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用心棒は悪魔

初投稿です。

数多くの作品が存在すると思いますが、

誰かに刺されば嬉しいです。


自分だけの悪魔との日常を書いていきます。




 この世界には、見えざる何かが存在する。それを理解したのは小学生の時だった。


 小学校に上がって間もない頃、父が自室で焼け死んだ。煙草を吸う人だったが、部屋では禁煙を貫いていた父が部屋で焼け死ぬのは謎だった。警察に聞いた話では、父は突然、何かしらが原因で燃えたらしい。要するに、国家の力を以てしても理解ができない死に方だったのだ。


 父が焼け死んだその現場で、私は揺らめく赤い何かを見た。それが、見えざる何かだった。その日を境に、私は火に好かれるようになってしまった。気を抜けば火がこちら目掛けて迫ってくる。ストーブを使えば、その熱から火事が起こる。熱というものがすべて、私の敵になってしまった。

 


 実家のマンションの階段に座り込み、夜空を見上げた。

 空にはいくつもの赤い光が反射していて、サイレンの音が煩わしかった。ひらひらと小さな雪が姿を見せている。

 実家である部屋に多くの足音が移動するのを、反対側の階段で感じ取っていた。

 ああ、どうしてこうなってしまったのだろう?

 空虚感のみが体を包み、何もしたくないと訴えかけてくる。勝手に溢れ出る涙が地面に染みを作った。



 数分前、部屋が爆発した。年の離れた弟を心配してストーブを点けて寝たのが間違いだった。何か忘れていると思いながらも、火事の中逃げ出し、玄関を潜ってようやく思い出した。弟の存在を忘れていた。

 もちろん、戻ろうとした。それでも、踵を返そうとした瞬間に部屋が爆発し、弟は間違いなく死んでしまった。

 やっぱり、母に頼まれたときに断れば良かったのだ。旅行に弟も連れて行くようにと、断れば良かった。私が見ると言ってしまったから、弟は死んでしまった。

 

 

 ボロボロと涙を溢す私の背後に、人の気配を感じた。

 そこに立っているだけの気配に、当たり前だが動く気力も湧かなかった。

 

「ね。傷、治してもいいかな?」


 クスリッ、と、笑う、低い男の声が響いた。

 私に言っているのだろう。だとしたら、救急隊の人だろうか?

 問いかけに振り返ることなく、深く考えずに頷いた。

 

「んじゃ、もっと面倒な奴ら来る前に治しちゃおっか」

 

 そんな軽快な声と共に背後の気配が目の前に移動した。

 真っ黒な細身のスーツを身に纏い、黒い細身のネクタイをだらしなく締めているその姿は、どう見ても、救急隊には見えなかった。

 笑顔を張り付けている彼が大きな手で、頬を撫でてきた。

 ピリッと痺れる感覚がして、ようやく、傷を治してもいいかと聞いた彼の言葉を理解した。

 爆発して飛び散ったガラスで切ったのだろう。よく見れば手足も傷だらけだった。

 

「うん。これでよしっ!」

 

 と、彼がギザギザの歯を見せて笑った。

 まだまともに手当てしてないけど。なんて思いながら再度視線を下げれば、先程まで確かに存在したはずの傷が跡形もなく消えていた。

 どうやってやったのか。何をしたのか。そんな疑問が頭に浮かんでグルグル回った。

 

「だれ、ですか?」

 

 聞きたいことなんて他にもあったはずなのに、口に出したのはそんな疑問だった。

 

「……誰って、どういう質問かな?」

「な、なまえ、とか?」

「……はあ?」

「っ、ぁ、ぁのっ、」

「俺っちの名前。あんたみたいな小娘に教えるわけねえでしょ?」

 

 冷たくなった声に戸惑っていれば、彼はまたクスリッ、と、声を漏らした。

 

「って、ことで。俺、あんたの血を貰いに来たんだけど……くれるよね?」

「ど、して?」

「あんたの血は特別だ。人ならざる者なら誰だって欲しくなる。その血を求めて、俺等は戦争も起こせるし、人間への被害なんて考えられなくなる」

「ぁ、の、」

「周期から外れちゃうけどさ、あんたが俺を拒絶するなら災厄をもたらすけど……嫌かな?」

「……あなたは、だれ?」

「……名前はないよ。殺す相手の事なんて、知る必要もないでしょ」

 

 冷たく突き放すような声で告げられ、恐怖故か、彼から目を逸らせなかった。ジッと見つめ合うことで、何か変わるのかと期待していたのかもしれない。

 目の前の漆黒の男は諦めたようにため息を吐き出した。

 

「――悪魔。それだけ知ってれば、じゅーぶんデショ?」

「……なら、取引は、できるの?」

 

 私の質問に、彼の冷めた目が睨みつけるようにこちらに向いた。

 オレンジキャロットの瞳が鋭く光り、その眼だけで殺されるのではないかと思えたが、私は引けなくなっていた。

 彼の鋭い瞳が告げてきている。何を対価に差し出せるのか。どんな得があるのか。お前みたいな小娘に、一体何ができる。と、取引を望んでいないのは明白だった。

 

「この場で、血を流すよ」

 

 その言葉に、彼は大きく目を見開いた。

 脅しにもなっていないだろうが、左手を口元に持って行けば、彼は遂に耐えられなくなったのか、大声で笑い始めた。

 

「え、なに? まさか噛み切るワケ?」

 

 馬鹿にしたような笑いに小さく頷き返せば、再度冷めた目を向けられた。

 

「……はああ、いいよ」

「……」

「取引してやるって言ってんの。さっさとその手離してよ。この俺が応じてやるって言ってんだからさ」


 腹立たし気に命じられ、大人しく彼の言葉に従うが、余計なことをしないように左手首に右手の爪を立てることにした。

 案の定というべきか、彼は整った眉を深く寄せたが、先を促してくれた。


 ――これが、悪魔との出会いだった。





 

 美しい青空が広がり、地面は薄いピンク色に染まっている。ひらひらと踊る花びらが落ちていく様を、ゆっくりと眺める余裕は私にはなかった。

 頬を柔らかい風が撫でで、春の気候を感じる。が、生憎それに心落ち着けることもできない。

 行き交う人々の間を縫って、とにかく全力で走り続けた。だが、疲労の溜まる足は、徐々に速度を落としていく。

 このままではマズいと考えが頭に浮かび上がるなり、足が縺れてしまった。

 前に倒れていく体の奥――背後には人ならざる者。このまま食い散らかされるかも知れないと、近づく地面に血の気が引いていくのを感じた。

 

「んもー。まーた、追われてんのー?」

 

 突然の無重力と共に、頭上から軽快な低い声が聞こえた。

 恐る恐る顔を上げれば、あの時の悪魔が青空をバックにニコニコと楽しそうに笑っているのが見えた。

 彼の背中から生える、細いのにしっかりとした翼がバサっ、と、音を立てた。

 腹部に回る彼の細い腕が軽々しく私を持ち上げていて、私は荷物ではないと文句の一つでも言いたくなったが、助けてくれた彼にそんなこと言えるはずもなかった。

 

「っと、あまり上に行きすぎたら、爆発しちゃうから気をつけなきゃねー」

 

 と、彼は嫌味ったらしく笑い地面に近づくが、先程まで私と鬼ごっこに勤しんでいた人ならざる者の手らしきものが届かない位置で止まった。

 

「おはよ。お嬢」

「お、はよ。ジョン」

 

 あの冬から数ヶ月。あの日を境に変わった事が二つある。一つはあの日以降人ならざる者からの襲撃が増えた。それはもう飽きるくらい毎日日替わりで押し寄せてくる。そして二つ目が、この漆黒の悪魔、改めジョン・ドウと契約を交わして共に過ごすことになった。

 契約内容は【私の死後、私の持ちうる全ての物を与え、彼が私を守る度に対価として血液を提供すること】で、落ち着いた。彼曰く、これでも随分と譲歩してくれたようだ。

 それ以外で彼が血を強請ることはない。危害を加えることもなく、人ならざる者達から守ってくれる。

 だがこれは、名付けで成立した仮契約らしく、彼はいつだってこの小娘の身を切り裂けると冗談めかして伝えてきたが、きっと彼が生活に飽きたらやる。間違いなく。数ヶ月共に過ごしたおかげで、彼という人物が分かったから断言できる。

 

「お嬢は、ほんっとに困った子だよねー」

「うるさい」

「お嬢を守る俺の身にもなってよー」

「……」

「はああ、俺っち可哀想。お嬢の不幸体質、早く治んないかなあ?」

「~~っ、ジョン・ドウ!!」

「……」

「はやく、アイツをどうにかして」

「……はいよ。お嬢の仰せのままに」

 

 彼の真名は知らない。それを教えるのは命を握られるようなものだからと、初対面の時のようにオレンジキャロットの瞳が鋭く睨みつけてきた。理由も話してくれなかったから、どうして命を握られるようなものなのか、疑問は消えない。


 それでも良かった。彼は絶対に裏切らないから。守ってくれるから。例え死後、全てを漆黒の悪魔に捧げるとしても、それまで彼が尽くしてくれるのなら、苦痛はなかった。

 身元不明の男性――ジョン・ドウ。

 それ以外の名前なんて、彼には似合わないと思えるほど、犬のような彼には似合っていた。

 ジョンは笑顔を貼り付け、私を抱えたまま謎の生物の前に降り立った。

 

「どっか行けよ。三下が」

 

 彼の睨みにグネグネと動いていた正体不明の人ならざる者は散っていった。小鬼が集まって一つの謎の物体になっていたようだ。

 

「さて、お嬢!」

 

 と、きらきら光るような素敵な笑顔を浮かべた彼にビクッと体が跳ねた。

 

「い、いたく、しないでね?」

「んもー、今更かわい子ぶってもダーメ」

 

 笑った彼が、ガリッ、と、首筋を噛んでくる。痛みに顔が歪むが、彼に取ってそれはどうでもいいことで、容赦なく血を吸われていく。

 

「……今回は、一人で頑張ったから、これで我慢してあげる」

 

 笑顔を崩さない彼が喉仏を大きく上下させ、そう言って笑った。

 

「俺ちん、チョーやさしー」

「……自分で言わなきゃ完璧だったのに」

 

 嫌味を溢すが、彼はまた楽しそうに笑う。

 その笑顔に呆れながら首に触れるが、痛みもなければ血に濡れることもない。自分が面倒だからか、血を飲んだ後のケアを忘れない彼に礼を言えば、彼は首を傾げるだけで意味を理解してくれない。

 190超えた男が首傾げても可愛くないっての。と、心の中で悪態を吐けば、それに気づいたのかにんまりと笑顔を浮かべて、頬を引っ張ってきた。

 

「お嬢。何度も言ってるけど、追われてるときは、ちゃーんと俺の名前呼んで」

 

 暫く頬を弄んだ彼はそう言って、額を重ねてきた。

 すぐ近くに彼の整った顔があるが、今更それにときめくような心は持ち合わせていない。彼の真っ黒な髪の毛が頬を撫でてきて、彼に直接触れられているように思えた。まあ、彼はこんなに優しく私に触れることなんてないのだが。

 

「その辺の青二才にお嬢の血を一滴でも渡すとか、超嫌なんだけど」

「……ごめんなさい」

「ん。イイ子」

 

 満足そうにギザ歯を見せて笑った彼に、頬が緩んだ。

 あの時と変わらない漆黒の悪魔は、艶髪を風に躍らせ、爬虫類を思わせる鋭い瞳を優し気に細めた。

 

「んじゃ、お嬢。帰ろ?」

「……うん」

「あ、お姫様みたいにエスコートしてやろっか?」

「……え、」

「ンだよー、その目は。俺ちんに任せてよ。これでもお嬢より長く生きてんだからさー」

 

 不服そうに唇を尖らせたら彼の大きな手が背中に回った。優しく私を支えて歩き出し、隣を歩く彼を盗み見る。

 本当に、悪魔のくせして優しい男だ。と、思わず笑ってしまえば、彼は首を傾げながらも嬉しそうに頬を緩ませた。

 私にだけ優しい、特別な悪魔が何よりも頼もしかった。



 

 暫くジョンのエスコートで歩き続け、スーパーを見かけた私は足を止めた。勿論目ざとく彼はそれに気づき、小さくため息を吐いてから何かあったらすぐに呼ぶように何度も復唱させて離れていった。

 空に消えていくジョンの背中を見送り、スーパーに入り、お目当ての卵を手に取った。ついでに飲み物を二つ購入し、外に出て、彼を呼ぼうとした時だった。


 クイッ、と、小さく手を引かれた。その状況で得をした覚えがないため、慌てて振り払おうとしたが、思わず固まってしまった。

 手を引いた相手……というより相手達は私を見上げて、何か求めるように口をはくはくと開閉させた。

 迷子だろうと決めつけ、辺りを見回すが親らしき影はない。周りの利用客たちも知らぬ存ぜぬを通していて、仕方なく呼び止めてきた六人の子供に視線を落とした。

 

「ごはん、」

「ごはん、ください」

「おなか、すいたの」

「おなかすいた」

「ごはん、」

 

 と、口々に、おなか空いた、ご飯、の二つの言葉を繰り返す子供たちに溜め息が零れた。

 みすぼらしい服装。こけた頬。やせ細った体。現代に孤児なんて存在するのかなんて考えながら、子供たちに目線を合わせた。

 

「おなか、すいた」

「……お母さんは?」

「まま、体調わるいの」

「寝てるの」

「そうなの?」

「うん。おなか、すいた」

 

 一番幼い子が泣き始め、周りから冷たい目で見られることを恐れた私は、家まで案内するように彼らに伝えた。

 彼らに引っ張られてたどり着いたのは裏路地にある小さな一軒家。車も通れないだろう狭い路地に、ポツンと建っているその家は木造で今にも崩れそうだった。ここは本当に現代の日本かと疑うが、幼い彼らは私を中に押し込む。


 家の中は外から見た時より幾分か綺麗ではあるが、異臭が立ち込めていた。生ごみが腐ったような、嫌な臭いだ。

 子供たち曰く、母親は体調が悪く寝込んでいるらしいが、とても数日、数週間の臭いには思えなかった。

 

「お父さんは?」

「ぱぱ、いないの」

「ままだけなの」

 

 子供たちの返答に思わず頭を抱えそうになった。

 改めて室内を見回せば、数年放置されたようなゴミがちらほらあるし、テーブルの上の新聞は四年前。

 彼らの母親は、本当に体調が悪くて寝ているだけなのだろうか?

 鼻を衝く甘い花の香りに眉を寄せながら、玄関を潜ってすぐにあった台所の小窓を開く。網戸はボロボロで役目を果たせそうにない。虫が入ってくるかもしれないが、この臭いを嗅ぎ続けるよりマシだろうと食べられそうなものを探すことにした。


 転がっている食品の箱は空っぽ。残っていてもカビが生えていて、とてもじゃないが食べられるものではない。

 大家族にしては背の低い冷蔵庫を開くが、冷気を感じない。試しに近くの電気のスイッチを弄るが反応がない。

 この家に食べられるものなんて見つかるのだろうか。と、疑問が浮かぶが、最悪手元にある卵と飲み物をあげようと期待せずに探した。

 

 何分か散策をして見つけたのは、二枚の食パン。賞味期限は切れているが、臭い等問題なし。おそらく食べられる。

 台所に立ち、物は試しだとコンロの操作部に手を伸ばした。

 つまみを掴み、押しこんだ時、少し強めの風が吹いた。視界の端で舞う布巾がコンロのバーナー部分を覆うように落ちた。その瞬間、ボッ、と、音が鳴り、同時に舞い踊るような炎が見えた。

 慌ててそこから距離を取れば、転がっていた缶詰を踏んで尻もちをついてしまった。

 コンロの方を確認すれば、自分が手にかけた操作部以外が全て回っていた。危うく他人の家を爆破するところだった。

 危なかったと安堵のため息を吐き出しながら背後に手をつけば、左手にピリッと痛みが走った。血が付いた缶詰の蓋と、床を汚す血液に再度ため息が飛び出す。

 厄日だ。と、肩を落としながら子供たちの様子を見ようとしたが、姿はなかった。母親のところに行っているのか、部屋で大人しく待っているのかもしれないと、真っ赤に染まっていく左手を眺める。

 まあ、ジョンを呼ぶ手間が省けたと考えよう。楽観的に考え、止血をしながらコンロに近づけば、ギシリッ、と、足音が重なって聞こえた。

 考えられる可能性は二つ。物音を立ててしまったから母親が起きた。もう一つは、この出血のせいで人ならざる者が駆け付けてきた。後者の場合はジョンであることを祈りたい。

 

 ヒタッ、と、素足で歩く音が聞こえ、体が強張った。ジョンじゃない事は確定した。彼の足音は革靴か無音のどちらかだ。ということは、次に信じたい可能性は子供たちの母親。

 恐る恐る音の発信源である部屋の奥を見るが、姿は見えない。それでも足音は着実と近づいてきている。ゆっくり、音を立てて、ヒタヒタと気味の悪い音が響いてくる。

 唯一の光源である太陽の光が、真っ白な足を照らした。

 暗い部屋の奥から姿を見せたのは、薄汚れた白いワンピースを着た女性だった。おそらく、子供たちの母親だ。長い髪の間から虚ろな瞳がこちらを睨んできていて、母親ならよかったと、そっと胸を撫でおろした。

 あなたの子供たちに連れてこられたんですよー。泥棒じゃないですよー。と、告げる為に口を開いたが、どうも様子が可笑しい。俯いている彼女の顔は確認できないが、間から覗く瞳に少しだけ恐怖心が煽られる。

 

「ち、」

「え?」

「ちぃ、」

「……ぁ、」

「血ィイをよこせェエえっ!!」

 

 両腕を伸ばし、顔を上げ、歯を剥き出しにした彼女が走り寄ってきた。ようやく視認できた彼女の顔は理性の欠片もなく、目が血走っている。

 耳まで裂けた血まみれの左の口は奥歯までよく見え、右側の瞼は溶けて眼球を覆っている。先程までは見えなかった白濁した焦点の合わない黒目がギョロギョロと動いている。


 期待した母親でも、抱き合わせは望んでいなかった。とにかく抵抗しようと近くに落ちていためん棒を右手に、側頭部を殴った。

 頭を殴られた衝撃で横に飛んだ彼女だったが、その体が壁と衝突することはなかった。床に転んだ彼女は詰まった呼吸音を鳴らしながら、血塗れの歯を剥き出しにこちらを見てきた。

 痛みを感じているのか、いないのか。いたとしたら、これは相当に怒らせてしまったのだろう。

 この血に狂った化け物の相手は人間ではできないと、数ヶ月間ジョンと過ごして学んだことを改めて理解し、諦めることにした。

 

「血ィィイイいいィイイい!!!」

「ジョン・ドウ!!!」

 

 数ヶ月掛けて教えられた。こんな時の対処法はただ一つ。彼の名前を怒鳴るように呼ぶことだ。

 目の前まで迫った両手に焦りはなかった。本来であれば、恐怖し、焦燥感に支配されるだろう状況でも、名前を呼んだ私はただ待つだけだ。

 

「ぁーっ、くっそ、」

 

 腹立たし気な声と共に、私に触れる直前で彼女の手は消え、目の前は漆黒に染まった。

 数ヶ月間かけて彼に教わった。どれほどのピンチであっても、名前を呼ぶだけで、彼は必ず間に合う。何度も繰り返したおかげで、彼には絶対的な信頼がある。

 

「お嬢! 勝手に移動すんなよっ!」

「ごめん」

「……ま、名前呼んでくれただけマシ、かなぁ?」

 

 と、彼が体を捻り頭を撫でてきて、ようやく彼女の姿が見えた。ミシっ、と、嫌な音を立てて彼女の頭を片手で抑え込んでいる彼の大きな手は、案の定というべきか、容赦はない。

 やがて、彼女も抵抗するだけ無駄だと察したのだろう、彼の手で大人しくなった。

 それを見たジョンがようやく女性から手を離す。

 アイアンクローをかまされていたせいだろう。彼女の頭部からは真っ黒な血が流れている。

 フラフラと揺れ動きながらも落ち着いた女性の視線は止血をしているハンカチから逸らされることはなく、それを見たジョンは大袈裟にため息を吐き出し、怪我を消した後に私の血が付いた缶詰の蓋とハンカチを黒炎で焼き払った。

 

「ジョン」

 

 と、声を掛け、下を向けば床に染みついている血液。

 彼ははいはい。と、めんどくさそうに黒炎で蒸発させた。


「さて、お嬢。なーんで、またこんな厄介ごとを持ち込んだのかなあ?」

「……」

「お嬢? おバカな俺に教えてくれるー?」

「……ごめん」


 誰が見ても、現在の彼が怒っていることは分かるだろう。笑顔を張り付けながらも、ヒクヒクと頬を引き攣らせている彼に俯きながら謝罪をすることしかできなかった。


「お嬢。顔上げて」


 彼の言葉に恐る恐る顔を上げれば、眉を寄せているのが見えた。鼻が触れ合うほどの近さに何が起こるのか察すれば、当然のように彼の薄い唇が重なった。

 塞がれた口に抵抗せずにいれば、彼は目を閉じた。彼の無駄に長い睫毛が瞼を掠めるなり熱を持ったように痛む舌。グッ、と、顔を歪め、痛みに耐えれば、彼は私の舌を吸い上げて顔を離した。


「ったく、どうなるか分かってんのに、逃げねえんだもんなあ。お嬢は」

「……助けられたのは、事実だから」

「えー、俺ちん、お嬢の貞操観念が心配なんだけど」

「ジョンだから抵抗しないんですけど」

「……お嬢って男を誑し込むスキルでもあんの?」


 じっとりとした目に眉を寄せれば、彼は笑顔を浮かべて頭を撫でてきた。かと思えば、「さてと」と、項垂れている彼女に視線を飛ばす。


「何を勘違いして俺の獲物に手を出そうとしたわけ? アンタ、三下とはいえゾンビなんだから俺のマーキングに気付かないはずないよな?」


 冷え切った鋭い声に、ゾクリッ、と、背筋が凍った。

 彼の声は、いつもこうだった。何人たりとも踏み込ませない様な冷たい声で、直前まで騒がしくても、辺りを凍らせる。突然、その場は彼の物に変わってしまうのだ。

 何が相手でも興味を持たない彼の静かな声は、木々が揺らすそれに近いのに、安らぎを与えてくることは一切ない。ただただ冷静なその声が与えてくるのは、恐怖のみだった。


 彼の声は”無”なのだ。

 殺意すら感じない彼の無の声は、その場の全員を恐怖で支配することができて、それを向けられない私には虚しさを与えてくる。


「なあ、アンタを、地獄に連れて行ってやろうか?」


 彼は、どう足掻いても悪魔だ。部屋中に響く声が、どれほど美しく聞こえても、それは恐怖と虚しさしか与えてくれない。


「ジョン」

「……なあに? お嬢」

「許してあげて」

「へえ。どうして?」

「私が転んで血を流したせいだから」

「……だめって言ったら?」

「……困る」

「え、困んの?」

「うん。だから、頷いてくれるまでお願いする」

「……はぁあああぁあああ。……俺、お嬢のこと嫌いになりそう」

「……ごめん」

「……もういいよ。お嬢に感謝しろよ。あ、でも、またお嬢に関わったら容赦しないからな」


 と、ジョンのお許しの言葉に、彼女は小さく頷いた。

 それにほっとしたのもつかの間、多数の足音が此方に向かってくるのが聞こえてきた。

 その場の全員が、音のする玄関の方に視線を動かせば、そこには白濁した瞳を向けてくる子供たちがいた。どうしてそんな瞳をしているのかという疑問も、痛みが走った膝のせいで消え去った。

 とても、嫌な予感がした。ジーパンの下がどうなっているのかなんて分からない。分からなくても、彼らは感知してしまう。ジョンを見上げれば、跪いて私の膝を撫でた。それだけで、ピリッとした痛みは消えた。

 ああ、いつ怪我をしてしまったのだろう? どうしてジョンは治してくれなかったのだろう? どうして、私の血は特別なのだろう?


「見逃してやろうと思ったんだけどなあ」


 冷めきった彼の声色に何が起こるのか、嫌でも悟ってしまう。


「ざーんねん」


 楽しそうな声が部屋に木霊した途端、視界が漆黒に染まった。

 頭に被せられた彼のジャケットから血の臭いが漂ってきて、それを震える手で退ければ、先程と違う、赤黒い世界に変わっていた。

 辺り一面血の海に変わった部屋の中に、母親である女性だけが頭からそれを浴びていた。

 飛び散る血液と四肢。肉片と化した元子供たち。それを作り出した彼はにんまりと笑顔を浮かべて、私に近づいてきた。


「ん、血は付いてないね。さっすが俺ちん! やればできる子だねー」


 満足そうな声で、冗談めいた言葉を発して、彼は自分のジャケットを燃やした。血塗れのジャケットを着る気は、初めからなかったのだろう。

 女性を盗み見れば、彼女は大粒の涙を流しているのが見えた。その瞳が、徐々に白濁していった。裂けた口が開閉を始めた。


「ジョン、」

「お嬢。だから言ったろ。お嬢の血は、みんなを殺す」

「……」

「お嬢の血が一滴でも流れれば、周りの連中はみんな死ぬんだよ」

「じょんっ、」

「そして、一番力を持っている奴が、お嬢を喰らう。この場においては俺だ」

「じょん、やめてっ、」

「引き裂かれ、食われる。そうなりたくないから、俺と契約したんだろ?」

「じょんっ!」

「お嬢を喰らうのは、俺以外許さない」


 先程とは様子の違う女性が、私達の方に走り寄ってきた。それでも、瞬く間に漆黒の悪魔の手によって肉片に変えられる。


「ゾンビ風情に、お嬢を喰わせるわけねえだろ」


 弾けて、ビチャビチャと音を立てて落ちてくる肉片は、この体には当たらない。ジョンの体を汚すこともない。

 私達を避けて落ちていく赤黒い肉片は、部屋だけをその色に染めていった。


「お嬢の血も、肉も。全部、俺のモンなんだよ。忘れんな」


 水音に紛れることなく告げてくる声は、いつもより冷たく感じた。

 やっぱり彼は、悪魔なのだ。




 静まり返った部屋に音はない。IHのキッチンに火の気はなく、まともな暖房器具も置いていない。一人暮らしには十分な広さのワンルーム。私の家。安全な場所。必要最低限の物だけを置いて、いつでも引っ越せるようにしている。例え全焼しても痛手がないように最低限の家具を選んだ。


 安全である我が家に到着し、シングルベッドに重い腰を下ろした。

 今日は、色々あり過ぎた気がする。

 小さくため息を吐き出せば、ベッドが新たに沈み込んだ。


「お嬢が見るには、汚すぎた?」


 私相手に発せられる明るくて、楽し気な声に、小さく首を振った。

 私の悪魔、ジョン・ドウ。つい一時間ほど前に一家惨殺をした、慈悲の欠片もない男。

 彼がベッドの上で動いたのが振動として伝わってきた。彼の熱い体温が背中に触れてきた。感触的に背中を合わせた形になっているのだろう。


「俺さぁ」


 と、彼の声がワンルームの部屋には十二分に響いた。


「お嬢のこと、結構好きだよ」

「……なに、急に」

「お嬢の甘いところも。言動一つで、すーぐトラブルに巻き込まれるところも。めんどくさいけど好き」


 顔は見えないが楽しそうに言っていることは声で分かった。貶しているのか褒めているのか分からない言葉に、今の私は何かを返すこともできず、黙っていた。


「お嬢」

「……なに?」

「忘れないでね」

「なにを?」

「俺が、契約があるから側にいて、お嬢を守ってるって」

「……」

「契約がなければ、俺はああいう奴らと何一つ変わらないよ」

「しってるよ」

「お嬢を守るのも、お嬢を気にかけるのも、全部契約があるからだ」

「今更、そんなこと、言わないで」

「お嬢。だからさ、ちゃんと言ってよ。少しでも俺を信じられなくなったり、俺を嫌いになったら、ちゃんと言って?」


 彼に似合わない寂しげな声に、どう返答するべきか困った。私が悲しむことはたくさんあるが、彼がその程度のことでそう感じるわけがない。だから、その声の真意が分からなかった。


「その時はさ、俺が、ちゃんとお嬢を連れて行くから」

「……地獄に?」

「そ。俺が、お嬢の全てを貰う」


 私とジョンは不安定な関係だった。契約がなければ成り立たない私たちの関係は、本来であれば逃げ出したくなるようなものだろう。

 それでも、私はジョンと過ごすことを選んでいる。

 実に狡猾で冷血な悪魔だが、彼は私が死を望めば、その瞬間に叶えてくれる。私が生きたいと望んでいる限り、生かしてくれる。

 悪魔のくせして優しい男は、私の願いを全て叶えて、安心感を与えてくれる。幼少期から炎に襲われ続けた私にとって、彼という存在は大切なものになっていた。


「お嬢」

「言わないで。……分かってるから」

「……そっか」


 こつんっと、頭を重ねた彼を愛おしく感じる。命を狙ってくる強欲な悪魔でありながら、私が望まないことは強請らない。絆されて良いことがないのは百も承知だが、彼になら、私の全てを任せてもいいと思える。

 たった数ヶ月で彼は私の信頼を十分すぎるほど得た。きっとそれは、彼自身も気付いている。


「お嬢が望むなら、俺はちゃんとやるからね」

「うん」

「お嬢が望んだことは、何でも叶えてあげる」

「うん」

「だから、俺以外と契約しないでね」

「分かってるよ」

「うん、ならいいんだ」

「ジョンは、この血が欲しいんだもんね」

「……ん、そうだね」

「ジョンは、この血を、ずっと追い求めてたんだもんね」

「……うん」

「ジョン。その時は、髪の毛一本たりとも残さないでね」

「……任せてよ。お嬢。俺が、全部を喰らってあげる」


 見ず知らずの誰かに食べられるより、信頼している彼に喰われる方がマシだ。

 生きるために彼を求めて、楽しむために血を求める。お互い求めあっていても、決して男女のそれではないし、そうなることもない。

 どれほどジョンに絆され、愛してしまったとしても、彼がそれに応えることはない。彼は眉一つ動かさず殺しを行える悪魔だ。情なんてものは彼の中に存在しない。そんなことは既に弁えている。

 ジョンがベッドから降りて、私の前で跪いた。


「お嬢。本当に大好きだよ」


 と、彼は忠誠を誓うように顔を伏せたまま優しい声で告げてきた。

 私を利用し、全てを得るために、彼は今日も必要のない嘘を吐く。


Nolaにて多重投稿しております。

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