揺れていた。
『おはよ』
と、炎が文字を並べ、読めたと判断したのか、すぐにただの炎に戻った。
「お、はよう。炎備くん」
戸惑いつつ挨拶を返せば、炎は少し嬉しそうに舞い踊った。
「……お嬢にサプライズとか、似合わねえぞ。がきんちょ」
むすっとしたジョンの言葉に、炎は怒ったように火力を増した。
いないはずの彼がこの場にいるように感じる。それが少しだけ心地よくて頬が緩めば、炎も柔らかく踊った。
「ねえ、炎備くん。お鍋、一緒に食べる?」
炎に向かって告げた。
『人間とは食わねえ』
炎は返してきた。
「こんなガキにお嬢の手料理はもったいないって。あと、俺ちんの分減るから普通に嫌。てかめっちゃ嫌」
「でも炎備くん、クッキー気に入ってたみたいだし、タルト好きかなって思――」
「――それを先に言えよ人間!」
ガスコンロの小さな火が爆発したように一気に舞い上がれば、その火の中から炎備くんが姿を現した。
にんまりと笑顔を浮かべた彼はジョンの隣に腰掛け、急かすように私を見てきた。それに笑いながらジョンと炎備くんに小皿を差し出せば、いがみ合いながら鍋を食べ始めた。
言い合いをやめない二人に器用だなと笑いながら、しいたけを口に運んだ。
食事を終え、三人でタルトを頬張っていれば、
「死神の中でも、あんたの存在は有名だよ」
と、炎備くんが当たり前のように軽く告げてきた。
それに戸惑ったのは私だけで、ジョンは大きなため息を吐き出して頭を抱えていた。
「っていうより、あんたの話を聞かない日がない」
「えーっと、どういう?」
「簡単に言うと、お嬢はチョー有名人で、俺ちんの苦労が絶える日は来ないってこと」
「……ん?」
「あんたって結構馬鹿だね。人ならざる者の中でもトップである、死の神って言われる俺達ですら、あんたを好き好んで殺したがってんだよ。どういうことか分かんねーの?」
「……私って結構疫病神?」
「俺ちんの苦労を増やすって点では神がかってるネ」
ジョンの返答に顔を伏せれば、大きな手が頭を撫でてきた。手の持ち主を見上げれば、呆れて――それでも至極優しく――微笑んでいた。頬杖をついている彼は光るオレンジキャロットの目を細めていて、うっかり彼に情を抱かれていると勘違いしそうだった。
「お嬢は守りがいがあるよね、ほんとに」
大した障害を感じていない彼の甘い声に少しだけ安心した。
「まあ、俺様の獲物を他の奴らに渡す気もねえしな」
と、最後の一口を口に運んだ炎備くんが言い放った。
「死神最弱のガキが偉そうに言ってんなよ」
「うるせえよジジイ」
死神の中で最弱。ジョンが言うのなら正しいのだろう。それならジョンと同じ立場になろうとする考えが分からなかった。
ジョンの嫌味な発言から察するに、この世に私を狙わない人ならざる者は存在しないのだろう。だとしたら、これまでよりも苦労は絶えないはずだ。私を狙っていた炎備くんが、契約のない炎備くんが、そうする必要はない。
どうしてなのか謎で、不安も強くて、炎備くんを見つめれば、彼はフォークを咥えたまま立ち上がって勝手に冷蔵庫を漁り始めた。物を退かして取り出したのは余ったタルトで、それを手に彼はにんまりと笑顔を浮かべた。
「俺様が味方すんだから、感謝しろよな」
と、自信に満ち溢れた彼の笑顔が眩しかった。
ゆらゆらと揺れる腰骨辺りから広がる裾は足元まで伸びており、八本のそれは彼の髪と同じ配色で、まさに火炎を司る神だと思った。
「……炎備くん」
「ん? なんだよ、コレはもう俺様のだぞ」
「カッコつけるのは良いんだけど、まず靴は脱いでくれると嬉しいかな」
「ぶはっ!!」
私の発言に吹き出したジョンはお腹を抱えながら、
「お嬢、まじ最高」
と、笑いながら伝えてきた。
炎備くんは腹立たしそうだったが、素直に履いていたスニーカーを脱ぎ、玄関に向かった。少しして戻ってきた炎備くんは不貞腐れており、やけ食いでもするかのようにタルトを大口で頬張った。
少年の姿をしていても、一ピースが半分は消えるのか。と、驚きながらも、その声に見合った男性らしさが表れていると思った。
「炎備くん」
「んだよ、靴ならちゃんと脱いだろ」
「ありがとう」
自分よりも小さい身長の彼の頭を撫でれば、彼は驚いたように大きな目をぱちくりと瞬かせた。
頭を往復すれば、彼のクルっと回ったアホ毛だけが少し抵抗を見せ、それ以外のふわふわな直毛はモフモフで触り心地が良かった。
見た目通り羽毛の様な手触りだ。と、感じたときには炎備くんも正気に戻ったらしく、手を振り払って大きな瞳に負けない真っ赤な顔でタルトを頬張った。
「フェニックスの髪って、触り心地良いでしょ」
「うん。もふもふだった」
「こいつの獣状態って、暖も取れてこの時期は特に最高だよー? お嬢も試してみたら?」
「俺様を暖房器具にすんな!!」
「獣状態ってなに?」
「……お嬢、忘れたの? 俺たちは人ならざる者だよ。人間の姿をしている奴って、他に見た?」
「……そういえばない、かも?」
「でしょー? コレ、仮の姿だからねー」
からかう様に笑うジョンに少しだけ腹立たしさを感じながらも、だとしたらジョンは一体何になるのだろう。と、想像していた。
悪魔の姿なんて、この二人以外見たことがない。人ならざる者はたくさん見てきたが、どれも人間と呼ぶにはかけ離れ過ぎていた。ゾンビはまた別だろうが、それでも、人じゃないことはすぐに分かった。
タルトを食べ終わるなり、ジョンに強制された炎備くんは渋々大きな鳥の姿になった。部屋を埋め尽くすのではと思えるほどの大きさに驚くが、さすが人ならず者。家具等に被害は一切ない。
「今回だけだからな!」
と、鳥の姿で叫んだ炎備くんに戸惑っていれば、ジョンが遠慮なく私を連れて羽毛に飛び込んだ。
燃えているような暖色の毛だが、体が焼けることはない。パチッと近くで毛が弾け、実際に燃えているのかと気付くが、熱さを感じなかった。程よい暖かさに体の力が抜けていくのを感じた。
「ジョンにはもうやらねーからな」
「はあ? がきんちょが偉そうに反抗すんなよ」
「お前には散々やってやったろーが!」
「ちょっとまて、は? お嬢にはまた堪能させる気?」
「……だ、ったら、なんだよ」
「許すわけねえだろ。今回は俺と一緒だからいいけど、お嬢を特別扱いとか俺の特権だし」
「はあ? ジジイが何言ってんだよ。気持ち悪いぞお前」
「クソガキが調子乗ん――」
「――うるさい黙って。ジョン・ドウ」
「……ぁー、ハイ。ごめんなさい」
ギュッと炎備くんの羽毛を力強く握ったジョンが、羽毛に埋もれた。炎備くんが何も言わないということは、痛みはないのだろう。と、少し安心し、暖かさに目を閉じた。
炎備くんの呼吸で揺れ、体を包み込む体温。時折パチパチと火の粉が跳ねる音。
あ、やばい。寝そうだ。と、睡魔を振り払おうとするが、ジョンの大きな手が目を覆った。
「お嬢。ゆっくり休みな」
ジョンの優しい声に意識が飛びそうになった。
父親が死んだ日から、満足に眠れたことはなかった。ジョンと出会っても、それは変えられなかった。どうしても悪夢に魘された。部屋が燃えていないか不安で飛び起きることなんて当たり前だった。寝たら、もう二度と起きられないのではないかなんて考える時もあった。
ジョンは、気付いていた。だから少しだけ申し訳なさそうな顔で笑っていたのだろう。
『お嬢。またクマ濃くなってんねー』
と、眉を寄せていた。今にして思えば、それは作り物だから気にする必要はないが、当時は申し訳なくて心が痛んだ。
彼の負担を減らすには寝ない方が良いと思っていた。
それでも、炎備くんの太陽の様な暖かさに、ずっと抱えていたジョンへの安心感に、瞼が重くて仕方なかった。
もうこの身を炎が包む可能性がないと分かって、気が抜けていくのを感じた。
これで、ジョンの苦労が分散されれば言う事なしだ。
ずっと守り続けてくれる漆黒の悪魔と、永遠のライバルだった火炎の死神に、ほんの少しだけ愛情が芽生えた気がした。
Nola、カクヨムにて多重投稿してます