狐一匹、湯けむり旅情
てくてく、てくてく。
あっと。歩きながらでごめんね。
わたしは、狐だ。
といっても、あんまりこれといって自己紹介代わりに話すことでもない。ふらりふらりと旅の空。まあ、飼育されてるとかいうこともない狐だしね。普通だよね。
てくてく、てくてく。
え? 狐が歩く擬音じゃないって? ああ、そうだった。それを言っとかないとね。わたしは、狐だけに化けられるのだ。だから、てくてく、で合ってる訳。何しろ、今、お店が並ぶ通りを歩いているからね。狐のままだったら大騒ぎだ。まあ、世の中には、平然と野性の猿とか鹿とかが歩き回ってる街もあるんだけど、ね。
今、わたしはひとの姿で通りを歩いてる。目的は、そこに温泉があるからだ。ちゃんと人のお金も持ってる。狐だって温泉気分を味わいたいこともあるんだよ。まあ、わたしは一年中そうなんだけど。
そう、わたしは温泉が好きだ。
しっかりと雰囲気づくりに余念がない、立派な温泉街をぶらつくのは、それだけで気分が解されるものだ。店先で焼いている串焼きなんかを頬張るのもいいし、土産物のお菓子の試食を摘まむのもいい。民芸細工みたいなものを見るのも楽しいし、陶器や磁器を眺めるのも素敵な時間だと思う。そして、和風の茶店とか、洋風の喫茶店などに立ち寄って、のんびりと甘味を楽しむのだ。本当に、贅沢な気分になれる。
あと、お酒ね。じっくりゆっくり吟味して、一品だけ選んで購入するのが、わたしはとても好きだ。日本酒だったり、焼酎だったり、ワインだったり、地ビールだったり。その時、その場所で目を惹かれた一品があれば、種類は、何でもいい。珍しいおつまみなんかもあれば、ほんと、しめたもんだよ。
でも今日は、そんな楽しみは、残念ながら、ちょっとお休み。何故って、建ち並ぶ店は、雑貨屋とか、床屋さんとか、普通の商店街で、観光客むけのお店がないところだから。
わたしは、そういう、温泉街って感じじゃない、観光客目線でいえば、何にもない温泉も好きだ。有名どころと比べると、やっぱり旅館やホテルも少ないし、暇つぶしになるような施設とかもないけれど、その分、道行く人は日常の気軽さで、観光に来ている人たちの姿もほとんどないから、何より、静かだ。
といっても、温泉街がないようなところにも、二種類ある。
一種類目は、普通に温泉宿が何件かあるような、一応旅館街であはあるところ。そう言った場所は、名前が知られてる温泉地でもなければ、小さい旅館が並んでるところが多い。二種類目は一軒宿だ。宿自体が温泉を名乗ってることが多くて、そういったところは、逆に立派だったりすることの方が多い。今日、わたしが歩いてるのは、一種類目の方だ。
こういう場所は、疲れてるときに、のんびりするのに本当に丁度いい。出掛ける場所がないってことは、旅館に入ったあとは、食事とお風呂以外は、だらだらごろごろするだけでいいってことだ。要するに、楽なんだよね。ほんとに楽。
大きい旅館は少ない。その分、気さくで落ち着けるところが多い。そりゃあ、大きくて立派なホテルなんかと比べれば、気の利いた設備があったりはしないし、あちこち古かったりすることが多いけれど、だからこそ、のんびりだらだらしやすい気軽さが魅力だ。
といっても、大きい旅館とか、ホテルが嫌いってことはないよ? それぞれ雰囲気が違うお風呂が二つ三つあったり、ご飯が豪華で美味しかったり、大きいところは、大きいところでとてもいい。両方愉しめれば、その方がお得でしょう?
ん? その前に、狐が旅館に泊まれるのかって?
そこは企業秘密、やればなんとかなるもんだ。ちゃあんと『日野ヒノ』って名前で予約も取れるし、住所も書ける。世の中、化け狐にも、棄てたもんじゃないってことなのデスヨ。なんてね。
さてはて、そんな感じで今日のお宿もそんなに大きくはないところに決めてある。大きなお宿はやっぱりない。で、だいたいこういう所は、もともと湯治場だったとこが多くて、実はお湯がいいのだ。ふふふ。
さくっとチェックインを済ませて、お部屋に入る。最近は人手不足なとこが多いらしくて、旅館の人が案内してくれるお宿がめっきり減った。それでも、こういとこは、部屋数が少ないのもあるんだろうと思うけど、たいてい、部屋まで、案内してくれる。お宿についたなって気分になれて、わたしは好きだ。
今回のお部屋は一階だった。お風呂も一階。ちょっと嬉しい。お風呂にいったり部屋に戻ったりするのに、階段を登り降りしなくっていいってことだから。お宿のスリッパって、なんであんなに階段上り下りしづらいんだろうね? それも、まあ、嫌いじゃないんだけど。
とにかく、お部屋へ。廊下には花瓶とか絵とかもあって、大きいお宿じゃないけど、いい雰囲気。売店は、ないみたい。そういうとこも、多い。あと、昔はお宿の人はほぼ女の人で、仲居さんっていっておけば間違いなかったんだけど、最近はお男の人が案内してくれることもある。だから、仲居さん、って表現は、わたしもあんまり思い浮かべないようになってきた。今回はどっち? どっちでもいいよね。
部屋はいつも和室にしてる。和洋室とか洋室も嫌いじゃないんだけど、一度ベッドでごろごろしようとして、そのまま転寝じゃなくて、ほんとに夜までぐっすり寝ちゃったことがあってから、ちょっと苦手になった。時間を損した気分がして、ショボンってなったから。
さて、まずはお宿の人から一通りの説明を受けて、特別余所と違うことがないかを聞いておく。お宿によっては脱衣場にハンドタオルがあったりなかったり、そもそもお部屋にバスタオルがなかったりすることもある。場所によっては部屋に浴衣とかおいてなくて、フロントで借りとかないといけないとこもあったりするしね。服を脱いでから、げ、タオルと着替えなかったよ、なんて言いたくないもんね。
それが済んだらお礼を言って、お部屋の中を確認する。まずは部屋の中を確認。最初は、冷蔵庫を開ける。
飲み物が入ってた。最後にフロントで生産するパターンだ。これ、結構嬉しいんだよね。自動販売機を求めて廊下に出なくて良いから、楽。それに、夜飲み物が欲しくなった時、自動販売機の音ってやけに響くから、他の部屋の迷惑にならないか、ちょっと心配になったりもするから。
冷蔵庫はよし。閉めよう。他に部屋の中は、と。
姿見もある。朝チェックアウトの時にだらしない格好だと恥ずかしいからね、これも助かる。洗面所の鏡だと気付かないこともある。
お次は押し入れだ。金庫はここにあった。フロントに貴重品を預けなくて良いから、部屋に金庫があると、ほっとする。
それから、浴衣、バスタオル、ハンドタオルもある。お、足袋もある。置いてないとがっかりするってものでもないけど、あるとなんだか妙に嬉しい。
次に洗面所を拝見。部屋に入ってすぐ横だ。コップもある。歯ブラシもある。ヘアブラシもある。ハンドソープはボトルタイプ。奥のドアは、お手洗い。わたしはお手洗い共同のお宿には泊まらないから当然だ。
だって、共同だとさ、夜お手洗い行きたくなった時、お宿の廊下って暗いんだよ。なんだよ。化かす方だからって、狐だって怖いもんは怖いんだ、仕方ないだろお。でも、夜お風呂に行くのは平気でも、お手洗いに行こうとすると心細くなるのって、何でだろうね?
とりあえず、部屋の探索はこのくらいでいいや。お膳の上のお菓子をつまもう。勿論、お茶も淹れて、ね。お膳の上に置いてある、館内の案内とか、ルームサービスのメニューとか、そんなものをチェックしながら、もぐもぐ。おつきのお菓子は必ず食べる。そして、売店がない場合にはお膳の上の束の中にたいていあるメニューに載ってるから、それもチェック。売店がなかったし、フロントで買えるみたい。でも、実際あんまりこういうとこだと買ったことないや。美味しいと思ったのがあっても、つい忘れちゃうんだよね。
おつきのお菓子にいろいろ意味があるとかいう話も聞くけど、客としてはそんな小難しい話は気にしなくていいと、わたしは思う。とりあえず、いらっしゃいませ、という歓迎の気持ち、と、お茶とお菓子で自宅のようにくっくりおくつろぎください、というおもてなしの気持ちだと思っておけば十分じゃないかと思うんだよね。せっかくのんびりしに泊ってるのに、あれこれ考えるのは勿体ないと思うから。まあ、そんなことはどうでもいいか。考えない、考えない。
のんびり一服して、しばらく部屋で休んだら、食事の前にひとっ風呂。これがわたしの温泉ルーチン。浴衣に着替えて、バスタオルとハンドタオルを持ったら、いざ往かん。
こういう宿のお風呂はそんなに広くないし、脱衣場はたいてい棚に置かれた籠が並んでるだけで、鍵がかかるロッカータイプじゃない。それだけに、脱衣場でまごつくことも少ないのがいいところだ。たまに鍵がうまくかからないとか、あったりするし。そういう心配がない。その分、部屋の鍵とか金庫の鍵の取り扱いには用心が必要だけど、持ってかれた、なんて話もわたしは聞いたことがないから、神経質になりすぎるもんでもない。
で、肝心のお風呂。こういうとこのお風呂で一番気をつけたいのは、期待しすぎないってこと。あんまり広い訳じゃないし、たいていは普通のタイル張りで、凝った浴槽があったりもしない。掛かり湯用のため湯があったりもしない。洗い場の蛇口の数も少なくて、大浴場と呼ばれてても解放感は少なめだ。ただ、お湯にのんびり浸かりやすくて、大きなお風呂でなくても、むしろ気持ちいいものだ。
さてはて、古いお宿の蛇口とかシャワーは、すぐにお湯が出ないことが多々ある。何を隠そうわたしはこのなかなかお湯が出てこないっていうのが、逆に好きだ。なんとなく、湯治場とか昔の庶民的な温泉っぽくって、ちょっと楽しい気分になるのだ。そんなのわたしだけかな?
とにかくのんびり。何をするにしても時間をかけて。その分お湯にはゆったり浸かる。今回は眺望のお風呂でもないから、窓の傍に行かなくても、十分景色は愉しめる。一階の場合、たいてい、見るのは上だ。木々の葉の色を楽しんだりとかね。それと、気をつけたいのは、お風呂がある階が低い場合、裏手が山だったり、他の建物があったりすることもあるから、いきなり窓にへばりつくのは、わたしはお勧めしないかな。窓に寄っても、眺め、ほんとにあんまり変わんないしね。それでも寄りたくなるんだけどね。なぜか。
ん?
ああ。
先に体を洗わないのかって? そういうマナーのことね。うん、知ってる知ってる。あれは、実際の話、温泉ではお勧めしない。何故って、先にごしごし体を洗うと、温泉成分が肌を痛めることがあるから、だよ。温泉成分は普通のお風呂のお湯と違う効能がいっぱい書いてある通り、ある程度の薬効成分が含まれてるもんだ。だから、刺激物でもある訳。できれば温泉では、かかり湯をしっかりして、お風呂で体を十分あっためて、それから体を洗おう。よっぽど汚れてるなら話は別だけど、先に石鹸で洗うのは宜しくないのだ。なあんて、知ってる人の方が多いのかな。どうなんだろね。
ぷかりぷかり。
お湯に浸かるのはいい気分だ。
いろんなことを考えなくて良いって思える。面倒臭いことも、昔のことも、これからのことも。全部湯気に揺られて消えてくみたいに。
ぷかりぷかり。
今あるのは静かにお湯に揺られるお日様の光と、それを眺める今ある自分だけ。そんな時間が、あったっていいよね。
なんて考えてると寝ちゃいそう。そろそろ体を洗ってさっぱりしよう。それからもう一度体をあっためたら、部屋に戻ってお昼寝しよう。うん、それがいい、それでいい。
そんな風に何にもない日をゆったり過ごして。気が付くとほらお腹が空いてる。そう、お夕食の時間だ。小さいお宿だと、今でもお部屋食だったりして、それもまたいい気分だったり。さあ、冷蔵庫の中のお酒の出番だ。
こういうお宿のお料理は、大きいところの献立と違って量が多くないのがいい。お酒を飲みながら食べると丁度いい感じ。のんびりしたい日の場合、焼き物と煮物と天ぷらと刺身となんて次から次へと食べてると、いそがしくて目が回ってしまう。
それに、一度に全部出してくるのも楽でいい。何度もお宿の人が出入りしてると、ちょっぴり気をつかっちゃう。
せっかく気兼ねの少ないひとり旅。お夕食も、気兼ねなくのびのび味わったっていいじゃない。なんて、我儘かな?
今回は地の幸を頂ける和風の懐石のお宿にしたけど、次は洋風のお食事もいいな、なんて煮物の里芋を噛みながら、思ったり。それもまた楽しい時間。
おさかなを突く。たまの川魚だとちょっとラッキーな気分。海のお魚が嫌いって訳じゃないよ。みんな美味しい。でもどうせなら、普段あんまり食べられないものだと、得した気分になるってこと。ただ、それだけね。
そんなこんなで食事も進み、お酒が空になった頃。
お膳の上をお宿の人に片付けてもらったら、ごろごろ寝転ぶ布団を敷く。お風呂に入っていい気分。ほろ酔いでさらにいい気分。気が付くと畳の上で寝てたなんてことになっちゃうと困るから、さっさと布団は敷くに限る。
のんびりごろごろ。
布団の感触に癒される。なんだか優しい寝心地だ。気分のおかげがたぶん八割だけどね。けっこう煎餅布団だ。そういうとこも、多い。
ただ、ご飯たべてすぐ寝るのははしたない。このまま寝てしまいたいのもやまやまだけど、窓の傍に移って、夜の景色を眺めてお腹がこなれるまでぼんやり座る。この時間も、割と好き。気が付けば一、二時間経ってるってことが多い。
ゆっくりと酔いが醒めていって。
なんとなく、夕方に入ったお風呂のぽかぽか感も逃げていく。その感覚がやってきたら、頃合いだ。夜のお風呂を楽しまない理由がない。ただ、そのあとだいたいすぐに眠くなってくるから。
先に歯を磨いて、いつ寝てもいいようにしておく。そろそろお宿の午後のわたしのルーチンも、終わりが近い。そんなことを感じながら。
嗽をして口の周りを拭いたら、いよいよ夜のお風呂をいただきに。さて、誰か入ってるかな。ちょっとした挨拶を交わすのも、なんだかほっとして温まる気がすることも。
とはいえ、できればこれから夜空とにらめっこしながら、ひとりまったりお湯に浸りたい気分だから。
それじゃ、お話はここまで。ごきげんよう。