700年以上前の遠い昔のお話 -第1章-
ー優しい少年と美しい吸血鬼ー
今から凡そ700年以上前、石造りの大きな屋敷で、大きな産声があがりました。
おんぎゃと泣き喚く小さな男の子は、ヴァルシュタイナーと名付けられました。
優しい母と、父と、祖父母に大層可愛がられ、のびのびすくすくと育っていきました。
ヴァルシュタイナーは大きくなるに連れて、好奇心旺盛になり、おもちゃ遊びの大好きな男の子に成長しました。
学校に通うようになってからもおもちゃが手放せず、どこに行くにも必ずおもちゃを持ち運びました。
10歳になった頃、屋敷の中での遊びに飽きてしまったヴァルシュタイナーは、近所の森へふらっと遊びに行くようになりました。
この頃、町や森、山など、ヴァルシュタイナーの住む地域では、吸血鬼や魔女が出るという噂や、事件なども多発しており、家族から、一人で外を出歩いてはいけないと言いつけられていました。
そんなこともお構い無しのヴァルシュタイナーは、今日もまた、深い森の中へと、一人で出掛けて行きました。
はじまりはじまり ーーーーーーーーーー
草木がサラサラと音を立て、花たちが踊り出した頃、何百年もの間、そこで静かに家族を包んでいた大きな屋敷から、元気な声が聞こえてきた。
「チャリオット!」
そう呼ばれて嬉しそうに尻尾を振りながら、ヴァルシュタイナーと一緒に屋敷の裏口から勢いよく飛び出してきたのは犬。
ヴァルシュタイナーの愛犬で、名前はチャリオット。
茶色と白の二色の毛をなびかせながら、元気よく走り回り、何度もヴァルシュタイナーの顔を舐めていた。
チャリオットは「ワン!」と低い声で吠え、大きな体でヴァルシュタイナーに飛び掛り、10歳の小さな体はいとも簡単に倒れ込んだ。
ヴァルシュタイナーの笑い声と、チャリオットの嬉しそうな鳴き声が、屋敷の庭中に響いた。
「ねぇ、一緒に森に行ってみないかい、チャリオット?」
じゃれ合いながら、ヴァルシュタイナーは愛犬に問いかける。
意味を知ってか知らずか、チャリオットは一声吠えると、バフっと鼻を鳴らして庭の外へ飛び出していった。
「あ!待ってよ!」
チャリオットの後を追って、嬉しそうにニコニコしながらヴァルシュタイナーも庭を後にした。
全力で走っていたチャリオットとヴァルシュタイナーは、いつの間にか大きな木々がそびえ立つ森の中にいた。
息を切らしながらチャリオットの頭をワシャワシャっと撫でて、地べたに座り込むヴァルシュタイナー。
「ふぅ…いっぱい走ったね」
へへへ!とにっこり笑う大好きな友達に、チャリオットはクンクン喉を鳴らしながら寄り添った。
一人と一匹は森をしばらく探索してみた。
この森はヴァルシュタイナーが生まれるずっとずっと昔から存在しており、怪物や魔女が出ると噂される、不気味な森。
今では吸血鬼が出るという噂もある。
そんな森に入ってしまったヴァルシュタイナーだが、彼はニコニコと楽しそうに歩いていた。
隣にピッタリくっついて歩くチャリオットは、どこか不安げな様子だった。
しばらく歩くと、木々の隙間から、湖が見えてきた。
「チャリオット!海があるよ!」
そう言いながらバッと走り出すヴァルシュタイナーに、チャリオットも遅れてついて行く。
海と湖の違いが分からないヴァルシュタイナーだったが、恐らくチャリオットにも分からないだろう。
走った先にあったのは、小さな湖。
風もなくシンと静まり返った水面には、チロチロと泳ぐ魚たちが見えた。
「見てチャリオット!さかながいるよ!」
10歳の男の子らしい無邪気な反応をするヴァルシュタイナーだったが、チャリオットは乗り気じゃなさそう。
怯えた様子で、湖とヴァルシュタイナーの顔を交互に見ている。
「来ないのかい?」
チャリオットの様子がおかしかったので、はしゃいでいたヴァルシュタイナーだったが、チャリオットの側まで近づいた。
「どうしたんだいチャリオット?」
と、ヴァルシュタイナーがチャリオットに手を伸ばし、頭を一撫ですると、「ワン!」と吠えてチャリオットは一人で走り出してしまった。
「チャリオット!」
追いかけようとしたが、一瞬で姿が見えなくなってしまったので、仕方なくヴァルシュタイナーはそのまま湖に残った。
チャリオットは、ヴァルシュタイナーが5歳の時に、病気の彼を守る目的で父が屋敷に連れてきた子犬である。
チャリオットはヴァルシュタイナーに非常に懐いており、たまに家から居なくなっても、必ず帰ってきていた。
そんなこともあった為、ヴァルシュタイナーはチャリオットはまた勝手に帰っているんだろうと思い、一人で遊ぶことにした。
「侵略軍だぞー」と、目の前の魚たちに話しかけながら湖に足を踏み入れた。
ふざけながらふと、湖のほとりに何かがいることに気がつく。
数メートル先のところで、人の頭のような、白い丸い物体が水面をゆっくりと動いていた。
気になって、ヴァルシュタイナーはそれをじっと見つめた。
近くまで行こうと、2歩3歩と足を踏み出した。
すると向こうの丸い物体が、水面から浮き上がり、人の体がゆっくりと現れた。
そこで初めて、丸い物体が人の頭で、これが人だということに気がついた。
その人は、頭を沈めたりあげたりを繰り返し、何度も水に潜ったあと、真っ白な髪から水を滴らせながら、ヴァルシュタイナーの方へ向かってきた。
浅瀬に向かうにつれて段々と露わになる姿は、まるで死人のように、頭の先から足の先まで真っ白だった。
全身が見えてようやく気づく。
ヴァルシュタイナーの目の前まで来た誰かは、何も身につけておらず、全裸であった。
女性だという事は子供のヴァルシュタイナーでもすぐに分かったが、こんな森の中で裸で遊ぶ大人は初めて見た!という表情で、目の前の女性をポカンと眺めていた。
そして何より、女性の裸を見たことがないヴァルシュタイナーは、少しだけ、戸惑っていた。
目の前までゆっくりと歩いてきた女性は、ヴァルシュタイナーの鼻先まで近づくと、ゆったりとした手つきでヴァルシュタイナーの頬をなぞった。
知らない人に無言で触れられ、一瞬ビクッと肩を動かした。
女性は、燃え盛る炎のような真っ赤な瞳で、じっとヴァルシュタイナーの瞳を見据えた。
まじかで見る女性は、今まで見たことがないくらいに美しく、無邪気なヴァルシュタイナーも、この時だけは、何も喋れなかった。
女性は、固まるヴァルシュタイナーの肩と頭の後ろに手を添えて、首元に顔を近づけた。
その時、緊張で動けなかったヴァルシュタイナーの体が不意に崩れ落ち、地面に倒れ込んでしまった。
女性は冷たい眼差しでヴァルシュタイナーを見下ろした。
「ひぅっ…い、ぁ…」
苦しそうに息をするヴァルシュタイナー。
心臓に疾患があるヴァルシュタイナーは、極度の緊張や不安、恐怖や興奮などによって呼吸困難を引き起こしてしまう為、家族もチャリオットも居ない今、絶体絶命だった。
「…ウフフッ」
女性はニヤリと笑った。
初めて聞く女性の声。彼女の声は色っぽく、艶やかだ。
発作で苦しむ少年の声と、女性の濡れた髪から滴る水の音だけが辺りに響いた。
彼女はヴァルシュタイナーの胸に手を置いた。
心臓の鼓動が聞こえる。ほんの少しだけ速く脈打つその音は、非常に魅力的だ。
だが少年の心臓の音はどこかおかしかった。
「……」
彼女の顔からスッと笑みが消えた。
後ろを向き、湖へと歩き出す。
ヴァルシュタイナーは、苦しみながらも起き上がろうと、仰向けの状態から膝をつき、なんとか呼吸を整えようとした。
そんなヴァルシュタイナーの背中に、ふと、冷たい感触があった。
湖に帰ったと思っていたあの真っ白で美しい女性が、すぐ側にいた。
少年の背中に手を置く女性の表情は、どこか悲しげだった。
すると段々と不思議なことに、ヴァルシュタイナーの呼吸が落ち着いてきたのだ。
少年の背中から手を離した彼女は困惑した様子で慌てて再び湖へと走り去ってしまった。
呼吸が戻り、びっくりした様子でヴァルシュタイナーは湖へと走り出したが、ついさっきまでそこに居た女性の姿は無く、一人ポツンと立ち尽くした。
「助けてくれた…あの人、僕を助けてくれた…!」
しばらくの間、あの女性を探して、湖の周りや森の中を彷徨いていたヴァルシュタイナーだったが、彼女はどこにも見当たらず、チャリオットも見つからなかった。
帰宅後、両親にこっぴどく叱られたが、何事もなく無事に帰ってきたヴァルシュタイナーに、家族たちは安堵した。
だがしかしチャリオットは屋敷中を探しても見当たらず、三日経っても帰ってくることは無かった。
あれからヴァルシュタイナーは彼女の事を忘れられずにいた。
色白で美しい女性。発作を鎮めてくれた彼女が気になって仕方がなかった。
ヴァルシュタイナーは、彼女が魔法使いや魔女だと思っていた。
チャリオットを探すのと同時に、彼女のことも探す為に、何日も森へと頻繁に出かけるようになった。
家族の監視もあり、毎日外に出られるわけでは無かったが、何日か後、ようやく、彼女を見つける事ができた。
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森の一角で踊っている彼女を、ヴァルシュタイナーは木の影からこっそりと伺っていた。
裸の時とは違って、今回はきちんと服を着ていた。
真っ赤なドレスに身を包み、裾をヒラヒラと舞わせながら楽しそうに一人でクルクルと踊る女性。
フンフンフン♪と鼻歌を歌う美しい女性の姿をヴァルシュタイナーはしばらくの間ずっと眺めていた。
ふと、くすぐったい感覚に襲われて足を見ると、大きな甲羅状の虫が足に登ってきていた。
ヴァルシュタイナーはそれを手に取り、優しく木に戻してあげた。
「家族はみな、キミの無事を祈っているぞ!さぁ行け!うしろはふりかえるな!」
昆虫すらも遊びの対象にしてしまう、無邪気な子、ヴァルシュタイナーである。
視線を戻すと、先程までそこで踊っていたはずの女性は、居なくなっていた。
「あれ?」
慌てて、女性の居た場所へ歩いていく。
すると不意に、後ろから体を押されて、ヴァルシュタイナーは地面に大きく転がり込んだ。
「いてて…」
痛みに顔を歪めながら顔を上げると、そこには先程まで楽しそうに踊っていたあの美しい女性が、腕を組んで仁王立ちしていた。
どうやって後ろに来たのかは謎だ。
「今すぐここから出てって!」
彼女の様子は先程までとは違い、明らかに怒っていた。ヴァルシュタイナーはそんなことお構い無しに、彼女に問いかけた。
「きみは、魔女?魔法使い?この間は助けてくれてありがとう!あれは魔法なんだよね!?」
「はぁ?!」
女性は目を丸くし、瞬きを何度か繰り返した。
食い気味に問い詰めるヴァルシュタイナーに、彼女は歯を剥き出しにして動物のように威嚇した。
「シャアァッ!」
その様はまるで怒った猫のようで、口を開けた時に見えた歯は、八重歯の辺りが鋭く尖っており、噛まれたらひとたまりもないであろう。
急な出来事にビクッと驚いたヴァルシュタイナーだったが、さらに興味が湧いたのか、彼女に近づき距離を縮めた。
「い、今のは?歯がすごいね!」
物怖じしないヴァルシュタイナーに、彼女は呆れてしまった。
「はぁ…これだから子供は嫌いよ」
「子どもがきらいなの?じゃあ僕おおきくなるよ!ぐぬぬ…!」
いつもの調子で遊びモードに入るヴァルシュタイナーに、彼女は目を丸くした。
「アンタ、アタシが怖くないの?」
「え?なんで?ぜんぜん!助けてくれたもん、好きだよ」
無邪気な笑顔を向けてくるヴァルシュタイナー。
彼女は再びシャアッ!と歯を見せた。
「その歯…もしかして、きみはヴァンパイアなのかい?すごいよ!僕、ヴァンパイアのお友達なんて初めてだよ!あははは!」
興奮気味に立ち上がり、ぴょんぴょん飛び跳ねるヴァルシュタイナーだったが、はしゃいだせいか、ゲホゲホと咳き込みだし、しゃがみこんでしまった。
「友達になった覚えはないわよ」
冷たい眼差しでヴァルシュタイナーを見下ろした彼女は、呆れた様子でその場を去ろうとした。
咳き込むヴァルシュタイナーだったが、帰ろうとする彼女を見て立ち上がり、彼女の背中にバッと抱きついた。
「ひっ!ちょっと!なに!?」
全く敵意を感じない彼女に、ヴァルシュタイナーはもはや恐怖などは感じてはいなかった。
「はじめての、ヴァンパイアのお友達…!名前はなんて言うんだい?」
彼女は怪訝な顔をしながらヴァルシュタイナーを引き剥がした。
「名前なんて……ないわ」
そう言う女性の表情はどこか寂しそうだ。
「名前がないの?めずらしいね」
ヴァルシュタイナーはしばらく考え込んだあと、ハッと顔をあげた。
「ニヴェア!」
「?」
「キミの名前は、ニヴェアだよ!」
ラテン語で、雪を意味する、ニヴェア。
彼女は、雪のように白い肌で、雪のように白い頭をしている。彼女に相応しい神秘的な名だ。
「……」
しばらく黙っていた彼女、ニヴェアの顔が、少しだけ緩んだ。
「そう…ふん。悪くないわね」
真っ白で美しいヴァンパイアのこの女性は、この日から、ニヴェアと呼ばれるようになった。
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その後、二人は何度か会っては遊んでいた。
最初の頃はツンケンしていたニヴェアだったが、次第にそれも薄れていき、二人はまるで、子供のように(ヴァルは本当に子供だが)遊ぶようになった。
二人で踊って笑って、ヴァルシュタイナーは日を重ねるごとにニヴェアの事をもっともっと大好きになった。
ニヴェアの見た目は20代くらいだが、1000年ほど生きているということを、彼女から聞かされたヴァルシュタイナー。
長い歴史を生きてきたヴァンパイアの話を聞くのは、とても新鮮だった。
年の離れたお姉さんが出来たようで、ヴァルシュタイナーは毎日が楽しかった。
そんなある日、数週間後、チャリオットがようやく見つかった。
森の湿地帯で、死体となって見つかったのだ。
外傷は特になく、首の辺りに小さな噛み傷のようなものがあり、血液は全て抜き取られていた。
しばらくの間、悲しみに昏れるヴァルシュタイナーは、森に遊びに行くこともなくなり、ニヴェアと会うことも、もう二度と無かった。
数ヶ月後、ヴァルシュタイナーがもうすぐ11歳になる頃、彼の両親が他界。
地域で吸血鬼の目撃情報が増え、ヴァンパイアハンターが増えた頃の出来事だった。
街まで買い出しに行ったきり、帰って来なかった両親はしばらくの間、行方不明となっていたが、森で捜索活動をしていた警備隊により、両親の死体が発見された。
二人とも、チャリオットの時と同様、血を全て抜き取られていて、ヴァンパイアによる犯行と見て、ヴァンパイアハンターたちの警備は更に厳しくなったのであった。
第2章へ続く…