悪魔の情
二話目
真夏の空気が纏わりつく。湿気のせいでクルクルと回る髪の毛が首や頬を掠め、擽ったさを感じながら、今日も今日とて、街中を疾走する。
振り返った先にいるのは真っ黒な謎の影。
「お嬢ー? まーた厄介ごとぉ?」
楽し気に、それでいて少し呆れたように投げかけられた声に、望んでいない鬼ごっこに終焉を迎えたことを把握した。
「おはよ。お嬢」
「お、はよう、ジョン」
息切れをしながら、ジョンに抱えられて空を飛び、襲い来る奴らから逃げる。そんな日常のおかげか、彼の小脇で体の力を抜けば、頭上で楽しそうな笑い声が響いた。
「今回は相手が遅くて良かったねー。昨日のゴキブ――」
「――やめて」
先日の黒光りした人ならざる者を思い出し、その名前を発そうとした彼を睨む。
私の睨みに怯むことなく、きょとんと眼を見開いた彼はまた楽しそうに笑った。
「お嬢が傷一つなくて良かったよ」
「……ジョンが、私から離れるのが問題なんでしょ」
疲れのせいで棘を吐き出すが、彼は声を上げて笑い始めた。
ただの八つ当たりを笑って許す悪魔に微かな罪悪感と呆れがあった。契約というのは実に便利だと思う。
ジョンに抱えられたまま移動をして、人気のない河川敷で降ろされた。人ならざる者もいない静かな空間に小さく安堵のため息が漏れる。
「んじゃ、帰ろっか。お嬢」
「……エスコートにハマったの?」
「んー、そうじゃないけど。ほら、俺ちん優しいから」
「自分で言うな」
「なーんか、この会話も慣れちゃったねー」
「……半年も一緒にいればね」
「ねえお嬢」
「なに?」
「おれに飽きた?」
「……飽きたって言ったら、どうするの?」
「……美味しく頂くかな?」
「その歯、刺さったら痛いから遠慮します」
「えー、ザンネン」
楽しそうな声を響かせる彼を見上げれば、彼はオレンジキャロットの綺麗な瞳をこちらに向けてきた。夕焼けや炎を彷彿とさせるそれを見つめ返せば、彼はにんまりと笑顔を浮かべ、
「なーに? お嬢、俺に惚れた?」
と、調子の良いことを言ってきた。
もし、そうだ。と、言ったら、この悪魔は一体どうする気なのだろう? 困るくせに。と、心の中で悪態を続けながら前を向けば、彼は特に気にした様子もなく鼻歌を歌い始めた。
彼の低い声が奏でる曲に、どこの曲なのか考えながら、黙って隣を歩いた。
「ねえ、お嬢」
「どうしたの?」
「ちょっと、遠回りして帰ろっか」
彼の言葉に頭痛がした。
彼がこの提案をする時は決まって、タチの悪い相手――つまり三下ではない人ならざる者――が居るときだけだった。作られた軽快な声が、今回は面倒だと告げてきていて、勝手にため息が漏れた。
「理由は?」
なんて、分かり切ったことを聞いてみた。
「んー。お嬢とデートしたいから?」
「……気持ち悪い」
「ひっどいなあ。俺ちん、結構マジで答えたんだけどー」
と、ケラケラ笑う悪魔によくそんな呼吸をするように嘘を吐けるなと、少しだけ感心した。
私が怖がらないための嘘を吐く優しい悪魔が目の前に来て、少しだけ腰を折った。トントンッ、と、人差し指で首を叩く彼を見て、素直に彼の首に腕を回せば、少しだけ嬉しそうに笑った彼に抱き上げられる。
「イイ子だね、お嬢」
「……酔わないようにしてね」
「分かってるよぉーだ。俺のこと、信じてよ」
クスリと妖艶な笑みを浮かべた彼が力強く私を抱き、翼の音を響かせた。
バサバサとリズムよくなる翼の音に段々と睡魔が襲ってくる。心地よい彼の体温に微睡み始めれば、頭上で彼が声を漏らした。
寝惚け眼で見上げれば、彼は頬を緩め、
「寝てていいよ。追ってきてるから、ちょっと長旅になっちゃうだろうし」
と、背中をリズムよく叩き、寝かしつけてきた。
彼のお言葉に甘えようと、何とか開いていた目を閉じたとき、雄叫びが聞えてきた。響き渡るせいで発生源が分からないが、突然の大きなそれに驚き、目が覚め、辺りをキョロキョロと確認してしまった。
近くの歩道橋を歩く人達は、特に気にした様子一つなく、やってしまった。と、青ざめた。
「ぁー、もうっ、」
抱える悪魔が笑いを堪えているのが、声と振動で分かった。
「お嬢って、ほんっとに正直だよねー」
「……ごめんなさい」
「後ろの奴、本格的に気付いちゃったみたいだし、チョー追ってくるんだけど」
「……じょん」
「……そんな泣きそうな顔しないでよ。お嬢を守るのは俺の役目でしょ?」
そう言って、彼は飛ぶスピードを上げた。
向かい風の圧力がなかなかの物で、振り落とされないように彼にしがみ付く力を強めれば、彼の腕も連動して少しだけ力を強めた。
「お嬢、二つ言いたいことあるんだけどさ」
「え、今?」
「そ。今」
「なに?」
きっと碌なこと言われない。と、察しながらも、もしかしたら重要なことかもしれないからと、彼に問いかけた。
「まずは、その、後ろ向かない方が良いからね」
その言葉の意図が分からず、ほぼ反射的に彼の背後に視線を動かした。即座に後悔した。これを言いたかったのかと込み上げるものを何とか留めた。
「見ない方が良いって言ったデショ。……怒んないでね、お嬢」
「……むり、吐きそう」
「ちょっ、ここではやめてっ!」
追いかけてくる相手は肉の塊。皮膚を持っていないのか、臓器なども丸見え仕様だった。うねうねと活動している臓器の動きも気持ち悪いのだが、何よりも精神を蝕んだのは、それが虫の形をしていたせいだった。
蛇とも思える長い肉体を縮小して追いかけてきている。口を開いて再度雄叫びを上げたソイツのせいで、奥まで並ぶ多数の歯が見えた。
それらを考慮して行きついたのは、アレはミミズだという精神を蝕む答え。
人間の物に干渉しない巨大ミミズはウネウネと距離を詰めてきていて、体中の毛が抜けるかと思った。
「じょん、二つ目。はやく。忘れたいからはやく言って」
「ん? ああ、お嬢ってさ、やっぱり着やせするよね」
当然のように告げられたセクハラ発言に迷わず拳を彼の腹にめり込ませたがノーダメージ。それだけでも腹が立つのに、笑いながら「お嬢って非力だねー」なんて馬鹿にしてきて、感情の籠っていない謝罪が続けられた。
「あれ。もう殴んないの?」
「効かないなら意味ないでしょ」
「え待って、お嬢アレ全力だったの?」
「ジョンに手加減とか必要ないでしょ」
「え、やば、赤ちゃんじゃん」
「その喉噛み千切るよ?」
「赤ちゃんがそんなん出来るわけないでしょ。お口だってそんな小っちゃいんだから。……え、まじで赤ちゃんじゃん」
「あーもうっ! ジョン嫌い!」
「えー、お嬢怒ってんの? ふにゃふにゃの赤ちゃん笑顔もいいけど、怒り顔も捨てがた――」
そこで言葉を切ったジョンが、突然旋回して飛び始めた。目の前の真剣な顔の背後には、オレンジのどろどろした液体が広がっていた。
オレンジの液体が通行人に触れれば、たちまち叫び声と共に皮膚が溶け、骨が見え始め、流れ出す血液ですらオレンジの液体に溶かされていった。
「お嬢。見るな」
「……ん」
周りの人たちには見えない、溶けていく人間。溶ける人の近くでは神隠しだと叫び出す。目の前で死にゆく人たちに気付かない彼らは、助けを求めている彼らを見殺しにしている。
全てを見れてしまう自分を恨んで生きてきた。ずっと、見えない人間に憧れていた。今こそ、見えない人間でありたかった。
泣き叫びながら溶けていく人は助けを求めて近くの人を掴む。液体が移った彼らもまた、溶けて死んでいく。痛みに耐えられるはずもなく、被害は広まっていった。
「吐きそう? もうちょっと耐えてね、お嬢」
と、優しい声を発したジョンは、私を抱えたまま器用にジャケットを脱いで被せてきた。漆黒に染まった視界のせいで、周りの悲鳴が良く聞こえてくる。
「……ソレ、被ってていいよ。色々見えない方が、安心するデショ?」
なんて笑う彼の声に、涙が零れた。
涙が落ち着く頃、ジョンは下に降り立った。ジャケットを退ければ、農道にいた。何処のキャベツ畑まで飛んできたんだコイツは。と、ジョンを見るが飄々とした態度で一点を見つめていた。
「あ、お嬢はここで待機ねー」
楽しそうな声を出した彼の手により、どこから出したか不明の椅子に座らされ、同じく不明の冷えたリンゴジュースを持たされた。
戸惑っている私をよそに彼は自分のジャケットを持ち、暫く何かを考えてから私の肩に掛けた。
ズリッ、ズリッ、と、気味の悪い音を出しながら、ジョンが見ていた方角から巨大ミミズが姿を現した。執念深いミミズに再度吐き気が込み上げるが、ジョンに渡されたリンゴジュースと共に押し込んだ。
「さってとー。お嬢には指一本触れ……ん? 指ねえな」
「ジョン」
「まっ、近づけさせないから安心して待っててよ、お嬢」
へらへらとこちらに向かって笑うジョンに、巨大ミミズがオレンジの液体を吐き出した。それに慌てて彼の名前を呼ぼうとするが、声が出せなかった。
もしかしたら、ジョンも溶けて消えてしまうかもしれない。と、恐怖が込み上げた。
「ミーミズくん」
なんて、彼の弾んだ声と共に、彼の黒炎が液体を消し去った。
「お嬢が誰のモノか知っての愚行なんだよね?」
「……私、物じゃない」
「気付かなかったのかもしれないけどさ。お嬢は、俺のモノなんだよね」
「物扱いはやめて」
「お嬢を喰らうために、この俺がどれほど動いてると思ってんの? ヒトのモンに手ぇだしてんじゃねえよ」
「だから、物扱いやめてってば」
「んもー、お嬢! カッコつけさせてよ!」
「……ジョンがカッコいいときなんて無いでしょ?」
「はぁあああぁあ!? んもー、怒った!! ミミズくん! 八つ当たりさせて!!」
プリプリとした怒りを露わにしたジョンは、巨大ミミズの顔らしき場所に飛びあがった。それに餌が来たと思ったのか、ミミズは集合体恐怖症には拷問になる歯を剥き出しにした。
「お嬢が嫌がんだから口開くな虫野郎!」
怒鳴り声と同時にジョンの長い脚がミミズを蹴り上げ、口を強引に閉じさせた。
蹴りの衝撃で仰け反ったミミズだったが、倒れることなくジョンに襲い掛かった。
そんなミミズを見ながらも、ジョンが負けるところを想像できない私はリンゴジュースに視線を落とした。これ以上気持ち悪い姿を見たくないっていうのもある。
戦えず、手助けも出来ない、ただの役立たず。ジョン・ドウという悪魔に守ってもらわなきゃ生きていけない。そんな人間を、あの悪魔は重荷にならないのだろうか?
そんな今更なことを考えながら、段々と気分が落ちていくのを感じた。
「お嬢? どっか怪我した?」
どれほど体格差がある相手でも簡単に叩きのめす彼が、不安そうに顔を覗き込んできた。微かに揺れ動くオレンジキャロットの瞳に、情けない顔が反射して見える。彼の奥には当たり前のように動かない巨大ミミズの死体。
「……においで、分かるでしょ?」
「うん。でも、捻挫とかは流石に分からないからさ。……お嬢、大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
「……そっか」
目の前の悪魔なら、震える声に気付いている。私の考えにも、きっと気付いている。それでも優しい悪魔は笑っていた。知らないフリをしてくれた。
ねえ、ジョン。私が負担になっているのなら、好きな時に食べていいからね。
心の中で告げれば、彼は少しだけ眉を寄せていた。
「ねえ、お嬢」
「なに?」
「俺ちん、今日はエッグイースター食べたい」
目線を合わせて笑う彼に少し吹き出した。
エッグイースター。私の幼馴染が作っているケーキの名前だ。完全予約制で本来であれば二年待ちの商品だが、友人だからと私が望んだ時に私好みにアレンジを加えて作ってくれる。
初夏に一度、ジョンが好きかもしれないと思って食べさせたことがあったが、まさかここまで気に入るとは思わなかった。
ジョンは同じ物を口に運び続ける習性がない。一度食べて、気に入ったら三ヶ月に一度強請るくらいだったが、エッグイースターだけは余程気に入ったのか、週一で強請ってくる。
「ジョンは、本当にそれがお気に入りだね」
「うん。……スッゲー好きだよ」
と、柔らかい笑顔を浮かべた彼に、思わず見とれてしまった。
ただでさえ整った見た目だからこそ、自分に対してではないと分かっていても、どこか照れが押し寄せてきた。
「丸吞みしたいぐらい、大好き」
彼流の好意の言葉に戸惑ったが、それもすぐに消え去った。
彼の背後で、死んだと思われた巨大ミミズが起き上がった。彼目掛けて口を開いた。彼はこちらに優しい笑顔を向けるだけで気付いている気配がない。
怪我、最悪――死。
その結果を回避したかった。彼とミミズの間に体を滑り込ませたかった。庇いたかった。それでも、体は動かなかった。
「お嬢。こーゆーのは、口に出さないと。伝わらないよー?」
いつもと変わらない声色でクスクスと笑いながら告げてくる彼が指を鳴らした。
パチンっと響いた音と同時に、巨大ミミズは黒炎に包まれ消え去った。
「んー。やっぱり、肉の塊だと判断難しいねー。火葬した方が早いわ」
「……」
「お嬢。大丈夫?」
「……ん」
「良かったー」
嬉しそうに笑う彼と反して、私の心は罪悪感に支配された。
役立たず情報更新だ。目の前の危機に恩人を守れない。危険を知らせることすらできない。目の前の悪魔を失ったら、私には理解者も味方もいないのに、ただ一人の、唯一無二の彼を見殺しにするところだった。
庇ったとしたら、彼のお説教で一週間ほど潰れるのは分かっているが、それでも、彼の危機ぐらい助けたかった。
目の前を歩く漆黒の悪魔が振り返り、大きく手を広げ、抱き寄せられた。
ごめんね、お嬢。と、優しく呟かれた。その直後に首が痛んだ。ゴクッ、と、音を鳴らした彼の喉に何をされているのか理解した。
数回喉を鳴らした彼の熱い吐息が首を流れた。痛んでいた首に、熱い舌が這った。
「……ご馳走様。お嬢」
彼の腕が腰に回ったまま、彼が私の肩に頭を預けたまま、表情を隠したままの彼が小さく告げてきた。
そんな彼に、ごめんも、ありがとうも、どれも告げることができなくて、恩知らずな私は、
「……うん」
と、呟いた。
ねえ、お嬢。と、機嫌の良い声が部屋の中に響いた。
声の主は実際、ご機嫌という言葉では足りないほど上機嫌だ。
それもそのはず。彼の目の前にはエッグイースター。雪だるまのように球体が重なっていて、下の球体に細いチョコレートが刺さっている。上の球体を割ればアルコールの混じったトロトロのチョコレートが下の球体を包み込み、火が点くほど度数が高い。故に人によっては火でアルコールを飛ばしてから食すらしいが、コアなファンはアルコールですら美味しく頂く。まるで、それがマナーだと言うように。
そんな初見殺しの様なケーキだが、勿論購入時にその旨を説明される。が、勿論従う人ばかりではない。子供が度胸試しの一環で上の球体をそのまま食べようとすることもある。だが、不思議なことに、その様なマナー違反者は二度とエッグイースターを見ることすらできなくなると、変な都市伝説が出回っている。
まあ、私はそんな摩訶不思議なエピソード等よりも、球体の上に球体が乗っているのに、何故バランスが崩れないのか等の方が気になっている。
半円ならまだしも、下も球体。上も球体。どうやってその場で維持をしているのか、どういう原理で持ち運んでも崩れないのかが謎で仕方ない。
「あー、チョーうまい! ほんっと、お嬢狙ってるくせして、アイツ最高っ!!」
「……ん?」
「ん? あれ、言ってなかったっけ?」
「なにが?」
「アイツ、人ならざる者だよ。じゃなきゃ、こんなん作れるわけないでしょ」
「ちょっとまって、いっぱい説明して」
「えー、お嬢って鈍感だねー」
ケラケラと笑うジョンが声を弾ませたまま、制作者である幼馴染の説明を始めた。
曰く、悪魔の力を使って購入者を管理していると。曰く、この商品のみ、購入が仮契約になっていると。曰く、違反者は然るべき罰則を与えていると。
彼が並べていく言葉に頭を抱えた。私の周りには”そういう存在”しかいなかったのかもしれないと考えると頭痛がする。
「……まって、私も契約してるの?」
「んや。アイツも、お嬢には罰則つけてないみたいだよー。だからお嬢のは特別なんだろーね」
「ちなみに、違反者って……」
「……えー、知りたい?」
「やっぱいいや話さないで知りたくない」
「チョー拒絶すんじゃん。ま、その方が幸せだろうねー。お嬢も、そこまで馬鹿じゃないか」
「馬鹿って何?」
「だって、今日ぐらい、アイツにラズベリーはやめてって言えばよかったデショ」
「……そうは言ってらんないでしょ」
せっかく特注で作ってもらっているのだ。せっかく、私が好きだからと、上の球体をラズベリー味に変えてくれているのに、その好意を無碍にはできない。
ペロリと口の端についたチョコを舐め取るジョンを見て、一気に食欲が減退した。あの巨大ミミズの後にこの色は無理。
「ジョン。あげる」
と、手元の皿を差し出せば、ぱあっと太陽のような笑顔を浮かべて大きな口に放り込んだ。一ピース丸々入るデカすぎる口に感心しつつ、手元のコーヒーを一口飲んだ。
「……ジョンはさ」
「ん?」
「……ジョンは、殺したくない相手っているの?」
「……なあに? 急に」
「……相手が誰でも躊躇なく動くから。いるのかなって」
「んー、お嬢ぐらいかなあ?」
「え」
「んもー! 何その反応! お嬢が望まない限り、俺ちん殺さないもん!」
「かわいくない」
「え? 俺ちん、チョーかわちいデショ?」
プリプリ怒ったフリをしたり。ふにゃふにゃと笑顔を張り付けたり。子供よりも下手くそな泣きマネをしてみたり。この悪魔は、本当に器用だな。と、他人事のように再度コーヒーを飲んだ。
「まあ、でもさ」
「ん? な――」
なに。と、問いかけようとした私の喉で空気が詰まった。
冷たく鋭い吊り上がった瞳。感情が欠如しているような顔。先程までの仮初の喜怒哀楽との差に恐怖が込み上げる。
ああ、そうだ。今更、何を言っているんだ私は。笑顔なんてものは、彼とは無縁だ。何の感情を持っていない。人のマネをしているだけの、悪魔だった。ただ、普段の彼を見ていると、それを忘れてしまうだけだった。
「俺は、お嬢のお願いを聞く必要はないし、お嬢以外を殺すことに何も感じない。……お嬢相手にも、それは変わらない」
「……うん」
「でも、ご褒美がある限り、俺はお嬢を殺さないよ。長い命で、今ほど娯楽を楽しめるときも少ないんだ」
「……そ、れは」
「……お嬢。勘違いしないでね。俺は、お嬢に飽きたら殺す。お嬢の面倒が少しでも嫌になったら殺すし、多分八つ当たりで殺しちゃうかもしれない」
「……」
「だからさ、お嬢。俺を愉しませてね?」
笑顔を浮かべる彼に、何となくだが、ハッキリと線引きをされた気がした。
どれほど犬のように懐いて見えたとしても、どれほど私には優しい姿でいてくれるといっても、彼は気まぐれな悪魔で、人間ではない。だから、情なんてものは持ち合わせていない。彼の気分が私の生死を決めるのだ。
本当に、今更過ぎることを言う悪魔だ。
「ねえ、ジョン」
「なに?」
「この際、ハッキリさせときたいんだけどね」
「だから何?」
「ジョンは基本、私のお願いを聞いてくれるんだよね?」
「……そうだよ。この俺が、お嬢のオネダリは叶えてあげてんの。この先も飽きるまでは叶えてあげる気だよ」
「じゃあ、勝手に飽きないで」
「……へ?」
「何勝手に飽きるだの何だのって偉そうに語ってるの? 私、許してないけど?」
「……あ、うん」
「可能性の話しで勝手に私を威圧しないで。ちゃんと私に従って」
彼への不満に近かったのだろう。スラスラと氷のような彼に高圧的に告げていた。彼は唖然としていたが、やがて私の言葉を咀嚼し終わったのか、もにもにと口を動かし、やがて肩を揺らして笑い始めた。
「ジョン。返事は?」
初めて会った時よりも大きな声で笑いだした彼は、暫く返事をする余裕もなく、ひたすらお腹を抱えて笑い続けた。
「……ぁー、うん、従うよ」
「……笑いながら言わないで。ちゃんと言って」
「……ジョン・ドウ。お嬢が、この名前で呼ぶ限り、ちゃんと従うよ」
「……嘘でしょ」
「ありゃ、バレた? っま、悪魔だからねー」
そんな約束はできないよ。と、彼はまたいつもの笑顔を見せた。
彼がこの笑顔を見せているうちは、きっと大丈夫。飽きる飽きないと話しているうちは、きっと大丈夫。彼がお嬢と呼んでくれているうちは、きっと大丈夫。
契約で成り立っているこの関係は、彼の気分で全てが決まる。彼を知れば知るほど、きっと大丈夫だと安心する心と、言い聞かせる心で別れる。だけど、きっと彼は急に飽きて捨てることはしない。
「今度、ジョンを庇って殺されちゃおうかな?」
「っちょ、お嬢。それはマジで許せない撤回してほんとに」
なんて焦った顔を見せる彼から、ふいっと顔を背ければ、ジョンは五月蠅くなった。
拗ねてるからってそれは許さない。とか。本気じゃないでしょ謝って。とか。本当にやめてねお嬢。とか。ねえごめんって、俺のこと庇わないで。とか。段々と弱気になっていく彼が面白かったが、意地でも笑ってやらなかった。
本心でもあるから、意地になっていた。
死ぬときは目の前の漆黒の悪魔に、最大の嫌がらせをしようと決めた。彼の目の前で他者の手で死んでやる。それだけじゃなくて、彼を庇ってが良い。そしたら、きっと、この冷徹な悪魔の僅かな心に残れる気がするから。
私だけが彼を覚えて、その思い出を大事に生きるなんて、そんなの不公平だから。だから、彼曰く長い命に私の面影を残してやろうと、無駄に上手い泣き真似を見ながらぼんやりと計画していた。
カクヨム、Nolaにて多重投稿してます